令和元年度 卒業生・修了生の方へ 学部長祝辞

令和元年度 卒業生・修了生の方へ 学部長祝辞

2020.03.25

祝  辞

 文理学部4年生のみなさん,卒業おめでとうございます。また大学院文学研究科・理工学研究科(地理学専攻)・総合基礎科学研究科のみなさんも課程を修了し,学位を取得されたことに,心よりお祝いを申し上げます。
 「とはいえ」,今日はそのように逆接の接続詞で祝辞をつづけなければなりません。まことに残念です。ちょうど後期の授業も終わるころから,日本でも新型コロナウィルスによる感染症をめぐる騒ぎが大きくなりましたが,いまや日本国内どころか,中国,韓国といったアジアの国々だけでなく,ヨーロッパ,アメリカなど世界中がパンデミックによって混乱に陥っています。感染者数が日増しに一万人を超えて増えていくというのは未曾有の出来事です。これによって各国では次々に出入国が制限され,人やモノの移動が規制されるようになりました。つい,このあいだまでグローバル化が叫ばれていたにもかかわらず,新型コロナウィルスを怖れて,国や社会を閉ざす方向に世界が走り出したのです。
 日本政府の対応も右往左往するばかりで,不信感が募っています。かくして,みなさんにとって人生の大事な節目となる卒業式も中止のやむなきにいたりました。キャンパス前の桜は満開の花を咲かせていますが,二千人とともに卒業の喜びを分かち合うことができないのはじつに口惜しいかぎりです。
 感染症による病気はたしかに目に見えないかたちで広がるので恐ろしくもありますが,他方,それ以上にいま私たちを突き動かしているのはむしろ過剰なまでの不安と恐怖の感情です。的確に怖れることは必要ですが,過剰に怖れることは判断を誤ることにつながります。残念ながら,この感染症を簡単に退治することはできないし,治療薬の発見や沈静にいたるまでには時間がかかり,長期化するであろうと専門家たちは言います。人類がこの新しい危ういウィルスと共存していかなければならないのはもはや確実かと思います。
 学部生のみなさんの多くは,ちょうど九年前,小学校を卒業する時期に,東日本大震災や福島の原子力発電所事故に遭遇された世代です。二一世紀を迎えて,平和と共存の時代が来ると思いきや,私たちは災厄とパンデミックに出会うことになったのです。
 さて,こうした体験を不運というべきなのでしょうか。たしかに幸運とは言えないかもしれません。事件も事故もないまま,生涯を終える,そうした恵まれた方たちがおられたことも事実です。しかし,実はそれはきわめて稀なケースでした。日本の近代一五〇年を考えてみても,明治維新後の西南戦争という内戦をへて,日清戦争,日露戦争,第一次世界大戦,シベリア出兵,そしてアジア太平洋戦争と,その半分の時代,日本はくりかえし戦争の当事者となりました。残りの半分の時代も朝鮮戦争,ベトナム戦争,第一次・第二次湾岸戦争,アフガニスタン紛争と,アメリカの同盟国として何らかのかたちで戦争に関与してきました。自然災害にいたっては,日本に住む以上,毎年のようにどこかで繰り返されていたのです。戦争まで不可避の災厄だと言うつもりはありませんが,歴史的に否応のない現実として受けとめながら,どうするか,どうすべきかを考えていくことこそ,学問を積み重ねてきた私たちの課題と言えるでしょう。
 吉本隆明という強靱な思考力をもっていた思想家に,「遠山啓――西日のあたる教場の記憶」(一九七九年)というエッセイがあります。戦後まもなく,学生だった吉本は通っていた工業学校で数学者の遠山啓の講義を聴いたそうです。「敗戦にうちのめされ」て「怠惰で虚無的な学生」だった彼には殊勝な心のひとかけらもなかった。そんななかでたまたま授業を受けました。遠山啓の講義は「量子論の数学的基礎」だったといいます。ちょっと前には東京大空襲があり,広島・長崎の原爆被害がありました。街には大量の復員兵があふれ,アメリカ占領軍が東京を,日本全体を支配していました。そのなかで遠山は「量子論の数学的基礎」を説いていたそうです。もう学問など何の意味もない。そう思う若者たちがたくさんいたに違いありません。そうした荒廃した若者たちに,しかし,遠山啓は学問を通して支えを贈ろうとしていた。その思いが「どん底の落ちこぼれ」学生に「潜熱」のように伝わってきた,吉本はそう書いています。ここに,私は学ぶことの原風景を見ます。学問は個人に根をおきながら,しかし,個人で終わるものではありません。教える,学ぶという関係を通して交わされる共同の知性のリレーでもあるのです。
 みなさんは,今日を最後に,人生における学びにひとつの区切りをつけることになります。学生生活のなかで得られた知恵や経験を糧に新たな人生に踏み出していくわけです。しかし,学びの時間がこれで終わるのではありません。これまで学んできたことを,この現実のなかで,人生のさまざまなステージにおいて,生かし,鍛え直し,洗練された知性へと育て上げていくこと。それが新たなミッションとなったのです。
 みなさんの前には多くの困難が待ち構えていることでしょう。しかし,怯えることはありません。私たちも同じような軌道を歩んできました。さらに今回のような口惜しい経験こそが,みなさんを私たち以上により強くするであろうことを信じています。新しい一歩を踏み出して下さい。だれのものでもない,ひとりひとりの新しい一歩。力強いその歩みに心よりエールを送り,私の祝辞とします。

令和2年3月25日
日本大学文理学部長
紅 野 謙 介
このページをシェアする