「東京人」観察学会ニュース No.12

200838日発行

 

 

<編集・発行:「東京人」観察学会事務局>

156-8550

東京都世田谷区桜上水3-25-40
日本大学文理学部社会学科 後藤研究室

E-mail

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ngotoh*chs.nihon-u.ac.jp(後藤宛)  ※ *@

Contents

    1.第3回“「東京」を観る、「東京」を読む。”展の開催報告

A. 展覧会の概要

B. 毎日新聞に掲載された記事

    2.観察学会(後藤ゼミ)2007年度のトピックス

A. 2007年度を振り返って(4年・上野哲広
B.
ゴトウ日3年・小俣麻紗美
C.
前期キャプション活動について3年・児玉研司)
D.
‘07夏合宿(4年・関勇気)
E.
後期フィールドワークの実施とキャプションの作成 ―嗚呼、青春の日々―(3年・堂野前灯子
F.
部会活動について3年・森明霞

     .2007年度「文章表現力向上実践講座」より −優秀作発表−
A. 神様のヒマ潰し4年・富田竜至
B.
一月一日、午前四時4年・柳川藍子

C. 士は己を知るものの為にこそ死ぬ4年・小出考芳

D. オレンジ4年・大橋伸哉

E. 虎と会った話3年・田中遼生

F. 4年・益戸綾美

G. わたしと写真の日々3年・森明霞

H. 永遠の青3年・古瀬宗

I. 真夜中の線路4年・関勇気

.海外旅行を通して考える

A. 戦争を起こさないためには ―ボスニアから見た日本―3年・卯野友美
B.
終わらない旅4年・松本彩

C. No Smile, No Life3年・小俣麻紗美

.編集後記(後藤範章)

 

 

1.第3回“「東京」を観る、「東京」を読む。”展とゼミ会の開催報告

A.展覧会の概要

     >> Dialogue between Sociology and Visuals<<

3回 “「東京」を観る、「東京」を読む。”展

− デザインすることと社会学すること −

 

主催:日本大学文理学部
共催:
千葉大学工学部/大学院工学研究科環境デザイン研究室
後援:日本都市社会学会/世田谷区教育委員会/調布市教育委員会/府中市教育委員会/

下高井戸商店街振興組合/桜上水商店会

<展示発表>

日時:20071120()29() 毎日(土・日・祝日も)12:0019:00
会場:文理学部百周年記念館1階のエントランスホール


A.千葉大学工学部/大学院工学研究科環境デザイン研究室「東京」を感じる”展

http://e-design.ti.chiba-u.jp/

B.「東京人」観察学会(後藤ゼミ) “写真で語る:「東京」の社会学 '07”展 (14回目)

http://www.chs.nihon-u.ac.jp/soc_dpt/ngotoh/tokyo/

 

来場者 : 1,586人(第1回展1,854人/第2回展2,086人)

アンケート回答者 : 912人(第1回展1,357人/第2回展1,418人)

 

<ギャラリートーク>

“歩いて・見て・感じる「東京」”

清水忠男千葉大学教授と後藤範章日本大学教授との対論

1124()午後2時〜4時 百周年記念館2Fの国際会議場

参加者 : 85


ポスターとリーフレット  http://www.chs.nihon-u.ac.jp/soc_dpt/ngotoh/tokyo/Information/07leaflet&poster.pdf

 

B.毎日新聞に掲載された紹介記事

以下をクリックしてご覧下さい。

http://www.chs.nihon-u.ac.jp/soc_dpt/ngotoh/tokyo/Information/071120Mainichi.pdf

 

この他にも、『散歩の達人』(200711月号・通巻140号、交通新聞社)、『デジタル写真生活』(11号、200711月、ニューズ出版)、『日本カメラ』(200711月号、日本カメラ社)日本大学新聞、日本大学広報などでも紹介されました。後日、観察学会ウェブにアップしたいと思っています。

 

 

2.観察学会(後藤ゼミ)2007年4月以降のトピックス

 

A.2007年度を振り返って

振り返れば、2007年度のゼミは不安と期待の入り混じるスタートを切るところから始まった。ゼミ生が昨年度の半分程度になってしまったという状況を受けて、ゼミ生一人ひとりが役割分担や、ゼミ全体のことについて考えを及ばせながら活動をしていかなければいけなくなった。4年生は、少ない3年生に対してどう仕事を分担して引っ張っていくべきか、3年生は初めて経験するゼミ活動についていくことに必死になりながら、とにかくまず走り出すことで春が過ぎていった。夏に入って行われた展覧会へ向けてのゼミ合宿では、作品化を進める写真選定を巡って様々な意見を聞き、そこに自分達の意見をぶつけ合わせていく作業に多くの時間を費やすことが出来た。そうした時間を共有出来たことで、春の時点で感じられていた迷いが希望に変わっていくような気がした。展覧会に向けての作業では、人数の少なさが弱点となって露呈する部分が多くなった。しかし、その中でも去年出来なかったことを出来たことに変え、2007年度の展覧会の形を作り上げることが出来た。秋の終わりの集合写真に笑顔が溢れていたことが何よりの成果だったように感じる。

 冬を迎えて、改めて思うことがある。1年間の活動の中で、自分たちなりのゼミを形作り、過去の経験を下敷きにして新しく出来たことを積み重ねていくという作業は、去年と何ら変わることなく出来ていた。きっと来年度も今年度を下敷きにして、新しいことを重ねていくことだろう。そうして、螺旋のように過去を未来へ繋げていくことが出来たという点で、今年度の活動も誇れるものであったと胸を張って言えると思うのである。来年度のゼミ生たちにもその姿は忘れて欲しくない。そして気張らずに、自分たちにしか出来ないことを積み重ねて欲しい、という願いを残して終わりたいと思う。

最後に、どんな失敗や苦痛も笑い合いながら乗り越え、2007年度のゼミ活動を共に走り抜けることが出来た、そんな呆れるほど素晴らしい仲間たちに感謝!!

2007年度ゼミ長・上野哲広)

 

B.ゴトウ日

今年も5月に開催されました。この「ゴトウ日」の魅力は先生や奥様、現役生はもちろんのこと、普段直接会ってお話する機会が少ないOBOGの方達、後藤ゼミに関わる全ての方達と交流が図れるというところです。

今年は総勢48名の方達が集まりました。最初は家に入るのもすごく緊張していましたが、先生のお家の和やかな雰囲気・気さくに話してくれるOBOGの方達、それに奥様のおいしい手料理・お酒を囲みながらの交流で素敵な1日を過ごせました。

毎年素敵な料理を用意してくれる奥様。今年もサラダやペンネ・チキンといった沢山の料理を作ってくれました。中でもじっくり煮込んだ特製のビーフシチューは大人気でした。

時間が経つにつれ沢山の方達が集まり、今の後藤ゼミについて話たり、OBOGの方達の頃のことを教えてくれたり、普段では聞けないようなお話も聞くことが出来て本当に楽しかったです。こうした形での交流は大切にしていきたいなと思いました。

 改めて、毎年こうした素敵な交流の場を作ってくれる先生・奥様、本当にありがとうございました。

(2007年度3ゼミ生・小俣麻紗美)

C.前期キャプション活動について

 キャプション班? 最初この聞き慣れない言葉に少し戸惑ったことを覚えている。しかし自分が戸惑っている間に班が組まれていき、あっという間に前期キャプション4班が出来ていた。4班は、3年生が自分一人しかいなかったので(今年の新ゼミ生はやはり少ないんだな)と感じ、正直不安になっていた。まあそんな不安も第一次検討会を迎えるまでには完全に無くなったが(笑)。

僕がいた4班は、東京マラソンの写真を担当することになった。新宿をランナーが駆け抜けていく写真で、東京性があるとかの前に、まず写真が悪いという意見が多かった。最初からそんなこと言われても・・・と心のなかで思いつつ、いいものを作って見返してやろうと考えていた。

とりあえずFW、資料集め、東京マラソン関係者にアポを取る等の活動が始まって、びっくりしたことがある。それは、当たり前のように関係者にアポを取ってきて、インタビューを実行してしまえる先輩たちだった。実際、都庁の東京マラソン事業部や笹川スポーツ等のイベント運営の関係者に会えても、自分は言いたいことも聞きたいこともあまり言えなかったのに、先輩達はどこか腹が据わっているというか、動じずに話を聞き出していたように見えた。インタビューに参加していくことで、少しずつデータが集まっていくのがわかって楽しかった。何より自分の手でデータを集めていくという実感が持てたから良かったのだと思う。

こうしたデータを元に「キャプション作成は、次の水曜までに各自MLで流していこう」という感じで、キャプション作成が始まった。自分なりに書いてきていても会議を繰り返していくなかで、まったく新たな発想になっていくことが面白すぎて、たまらなかった。

「センス・オブ・ワンダー」ということが、勉強という形だけでなく、こうした作業の中に含まれていることを知れたことが嬉しかった。残念ながら、東京マラソンはボツ作品になってしまったが、そのこと以上に班活動で体験した経験は、これから先も忘れないと思う。)

2007年度3ゼミ生・児玉研司)

D.’07夏合宿

 現役生の人員が減ったからといって、この後に控えている展覧会のクオリティを下げることは出来ない。取り巻く環境や構成する人間が変わろうとも、これだけはいつまで経っても変わらずにいるのだろう。昨年度でグッと上がった「写真力」を今年にも引き継いでいけるか。そして「写真力だけ」ではない、写り込んだ人々や物体が張り巡らした東京性にいかに肉薄できるか。既に切られているスタートラインからアフターバーナーを点火させるのは、まさにこの時期を置いて他には無い。

 大講堂での議論もさることながら、時には飯時でも、酒が入って酩酊しながら、一休みの煙草の時間まで、熱い議論は続く。それは何も作品に対してだけではない。昨今のデジカメには無くなってしまった「ファインダー」という装置の重要さや、古代文明が現代に与えている影響まで、普段はしないような議論をして、常に頭の中は柔軟な思考ができるように準備されているのだ。

 「写真力+社会学的発想力」、それが今年の夏合宿で得られた成果だった。舞台はすぐそこに迫っている。夏の日差しが北風に変わる頃に、どんな顔をして会場に立っていられるか。これからがその頑張りどころなのだった。

2007年度副ゼミ長・関 勇気

 

後期フィールドワークの実施とキャプションの作成 ―嗚呼、青春の日々― 

「あっ」という間。そんな言葉がピッタリだった後期。授業は月曜日の一般教養とゼミだけのはずなのに、毎日学校へ行く私。なぜかって? それはもちろん後藤ゼミではお馴染みの「キャプション」を作るためです。朝起床し午前中はアルバイトへ向かう。お昼を食べてすぐに学校へ。集めた資料に班員で額を寄せて、キャプションの案を搾り出す。時には帰り道に居酒屋に寄って一杯引っ掛けて、帰宅しまたパソコンへ向かう。大変だ、キャプション検討会まであと一週間だ、なんて頭を抱える・・・。そんな日々が後期はずっと続いた。

 前期に比べ担当作品がどの班も格段に増えた。そのため集めた資料は山のようになり、一つ一つ検証していく作業が果てしなく思えた。私が所属した班は5作品担当したのだが、最終検討会ではどの作品も展覧会にて展示されることが決まり、ホッと胸をなでおろしたことを今でも鮮明に覚えている。ただしここまで漕ぎ着ける工程は生半可のものではなかった。山のように集めた資料のほとんどが面白味のないものばかりで、いわゆる「使えない」ものが多かったのだ。情報の多さに困惑し、その情報を取捨択一することすら出来ず、何度も何度も指摘を受けた。「社会学ってなんだろう?」そんな言葉も何回言ったか分からない。そこで原点に戻ってみようと考えると、やはり「フィールドワーク」に行き着く。たとえ紙っぺらの資料を山のように集めたところで、実際に自分の足で歩き、汗をかき、必死で集めた泥臭いデータの方が、結局はストーリー性があり、人々をひきつけるキャプションを書くためのスパイスになったのだ。私たちの班はそのことに気づいたのは最終検討会の直前であったが、気づけたこと・さらにはそれらを最終的にはキャプションに反映できたことに班員は喜びをあらわにしていた。

 最後の学年末試験も終了し、卒業を間近に控えた私にとって後期の多忙を極めたあの日々は懐かしく、また愛おしく思える。あんなに忙しかったはずなのに、なぜだか充実していて、「大学生活はアルバイトで終わってしまいました!」なんていうそのあたりの学生なんかよりも、ちょっとだけ「進んで」いるように感じたあの日々・・・。私にとってはちょっと遅めの青春だったのかもしれない。

2007年度副ゼミ長・堂野前灯子

 

F.部会活動について

去年に引き続き、展覧会に向けてPPF部会(ポスター・パンフレット・リーフレットの作成)・広報宣伝部会・会場デザイン部会の3つの部会に分かれて、活動を行いました。今年は人数が少なかったため本当に展覧会が出来るのか不安も大きかったですが、前年度のものを引き継ぐだけではなく、会場内のデザインの変更やBGMの改善など新しい試みもいくつか行うことが出来ました。

 しかし、それでも今年も様々な問題点が残りました。特に、千葉大学の皆さんとのコラボレーションによって比較して見えてきた展示方法の差は一番の発見だったように思います。後藤ゼミはパネルに印刷したキャプション+額に入った写真を使用していましたが、もともと写真に枠は必要か?ガラスで光が反射してしまう!年配のお客さんが多いのにも関わらずキャプションの文字が小さい・・・などといった声がありました。千葉大学のポスター形式の展示は、沢山の写真を使っていて興味を引きやすい上にフォントや色の使い方が上手く、とても見やすいものでした。はたして、これを受けて後藤ゼミは来年からどうするのか?大きいポスター形式なら、理解を深めるためにキャプションだけではなく集めてきたデータをグラフなどを使って入れ込んだり、写真撮影者だけではなくキャプション担当者の名前やFWの様子を写真に取って入れ込んだり出来るのでは?でも一体どの部会が担当していくのか?負担が大きすぎないか?と展覧会終了直後のゼミでは、様々な意見が飛び交いました。展示方法は、キャプションを書き上げていく上で、とても重要なことなので、これから十分に話し合う必要がありそうです。

 また、今年のポスター類は千葉大学の方が素敵なものを作り上げてくださり、来年度は完成度のハードルが更に高くなりました。他にも、呼び込みの方法や会場内での振舞い方などをゼミ関係者以外の方々からアンケートなどで指摘されることもあり、自分たちだけではなくお客さんがいることによって展覧会が成り立っているということを再認識したこともありました。

 これらの沢山の課題を乗り越えて、来年さらに素晴らしい展覧会にしようと思います!!

2007年度3ゼミ生・森 明霞

 

 

3.2007年度「文章表現力向上実践講座」より −優秀作発表−

 

A.神様のヒマ潰し

 ああ、またこのしょっぱいおにぎりが混ざっている。手に取ったおにぎりに齧り付いて、その口に広がる必要以上に塩のきいたしょっぱい握り飯をにらみ付けながら呟やいてみる。

 此処は一つの小さな山と寄り添うようにある小さな村の、山へと入る麓の道に作られた、村に合わせた様な小さな社。其処には毎日村人からのお供え物が並んで、そしていつも笹の葉の上に二つ並んで置かれているのがこのおにぎりなのである。

 持ってくる相手は分かっている。おにぎりは一番に社へと供えられるのだが、それを携え朝早くからやってくるのは一人の女の姿だ。手ぬぐいをいつも頭に巻きその顔つきはよく分からないが、社の前を一通り掃除した後おにぎりを並べれば、しばらく社の前で何事かを念じる様にじっと手を合わせているのだった。もう一週間は経つだろうか。

 供えられた食べ物は一通り口にするのだが、そのおにぎりだけはあまりにもしょっぱくて、最近ではてっ辺部分だけを口にしては残している。ただ残しては動物などが持っていってしまうので、わざわざ女が来る前に一口食べては残していたおにぎりを並べておく。抗議の意味を込めてである。

 女は残されたそれを毎朝見るのだけれど、掃除と共に食い残されたおにぎりを片せばまた新しく握ってきたのを同じ様に並べ、残された物を持ち帰るのだった。その時の女の表情はよく見えぬのだが、何故だかほっとした様な、それでいてじっと手を合わせているときは何とも思いつめた顔をしているのである。

 それからもしばらくの間、女があのしょっぱいおにぎりを供えていく日々は続き、一向に改善されぬそれを口にする量は反対にどんどんと少なくなっていった。

 ある時山に雪がチラつき始めた頃、前日のおにぎりもまたいっとう塩味がかっていて、それまでももう雀の涙ほどしか食べなくなっていたのだがとうとう一口も口にせずにそのおにぎりを女が置いたままにしておいた。次の日女はその自分が供えたままのおにぎりを見やって、その時はっきりと何かに耐えかねる様に眉を歪め苦しげに呻くと、そのおにぎりを持ち帰ることもなく、後は今朝握ってきただろうお供え物を持ったまま社を後にする女の後姿が見えるのみだった。

 その日からお供え物の中にあのおにぎりの姿が混ざることは無く、当然女の姿もまた見る事は無かった。風のうわさで聞いてみればどうやら村からも姿を消した様で、村人はしきりに神隠しだと騒いでいるらしく、またこれも小耳に挟んだのだが、実は女には童がいたのだがある朝一人で山に遊びに入ったらしく、夕刻を過ぎとうとう帰って来なかったようで、今では親子共々神隠しにあったという話が村を覆っていた。

 今目の前には女が最後に握ったおにぎりが並んでいて、ああなるほど、女はこれを童のために握っていたのだと。山に消えた童が腹を空かせぬ様、口つけたお握りを見やり女もまた一抹の安堵を抱えていたのだろうと。そのお握りはだいぶ固くなって、けれど口にしてみればやっぱりそのお握りはとてもしょっぱいのである。ああなるほど。口にするたび言い様の得ぬ気持ちが広がって、それによるものかおにぎりはどんどんとしょっぱくなっていくのである。なぜあの女が握るおにぎりがあんなにもしょっぱかったのか、その理由が分かった様な気がした。

 その後聞く所によると、ある朝社を出て山へと入る人影があったらしい。其処にまた一つ、人影がやってくる。頭に手ぬぐいを巻いた女の姿。社の前までやってくれば手ぬぐいに手をかけて、その足が社へと踏み込むうちにその姿は薄汚れた白い布を纏った一人の爺へと変わる。空いた社の中に腰を下ろせば、爺はやれやれと息をつく。

 「ああ、ずいぶんと長い間社の中を使われたものだ。供えられた物もたらふく食べていったことだろう。だがまあそれに対して罰を与えるよりも、こうした方があの者のためにもなるというものよな。こちらとしても、しばしの暇つぶしにはなったというものだ」。

2007626日発表/4ゼミ生・富田竜至

 

1月1日、午前4時

 光で、目が覚めた。

 右側から白く強い光が差していて、一瞬朝になったのかと思った。啓ちゃんがミラーを確認しながら、ハンドルをゆっくりと動かしているのが見えた。その様子を意識と無意識の間くらいで見ながら、高校生のときから知ってる人が、こうしておとなの人がするような車の運転や駐車をためらいもなくしているのを見るのは、変な感じだなと思った。ハンドブレーキをかけてから、啓ちゃんは私が起きていることに気づいた。「着いたよ、啄木公園」。「うん、今起きた。一年ぶりだわあ」。

 毎年、大晦日には高校時代の同級生4人(全員彼氏いない3年以上)で集まっていた。

 啓ちゃんの車で函館中の神社を回った後、海まで10mのこの公園で初日の出を見るのが恒例になっていた。「あれ?新田と笑子は?」「なんか、私たちは海岸沿いを歩いて行く!とかはりきってわ」。

 そういえば今日の二人はやけにテンションが高かった。

 さっきの神社めぐりのときも新田は縁結びのお守りを一神社に一個は買ってたし、笑子は笑子で神社の長い階段をものすごいスピードで駆け上り、すべってこけていた。

 私たちは少し思い出し笑いをしながら、公園の中へと入っいく。私たちのほかにも同い年くらいのカップル、親子連れ、男の子ばかりのグループがいた。

 早く景色が見たくて、公園の海が一望できるスペースへと急ぐ。まだ暗い海面には、イカ釣り漁船の光と、函館山のふもとの方の町並みからもれる光とが揺れていてとても綺麗だった。

 黄色、オレンジ、白、あ、青もあるな。

 自分はいい街で育ったんだな、観光地出身ってのもいいな、と感慨に浸っていると、ふと沢山の同じような光の中に私と似たような人生は一体いくつあるのだろうと思った。

 どれだけの年越しそばが消費されて、どれだけの額のお年玉が取引されるのか。そういえば紅白はどっちが勝ったんだろう。

 そこまで思いをめぐらせると、いとしい気持ちがこみ上げて来て、函館市民30万のお正月が幸せであるように。心からそう願った。

 私たちはしばらく、取り留めない話をしたり、マイナスの気温に負けて一旦車に戻ったりを繰り返していた。

 3度目の撤退を決めたとき、驚きと恐怖の混じった、きゃあっという女の人の声が聞こえた。

 声のほうを見ると、海岸になにか黒い塊が打ち上げられたようだった。

 わらわらと人が集まっていく。「・・・あれ、なに?」私たちもおもむろに近づいていく。近づいて行くにつれ形がはっきりと見えてきた。それはイルカの死体だった。水族館で見るイルカのようなつるつるな肌にはとても見えない。ところどころの傷跡が生々しかった。写メを撮る人、流木でつつく人、そして呆然とそれを見ている私たちがいた。

 函館、正月、海、旧友、イルカの死体。最後がとてもじゃないけど結びつかなくて、イルカが可哀相だと思いながらも、シュールで少し笑えた。

 啓ちゃんも複雑な顔をしていた。「初日の出どころかイルカの死体って・・・なして?」。 イルカ津軽海峡迷子説を展開していると、左ポケットの携帯が震えた。

 笑子からだ。「あ、藍子?うちら寒いからドンキー入ってるっさ!やっぱ和風おろしバーグは美味だわー。ってか初日の出、今日は見えないっしょ。曇ってるらしっさ、日の出のほうの空がさ。なんかさっき会ったラグビー部の山本君もいってたし」。「あ、そーなの?んーわかんないけど、日の出まで時間ありそうだし、うちらもそっち行くわ」。「うん。了解。したっけね〜」。

 電話を切った後、どこのびっくりドンキーかを聞かなかったことを後悔した。ま、いっか。

 車に乗り込むときにまた、海を見た。だんだん色身は薄くなって、イカ釣り漁船は減っていた。それでも私の琴線に触れる美しさは保たれていた。

 啓ちゃんの紺のライフは海岸線をひた走る。運転手は音楽をフィッシュマンズのベストに変えた。

 今年はどんな一年になるんだろう。

 東京はここよりは暖かいかな。就職どうなるかな。ゼミは今年4年生か、大変だな。サークルも忙しくなるな。ま、なるようになるよな。

 相変わらず、私は何となく適当に生きて、相変わらず、びっくりドンキーの和風おろしバーグは美味で、店員のおばちゃんはプードルのような髪型なのだろう。

 時計は5時30分、私はハンバーグを食べにいく途中。

2007514日発表/4ゼミ生・柳川藍子

 

C.士は己を知るものの為にこそ死ぬ

 聞こえているか。あれから一年が経った。

 あんたにはじめて会った時の言葉を今でも覚えている。「学生の間のただのバイトだからやるのではなく、せっかく料理の世界に携わるわけだから"料理"を覚えてほしい。大丈夫、俺が一通りできるようにしてやる」。

 その店のグランドオープン三日前の、その日、おれは今まで生きてきた中で"一番うまかった"といっても過言ではないパスタをあんたに食べさせてもらった。こんなこと言うと、「まったく安い舌だな」と笑うかもしれないけれど、あの瞬間、本当にそう思ったんだ。料理に関しては、文句なしだった。

おれもこんなにおいしいパスタが作れるようになりたい。「すぐなれるよ。」

 最初はこれでもかこれでもかと「ばかやろう」だとか「おめえセンスねーな」とか言われてばかりだったし、皿だって何枚割ったか分からない。ただ覚えることの多さに、ついていくのだけでも必死だった。とにかく仕事の量がハンパじゃなかったからだ。100以上あるメニューのうちほとんど、調味料からフライドポテトすら、手仕込、手作りだった。曰く「俺、中途半端なことって嫌いなの。」だそうだ。何度か「限界です。メニューを減らしましょう」って提案したけれど、都合の悪いときだけ「大丈夫。おまえたちならできるさ」って逃げるんだ。もうあれもこれも冷凍食品の、"あの店"が羨ましくてならなかった。思えば、オープン直前は、人も物も設備も何もかも揃っていない悲惨な状態だった。「これで本当にオープンなんてできるのか」と思わなかったやつはいないはずだ。実際、「泥舟はごめんだ」と途中で逃げていくやつ、投げ出していくやつは何人もいた。やめていくのはホールばかりだったが、キッチンも例外ではなかった。

そのたびにあんたは悟ったように「あいつはやめると思ってた。俺さ、分かるんだよ。そういうの」となんとも胡散臭いことを言っていた。しばらく経って、「でも、おれもやめると思ってたでしょ?」って聞いたら、「いや、おまえはやめないと思ってたよ」。胡散臭さはなんら変わらなかったが、嬉しかった。

 あんたは料理に関しては何より妥協しなかった。化石のような頑固一徹、職人気質としかいいようがない。だって今どき、社員がバイトの女の子怒鳴り散らして、泣かすとか聞いたことがない。もちろんその子が今も辞めてないのはおれのフォローのおかげだ。あと、おれが雑学好きとわかると、ウソのトリビアばかり吹き込まれてえらい迷惑だったけれど、料理に関しては絶対にウソを言わなかった。約束どおり、何でも叩き込まれたし、何でも教えてくれたし、おれの気づいたことは、何でも答えてくれた。ここで弱火にするのはなぜか、なぜこの順番で具材を入れるのか。うちのカルボナーラがなぜ「カルボナーラ""スパゲッティ」という表記なのか。リングイネってどう意味か。暇なときは、たとえメニューになくても「勉強だから」と今まで見たこともない料理をたくさん作って見せてくれた。それはたかがバイト相手にここまでするかって思うくらいだった。

 左手はやけどの痕と絆創膏だらけになった。あんたは「おめでとう。それは君の"勲章"だ。大丈夫、すぐ慣れるよ」といった。おかげでキュウリの千切りもロクにできなかったおれが、鯛を綺麗におろせるようになったし、おれのレシピメモは、"パンパン"に膨れ上がったし、お客が写メールを撮るような、"デザート盛り合わせ"まで作れるようになってしまった。自分でも信じられない。

 ある日、おれが"最高傑作"だと息を巻いて見せた"地鶏肉の和風マスタードソテー"を見てあんたがボソッと呟いた言葉を今でも覚えている。「おまえ、本当にうまくなったな。俺は、お前たちの成長を見るのが一番うれしいよ」。何をおっしゃる、おれはその言葉を聞く、そのためだけにずっとずっと頑張ってきたんだ。ある時、無能な経営者が自分の手腕の無さゆえに陥った状態を打破しようと"人心一新"と称して、"バイト総入れ替え"をしようとしたことがあった。「ホールは、勝手にやればいい。だがキッチンのあいつらを辞めさせるなら俺が辞める」。あんたがそう言ってくれた事を、おれは忘れない。

 そのあと、ホールの社員が言ってたよ。「あの人みたいになるなよ」ってさ。何も分かっちゃいない。「そんな事言ってるから"ホールは三流"って言われるなんだよ」って言ってやった。人徳が無いやつって嫌いだ。けどあんな事言ってよくクビにならなかったな。そこは感謝しなきゃいけない。ありがとうございました。と

 確かに、二ヶ月休みなしもいとわず、奥さんの出産間近になっても働こうとする「仕事人間ぶり」は、残念ながら時代にそぐわないし、もはや常軌を逸していると思うよ。けどおれはそういう、"己の生業に命を賭ける"スタイルって好きだし、尊敬してる。あんたみたいな生き方が、できればって思うけれどそんなことおこがましくていえないな。まぁあれだ、自分なりに少しでも近づければって思うよ。

 最後に知らないかもしれないから一応言っておくと、おれはこの店にもこの糞みたいな会社にも愛着は、ほんのひとっかけらもなかったけれど、はじめて会った、あの時からずっとただあんたとあんたの料理が好きだからやってきたんだぜ。ただあんたに感謝。ありがとう。

2007730日発表/4ゼミ生・小出考芳

 

D.オレンジ

 午前2時。川べりの広場に、愛車と共に寝転がる。丁度良い休憩場所を見つけた。何の虫だか知らないが、虫の声と、川のせせらぎが良く聞こえ、オレンジ色をしたマンションの明かりが対岸から川面を照らす。日中はサイクリストやランナーで溢れる多摩川沿いのサイクリングロード。最近購入した愛車のマウンテンバイクは、夜中にここを走る事がほとんどだ。しばらく、川面を見つめたままボーっとしていると、突然虫の声が止む。川面のオレンジ色は、薄く、肌色のようで優しい。 疲れも手伝い、川面を見つめながらウトウトとしていると、突如川面の優しいオレンジ色が力強いオレンジ色に輝き出す。デジャブ?いや、似た光景を思い出しただけだ。 その強いオレンジ色は、石畳の石と石の間に溜まった水に反射し無数の光を放ち、幻想的な空間を演出していた。 その幻想的な空間の入口にはオブジェがあった。焼死体のように黒焦げになった車だった。

 数時間に渡る長距離バスの拘束から開放され、新鮮な夜の空気を思いっきり吸い込む。バスを降りると、列を成したタクシーの運転手が客を呼び込んでいた。23時。もう街の中心部への移動手段はこれしかない。目が合った運転手と 値段の交渉に入る。街の中心部まで行きたいと伝えると今は車で街の中心部に入れない。ただ、途中までなら行ける。そう返された。何故行けないのかと素直に疑問をぶつけてみる。すると、運転手は突然驚いたような顔をした。どうやら何かが街の中心で起きていて、それは知っていて当然の事らしい。何も知らない東洋人の旅行者二人は顔を見合わせる。それを察したのか、運転手は得意げな顔をしてこう答えた。「行けばわかるさ」。

 長距離バスでこの街に到着する数時間前、大規模なデモが行われていた。北米自由貿易協定への反対と、先住民寄りの民主主義的変革を掲げた先住民主体の武装ゲリラ組織、サパティスタ民族解放軍(EZLN)。先住民の血が色濃く残っているこの地方都市の中心部は、彼らと賛同者達によって占拠されていた。選挙前のこの時期、直前までテレビの無い安宿に泊まっていたとはいえ、明らかな情報収集不足だった。

 街の中心部へと続く道はトタンや鉄板のバリケードで封鎖されていた。タクシーを降りると、通行用にあけられた隙間をくぐり彼らの砦へと入っていく。歩道に張られたテントからの無数の視線を浴びながら、今夜の寝床を求めて街の中心を目指し車道を歩く。身体を寄せ合い寝息を立てている者、タバコを吸いながら話をしている者、バリケードを突破して闊歩する、バックパックを背負った二人の東洋人を眺めている者。燃え尽きたように静まり返ったオレンジの街灯に照らされた観光地は、緊張によって張り詰めた空気を帯び、異様でありつつも幻想的であった。

 何個目のバリケードをくぐった時のことだろう。背負っていたバックパックがバリケードを支えるロープに引っかかった。トタンと鉄板がその反動で鳴り子のようにガシャガシャと耳障りな音を鳴らす。身動きが取れずに悶える。「馬鹿、何やってんだよ」。相方はバックパックにひっかかったロープを外そうとしてくれているが、どういう訳かなかなか外れない。テントの下で東洋人を眺めていた二人が、スペイン語ではない、聞きなれないインディオの言葉で話しながら近づいてきた。焦り戸惑っている相方を尻目に、どうしようもない俺は近づいて来る彼らに苦笑いを見せる。それを見た彼らは笑い出し、そっと手を差し伸べてくれた。「メキシコへようこそ」。

 旅の目的はそれぞれあった。未踏の地域への上陸、社会勉強、スペイン語の勉強、現地に住んでいる友人との再会、メキシコの雑貨を買い漁ること、テキーラを持ち帰ること、などなど。そして、前回の旅で知り合った友人との再会も密かな目的としていた。その友人は、所持金とパスポートを無くしたようで帰国を果たせていないとのことだ。まだ国内にいるならば、東にある某日本人宿にいるだろう。まぁ、行ってみればわかるさ。そんな動機で旅立ち、東へと向かう道中に立ち寄ったこの街。今回の相方が初の中米上陸を果たし、首都を抜けて初めて目にしたものは、オレンジに包まれた異様な光景。そして、パフォーマンスで燃やされた黒焦げのシボレー車だった。

 移動した東の街で、青空市場に立ち寄った。店を開いているのは、おばさんや子供ばかりだ。男はいない。あの街で、選挙期間中はずっとデモをしているのだ。8歳くらいの女の子が、黒い人形を片手に話しかけてきた。黒い布を身に纏った二人が、黒い馬に跨っている。これぞ正しく、サパティスタ民族解放軍(EZLN)公式手作り人形だ。少しでも活動資金を稼ごうとしているのか、純粋に生活を潤そうとしているのか、売上金の流れはよくわからない。いらないよと伝えその場を後にするが、その女の子は食いついて離れない。歩きながら人形の説明をする。馬に跨って武器を持っているのは指導者マルコスで、後ろに乗っているのは彼の妻だ。難しい言葉はわからないが、本やインターネットの情報と同じ内容がその娘の口から次々に飛び出してくるのがわかる。そして、歩数が増える度にどんどんと値段が下がっていく。再びいらないと伝えると、一瞬泣きそうな顔をしてしまったが、すぐに商売人の顔に戻り、更に値引きをしてくる。俺はその強さに負けてしまった。

 調度の額が無かったため、やむを得ず札を渡す。最初に女の子が提示した代金と同じ数字がその札には書かれていた。釣り銭が無いからここで待っていてと言い残し、女の子は元気な足取りで走り去っていった。しばらく待っているが女の子は戻ってこない。やられちゃったかな。そう思い始めてしまった頃、女の子が疲れた形相で走って戻ってきた。きっと何処からか釣り銭を掻き集めて来てくれたのであろう。俺の前に立つと、疲れを見せない円満の笑みで釣り銭を渡してくれた。「兄ちゃんありがとう」。女の子は、スキップをしながら元の道を戻り、視界から消えていった。

 宿に帰り、相方と再会した友人と話をしながら、オレンジ色の白熱灯に照らされた、存在感のある今にも走り出しそうな人形を眺めていた。

 ……ジージージージージー。虫の音。自分が眠っていたことに気づく。マンションの優しいオレンジ色の明かりを背に、愛車に跨る。さて、これから何処へ行こうか。東の空が、薄っすらと明るくなっていた。

2007724日発表/4ゼミ生・大橋伸哉

 

E.虎と会った話

 僕が虎に会ったことなんて面白くもないし、誰も興味なんてないだろう。でも少しだけ聞いてほしい。

 ある人は言った。「被害者は長年にわたり心に傷をむにゃむにゃ」。またある人は言った。「相手の気持ちを分かるような人にぶつぶつ」。そしてある人は言った。「倫理的にも絶対止めなければぺちゃくちゃ」。かわいそうつらそう無くそうでも、それ自体は存在する。世の中綺麗ごとばかりではないことは百も承知。どこかの誰かは贖罪のヤギになる。でも虎の餌になるのは、クジ運がが悪いだけなのか。

 僕が虎を見たのは、消しゴムのカスが空を飛んできたからだ。その日も僕は、先生が白く汚した黒板をそっくりコピーしていた。律儀にも、塾で学んだヤツを、丁寧に。そしてノートの隅に落書きしたり、片思いの子に視線を向けてみたりなんかして。

 何が好き?と大きな僕が聞いたら、小さな僕は読書と答えた。もっともな返事だ。特に理由もなかったし、他にどんな時間をつぶす方法があるっていうのだ。でも、時間をつぶすやり方なんて、いろいろあった。ある人が僕だったらボール遊びに熱中して、自然と人の輪が出来ていただろう。ある人が僕だったら人を笑わせたくなって、欠かせないキャラになっただろう。ある人が僕だったらゲームが大好きで、一目置かれるファイターになれただろう。

 なぜ何もしなかった、何も出来なかったのだろうか。

 そんな風に様々なことに思いを巡らせている時、「た」と乾いた音がした。ノートの隅に細く小さいものがある。消しゴムのカスだ。カスの影に、何かが、いる。目だけがやたらと大きい。その目は時計のようにぐるんぐるん回しながら、「ふんぐうぅる、むぐうぅるぅ」なんて唸っていた。そうだ、カスなんて爪先で弾いてしまえば事足りること。

 ある人が僕だったらよく切れる牙をやたらと振り回して、虎を仕留めたかもしれない。ある人が僕だったら校長先生よりもずっとずっと偉い人に、手紙を出せたかもしれない。ある人が僕だったら身と心と魂と全てを捧げることで、逃げられたかもしれない。

 なぜ何もしなかった、何も出来なかったのだろうか。

 からかいの視線は誰だって不快だし、どうにかしたくなるものだ。もちろん僕はそいつを見る。すると、そいつの目はぴたりと僕に向き、止まった。「た」「たた」「たたたたたたたたた」「たたた」。堰を切ったように消しゴムのカスは降り始めた。そのカスは、そいつに吸い寄せられて虎の形を練り上げる。「ふんぐぅる、むぐぅるあぁ」。牙をむき出しにして笑う張り子の虎が、机の上にいた。僕はその姿を見て、心臓の奥がシイイィィとなって、痺れが頭から足先へ流れていく。粘り気のある汗が身にまとわりついて全身が縛りつけられる。この身体は僕もよく知っている。友達の遊びの話についていけなかったり、体育でチームの足を引っ張ったり、人の話を聞き逃して間違えたとき時のだ。

 ある人が僕だったらボールを精確に投げるために、ずっと練習したかもしれない。ある人が僕だったら人と人と人の動きを慎重に観察して、その流れに乗ったかもしれない。ある人が僕だったらピアノや絵の方法を学んで、賞を獲得しようとしたかもしれない。

 なぜ何もしなかった、何も出来なかったのだろうか。

  自分のポケットや鞄の中を探しても、見つかるものは消しゴム。それも次から次へとカスに変わってまとわりつく。「たたたたたたたたたたたたたた」。あの子は、あの子はどこだろう。ああ、一瞥もしない。僕の姿が見えていない。あの子と僕は、他人でしかない。残念だけど、当時の僕は傘を持っていなかったんだ。だから吠えた。それくらいしか頭が回らなかった。よりいっそう虎は膨れ上がり、僕に唾液を馴染ませるように舐めた。「ふんぐうぅる、むぐうぅるぅ」。そいつの空っぽな声は、手あかの付いた消しゴムで文字を消したかのように、僕を滲ませていった。雨はより強さを増し、より鋭くなっていく。ここで、助けを求めたら誰が来てくれたのだろうか。

 ある人が僕だったらあの子と僕は他人同士でなく、救いを求められたかもしれない。ある人が僕だったら自分の親を信じて、全てを打ち明けたかもしれない。ある人が僕だったらちっぽけなプライドを捨てて、先生にすがれたかもしれない。

 なぜ何もしなかった、何も出来なかったのだろうか。

 唐突に雨は止んだ。単純に、虎がいなくなった。夕立のように、あっという間にどこかへと過ぎ去った。ピンセットでつまんで選別されたみたいに、違う場所に運ばれたのだ。もちろん僕のおかげでも僕のせいでもなく、ただ時が過ぎたのだ。

 ある人は言った。「家庭と学校で多方面の原因がどろどろ」。またある人は言った。「加害者被害者観衆傍観者の4つがぐにゃぐにゃ」。そしてある人は言った。「遺憾に思い、対策案を提示しぼろぼろ」。

 理論分析統計対策政策をしても、それ自体は存在する。そんなこと分かりきっているし、火星が住めるようになってもあるだろう。ではなぜ、僕が捧げられるようなことになったのか。

 僕に足りなかったものは何か。そうだ、何もしない。何も出来ない。虎に負けた話なんて面白くもないし、誰も興味なんてないだろう。

 でも必ずいる、虎と戦っている人へ。せめて悔いの残らない、戦った自分を。

2007528日発表/3ゼミ生・田中遼生

 

F.涙

 最近、私はある人にこう言われた。お前は本当に愛に囲まれて育ってきたってことが伝わってくるよ。そういう環境でたくさん愛をもらって育ってきたお前は、周りの人にも当たり前のようにたくさんの愛をあげられるんだ。それってすごい強みだと思う、と。

 これから書くのは私が小学5年生のときの出来事。

 母が入院した。検査で腫瘍が見つかったらしい。幸いにも腫瘍は悪性でなく、命に別状は無いとのことだった。しかし無事に手術を終え病室に戻ってきた母は、私の知っているいつもの母ではなかった。話す声はとても小さくて、近づかないと聞こえないくらいだった。意識ははっきりとしていたが青白い顔をしていて、心なしか体も小さくなっているように感じた。それでも、私たちを安心させようと元気そうに振舞う母が痛々しかった。

 母が戻ってきた小さな病室は、大きな安堵感に包まれていた。ベッドの横にいた父が突然こう言った。小さな、そしてちょっと震えた声で。「…代わってあげられるなら、代わってあげたい。代わりに手術受けてあげたかった」。泣いている…。初めて見た父の涙。私は父を見ていることができなかった。その言葉を聞いた母は何も言わずに微笑み、目にうっすら涙を浮かべていた。それを見ていた私の目からも涙が流れてきた。いや、本当は流れないように必死に我慢していた。

泣いていることが恥ずかしくて私は必死に涙を隠した。私は窓の外の遠くの景色や、病室の低い天井を見た。誰とも目を合わせずに「じゃあ、綾は先に帰るから…ママお大事にね。また明日来るね」と急いで病室を出た。

 なぜ、あのとき私の目から涙が流れたのか…。涙を流す父にびっくりしたから? それもあるかもしれない。愛する人のためなら、自分が代わりに病気になるとまっすぐに愛情表現できる父にびっくりしたから? きっとこれもあるだろう。でもそれ以上に、父と母の『愛』に触れてこんな二人の間に生まれたことが嬉しかったから?なんて思っている。

 あのとき父の目から流れた、やさしい涙。あのとき母の目から流れた、あったかい涙。あのとき二人が流した涙は、互いを思いやるやさしくてあったかい想いに溢れていた。まっすぐ愛を伝えられる父と、それをしっかり受け止められる母からたくさんの愛をもらって育てられた私は、たくさんの愛をあげられる。

 いま、私は自信を持ってこう言える。

2007617日発表/4ゼミ生・益戸綾美

 

G.私と写真の日々

 小さい頃から写真好きの父の影響で、写真は身近なものだった。

 中高生の頃から写真好きの友人と一緒に場所を決めて撮りに行くようになった。 撮る理由など無かった。構図や色合いなど何も気にせずに撮っていた。ただ、撮ることが楽しかった。だんだんとテーマを定めてから撮る対象を決めたり、いいカメラが欲しくなったりするようになった。そして、自分が好きな構図や色合いが分かってきて、気に入った写真だけ保存し、気に入らない写真は捨てるようになった。しかし、こだわればこだわるほど「いまだ!」と思うことも少なくなって、最高に気に入るような写真など、まったく撮れず、撮る枚数は減っていった。現像して冷静になってから見ると後悔がつのり、日に日に捨てる枚数が増えていくばかりだった。

 いつしか写真を撮ることが楽しくなくなっていた。去年の夏、ふと今まで自分が撮ってきた写真は、綺麗な風景や、可愛い子どもを見つけたときなど、嬉しい、楽しい、ときばかりで、ちっとも生活感の無い写真ばかりであることに気付いた。それは断片的な過去で、日常のほんの一部で、それらを掻き集めたアルバムは、まるでウソのようだった。

 高校生のとき『センチメンタルな旅 冬の旅』という本を初めて手にとった。アラーキーこと荒木経惟という写真家の写真集で、奥様の陽子さんとの九州での新婚旅行の様子をおさめた『センチメンタルな旅』と、彼女が子宮筋腫だと告げられてから数ヵ月後に突然亡くなり、お葬式にて、アラーキーが彼女のポートレートを持った様子までをも収めた『冬の旅』という、2人の素敵で切ない日々が収められた写真集だった。いまだに衝撃的で初めて写真を見て号泣したことが忘れられない。

 昨年の冬、アラーキーが連載をしている雑誌の忘年会に行けることになり、新宿にて一緒に数人で飲むことが出来た。まずは記念にと一緒に写真を1枚撮ってもらった。ちびちびとワイルドターキーを飲んでいるあいだアラーキーは、いつも通り「写真とセックスは経験だからね〜。」などと冗談ばかり言っていた。飲んでいる途中いきなりアラーキーは「写真を撮ろう!」と言い、壁一面の鏡を背に真っ赤なソファーに座らさた。ライカとポラロイドカメラで何百枚と撮り出した瞬間、ずっと好きだった写真を撮る写真家が、実際に撮っている現場を初めて見て、本当に驚いた。

 天才アラーキーは、カメラを持った途端に狂気に満ちはじめた。部屋のなかにはカシャ!というシャッター音とジージーとフィルムを巻く音が、ひっきりなしに止まることなく交互に響いていた。構図や色合いを瞬時に考えているとは到底思えない撮り方だった。そして、ポラロイド写真に浮かび上がってきた姿は、ものすごい顔で笑っているものや、みっともない顔をしているものまであった。これが自分の本当の姿なのだと思った。最初の緊張して気取った姿より、よっぽど人間らしい部分が写っていた。

 アラーキーは、「永遠になれ!そう思ってシャッター切ってるんだ。」と言った。わたしは焦燥感に似た衝動にかられて写真を撮るようになった。もうこだわりなんて要らない。きれいなものばかり撮っていてもリアルじゃない。楽しい、嬉しい、ときなど単純に美しい瞬間だけではなく、羨ましい、憎い、などの複雑で汚い瞬間まで、すべての瞬間を、自分が大切な人たちと必死で生きた日々だと認めて、そのとき心が揺さぶられ感じていた悲しい出来事までをも、ずっとずっと永遠に忘れないでいたい。

 だから、これからも写真を撮り続けていきたい。

2007711日発表/3ゼミ生・森 明霞

 

H.永遠の青

1.石の階段80歩

  最初の20歩青塗りで、次の20歩赤塗りに、

  その次20歩白塗りで、最後の20歩真っ黒け

  青色階段夢映す

  踏めば帰れるあの世界、かつて私が見た世界

2.こっ こっ こっ こっ こっ・・・

  5歩だけ踏んだら寺の庭、桜の花びら池飾る

  真っ赤な鯉は花びらで、その身を飾り池に舞う

  母に連れられ橋の上、幼子我が身も飾らんと、

  揺れ鏡に花まぶし、我が身を映して花に重ねる

3.こっ こっ こっ こっ こっ・・・

  10歩踏んだら雨の森、スミレの玉露に葉もしなう

  真っ白シロサギ旅終えて、羽の露衣解き放つ

  そっとしようと父離れ、息子もシロサギ後にして、

  翼の旅路を思い遣り、雨の森に静けさ返す

4.こっ こっ こっ こっ こっ・・・

  15歩踏んだら峠道、菜の花畑に光降る

  真っ黒もぐら地に出でて、光の花に頬寄せる

  黙って見てなと祖父呼ぶが、くたびれもぐらに孫寄りて、

  光の花束据え置くと、泥の口元永く安らぐ

5.青色階段もうお終い

  次の石段赤色で、続いて白黒待っている

  永遠の青を願っても、青きものは黒になる

  青色階段夢映す

  湧き出る夢は一度だけ、同じ夢は一度だけ

2007619日発表/3ゼミ生・古瀬 宗

 

I.真夜中の線路

 セキくん久しぶり!!」。そう笑って振っている彼女の左手の薬指には指輪があった。

 フォローしてやるよ。なんて言っていた友人のTを振り返ったら、引きつった笑顔が返ってきた。ドンマイ、と口で言っている。成す術が無い僕の耳元で、新宿駅の喧騒が遠のいていった。

 考えてみれば当たり前の事だ。こんなに可愛くて性格もいいコに、2年間も彼氏がいないワケがない。臆病な自分の分身が彼女の薬指に取り付いて僕を罵る。キラキラと眩しすぎる程に輝きながら、そいつはずっとこう言っていた。『お前がチンタラしてるからだ』。

 その後が最悪だった。新しい彼氏の話を嬉しそうにする彼女を見ながら、史上最低に不味いビールをたらふく飲んで、ずっと愛想笑いをしていた。やっとの思いで飲み会を乗り越えた僕は、完全に自棄になっていた。Tと飲みなおしたのは、今日の記憶を少しでも残したくなかったからだ。

 気がついたら線路の上で大の字になっていた。全くおぼえが無い掌の傷に顔をしかめる。頭上の夜空にはナイフで切った様な三日月が一つ。横になったまま煙草に火を点けたら、酔いが醒めた頭が勝手に記憶を反芻しだした。胃が溶けて無くなりそうな感覚を覚えながら、ようやく僕は実感した。生きてきて今日初めて、失恋をした。しかも告白する前に。なんだか泣けてくる。アホくさい。なんなんだ俺は。告白もマトモに出来ないのか。しかも失恋の慰みに、終電が終わった線路の上で泣いている。右隣で顔を真っ赤にしてレールを蹴っているTにボヤいた。「人生ってままならんのだな」。Tは小さく笑って、そうだな、と相槌を打った。コイツがいてくれて良かったな、と思った。そんな事を思った自分が女々しくて、また泣いた。夜の街は静かだ。Tもレールを蹴るのに飽きたらしい。こっちを向いて憎まれ口を叩いてくる。『またフラれたら、次はヨーカドーの屋上で慰めてやるよ』。「うるせい。人の不幸を不法侵入の理由ににするな」。

 食えない奴だ。本当にそう思うが、自然と笑顔になる。僕は起き上がると、ケタケタ笑うTの頭を小突いて、線路の上を歩き出した。

 きっとまた僕は恋をして、またフラれるのだ。そしてその度に、Tは笑いながら僕を慰めてくれる。それも悪くないかな、なんて思う。綻ぶ口許からゆっくり吐き出した煙草の煙は、3月の夜空に光る三日月に静かに消えていった。

200758日発表/4ゼミ生・関 勇気

 

 

4.海外旅行を通して考える

 

A.戦争を起こさないためには ―ボスニアから見た日本―

 私は2006年の721日から1029日までの101日間を掛けて、「ピースボート」というNGO団体に参加した。ピースボートとは約3ヶ月間かけて、船で世界一周をする。私が参加したクルーズは、まず横浜港から出発し、1.神戸−2.ベトナム(ホーチミン)−3.シンガポール−4.インド(コーチン)−5.ケニア(モンバサ)−6.エリトリア(マッサワ)−7.エジプト(ポートサイド)−8.トルコ(イスタンブール)−9.ギリシャ(ピレウス)−10.クロアチア(ドブロブニク)−11.ボスニア・ヘルツェゴビナ(サラエボ)−12.イタリア(チビタベッキア)−13.スペイン(バルセロナ)−14.モロッコ(カサブランカ)−15.カナリア諸島(ラスパルマス)−16.ジャマイカ(モンテゴベイ)−17.コロンビア(カタルヘナ)−18.パナマ(クリストバル)−19.グアテマラ(プエルトツァル)−20.メキシコ(アカプルコ)−21.アメリカ(サンフランシスコ)−22.アメリカ(ハワイ)という順番で、日本を含め、計20カ国、22カ所に寄港した。

 3ヶ月という限られた期間での移動なので、各国での滞在期間は12日と短い。乗客は約900人で、クルーも900人ほどだった。クルーの国籍も様々だったので、船内でさえも、外国にいるような感じがした。乗客の客層は、私たちくらいの大学生か、一度仕事を辞めた20代後半から30代の人、退職した60代くらいの人、または、高齢者だった。

 年代が様々なように、このピースボートに参加する目的も様々であった。私の参加した目的は、「地球大学」というプロジェクトがあったことだ。このプロジェクトには以下のような特徴ある3つの要素のプログラムを行う。「地球大学」は、単に「知る」ためや、「学ぶ」ための場ではなく、このような場を活用して参加者が主体的に発言したり、行動していくことで、平和を創る「実践力」を養う。

1)【エクスポージャー】・・・寄港地での地球大学生必修交流プログラム

2)【ワークショップ】・・・授業形式ではない参加型のプログラム

3)【アクション】・・・船内・寄港地・帰国後の実践プログラム

 「地球大学」のひとつのテーマは「ボスニア紛争・和解への道のり」だった。具体的には、以下のようなことを行う。サラエボをはじめ、激戦地となった地域を巡りながら、紛争から10年を経て再び民族が共存できる町を取り返そうと活動している人々と出会い、交流する(サラエボでの民族共生をテーマにした少年サッカーチームとの交流など)、また、一般家庭でのホームステイも体験するというものだ。【エクスポージャー】

 この「地球大学」はケニアから始まり、ジャマイカまで続く。この間、ナビゲーターであるボスニアからのジャーナリストや、日本人のコーディネータースタッフによる講義を受け、「地球大学」の受講者(25名)はそれぞれの意見を述べたり、また、その講義内容の問題点の解決策などを話し合う。【ワークショップ】

 そして、エクスポージャーを終え、船に戻ってきてからは、船内で報告会をする。【アクション】

 このプロジェクトではユーゴ紛争、特にボスニア紛争から「紛争のつくりかた」を学ぶというものだった。ボスニア紛争は、すごい簡単に言うと1992年から1995年に起こったユーゴ紛争の中でも最大の犠牲者を出した紛争のこと。私は、これが民族の対立から起こったものかと思っていたが、実は、政治家がうまくメディアを使って民族という意識をあおり、紛争が起こってしまったというものだった。たとえば、大陸の異なるルワンダ共和国でもそれは言えること。

 私は、ピースボートに参加するまで、ルワンダの内戦(虐殺)(1990-1994)の悲劇をしらなかった。しっかりと、その時代に生きていたのに。ルワンダの内戦(虐殺)は、ボスニアと同じようにメディアのプロパガンダによって民族対立(民族浄化)が起こった。それに用いられた媒体はラジオだった。現在の日本では、徐々に軽視されつつある媒体のラジオ。最初はこれが、内戦(虐殺)を引き起こした媒体ということが理解できなかった。現在の日本では、ラジオ以外に、人々が簡単に情報を受け取る手段があるからだ。しかし、当時のルワンダは、ラジオが主に情報を受け取ることが出来る媒体だった。ルワンダ共和国でもボスニアと同じで、政治家がうまくメディアを使って民族という意識をあおり、内戦(虐殺)が起こってしまったというものだった。要は、戦争なんてものは、政治家次第でどこの国でも簡単にやれるってこと。

 ボスニアの話に戻るが、ボスニアでのエクスポージャーでは、紛争の被害者に話を聞きにいったりもした。ボスニアの被害者の声を聞くだけで、私たちは経験、またはその事実さえ知らなかったのにこのエクスポージャーを終えた後、私たちは胸がいっぱいだった。翌朝、いつものように、ワークショップが行われた。そこで、ボスニアから学んできたことを整理しようとなった。

 みんな、あまりにもボスニアでの衝撃が大きすぎて涙を流しながら意見を交わしたのを、今でも覚えている。報告会で、みんなで何を一番伝えたいか話し合った。それが『戦争を起こさないためには〜ボスニアから見た日本〜』というテーマで報告会をやろうということになった。

 私は、無知なことは罪だと思った。人のつらさを想像さえしないことは罪だと思った。想像しかできないことがつらかった。私はボスニアの人たちには何もすることが出来なかった。こんな葛藤が頭の中をぐるぐるとしているときに、同じ地球大学生の友達にも「ただ、私たちはボスニアの人の話を聞いて、苦しみを想像することしかできないんだ」と言われた。

 まさしくその通りだ。自分はなんて無力なのかと思った。そのあと、何日も考えた。私に出来ること・・・・・何かあるはず。私に出来ること・・・・・今、私が学んできたことを誰かに話すこと。今すぐに何かを変えることは出来ないかも知れない。でも話すことで、いつか、何かにつながる橋渡しが出来るかも知れないと。

 本番当日、報告会を行うホールには、入りきらないほど人が集まった。私たちは、みんな緊張していた。地球大学生の中に、音楽をやっている人がいた。その人が作った歌が、自分たちにぴったりだということになり、ボスニアでのエクポージャーの際にいつも歌った。この報告会でも、最後に歌うことになった。

   『In Future

   争いをやめるだけで 花が咲くとしても

   武器を捨てるだけで 地球が生きるとしても

   今までの人の在り方 これまでの人の在り方

   誰かが泣く裏でしか ぼくらは笑えないのか

   しらないと 痛くない

   しらないと 痛くはない

   涙 ひとしずく

   ぼくらが流させている

   出会ってもないあの子の 幸せを祈るとして

   出会ってもないその子が ぼくを支えるとして

   お箸やビニール袋や マクドナルドにスタバ

   豊かで満ちた暮らし それは犠牲のもとに

   しらないと 怖くない

   しらないと 怖くはない

   涙 あのひとしずく

   ぼくらが流させていた

   しらないと 痛くない

   しらないと 怖くはない

   涙も血でさえも

   しらずに流させていた

   しった今 今から

   しった今 ここから

   笑顔も 鼻歌も

   こつこつ生み出そう

   ぼくらが生み出そう

 この歌を歌い終わった後、見に来てくれていた人たちはみんな泣いていた。その時は、何に感動していたのかは分からなかった。でも、私は、自分の伝えたかったことがほんの少しだけでもみんなに伝えることが出来たのかなと思った。報告会を見に来てくれた人たちに、最後にアンケートを書いてもらった。みんな思い思いのことを書いてくれた。

 一番、地球大学生が喜んだのが、文章の感じから中高年男性だと思われる人からのコメントだった。その達筆で書かれた文字の中に「今日の報告会は、今まで行われた船内のどんな講義よりも良かった。若い人のパワーを感じることが出来てとても良かった。これから、一緒に頑張ろう」と書いてあった。よく「最近の若者は・・・」というようなことを言われる。この言葉を聞くたびに、私は大人たちから突き放されているような気がしていた。これからの社会は本当に私たちだけが、担わなければならないのかと疑問があった。でも、私たちみたいな若者だけが頑張ってもダメ。おじさん、おばさんのような中高年だけが頑張ってもダメ。みんなが手を取り合っていかないとダメ。「一緒に」という言葉から、これから先、それが出来るんじゃないかっていう希望を持つことが出来た。

 地球大学の報告会は無事に終わった。しかし、「紛争」これは、今もどこかで起こっている。でも、私一人の力なんかでなくすことは出来ない。私は、このピースボートに参加して学んだこと、それは、とにかく無知なことは人を傷つけると思った。だから、今の私に出来ること。それは、この経験を話すこと。そして、どの国も同じ過ちを犯さないために「あらゆることの目撃者となり、伝えていくこと」が大切だと思った。

3ゼミ生・卯野友美)

 

終わらない旅

 2006年の夏休み、私は友人と2人で海外旅行に行った。大学1年生の時に参加した、学部主催のヨーロッパ研修旅行以来、人生で2回目となる海外旅行だ。

 行き先はタイ。以前から、アジアの文化や歴史に興味があった私と友人が旅行先を決めるには、そう時間はかからなかった。出発前夜は期待と緊張からしばらく眠れなかったことを覚えている。

 *タイ−Thailand

 成田空港を出発し、タイの首都バンコクにあるバンコク国際空港に到着したのは、夜11時過ぎ。その日は直接ホテルに向かい、眠りにつく。

 翌日から、観光が始まった。身体にまとわり付くような東南アジア特有の暑い空気の中、ツアーに組み込まれている遺跡や仏教寺院、王宮などを足早にまわる。歴史を感じさせる遺跡、金やオレンジ、赤などで配色されたきらびやかな寺院、熱心に祈りをささげる人やおいしそうな匂いを漂わせ路上に並ぶ屋台の数々。自由行動の時間には、観光客向けに開催されているナイトマーケットでアジアン雑貨を物色し、タイ米を使った料理やスパイスの効いたタイ料理を食べ歩く。

 初めて肌で感じる異国の文化は、どれも魅力的であり日常を忘れ、非日常を体験するには十分すぎるほどであった。しかし、次第に異国の文化に浮かれているだけではない感情が私の中にあふれてくることになる。

 バンコクの中心部に目を向けると、高いビルがいくつも立ち並び、デパートには高級ブランド店が入り、日本よりも発達した地下鉄が通っていた。通りを歩くビジネスマンやOLらしき人たちは、みなきれいに着飾っている。一方で、少し中心部を離れれば、かなり年期の入った建物ばかりで、道路も舗装されていない。公園には路上生活者があふれ、観光客に近づいてくる人もいる。さらに、首都以外の地方都市にいたっては、電気が通っているのか疑いたくなるような家ばかりだ。首都バンコクの南に位置する、パタヤビーチには売春やドラックの無法地帯という一面があった。

 私は、都市の持つ様々な顔を見た気がした。きれいな部分だけではなく、様々な顔があり、様々な状況で生きる人々がいること。もちろん格差とか、貧困を肯定している訳ではなくて、私が感じたことは、「人の数だけ人生があり、様々な生き方がある」ということ。それぞれの国で、それぞれの文化に基づき、生きている。日本の東京で普通に生活していたら気が付かなかった何かに気付いた気がした。さらに、日常生活から切り離され、感覚が研ぎ澄まされた私に、肌で感じる異文化の空気や人のぬくもりは生きていることを強く実感させてくれたのである。

 私の知らない世界はまだまだ無限大にあって、もっと知りたい、経験したい。そんな思いを抱きながら、あっという間の5日間は過ぎ、タイ旅行は終わった。

 *日本−Japan

 帰国してからも、私の生活は何も変わらない。ただ、1つ変わったことがあるとすれば、自分の人生を一生懸命に生きてみようと思ったこと。何も考えずに、なんとなく生きてきた今までが、

とてももったいなく感じたこと。今までの自分にとって、無機質に感じていた東京をもう一度見直してみよう。海外旅行が私に教えてくれたこと、それは、普段気にも留めなかった都市−東京が『私の人生の舞台』であるということだと思う。

 私にとって海外旅行とは=自分と向き合う、自分探しの旅であり、生きるエネルギーをくれる源でもある。私が生きていく中で、切っても切れない存在のものとなった。

4ゼミ生・松本 彩)

 

No Smile, No Life

2007320日、午前10時半。私は期待と不安の気持ちを抱きつつ日本を出発した。これから8日間、ベトナムのフエと言う街にある「子どもの家」で、ボランティアをしに行く為である。

 私は「自分を変えたい!!」 その気持ちで心の中はいっぱいだった。そうさせる出来事があったからだ。日本を発った飛行機の中で窓から外の景色を見て、思った。「次ここに戻ってくる時は、絶対に今とは違った自分で帰って来よう。人はすぐには変われない、とよく聞くけど、私はそうは思わない。「変わろう!!」と思った瞬間、その瞬間に少しずつ変わり始めているのだ。アンテナを沢山立てて色んなことを吸収して、沢山のことを感じてみよう。そして楽しむことが大切なんだ」。

 8日間は、あっと言う間だった。私は飛行機の中で思っていた通り沢山のことを感じることが出来た。

 「子どもの家」。それはNo Smile, No Lifeがぴったりの場所だった。ここには親が居ない子供や、ストリートチルドレンだった子供。事情は様々だが、小さい子供から高校生くらいの子供が一緒に住んでいる。子供たちの洋服はもらいものらしく、ちょっと古びていたのが印象的だった。

 最初はどこかよそよそしかった感じも、一緒に過ごして行くうちに打ち解けていった。みんなで追いかけっこをしたり、髪を結んでくれたり、折り紙で遊んだり、サッカーをしたり、シャボン玉で遊んだり、スイカ割りをしたり、ご飯も一緒に作った。毎日が子どもたちの笑顔で溢れていた。笑顔の連鎖反応。周りが笑顔だと自然と笑顔で居られる。私も子どもの頃に戻ったかのように、はしゃいで、そして自分に素直になれたのが嬉しかった。

 お別れの日。私たちはちょっとだけ歌詞を変えて、歌のプレゼントをした。スピッツの「チェリー」。二度と戻れない/くすぐり合って転げた日/きっと想像した以上に/騒がしい未来がみんなを待っている。「愛している」の響きだけで強くなれる気がしたよ/いつかまたこの場所で/みんなとめぐり会いたい。

 私は歌えなかった。こんなにも別れが辛いなんて想像していなかった。よく遊んだ一人の男の子が涙でいっぱいの私にくれた言葉。「アイ ラブ ユ. ヘンガップ ライ」。ベトナム語で「また会おうね」。言葉は違うし、すべて伝わらなくても、ココロとココロが繋がっていると思えた瞬間。こうゆうのって不思議なことだけど本当にあると思う。子どもたちは、私が想像も付かないような辛い過去があったかもしれない。私にはそれをどうしてあげることも出来ない。だけど、こうして笑顔で一緒に遊んであげることは出来る。私には小さいことだけど、子どもたちにとっては大きな事。「子どもの家」の人がそう教えてくれた。

 この八日間は、私にとってとても大切な時間だった。私は他人から見たら何も変わっていないかもしれない。でも自分の中では、変わった。そう、感じた。人は生きていく上で全部何かしらの選択をしながら生きていってる。それが失敗の道であっても、自分で決めたこと。受け入れて、またゼロに戻ればいい。それは前よりもちょっと上のゼロになっているから。

 フエの子供たちも一生懸命自分で決めて、生きているのだ。どんなに辛くても笑顔で居る大切さ。そんなささいなことを子供たちは気づかせてくれた。私は絶対にあの笑顔を忘れない。幸せなことは、人それぞれ違うこと。そう胸に想いながら、成田空港に到着した。

3ゼミ生・小俣麻紗美

 

                       

5.編集後記

  


 
 「東京人」観察学会ニュースNo.12を、観察学会ウェブを全面的にリニューアルすることになっている200838日にお届けします。いつも展覧会の前に発行するようにしていましたが、今年は思うようにいかず、結果的に年度の終わりになってしまいました。ウェブ改定の前にニュースを整えているので、実際ウェブがどうなるのか分かりませんが、それはともかくとして、こうしてニュースを「形」にして何とか年度内に発行することができ、ホッとしています。

 

 今年度もいろいろありました。3回“「東京」を観る、「東京」を読む。”展も成功裏に終えることができました。共催者の千葉大学工学部/大学院工学研究科の環境デザイン研究室の清水忠男先生や佐藤公信先生、院生・学生の皆さんには、改めて心より厚く御礼申し上げます。詳細やその他の事項に関しては、本ニュースやゼミブログなどをご覧いただければ幸いです。

 今号でも、「現役ゼミ生の文章表現力向上を目指した実践講座」(この講座の意図や進め方などに関しては、差し当たり20041018日発行の観察学会ニュースNo.9の「編集後記」をご覧下さい)によって投稿された文章からセレクションした9本の「優秀作」を掲載しました。短いものが多かった昨年との比較で言うと、分量が長めで読み応えのあるものが多くなりました。今年度で4回目ですが、年々進化し続け充実度が高まっているように思います。

 

325日に4年生が巣立っていきます(ゼミブックレットを残してくれます)が、330日・31日には大学セミナーハウス(八王子市)で、来年度のゼミと社会学演習の合同で春合宿を行うことにしています。第4回展の企画案もほぼ固まり、2月終わりに企画書を学部に提出しました。2007年度が終わる前に、2008年度が事実上動き始めているわけです。さて、どんな物語が紡ぎ出されることになるのでしょう。今から楽しみです。

(ゼミ担当者・後藤範章)