倉石忠彦ほか編『現代都市伝承論』岩田書院(2005年9月刊行予定)所収

 

都市を観る、都市を読む −写真で語る:「東京」の社会学−

                                 

                          後藤範章(日本大学文理学部教授/都市社会学・社会調査論)

 

1.はじめに −都市を観、都市を読むために−

 

かつて私は、「今日の都市的世界なり都市的現象の、細部に潜む個的状況から都市の全体性を透視する大状況に至る諸相を、リアルに捉えビビッドに描くことの出来る調査とは一体どのようなものであり、またそこから如何にして理論化が可能となるのか」を問うた[後藤 1994:7-8]。社会学にしても民俗学にしても、実証的な(実証に裏打ちされた理論構築を志向する)研究成果の蓄積を進めてきた学問分野では、程度に濃淡の差はあれ、従来の伝統的な調査方法が行き詰まったり揺らぐようになり、方法論の見直しや新しい方法の開発が急務となっている、との現状認識に立っての問いかけであった。

時ほぼ同じくして、私は“写真で語る:「東京」の社会学”と銘打ったプロジェクトを開始した。1994年度のことである。以来、10年以上の歳月を重ねる中で、このプロジェクトによって産み落とされた方法を、都市を「観察/調査」し、「分析/解読」するための新しいビジュアル・リサーチ・メソッドとして位置づけるに至った。

本稿は、このプロジェクトの概要と成果の一端を紹介し、方法論的に検討を加えることによって、都市社会調査の新地平を切り開こうとするものである。

                                 

2.“写真で語る:「東京」の社会学”プロジェクト

 

(1) 社会学の教育・実習プログラム

“写真で語る:「東京」の社会学”は、私たちが生きている社会、その中でうごめいている人間、現実の細部の中に宿っている「社会的な意味」や「人々の意図」をくみ取って、文字通り動詞型の「社会学すること(Doing Sociology)」に学生たちが内発的・積極的に取り組める、学部学生を対象とする「社会学の教育・実習プログラム」として構想し、開発したものである。

1994年度から私は、本務校や非常勤校での担当科目(注1)の開講時に、「センス・オブ・ワンダー」[Carson 1965=1996]と「ソシオロジカル・イマジネーション」[Mills 1959=1965]の重要性に言及して「社会観察のすすめ」を説いている。私たちの身の回りに引き起こされている様々な社会現象を観察して「不思議」を発見したのなら、内発的な好奇心とあれこれ調べてみたいという知的欲求が膨んでくることになる。そして、対象となった事象にアプローチして、個別具体的な私的問題と社会構造に関わる公的・社会的問題とを関連づける(ソシオロジカル・イマジネーションを働かせる)ことで、Doing Sociologyの面白さと奥深さを体感できるはずだ、と説く。

その上で私は、受講生に次のようなレポート課題を課す。共通テーマは「写真で語る:『東京』の社会学」。観察の対象は「東京」(一定の地域的な範域性=空間的・社会的な完結性・全体性を有した一つの都市社会を想定しているのでは必ずしもなく、現代都市あるいは現代社会にまで一般化して捉えることも可能)と「東京人」(同様に「都会人」や「現代人」にまで広げられ得る)にすえられる。受講生に求める実際の作業は、今日の「東京」や「東京人」のあり様を先鋭的・象徴的に表象すると考える場面を視覚的に捉えて(一枚の写真に収めて)データ化し、適切なタイトルを掲げると共に、社会学的な言説で400字程度の解説を加えてみる(社会学的に分析する)、というごくごく簡単なものである。

学生たちは、「東京」あるいは「東京人」の特徴が表わされていると判断した場面を写真に写し取るが、その対象となった社会事象に向けている<まなざし>の奥には、その学生自身の「東京」認識/現実認識が隠されている。従って、ある一断面を写真に収めるという行為は、その当人の「東京」認識をあぶり出すことにつながっていく。その点を意識して、なぜその場面を写真に撮ったのか、そしてそこにどういう点で「東京」や「東京人」の特徴(東京性/東京人性)を見いだしているのかを、自らとの<対話>を通して解説文としてまとめあげることで、レポートは出来上がっていく。

この課題は数ヶ月間かけて取り組まれ、夏休み前に提出される。他方、私のゼミでも「東京」に関する学習と議論を積み重ね、ゼミ生が各自テーマを設定してそれに沿った写真を撮り、講義の受講生と同様に作品化する。こうして毎年200本から多い年で500本ものレポートが上がってくるが、これらはそのまま「東京における多元的なリアリティが刻印された質的データ群」を構成するので、「東京」の社会学的研究の格好な素材となり得る。そこで数100本のレポートがゼミに引き渡たされ、毎年夏休み中にゼミ合宿が実施される(何年か前までは9月上旬だったが、後述するように、フィールドワークを行う時間を充分に確保するため現在では7月下旬〜8月初旬に行うようになっている)。合宿では、「各人のまなざしが結晶化した一枚の写真は、どれほど鮮やかに『東京』や『東京人』の諸相を描き出し、そこにいかほどの社会学的な知を織り込むことができるのか」という観点から、徹底的な討議を経て約30点の作品(写真)が選考される。その後ゼミ生たちは、原作者の意図や解釈にとらわれずに、各作品を「社会学の眼(視点・方法・理論)」で改めて読み解き、タイトルや解説文に手を加えた新しい作品群に仕上げていって、成果を11月初旬の学園祭で展示発表し、ウェブサイト(注2)でも公開する。

このようなプロセスを経て、1994年度〜2003年度の10年間に公表された作品は合計275点を数える。

 

(2) 既発表作品から(注3)

これまでに発表された作品の中から、代表的なものをいくつか紹介しておこう。

 

1. イリンクスとしてのキャッチボール −カイヨワ流‘遊びの社会学’−(1994年No.1)

                                    <写真撮影者:日本大学2年 鈴木敬雄>

子供たちがキャッチボールをしているのは、グラウンドでも広場でもない。すぐ後ろに轟音けたたましく電車が走り、その背後に高層マンションが迫る。投げたボールは、いつフェンスを越えてしまうかわからない。こんな危険な場所でキャッチボールをするのは何故? 都会にはキャッチボールを安心して行える空間がないからだ、と多くの人は思うだろう。しかし、社会学を学ぶ者には、仏の社会学者ロジェ・カイヨワの遊びの理論が思い起こされるはずだ。彼が遊びを4つのカテゴリーに分けて論じた中に、イリンクス(めまい)という遊びの形式がある。暴投すれば、走る電車やマンションの窓にあたって大変なことになると分かっているが故に、スリリングだ。時には陶酔と恍惚に浸ることすらできる。だから社会学の眼では、これをイリンクスとしてのキャッチボールと見てしまうのだ。

 

2. さくらやのさくら −東京パフォーマンス劇場−(1995年No.11)

<写真撮影者:法政大学3年 加藤由紀子>

池袋東口、さくらやの前。サラリーマン風の男性が、あたかもその公告に興味があるかのように、チラシを持って一列に並んでいる。実は、彼らは、さくらやの従業員で、道行く人に注目してもらおうと、一種の路上パフォーマンスをしているのである。

これは言うまでもなく、東京の巨大なターミナルステーション界隈を行き交う大勢の人々を、自分たちの店に呼び込むための手段である。さくらやへ、あるいは電器店へ行くつもりのない人も、これを見て中に入ろうという気になる人も多かろう。しかし、こうした呼び込みパフォーマンスをしたり、他との差別化を計ろうとしているのは、周りの他店も同様なのである。視点を変えると、都会の雑踏が、多種多様なパフォーマンスを同時進行で上演する複合的な劇場空間と化しているのだ。つまり、大都会そのものが、メディアとなりメッセージを帯びているのである。

 

3. 人間定規 −恋人達の無言のルール−(1995年No.30)

<写真撮影者:法政大学3年 後藤久美>

ある晴れた日の多摩川べりの風景。不思議なことに、多くのカップルがまるで定規の目盛りのように等間隔で座っている。最初に来たカップルが適当な場所に座る。次に来たカップルは遠く離れた所に座る。次は、前の2組の真ん中に座る。次にはそのまた真ん中・・・・という具合に、間隔を等分した位置に次から次へと座っていく。こうして、わずかな時間に、きれいな「人間定規」ができあがる(写真には5組しか写っていないが、実際には相当長い定規ができている)。誰かに指図されているわけではないのに、何故こうなるのか?

ここには、人々の他者との「間」の置き方の暗黙のルールが働いている。基準となる他者と一定程度離れた所に座ることによって、彼らは自分たちの空間占有を宣言する(なわばりの確保)。同時に、他者に対しても「間」をとってすわることを暗に強要する。それが、無言のまま、ある種の法則に従うかのように行われるところが、いかにも東京らしい。

 

4. 座りたいのに座れない −ひとときの安らぎを奪われた空間−(1996年No.17)

<写真撮影者:法政大学3年 大塚佳明>

JR山手線。朝のラッシュ時には、乗車率が優に200%を越える超過密電車。その緩和策として登場したのが、イスを折り畳む車両なのだ。ラッシュ時こそ混雑緩和に貢献しているようだが、ピークを過ぎると途端に座って休みたいという人が目につくようになる。しかしこの車両に限っては、始発時から午前10時まではロックされていて、どんなにガラガラであっても、座れるのに/座りたいのに、座れない、という不可思議な状況が生み出されてしまう。

この車両は、高齢者や障害者などの社会的弱者を最初から排除しているが、バリバリ働く壮年サラリーマンにとってはどうであろう。写真手前のサラリーマンの背中からは、疲労感とひとときの安らぎを求める気持ちが、じんわりと伝わってくる。毎日ぎゅうぎゅうに箱詰めされて大量輸送される東京のサラリーマンたちも、本当は弱者なのかもしれない。

 

5. 「見ること」と「見られること」 −まなざしの相互作用−(1996年No.24)

<写真撮影者:日本大学4年 工藤悦子>

パリやフィレンツェの街角を意識したというオープンカフェがブームとなっている。日本では不用意に他人を観察することは失礼に当たると考えられてきたが、ここ(原宿・明治通り沿い)では堂々と他人を「見る」ことができる。人間観察には絶好の場所と言えるだろう。一方、「見る」ためには「見られ」なければならない。しかし、これに対する恥ずかしさは、あまり意識されていないようだ。「見られる」ことへの抵抗感が徐々に薄れてきている証拠なのであろう。

ここでお茶を楽しむ人々は、路上の人々を「見る」と同時に「見られて」いる。こうした視線の相互作用(interaction)によって生じた空間──それは自己を含めた、人と都市とが作り出すいわば「動」の世界を積極的に楽しむ空間なのだ。

あなたも東京人を観察し、東京人として観察されてみませんか?

 

6. コヤジの生態 −セッカセカの一年生♪−(1997年No.15)

<写真撮影者:立正大学1年 鹿沼千賀子>

帰宅ラッシュ前の池上線五反田駅ホーム。一人、下を向いて歩く少年が、走り去るサラリーマンを追うようにして電車へ・・・・。毎朝、会社へ向かう大人達に囲まれ、その小さな体に似合わないランドセルを背負い、電車に揺られ登下校する子供たち。望ましいステータス獲得のためには、それに相応しい就職/就社と、更にそれにつながる学歴(学校歴)が必要と、小さい頃から大人たちにまじってラッシュアワーを体験する。過酷な競争の渦の中に投げ込まれている「小さな大人たち(=コヤジ)」の存在。そういえば最近、人の顔色をうかがい、先読みして行動を起こす能力を身につけた、「やけに大人びた子供たち=チルドレンアダルト」が急増しているという(1997年9月9日付日本経済新聞)。

「大人びた子供たち(チルドレンアダルト)」と「子供のような大人たち(アダルトチルドレン)」。子供と大人の境界は、ますます不分明になっている。

 

7. 「公共性」と「私性」との折り合い −携帯電話のアイロニー−(1998年No.4)

<写真撮影者:日本大学2年 浅沼伸介>

京王線・新宿駅の中央改札口付近。利用者のいない公衆電話がずらりと並んでいるその向こうに、携帯電話で通話している若者が1人。二重の意味で皮肉な光景と言って良い。一つは、公衆電話が街のオブジェになりつつあるという点で。NTTによれば、移動電話が普及し始めた1994年度以降、公衆電話の設置数も利用者も大幅に減少しているという。二つは、にもかかわらず、公衆電話近辺は安心して電話をかけられる場所であり続けているという点で。コンサート会場や病院、電車内などで、着信音を鳴らされたり、話しを聞かされたりでいやな思いをさせられる人は多い。携帯(=私)電話は、公共性の高い空間を「私化」し、不快指数を一挙に高める暴力性を有している。どこででも送受信できる利点が最大の欠点にもなる。だから、TPOをわきまえて携帯電話をかけようとすると、ついつい公衆電話に近づいてしまうのだ。

1998年7月8日(水)午後3時頃 京王線・新宿駅にて撮影

 

8. 気がつけば中吊り −視線の誘導−(1998年No.25)

<写真撮影者:法政大学3年 渡辺あゆみ>

ラッシュ時の超満員電車。外も見えないし、新聞も本も読めやしません。一方、写真のような昼間の空いている車内。座っていても立っていても、なーんもやることがないことだってある。そんな時、あなたもいつの間にか目で追っていませんか、中吊り広告を。そうでしょ! これが、知らず知らずのうちに視線を向けてしまう中吊り広告の「視線誘導効果」ってやつなんだな。窓上よりもずっと沢山の人が目に止めるのです。想像力を働かせながら結構じっくり見るから、印象にも残るのです。販売促進にもつながります。だから、窓上より中吊りの方が掲示する期間が短くて料金が高いのです。JR山手線を例にとると、窓上の場合は4日間・1640枚で77万8千円であるのに対し、中吊りは2日間・2560枚で180万4千円です(98年4月現在)。東京の料金は別格です。めちゃくちゃ高いです。それだけ、人がぎゅうぎゅう詰めにされてるってことですね。

1998年7月8日(水)午後9時頃 営団地下鉄・千代田線の車内にて撮影

 

9. 第四の生活空間 −遠距離通勤者の電車生活−(1999年No.11)

<写真撮影者:日本大学3年 戸田光恵>

23時30分頃の内房線姉崎駅(千葉県市原市)あたりの車内での1コマです。1人のオジさんが、他人の目を気にすることなく、座席をベッド代わりにして寝てしまっています。でも、これはまったく特別な光景ではなく、よく見られることなのです。内房線は千葉県の館山方面へ向けて走る路線で、もうここまで来ると東京へは片道1時間半以上かかるのですが、通勤・ 通学する人が数多く存在します。1995年の国勢調査によると、千葉県に住んでいる15歳以上の就業者及び通学者344万人のうち、約26%に当たる89万もの人々が東京都内に通勤・通学しています。長時間電車にゆられる通勤・通学者にとっては、車内での時間をどう過ごすかという事が重要になります。読書をしたり、新聞を読んだり、時には熟睡したり・・・・。つまり、電車の中の空間は、家庭、職場、盛り場に続く、「第四の生活空間」なのです。

1999年7月1日(木)23時30分 JR内房線「姉崎駅」付近の車内にて撮影

 

10. Please wait to open the door.  −工事現場も原宿中!−(1999年No.27)

<写真撮影者:日本大学2年 斎藤直宏>

原宿駅から表参道を2〜300mほど行った明治通りとの交差点。そのまままっすぐ5〜600mも歩くと、南青山に達するというロケーション。1999年11月3日オープン予定のビルの建設工事が進められている。その中にはGAP、ソニープラザなど計5店舗が入る予定である。それにしても奇妙ではないか。すぐ後ろは工事現場だというのに、若者が何人もたむろしている。白い壁に赤字の横文字、少しだけ空いたドアが人を招くのか。この外壁は専門のサインデザイナーの手によるもので、(社)日本サインデザイン協会の賞を受賞している。工事現場であることをまったく感じさせないばかりか、外壁のアートが街の景観に溶け込んでいる。いや、むしろ街の雰囲気を構成する一部となっている。流行最先端のお洒落な街では、工事現場の外壁にも「原宿らしさ」が巧みに演出されている。

1999年6月30日(水)17時 渋谷区神宮前にて撮影

 

11. The International Exposition of 'Replicas' −世界(の寄せ集め)都市・東京−(2001年No.13)

<写真撮影者:日本大学3年 葛飾雪>

夜のお台場。東京湾を望めば、レインボーブリッジと東京タワーが光り輝く。写真右手には、「自由の女神像」のレプリカ(「日本におけるフランス年」を記念して、98年4月〜99年1月に本物のパリの自由の女神が移設されたが、00年冬からレプリカが設置されている)。98年8月には「パレットタウン」に南欧の街並みを再現した「ヴィーナスフォート」、00年11月には「デックス東京ビーチ」に「台場小香港」がオープン。パリのエッフェル塔を模倣した東京タワー、サンフランシスコのベイブリッジを思い起こさせるレインボーブリッジ、N.Y.のマンハッタンやロンドンのドックランドを範にした水辺開発…。世界中から景観や文化を寄せ集めた大博覧会の会場のようだ。こんな安っぽさすら漂う臨海副都心に、昨年1年間で、過去最高となる3,670万人もの人々が訪れた(東京都港湾局調べ。96年は1,509万人)。その数は、TDL(約1,700万)を大きく凌いでいる。

2001年7月1日(日) アクアシティお台場(港区台場)にて撮影

 

12. 若奥様の行列 −学校歴にもブランド信仰−(2001年No.26)

<写真撮影者:日本大学3年 時田昌彦>

靖国神社そばの、名門私立幼稚園の下校風景である。母親たちは、園児が着ている制服と同じような地味なブランド品で身を固めている。そしてここでは毎朝、まるで儀式のようなパターン化された送迎風景が見られる。校舎まで子どもを送り届けると、最短距離の校庭中央を歩かずに、"必ず"色分けされた通路を迂回する。校門では、"必ず"前の母親との距離を保ち、"必ず"校舎に向かって順番に美しく一礼をしてから出て行く。

子供たちは系列の高校まで一貫して通い、大学受験時にはさらなる名門校を目指す。母親たちは、ブランド価値の高い学校歴を幼稚園から子どもに与え、そのブランドの後光で自身の存在をも証明する。この幼稚園で出来上がっている不文律と、それに適合させることでメンバーシップが与えられる母親と子供たち。ブランド信仰に支えられた社会的地位の獲得競争には、どこか悲哀感すら漂っている。

2001年7月13日(金)14時 靖国通り(千代田区九段北)にて撮影

 

13. 東京型通学スタイル −私も"越境"通学生!?−2002No.12

<写真撮影者:慶應義塾大学3年 長田桂>

ここは新宿、大ターミナルの夕方5時。制服に身をつつみ、背負ったランドセルからは通学定期券をぶら下げている少女。自分の住む市区町村外に"境界を越えて"通学する児童・生徒を「"越境"通学生」と定義するなら、彼女もその1人に違いない。

2000年の国勢調査によれば、東京都内にある小・中学校への通学者807,915人の内、"越境"通学生は92,918人を数え、全体の11.5%にあたる。次に多い神奈川県は5.9%、全国平均に至っては1.8%。東京の数字の高さが浮き彫りになる。そして、"越境"通学生の大半は、全国852校のうち229校が集中する(2000年の『学校基本調査報告』による)都内の私立小・中学校の児童・生徒なのだ。高まる私立志向、高度に発達した交通機関、それらに裏打ちされた越境への心理的障壁の低さ。こうした要素が、東京における"越境"通学生を実に10人に1人強の割合にまで高めさせている。

一見寂しげに見える彼女、しかしデータの向こう側から友達の姿が見えてくる。

 

2002年7月5日(金)午後5時頃 京王線・新宿駅構内にて撮影

 

14.神様の不透明化 −明治神宮と明治天皇の関係性−(2003年No.13)

<写真撮影者:日本大学 2年 矢場聡美>

明治神宮での神前結婚式の1コマ。神前式の人気が下火になっている中で、年間約千組もの式が行われる。初詣参拝客数23年連続全国1位(三が日で約300万人)という数字にも、最も有名で人を集める神社であることが現れている。1920(T9)年、「明治天皇を神として永遠に祀りたい」との「国民の熱誠」により創建された明治神宮。天皇の神聖性・カリスマ性は絶大なものがあった。それは「神宮の森」を構成する10数万の木々のほとんどが献木ということからも読み取れる。しかし今、明治神宮の祭神が明治天皇である事を知っている人は、意外なほど少ない。私たちが2003年10月21日(火)に実施した参拝者への調査(10歳代〜70歳代を任意に抽出)では、100人中実に71人が知らなかった。「神様としての明治天皇」は、もはや人を惹きつける主要なファクターではなくなっているのである。

交通の至便性、広大で豊かな緑、明治神宮やその参道(表参道)を含めた原宿のブランド性といったものが、神の存在を不透明化してやまない現代人をここへ集めさせている。

2003年5月24日(土)15時半頃 明治神宮(渋谷区代々木神園町)にて撮影

 

15.対向するまなざし −浜離宮と汐留との「借景」関係−(2003年No.30)

<写真撮影者:日本大学4年 齋藤秀和>

浜離宮恩賜庭園(以下浜離宮)から汐留シオサイトを仰ぐ風景である。

徳川将軍家の庭園であった浜離宮は400年近い歴史を持つ名庭園で、東京湾の海水を引き入れた汐入の池が特徴的である。以前は庭園目当てに訪れる人々のみを迎え入れる、その意味で周りの都市空間から孤立した「小宇宙」であった。しかし、汐留の再開発によって、浜離宮とビル群とは双方共に「見る−見られる」関係に入る。シオサイトからすると、浜離宮を「借景」として組み込むことで、「都心景観」の完成度を高めた。浜離宮からすると、従来の浜辺からシオサイトに「借景」を替えることで、東京湾に面した縁辺部に立地する隠れた庭園から、巨大都市空間の内部に立地する「都心の庭園」に変質させた。

緑豊かな庭園と隣接する巨大ビル群。それぞれに身を置く者たちは、お互いの存在を目視することがないまでも、否が応でも視線を投げかけ合う。まなざしを別次元から対向させるこの空間と景観は、いかにも「現代東京的」と言って良い。

2003年7月27日(日)13時頃  浜離宮恩賜庭園(中央区浜離宮庭園1丁目)にて撮影

 

3.写真と都市社会調査

 

(1) 「写真で語る」ことの意味

写真は、「無意識が織り込まれた空間」[Benjamin 1935-36=1995:620]である。西村清和は、W.H.タルボットやR.バルトらが刮目したことを、次のように的確に要約している。写真は、肉眼の意識がとらえきれず、またその文化的バイアスのもとで見逃してしまう微細なディテイルをも公平に記録する、「都市の無意識の標本断片である」[西村 1997:34]、と。意識的、無意識的に写りこんださまざまなディテイルは、さまざまなテクスト、多様な物語が語られる断片である。従って1枚の写真は、「物語素の束」[同:45]なのである。J.ボードリヤールの表現を借りるなら、「世界はそっくりそのまま細部の中に屈折して、方程式や総和のないフラクタルな世界を映し出す」のであり、この点で写真は、「思想、ヴィジョン、あるいは運動によって、常にひとつの完結した形態を素描するアートや映画」と根本的に異なる[Baudrillard 1997:11,18]。

絵画や音楽や小説や映画なども、社会を読み解く質的なデータ足り得る。それらは原作者(画家や作詞家・作曲家や小説家や映画監督)の意図が隅々にまで行き渡ることによって、一つの作品として完結する。それに対して、写真には写真家の意図せざる要素までもが写り込む。「写真を撮るという操作は、自明な存在としての世界が行う自動筆記」である[Baudrillard 1997:47]。「写真(カメラ)の視覚」は、写真家の意図や意味が投影される「肉眼の視覚」を覆い尽くす。写真は、写真家の眼にとまらぬ「コードなきメッセージ」が自動的に写し取られる。この意味で、第三者による介入(自由な解読/再解釈)を大きく許容する特異性を有しているのである。

写真は、原作者の意図を離れて自由に読み解くことを可能にするメディアである。従って、そこに写り込んでいる「物語素」の一つ一つに応じたテクスト(物語)の抽出が可能となる。しかも、一枚一枚の写真には、その場所の歴史や社会構造、社会プロセスがありありと写り込むことがある[飯沢 1996:6]。この点を踏まえれば、写真は、「社会の探索のためのツール」[Becker 1974:3]、「集合的心理の標識」[Loizos 2000:93]として、社会学の研究、社会の解読のための格好な素材となるのである。

 

(2) まなざしの結晶化と解釈の相互作用−不可視性の可視化と可知化−

「写真で語る:『東京』の社会学」プロジェクトは、「感覚の主体性(感応力/センス・オブ・ワンダー)」と「社会認識のための想像力(ソシオロジカル・イマジネーション)」の回復をめざした方法論的試み、と見なし得る。

写真作品と元々のタイトルや解説文には、原作者の「状況規定」が反映している。写し取られた東京の諸断面を観察し直す私のゼミの学生たちは、原作者の意図や解釈から自由に多様な解釈を試みる。前掲1の作品を例に取ろう。原作者が掲げた作品タイトルは、「遊び場のない大都市の子どもたち」だった。私のゼミではこれを、議論を重ねた末に、暴投すれば大変なことになるとわかっているが故に、子ども達はある種のめまい/恍惚を感じながら遊んでいる、と解釈し直した。「イリンクスとしてのキャッチボール」というタイトルにつけかえ、解説文を全面的に書き改めた。これは1例にすぎないが、同様のことが沢山おこる。原作者の「状況の定義づけ」とゼミの学生たちが行った「状況の定義づけ」とが異なる、といったケースが非常に多く出たのである。

このことは、上述の写真の持つ特異性を例証すると共に、大都市が織りなす多元的なリアリティの1つ1つに多様な解釈が成り立つことをも示している。もっともらしい「事後解釈」がいくらでもできてしまうことになり、方法の信頼性と解釈の妥当性という古典的な問題が浮上する。しかし、「トマスの公理」[Merton 1957=1961:382-383]を引くまでもなく、リアリティとはそのようなものであって、結局のところ、方法と解釈の正否は系統的・多面的に探求されねばならない。マートンの言う「有無を言わさぬ確証」が得られるかどうか[同:86-87]、要はその解釈の妥当性を他の方法によって別個にテストできる余地が、調査プロセスの中で担保されているかどうかにかかっている。これは、この手法がマルチプル・メソッドを要請する根拠の一つにもなる。

この点に関する議論は後述することとして、私がここで先に強調しておきたいのは、このことではない。実際の解読プロセスの中で引き起こされる解釈者たちの相互作用と認識の働き、という点である。

原作者が用意したタイトルと解説文を大幅に改変して、新しいものが出来上がるまでの間に展開される人間模様は、注目するに値する。そこには、原作者のまなざしとゼミの学生1人1人のまなざしと教師(私)のまなざしとがぶつかりあって展開する、ドラマティックな相互作用が刻み込まれる。各人は、自らの東京認識を枠組みとして、蓄積された体験や知識を引き出しながら多様に解釈し合う。その中で、認識が問い返され、批判と反批判、同調と反目、駆け引きやせめぎ合いが繰り広げられる。教師の「社会学的介入」[Touraine 1978=1982:201]もまた、同時進行する。ゼミのメンバーの解釈(=対話)を介しての相互作用は、お互いに影響を与えないはずがない。自らのまなざしとそれに込められた意味は、他者のそれとの関わりを通していやをなしに相対化される。自己反省と自己転回を伴い、想像力や洞察力が高まっていく。東京に対する認識の度合いを深めながら、新たな解釈が協同して練り上げられていく。

「東京写真」(「東京」認識・経験の表象としてのフォトグラフ)を集団的に解釈して作品化する過程。そこには、学生たちが、東京や東京人に対する感性(センス・オブ・ワンダー)を研ぎ澄まし、ソシオロジカル・イマジネーションを質的に高めていく過程が、紛れもなく含まれている。社会的リアリティを嗅ぎ取り、読み込み、共通の言葉を紡いでいくことによって、諸事象の背後に隠れて見えなかった社会のプロセスや構造が可視化/可知化されていく、という過程でもある。

 

(3) 方法論的転回 −実証性の高まり−

この10年間の積み重ねの中で、方法論上、質的に大きな転換を経験した。研究対象との距離の取り方に大変化が起こったのである。一口に言うと、ダイレクト・オブザベーション(直接観察/非参与観察)からトライアンギュレーション(マルティプル・メソッド)への方法的な転換、と言って良い。

最初の段階では、写真に写り込んでいる事象を外側から「まなざす」こと(ダイレクト・オブザベーション)によって解釈・分析が成り立っていた。いつどこで撮った写真なのかについても特に関心を払わなかった。ゼミ生たちが各自持っている「引き出し」から何が引き出されてくるかによって、議論に方向性が与えられた。「社会学すること」の中身も、既知の社会学的な諸概念を、対象となる事象にどう当てはめるかに留まっていた。例えば、アノミー、匿名性、ボーダーレス、カタルシス、記号の消費、エスニシティ、電子メディア、ジェントリフィケーション、グローバリゼーション、同質性、情報社会、大衆社会、ポスト・モダン、パーソナル・ネットワーク、疑似環境、セックス/ジェンダー/セクシュアリティ、重要他者、サブ・カルチャー、アーバニズム、都市的生活スタイル、ヴァーチャル・リアリティ、世界都市、自由からの逃走、孤独な群衆、などなど。「類推」や「憶測」や「推量」によって「写真の意味」を「理解/解釈」して、作品が出来上がっていくという傾向が色濃かった。

転機は、プロジェクト3年目(1996年度)が終わる時に訪れた。あるゼミ生から、「現場に立ち降りて原作者が切り取ってきた場面を、写真に現れていない背景を含めて検証する作業、フィールドワークが決定的に不足している。そのために実証性が低いままになっている」、という根底的な批判がなされたのである。リアリティへの感応力と想像力の質的転換に伴って不可視性が可視化・可知化していくだけでは、実証研究とは言えない。「東京の社会学」にもならない。私たちは、原作者がその写真を、どういう意図や意味を込めて、どこで撮影し、解説文を作ったかにも、こだわった方が良い。原作者の意図を離れて捉え直す場合も、写真の中に写り込んでいる現実そのものに身を置いて、検証し直してみることが不可欠である。

こうした「批判と反省」が、転換の契機を与えた。1997年からは、「場面の再現性」と「関係者の主観的意味の理解」が強く意識されるようになった。ゼミ生たちは、写真に写っている状況を兼ね備えている場面に必ず入り込むようになった。該当する事象に関係性を有する人々にインタビューし、その事象にどのような思いや意味が込められているのかを把握するようになった。インテンシブな観察やインタビューだけではない。関連する統計データなどの既存資料の収集と分析、先行する研究成果のフォロー、量的調査の実施といったマルティプルなメソッズが「グループワーク」として採られるようになり、ここ数年来、フィールドワークに費やす時間とエネルギーが飛躍的に増大している。その結果、解説文には必ずしも現れないが、作品一点毎に膨大なバックデータが蓄積されるようになった。「視点と技法の重層」(質的データ分析と量的データ分析との立体的な結合)と「分析結果の総合」とが果たされる道筋が、はっきりと示されるようになったのである。

「写真で語る:東京の社会学」プロジェクトは、こうして方法論的な転換と洗練を経験した。私は、ここで採られる方法を、新しい都市社会調査法の一つと積極的に位置づけるようになった。「集合的写真観察法」と呼称するようにもなった。学会や研究会での口頭発表や講演、論文なども、蓄積度が高まっている(注4)。かくして、社会学の教育・実習プログラムとしての従来の側面に加えて、都市社会調査論の文脈にのせて検討できる段階に至ったのである。

 

4.集合的写真観察法 −新しいビジュアル・リサーチ・メソッド−

 

(1) 集合的写真観察法とは?−何重もの集合性の獲得−

「集合的写真観察法」というネーミングに関しては、松平誠が都市祭礼集団の研究で採用した「集団的参与観察法」[松平 1980、倉沢 1987]からヒントを得ている。松平は、まず量的な調査を予備調査として実施・分析する。その上で、キーパーソンを含む複数の個人に関するライフヒストリーをゼミ生たちが体系だって聞き取る。一人の研究者が一人のインフォーマントからライフヒストリーを聞くという方法では、解釈の恣意性が高く、一般化の妥当性が低いという難点がついて回る。そこで松平は、データの均質性を保証するための方法として、集団による参与観察と聴き取りを行う。学生たちが得たデータを相互に反証したり補強することで、均質性と信頼性が獲得されていく。松平は、そうした方法として「集団的参与観察法」を提唱・実践したのである。

この方法は、Denzin[1970]の言う「トライアンギュレーション」にも通じるだろう。これは、少なくとも3つ、望ましくはそれ以上のマルチプルなメソッドを用いて異なった視点と異なった知見を結合させ、真相を明らかにする方法である。彼は、a)Data Triangulation、b)Investigator Triangulation、c)Theory Triangulation、d)Methodological Triangulationの4種類のトライアンギュレーションを提示している。a)は研究において種々のデータの情報源を使うこと、b)は別々の異なった調査者もしくは評価者を使うこと、c)は単一のデータセットを解釈/説明するためにマルチプルなパースペクティブを使うこと、d)は単一の課題を研究するためにマルチプルなメソッドを使うことを、それぞれ意味する[Janesick 2000:391-392、Macdonald 2001:208-209]。データの収集と分析にあたっては、質的/量的データを問わず、また質的/量的分析をも問わずに、使えるデータや方法は何でも使うという姿勢に彩られている。

「集合的写真観察法」は、こうした松平やDenzinに基本線で依拠する面が大きいが、「集合性の獲得」と「写真」を用いるという点で独自な方法と見なすことが可能である。それは、写真というイメージ・データを用いて、集団で(集合的に)社会事象を観察することによって、社会を読み解く方法である。これまでの議論を整理して、特徴点を示しておこう。

@多元的なリアリティがそれぞれに刻印された都市写真が用いられる。それらは、ビジュアルで質的な「集合」データを構成する。

A写真に写り込んでいる「集合」意識や「集合」現象をくみ取って、社会学的に分析することが目指される。様々な実証データが収集・分析され、見え隠れしていた「社会」のプロセスや構造の可視化・可知化が計られる。

B観察者たちの間で展開するドラマティックな相互作用を介しての作品化プロセスで、共同主観性(間主観性)が形成される。相互作用を経て一人びとりの認識作用が融合することで、「集合」的な解釈枠組みや解釈が織りなされていく。これは、観察者たちの社会的リアリティへの感応力(センス・オブ・ワンダー)とソシオロジカル・イマジネーションが質的に転換する過程でもある。

C方法の信頼性は、主に「場面の再現性」と「関係者の主観的意味の理解」によって補強される。また、視点と技法の重層と分析結果の総合が、集団的・集合的な作業として行われることで(4種類のトライアンギュレーションによって)、信頼性が担保される。

D解釈の妥当性は、マルチメソッド・アプローチによるデータの収集・分析の成果によって、別個に検証(テスト)される。また、教師による「社会学的介入」を受けながら形成されるゼミの共同主観性(集合性)が、妥当性を担保する。

こうした何重かの「集合性」の獲得が、データの均質性や一般化の妥当性を高めることにつながる。「集合的写真観察法」を、新しいビジュアル・リサーチ・メソッド、ないしマルチメソッド・アプローチの一変種と位置づける理由が、ここにある。

 

(2) オムニバスとしての「東京の社会学」−もう一つの集合性−

一枚一枚の写真は、それ自体が独立したモノグラフになり得る。「集合的写真観察法」は、第一義的には、個々の写真から「集合意識」や「集合現象」を見いだし、社会学的に分析するための方法であった。

しかしながら私は、それら1つ1つの諸断片が相互に関連性を持って「ある種の物語」が紡ぎだされていくことをも想定している。それらの小作品「群」が全体として1つの作品として自立し、モノグラフに相応しい内実を獲得する手応えを感じているからである。ここから私は、多数の小作品群からなる「オムニバスとしての『東京の社会学』」を構想する。個々の作品がそれぞれに一つの完結した物語を構成すると同時に、それらが互いに引き寄せ合う結果、全体としても一つの作品として自立し、「東京」と「東京人」をモンタージュする。これは、「せめぎ合いと紡ぎ合いのダイナミズム」(注5)によって、もう一つの「集合性」が獲得される道筋、と言っても良い。

現時点で「構成」がある程度出来上がり「モンタージュ」されているものは、以下の通りである(【10】を除き、いずれも10〜15点程度の作品群によって構成される)。

【1】移動性(非土着性)と流動性と超域性 −「東京」の超広域化−

【2】グローバリゼーションと人種的異質性 −世界都市「東京」−

【3】コミュニケーションの間接性と断片性 −サイバースペース「東京」−

【4】まなざしの交差と非交差 −自由・好奇心・無関心−

【5】都会人の生活作法 −無言の流儀と同調圧力−

【6】人を動かす社会的装置 −“仕掛け”としての新奇さ・お洒落・流行り・景観・欲望・熱狂−

【7】舞台としての「東京」(マイ・ライフ、マイ・ワールド)−自分探しと自己変革、そして癒し−

【8】大都市のエア・ポケット −視界に入りにくい社会的現実−

【9】行政の作為と不作為 −計画の落とし穴−

10】超多面体都市「東京」−それぞれの街・スポット・人間模様−

紙数の制約上、詳しく述べる余裕はもはやないので、一例だけを示すことにしたい。以下は、【10】超多面体都市「東京」(地域別のシリーズと言って良い)のごくごく一部、「丸の内」を扱った作品群である。1995年度のものが1点、2001年度と2002年度がそれぞれ2点ずつ、合計5点から構成されるオムニバスである。

 

16.人も街も骨休め!?  −日曜日の丸の内オフィス街−(1995年No.24)

<写真撮影者:法政大学4年 小川香子>

東京丸の内。多くのサラリーマンたちがうごめく平日とは対照的な日曜日の風景である。人々が通勤の疲れを癒す週末には、東京もまた体を休めるかのようにビルもシャッターを閉め、その中に人の気配はない。休日もなく就職活動を行っているのか、リクルートスーツ姿の女子学生がちらほらと見えるだけである。

平日とはまるで姿を変え、異なる空間と化しているこの街を見ていると、本当にここは「東京」という大都市の中心なのかと疑問を抱いてしまう。

しかし、平日と休日とでまるで様相を一変させてしまうからこそ、紛れもなく「東京」の都心なのだ。何故なら、「東京」ほど、都心部の常住人口(夜間人口)が減少して、人口増加地域が絶えず周辺部へと拡大し続ける(人口のドーナツ化現象を大規模に引き起こしている)都市は他にないからだ。

都心部の休日の人口(常住人口)は、どんどんゼロに近づいている。

 

17.地下鉄交差点 −日本株式会社の中枢部−(1999年No.9)

<写真撮影者:日本大学3年 平澤仁>

地下鉄大手町駅の構内。頭上を見上げると、そこには5つの路線(三田線・千代田線・半蔵門線・丸の内線・東西線)がきれいに色分けされた案内板がある。そしてそれらのマークに誘導されて、今日もまたスーツ姿の人々がせわしく行き交う。さながら、地下街の交差点のようである。東京の地下鉄12路線のうち、実に5路線が交差する。こんな地下鉄の駅は、全国広しと言えどもをここしかない。一日の乗降客数は約37万人、新宿駅の約330万人(日本1位)に比べればそれほど多いわけではない。なのに何故? ここ大手町・丸の内地区は、東京駅と皇居に挟まれた場所に位置する。整然とした街区に日本を代表する大企業の本社が集中する一大ビジネスセンターだ。山手線の内側に縦横無尽に張り巡らされた地下鉄(都心内交通)ネットワークの中心は、日本経済の中心に照準を合わせているのである。

1999年10月1日(金)午前8時頃 大手町駅構内にて撮影

 

18.皇居前の空間再構築 −ここにも規制緩和の波?−2001No.17

<写真撮影者:日本大学3年 荒井剛>

美しく整備された皇居外苑。その向こうにあるのは丸の内・大手町のオフィスビル群である。右端に、一際ノッポなビルが一つ。2002年竣工予定の三菱地所の丸ビルである。丸ビル(丸の内ビルヂング)といえば、1923年に皇居から東京駅へ向かう行幸通りの右端に建てられ(高さ31mの東洋一の大ビルと称された)、1997年に取り壊されるまで、丸の内のビル群のシンボル的な存在であった。そのビルが、高さ179mの超高層ビルとして生まれ変わろうとしている。でも、不思議だ。日本経済の一大中心地であるのに、これまで超高層のスカイラインが形成されなかったのは何故か? それは言うまでもない、皇居の存在である。「皇居を見下ろすのは畏れ多い」という「宮城崇敬」の観念が、戦後もずっと丸の内の空間形成を規制し続けてきたのだ。その呪縛から解き放たれるかのように、皇居の正面に位置する丸の内に、今後150mを越える超高層ビルが次々と建っていく。

2001年7月19日(木)15時頃 皇居外苑(千代田区皇居外苑)にて撮影

 

19.‘ハレ食’と‘ケ食’ −丸の内の昼食事情−(2002年No.3)

<写真撮影者:日本大学3年 浦部奈津恵>

4千を越す事業所に24万人もの人々が働くオフィス街・丸の内。お昼近くになると、路上には写真のようなお弁当を積んだワゴン車が、どこからともなく現れる。移動販売によるお弁当屋である。それらに列をなすのは、ここで働くビジネスマンやOL達。お弁当の値段は、400円前後と格安だ。それに対し、周辺のレストランなどで昼食を取ると千円以上、デパ地下やコンビニ弁当でも500円はかかってしまう(丸の内1〜3丁目の30店の平均価格)。お弁当屋に並ぶお客さんにインタビューしてみると、一番多かった理由が「安さ」であり、「ヘルシー感」、「おいしさ」と続く。

2002年9月にオープンした超高層の新しい丸ビル(丸の内ビルディング)によって、街としてのブランドをより一層高めている丸の内。雑誌やTVなどでは盛んに「グルメ特集」が組まれ、個性豊かなレストランは多くの人々を広範囲から引きつけている。

ごちそう(ハレ食)を求めて丸ビルにやってくるお上りさんと、お弁当(ケ食)を食べるビジネスマンやOL達。今、丸の内のお昼はまさに二極化しているのである。

2002年7月22日(月) 千代田区丸の内3丁目にて撮影

 

20.光の共鳴 −変わらぬシンボルと進む再開発−(2002年No.11)

<写真撮影者:日本大学3年 齋藤秀和>

美しくライトアップされた駅舎と、傍らにたたずむ雪だるまのイルミネーション。2001年大晦日の、JR東京駅とオープンしたばかりのパシフィックセンチュリープレイス丸の内(PCP)ビルである。

東京駅は、天皇の乗降と丸の内のオフィス街整備という目的のもと、皇居に面した東京の「顔」として、1914(T3)年に建設された。駅舎は、列強諸国に見劣りしないように、当時世界の中心であったイギリスの赤レンガ造りを模して建てられ、皇居側には広場が設けられた。高層ビルひしめく都心でありながら、現在でも駅舎全体を見渡せるという事実には、皇居と密接に結びついた東京駅の「権力中枢の象徴性」が潜んでいる。他方、急速に建設が進む周辺の高層ビル群。2001年12月に完成したPCPビルは、様々なイルミネーションによってその存在を誇示しようとする。

だが、丸の内の景観基軸は東京駅〜皇居にあり、周りの光と共鳴しながら、その威光こそが満天の星のごとく光輝くのである。

2001年12月31日(月)夜  JR東京駅丸の内北口付近(千代田区丸の内1丁目)にて撮影

 

これらによって、どのような像がモンタージュされるのだろう?

1)皇居(宮城=かつての政治的・社会的な権力中枢)とその正面に位置する東京駅(天皇が乗降する日本の中央駅)、両者を結ぶ大通り(天皇が皇居から東京駅へ向かう「行幸」通り)と通りの両脇に位置する丸の内地区(国家権力と三菱財閥とが官民をあげて開発したビジネスセンター=経済中枢)とが、密接不可分に一体化している。

2)これが、東京全体の空間構造の最も中心的な核(センター・コア)となり、それを「神聖」を崇める価値意識の構造が支えてきた。

3)東京の都心部の駅で駅舎の外観を隅々まで見渡せるのは、東京駅や明治神宮のある原宿駅くらいしかない。これも皇居ないし天皇制との関係を抜きにしては考えられない。

4)近年になって、上記のような空間構造と価値構造との完全一体的な重なり合いが少しずつ薄れてきた(呪縛からの解放)。その結果、空間規制が緩むようになり、超高層ビルの建設ラッシュが始まるようになっている。

5)平日だけ、大企業のビジネス・エリートによって占有された静寂な皇居前の空間(丸の内・大手町)が、2002年の丸ビルのオープンなどによって多くの人々を広範囲から引き寄せるようになり、週末もにぎわう繁華街に変質しつつある。

6)にもかかわらず、皇居から東京駅へかけての空間には、新宿や渋谷、池袋のような世俗的な大衆性とは明らかに異質な空気が色濃く漂っている。

たった5点のオムニバスでありながら、以上のような諸点が視覚(皮膚感覚)を通して立体的に伝わり、なおかつ説明力が相当あると受け止めていただけるだろう。

このようにテーマ別・地域別に作品を縦横無尽につなぎ合わせることで、「東京」や「東京人」の社会・生活構造や意識のあり方、変動のプロセスなどといった見えにくいもの(不可視性)を可視化/可知化する道が確実に開かれるのである。手応えは、充分に感じられる。

 

5.おわりに −社会調査の新動向−

 

私は、2002年12月に発表した論文で、英語圏における近年の注目すべき社会調査の諸動向として、次の7点を指摘し、詳細に検討を加えた[後藤 2002]。

1) Grounded Theory Methodology / Methodsの着実な展開と定着

2) 質的方法と量的方法との優劣論争の大幅な後退

3) 単一の調査技法に依拠することからの脱却志向の高まり

4) 質的調査法への再/新評価のより一層の高まり

5) 質的データ分析とTheory Buildingへのコンピュータ・アシストの発達と洗練化

6) 社会調査(量的/質的)データ・アーカイブの整備とSecondary Analysis の活性化

7) Visual SociologyのOne Branch of Sociologyとしての確立とVisual Research Methodsの普及

「集合的写真観察法」の提唱は、これらの動きと決して無縁ではない。むしろ、ある面で強く意識したり、響き合ったりもする。微かなうごめきが、ハッキリした容貌を持って立ち現れるようになっているのである。他方では、「都市」が際限なく拡散し、「都市性」に収斂する現象が「部分(断片)」としては見い出せても、「都市の全体性」を透視し剥ぎ取ってくることがますます困難になってもいる。

そうした中で、いかにして「都市」を立体的に描き上げることができるのか、社会のリアリティを実証プロセスの中へ組み込み、それを再構成・再構築するには、どのような方法が相応しいのか、がますます先鋭的に問われるようになっている。本稿では、この問いかけに対する私なりの答えの一端を示したつもりであるが、まだ決して充分ではない。積み残した課題も多い。“写真で語る:「東京」の社会学”プロジェクトは従って、これからも継続され、方法論的にも彫刻されていくことになる。

 

(1)1994年度から2003年度の期間中に、この課題を課した授業科目は以下の通りである。日本大学文理学部の「都市と地域の社会学(旧:地域社会学)」(1994〜99年度、2001年度以降)及び「社会調査の方法」(2003年度)、法政大学社会学部の「社会学特殊講義T」(1994〜98年度)及び「地域社会学」(1996・99年度)、立正大学文学部の「現代社会論」(1997〜99年度)及び「都市社会学」(1999年度)、慶應義塾大学法学部の「社会調査論T」(2002〜03年度)、法政大学大学院社会学専攻の「社会調査論3」(2002年度)。なお、2000年度は、私の在外研究(サバーティカル・イヤー)のため、中断している。

(2)「東京人」観察学会(日本大学文理学部社会学科・後藤ゼミ)のWebサイト。URL http://www.chs.nihon-u.ac.jp/soc_dpt/ngotoh/tokyo/

(3)写真撮影者の所属・学年は作品発表時のもの。作品(タイトル+写真+解説文によって構成)の著作権は、全て「東京人」観察学会(日本大学文理学部社会学科・後藤ゼミ)に帰属する。無断で複写や転載することを禁ず。

(4)このプロジェクトの成果や方法に言及している文献には、後藤[1996,1997,2000]、Goto[未発表]、大谷・木下・後藤・小松・永野編[1999,2005]、読売新聞[1999]、建築ジャーナル編集部[2000]、日本大学文理学部『学叢』編集委員会[2000]、家の光編集部[2000]、川又[2001]などがある。また、同プロジェクトを主な題材とした口頭発表は、以下の通りである(主要なもの)。

・後藤範章「都市社会調査のマトリックスとインターフェイス」(日本都市社会学会第13回大会のテーマ部会「都市社会調査における質的方法と量的方法−優劣論争を超えるために−」での研究発表、1995年6月24日、山形大学)

・後藤範章「社会学研究と統計調査」(総務省統計局「平成7年度統計調査員確保対策事業指導者研修会」での講演、1995年7月20日、総務省統計局)

・後藤範章「JCのまちづくり運動への提言」(社団法人沼津青年会議所97年度理事セミナーでの講演、1996年11月6日、沼津キャッスルホテル)

・後藤範章「まなざしの結晶化と解釈の相互作用−ダイレクト・オブザベーションとフォトグラフィー−」(1996年度日本大学文理学部学術研究発表会・社会学部会での研究発表、1996年11月30日、日本大学文理学部)

・後藤範章「社会的リアリティへの感応力と想像力−集合的写真観察法の試み−」(関東社会学会1997年度第1回研究例会での研究発表、1997年12月6日、立教大学)

・後藤範章「<まなざし>の相互作用−不可視性の可視化と可知化、あるいは<見ること>を介しての社会学と民俗学との<対話>を求めて−」(現代伝承論研究会第8回例会での研究発表、1998年4月18日、國學院大學)

・後藤範章「ありふれた風景から<東京>と<東京人>を読み解く」(電通の顧客向け研修会での講演、2001年4月13日、電通本社)

・後藤範章「『集合的写真観察法』に基づく教育実践」(札幌学院大学社会情報学部第18回社会情報調査の方法に関する研究会「質的調査の教育実践」での講演、2004年3月15日、札幌学院大学)

(5)「せめぎ合いと紡ぎ合いのダイナミズム」は、私のゼミのスローガンでもある。異質多様な存在同士を互いを認め合った上で、とことん「せめぎ合う」ことで、化学反応が引き起こされ、良いもの/新しいものが「紡ぎ出されて」いくという信念、と説明しても良い。

 

【文献】

Baudrillard,J. 1997. L' Art de la Disparition(ジャン・ボードリヤール著、梅宮典子訳『消滅の技法』PARCO出版)

Becker,H.S. 1974. 'Photography and Sociology', in Studies in the Anthropology of Visual Communication, Vol.1, No.1

Benjamin,W. 1935-36. Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technisvhen

Reproduziierbarkeit(=1995.ヴァルター・ベンヤミン著、久保哲司訳「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』ちくま学芸文庫)

Brewer,J. & Hunter,A. 1989. Multimethod Research: A Synthesis of Styles. Sage

Carson,R.L. 1965. The Sense of Wonder(=1996.レイチェル・カーソン著、上遠恵子訳『センス・オブ・ワンダー』新潮社)

Denzin,N.K. 1970. The Research Act in Sociology: The Theoretical Introduction to Sociological Methods. Butterworths

Goto,N. 未発表論文. '''Collective Photographic Observation'' as a New Visual

Research Method'

後藤範章 1994.「日本都市社会学における『社会調査』の系譜と課題:日本都市社会学と社会調査−いかに自己認識し自己転回をはかるのか−」(『日本都市社会学会年報』第12号、日本都市社会学会)

後藤範章 1995.「都市社会学と社会調査方法論−都市的社会のリアリティを求めて−」(『社会学論叢』第123号、日本大学社会学会)

後藤範章 1996.「マルチメソッドとダイレクト・オブザベーション−リアリティへの感応力−」(『日本都市社会学会年報』第14号、日本都市社会学会)

後藤範章編 1997.「<まなざし>に込められた社会的意味の解読!−“写真で語る:「東京」の社会学”−」(『学叢』第59号、日本大学文理学部)

後藤範章 2000.「集合的写真観察法−都市社会調査の新地平−」(『社会学論叢』第137号、日本大学社会学会)

後藤範章 2002.「社会調査の研究と教育をめぐる近年の諸動向−英語圏(特に英国)と日本を中心として−」(『社会学論叢』第145号、日本大学社会学会)

家の光編集部 2000.「路上にいったいナニがある!?」(『家の光』第76巻第11号、社団法人家の光協会)

飯沢耕太郎 1996.『写真美術館へようこそ』講談社現代新書

Janesick,V.J. 2000. 'The Choreorraphy of Qualitative Research Design: Minuets, Improvisations and Crystallization', in Denzin, N.K. & Lincoln, Y.S.(eds.)

Handbook of Qualitative Research. 2nd ed. Sage

川又俊則 2001.「短大生による社会学の実践−写真観察法レポートの試み−」(『立教女学院短期大学紀要』第32号、立教女学院短期大学)

建築ジャーナル編集部 2000.「リアリティへの敏感さを手に入れろ!『都市社会学』という視点の可能性−−後藤範章氏に聞く」(『建築ジャーナル』No.960/2000年2月号、企業組合建築ジャーナル)

倉沢進 1987.「シンポジウム『都市社会学と生活史法』」(『日本都市社会学会年報』第5号、日本都市社会学会)

Loizos,P. 2000. 'Video, Film and Photographs as Research Documents'. in Bauer, M.W. & Gaskell,G.(eds.) Qualitative Researching with Text, Image and Sound: A Practical Handbook. Sage

Macdonald,K. 2001. 'Using Documents', in Gilbert,N.(ed.) Researching Social Life. 2nd ed. Sage

松平誠 1980.『祭の社会学』講談社現代新書

Merton,R.K. 1957. Social Theory and Social Structure. 2nd ed.(=1961.R.K.マートン著、森東吾ほか訳『社会理論と社会構造』みすず書房)

Mills,C.W. 1959. The Sociological Imagination(=1965.ライト・ミルズ著、鈴木広訳『社会学的想像力』紀伊国屋書店)

日本大学文理学部『学叢』編集委員会 2000.「研究室訪問/この人に聞く−−後藤範章先生」(『学叢』第65号、日本大学文理学部)

西村清和 1997.『視線の物語・写真の哲学』講談社選書メチエ

大谷信介・後藤範章 1996.「特集の言葉:都市社会調査のデータと方法」(『日本都市社会学会年報』第14号、日本都市社会学会)

大谷信介・木下栄二・後藤範章・小松洋・永野武編著 1999.『社会調査へのアプローチ−論理と方法−』ミネルヴァ書房

大谷信介・木下栄二・後藤範章・小松洋・永野武編著 2005.『社会調査へのアプローチ−論理と方法−[第2版]』ミネルヴァ書房

読売新聞 1999.「写真が語る『現代の風景』−生活の変化映し出す」(1999年1月29日付朝刊・生活面の記事)

 

(付記)本稿は、2002年12月に提出した原稿をベースに、2003年度の成果の一部を追加して(若干の加筆修正を施して)、2004年7月末に再提出したものである。

 

2005年1月5日の追記) 2004年秋に発表した作品の中に、本章3の(2)で扱った「丸の内」シリーズに加えられる作品があるので、以下に掲載しておきたい。但し、この作品は写真を4枚使った大作なので、紙幅の制約から作品タイトルと解説文のみとし、写真に関しては(注2)で紹介のウェブサイトでご覧いただきたい。

 

2004年度No.11作品 江戸の中心と東京の中心−東京駅をはさんで対峙する日本橋と丸の内−

 

JR東京駅を境にして、皇居の側に千代田区の丸の内・大手町、反対の東側に中央区の八重洲・京橋・日本橋がある。

「日本橋」は、駅前の八重洲通りの北側から順に3丁目、高島屋日本橋店のある2丁目、5年前まで東急日本橋店があり、現在は2004年4月オープンの「COREDO日本橋」の入る「日本橋1丁目ビルディング」(写真@=略)がある1丁目と続く。地名の由来である「日本橋」(写真A=略)や三越日本橋本店、その隣の2004年10月にオープンした三越日本橋本店新館は「日本橋室町」にあるが、勿論ここも「日本橋」だ。地元企業の協賛によって2004年3月から運行されている無料バス「メトロリンク日本橋」(写真B=略)は、ここを巡回している。

日本橋1丁目から日本橋を渡った所に、1904年に日本初の百貨店に生まれ変わった三越本店(前身は、1673年に伊勢松坂の商人で「三井家の家祖」三井高利が創業した呉服店「越後屋」)がある。三越に隣接している三井本館や中央三井信託銀行をはじめ、三井関連の建物が立ち並ぶ。2005年7月には、超高層の複合ビル「日本橋三井タワー」も竣工する。日本橋は、三越を含む三井グループ(旧三井財閥)の本拠地なのだ。

江戸時代に五街道の起点として定められた日本橋は、多くの商人や職人が集住し、「商業と町人文化の中心地」として栄えた。明治以降も東京と日本の商業・金融の中心地であり続けたが、高度成長期以降、新宿・渋谷・池袋などの繁華街が成長するのに伴って、地盤沈下が進んでいった。そして、これに追い打ちをかけたのが丸の内であった。

丸の内は、三菱グループ(旧三菱財閥)各社の本社ビルが圧倒的に多く、昔も今も歴然とした「三菱村」である。江戸時代は御城内に位置し、譜代大名や旗本の屋敷が立ち並ぶ一際格の高いエリアだった。土佐の下級武士出身の岩崎弥太郎によって築かれた三菱は、後に練兵場跡地となったここを明治政府から手に入れ、東京の「経済/ビジネスの中心地」に育て上げた。しかし、皇居の前に位置するため、建物の高さを制限し、商業集積も排除して「静謐な空気」を作り出してきた。その結果、丸の内はこれまで、土日には人影もまばらになる、三菱系大企業の業務機能に特化した一大オフィス街であったのだ。

だが、2002年9月の丸ビルのリニューアルを画期に、2004年9月にオープンした「丸の内オアゾ」や「丸の内MY PLAZA」など、オフィスの他にショップやレストランなどの商業施設が充実した超高層の複合ビルの建設ラッシュが続いている。丸の内は、平日も休日も人(客)を集める「商業の街」としても急成長を遂げ、隣接する日本橋にとって最強のライバルとなったのである。

同じ財閥でも商人を祖とする「三井」と、武士を祖とする「三菱」。江戸時代には「城下」一の繁華街であった日本橋と、「城内」に位置し幕府高官の屋敷地だった丸の内。町人層が中心となって江戸期から栄えた「商業の中心地」日本橋と、「政と皇の中心地」の眼前に位置し、明治の中頃から「ビジネスの中心地」として整備された丸の内。この明確に性格を異にする基本的な構図は、20世紀末頃まで頑なに維持されてきた。だが、丸の内の「変質」によって、両者の向かう方向には差がなくなってしまうのだろうか?

日本橋には、三越本店のような店舗別で日本一の売上高を誇る巨大な百貨店から、室一仲通り商店街(写真C=略)のように江戸期からの老舗も含む小さな商店まで、多様な店が軒を連ねている。400年という「町(まちうち)」に堆積する歴史の厚みが、丸の内とは随分と違う。土地の所有関係も複雑に入り組んでいるので、再開発にも時間と労力と費用と知恵が余計にかかるはずだ。丸の内が住む人のほとんどいない「街」だとすれば、日本橋には「町人のまち」の息づかいが今でも流れており、両者の地域性は依然として根本的に異なっている。

 

2005年8月10日の追記) “写真で語る:「東京」の社会学”プロジェクト開始12年目の2005年度、私たちは、これまでの蓄積を土台に新たな展開をはかる。本論文名をメインタイトルとする第1回“「東京」を観る、「東京」を読む。”展を、2005年11月22日(火)〜12月1日(木)の10日間、 日本大学文理学部百周年記念館にて開催する。詳細に関しては、「東京人」観察学会(後藤ゼミ)のWeb(註2)をご覧いただきたい。