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05.03
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ハッピーの様子も気になって落ち着かない毎日だが、そうそう病院に顔を見にいくわけにもいかないので、気分転換にシアトルで書くつもりだった原稿にとりかかったり、レンタルしてきたDVDなどを見る。この数日で見たのは、北村龍平のコミックの映画化「あずみ」、行定勲の「きょうのできごと」、若かりし頃の黒沢清のTV「もだえ苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵」と「よろこびの渦巻」、中島哲志の「下妻物語」。 「あずみ」は劇画調なのだが、その昔の三隅研次の「子連れ狼」などを思い出し、それなりに楽しめた。「きょうのできごと」は「ひまわり」などに通ずる青春群像もので、田中麗奈や妻夫木聡、柏原収史らの自然なふるまいがよかったが、座礁した鯨という設定がやや陳腐。行定という監督は、かなり同じような素材を使いまわすところがある。「ひまわり」も「世界の中心で、…」も、めいなCo.の曲を使っていたけど、これでも矢井田瞳のほかに、めいなCo.を取り上げていた。 黒沢清の2本は、大学映研から登場したすぐあとぐらいの時期で、ガキっぽいといえばガキっぽいけど、ゴダール的な映画好きということがよくわかるものでした。どちらも椎名誠の原作を映画化したものだけれど、「地獄の味噌蔵」は若い大杉漣が怪演しているし、「よろこびの渦巻」は知り合いの島田元くんが脚本を書き出演しているし、助監督が青山真治で、塩田明彦も出演、ナレーションは万田邦敏という豪華スタッフ。チープなんだけど、その奮闘ぶりが笑えます。「もだえ苦しむ活字中毒者」という言葉は、何だか身にしみる。 「下妻物語」は、初めて深田恭子がはまり役を得たという映画。土屋アンナのヤンキーぶりもいいし、ヒットしたのはわかります。アニメを取り入れたり、CF的な演出を入れたりするのはあまり好きではないのだけれど、石井克人の「茶の味」は感心しなかったぼくとしては、こちらの方が十分楽しめました。これもだいぶ以前の映画だが、東京郊外に位置しながら荒涼としてきている北関東を背景に描いた柳町光男の「さらば愛しき大地」などとはすっかり描き方が変ったなあと感慨にふける。 |
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05.01
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一昨日、アメリカに渡航する予定だったが、最後の最後でドタキャンになる。土曜日の夕方の便なので、午前中、ハッピーを医者につれていき、いつもの点滴と抗生剤の注射のほか、あまりに食べない時期がつづき、体重も落ちているからということで胃腸の薬も注射される。帰ってから荷物をまとめ、ペットシッターのチヨちゃんに留守中のことやハッピーの病状について電話し、あとお願いしますと切ったあと、ハッピーに「行ってきます」と伝えたら、どうも様子がおかしい。身体が小刻みにふるえている。次第にふるえが大きくなって、手足はおろか、毛並みまでがふるえ出している。ぐったりして横になり、目にも力がなくなっている。びっくりしてなでさすっていると、少し落ち着いたが、ふるえはなかなか収まらない。出発するかどうか、さんざん迷い、いったんは靴もはいたが、どうにも心配で出られない。成田エクスプレスに乗るぎりぎりの時間まで逡巡したあげく、キャンセルを決意した。 結局、最初にかかったお医者さんではなく、セカンドオピニオンとして紹介された荻窪の動物病院までつれていった。再度、血液検査などを行なった結果、腎臓機能の低下はやや改善されているものの、胃腸の潰瘍の可能性があり、消化器系の出血が見られること、体重もかなり落ちていることからはやく食事がとれるように24時間の点滴に入るため、通院ではなく、入院治療を受けた方がいいということになる。今後、レントゲンや超音波検査などをひととおり受ける。やはり、旅行をキャンセルして良かった。しかし、どうやらだいぶ前から慢性の腎炎になっていたらしく、それに気づかなかったのが失敗でした。ときどき食事をとったあと、食べたものをほとんど吐いてしまうことがあり、もともと小猫のときから吐き癖のある猫だったので、しょうがないなあと見過ごしていたのだけれど、あれがもう前兆だったらしい。入院して、こちらはホッとしたが、今後の治療もなかなかたいへんだ。ともあれ、信頼できるお医者さんが見つかったのでお任せるしかない。 キャンセルの件ふくめ、シアトルのカナイさんに病状を報告。あちらもかなり心配して、夜中、寝られなかったとか。 |
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04.25
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早稲田の授業前に動物病院に寄って、2度目の点滴を受けさせる。さすがに医者に行くことを察して、キャリーバッグのなかですがるような悲しい鳴声をあげる。点滴のあいだ動かないように押さえておかねばならず、それもハッピーが落ち込まないように軽く押さえて、針が抜けないようにしなければならない。つれもどってすぐに出勤。今日の素材は林芙美子の「晩菊」だ。猫と晩菊のギャップをあまり気にせずに乗り越えることにする。 帰りに安いハネデューメロンを買うが、ふだんは好物なのにハッピーは反応してくれない。しかたないから自分で食べる。美味しいのにね。ペットシッターをお願いしているチヨちゃんも心配して見舞いに来てくれる。ノドをゴロゴロならし、お腹を見せて寝るようになってきたので、身体の負担は薄れてきたようだが、食事のハードルはまだ超えてくれない。この日も自動車学校をキャンセル、参ったね。 |
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04.24
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午前中、下高井戸シネマのドキュメンタリー映画特集で、柳兼子をあつかった「兼子」を上映。そのあとのショートトークに出る。地味な内容だけにお客さんが入るかと心配したら、満席をとおりこして何と立ち見まで出る盛況でした。映画は声楽家として活躍した兼子に焦点をあてながら、職業人としても家庭人としても自立した生き方を紹介。柳宗悦とのコンビや植民地下のソウルでの演奏会や民芸館設立の過程などをたどっていました。知識人として終始した宗悦に対して、発声法や身のこなし、生き方として見事な独自性を貫いた兼子を称揚した映画でした。アルト歌手としての兼子の紹介もたっぷりあり、聞きごたえ、見ごたえがありました。終了後、かけつけてくれた亀田さんや、院OBの北澤くん、大塚さんとメキシカンタコスで昼食。 3時過ぎに帰宅して、シアトルのカナイさんにハッピーの病状を報告する。昨日の点滴が効いたのか、少し元気が出てきたような気がする。食事の器の前に来て、物欲しげな様子。ただし、どの食べ物も匂いをかぐだけで、口に運ばない。ようやく固形食を数粒かじったが、それで終了でした。でも、食べようとしただけマシかな。 |
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| 04.23 |
この日も自動車学校の予定だったが、キャンセル。ハッピーを動物病院につれていく。血液検査の結果、腎機能が低下しているという。人間もそうだけど、とりわけ猫には腎臓が重要なはず。それが低下して老廃物の代謝が出来ていない状態ではないかという診断。点滴の輸液でまず水分・栄養分を補給し、代謝の更新を行い、数値が安定したところで、代謝機能を促進する薬にしようという。しかも、この点滴は一日置きぐらいに必要だというのだ。大ショック。血管注射の点滴ではないので、10分たらずではあるけれど、背中の皮下注射を隔日に受けることになる。治療を終えて帰宅して、ハッピーも疲れた顔をしているが、こちらもどっと疲れる。
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04.22
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この日、自動車学校に行く予定だったが、キャンセルして、ハッピーの看病。とにかく元気回復してもらえないと、GWのアメリカ行きもむずかしくなってしまう。これまでの好物をひとそろい揃えてもダメ。根本的にこれは再診察の必要がありそうだ。 夜、下高井戸シネマのドキュメンタリー映画特集前夜祭。森康行監督の夜間学級の生徒と先生を描いた「こんばんは」を上映。長年、夜間学級の先生をしていた見城康昭先生と森監督のトークがある。院OBの加藤大くんも来たので、一緒に参加したあと、下高井戸市場内の「もちぶたラーメン」の店で軽い夕食。 |
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04.21
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この日は文理学部の教員懇親会。非常勤講師の先生をお招きしてのパーティだが、なにせ500人近い人数のパーティで、何が何だかわからないぐらい混雑しているのがいつものこと。そこで国文学科だけで二次会を用意するのだが、新学科主任の竹下さんから二次会の会場をとってほしいという、じきじきの依頼。まあ、お酒の飲めない竹下さんにやらせるのは気の毒なので、学校をやや早めに偵察に出る。毎年恒例のセンタービル地下のライオンがあいていればそこでと思っていたのが大間違い。新歓の時期だから混むシーズンだが、何とかなるのが恒例。ところが今日にかぎって、空きがないという。どうしようかと地下街に戻ったところで、田中さん、小平さんに会う。一次会の会場に向かう彼女たちに、とにかく一回りして探してみると伝え、西口の繁華街へ。だいぶ前に使った店をたよりに訪ね、そこから姉妹店等を探してもらい、ようやくゲット。30人分の予約を入れて、センチュリーハイアットへ。すでにパーティは佳境でしたが、あいかわらず騒然としたなか、30人強に場所を伝え、二次会へご案内する。みなさん、簡単にぼくは幹事体質だというのだけれど、サービス精神とともに時間とお金をかけて積み上げてきた経験(?)に支えられているのです。 役割終えて、11時過ぎに帰宅。ハッピーはまだ回復の兆なし。もう一度、医者に行くことを考える。 |
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04.19
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じつは、昨日、早稲田の授業の前にハッピーを近所の動物病院につれていった。週末から元気がなく、まったく食事をとらないし、日に何度も胃液を吐いている。これはいかんなと思って、つれていったところ、風邪をひいたという診断。抗生物質の注射をうち、解熱用の座薬を入れたりしてもらって帰ったのだが、今日も元気が戻らない。それに病院ででた飲み薬を絶対に飲もうとしない。おさえつけて飲ませようとしたら腕を引っ掛かれてしまった。血だらけの看病生活です。 | ||||||||||||||||||
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04.18
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早稲田で授業。石原さん、東郷さんを表敬訪問したあと、大隈通りの沖縄料理屋さんで昼食。そのあと図書館にこもって勉強。夕方から神楽坂の日本出版クラブで「田村泰次郎選集」の刊行をめぐって座談会。編集委員の尾西さん、女性史の米田さんと。「肉体の門」などでレッテルをはられてしまった田村の小説をこの数日間で、5巻分、読み通しました。なかなかどうして批評を加えるにしても魅力的な題材ではないでしょうか。「週刊読書人」5/20号に掲載予定だそうです。 | ||||||||||||||||||
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04.16
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阿佐ケ谷に買い出しに出る。北口のそば屋さんで辛み大根そばを食べたあと、オリーブオイルの専門店による。ここのオリーブオイル、はちみつ、アンチョビは絶品。毎朝つくるサラダのドレッシングはここので作っている。バルサミコ酢とオリーブオイルにハーブソルト、これに若干のはちみつを加え、トマト、キュウリ、レタスにかける。庭のイタリアンパセリをトッピングすれば、それだけで最高。そろそろミント類も育ってきた。デイルやチャービルも育てたいのだが、近所の花屋さんではまだ見かけない。練馬の渋谷園芸まで行かないとダメかな。 この日の晩は、残り物のニラを使うべく、もやしとニンジン、セロリに豚ひき肉をあわせて、簡単な炒め物をつくる。ウドも残っているので、わけぎとホタルイカをあわせる。銀ダラも用意したが、もう量が多いので後日にまわすことにする。 |
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04.15
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午前中、自動車学校で技能実習のつづき。今度は右折・左折や交差点の曲がり方などだが、あれこれ注意を受ける。1時間目は慣れないので、2時間目は何とかと思ったら、もっと注意されてしまう。あれあれ? この辺がよく聞かされた自動車学校の指導員の鬼たるゆえんかなと思うが、よーく考えてみると、そもそも怒られたりすることが最初から教育システムに組み込まれているのではないかと思われるフシがある。だいたい1時間で覚える情報量が多すぎる。学科教習に比較しても多い。たとえば最初に自動車の内輪と外輪の差を説明し、右折と左折の違い、停止線のどこで止めるか、左折の場合の縁石への距離や右折の場合の中央線への距離、曲がり方と運転席の位置など、いっぺんに覚えることのできないほどの情報量を与えたうえで、さあ、実践と来る。間違えると、「さっき言ったでしょ」のくりかえし。ふむ、そりゃ、聞きましたさ。でも聞くのと、覚えて実行するのとは大違いなのです。 もうひとつ感じたのは、時間ごとに指導員が違うと、微妙に指導のポイントにずれが生じていること。おそらくマニュアルがあって、それに基づいているから違いはないはずなのだろうけど、圧倒的に多い情報が伝えられているため、アクセントの置き方でまるで違う。今回だと、周回コースではアクセル踏んでいいが、中に入ったらアクセル踏むなと怒られた。ところが、次の時間では、同じコース内の道路でなんでアクセル踏まないかと怒られる。まあ、TPOに応じて違うのだと言えば言えるのだが、そのくわしい文脈の説明がないから、聞く方からすると、前の時間に聞いたことのうち、いくつかはチャラにしておかないといけないと知ることになる。これも検定を受ける際にはどんな指導員なのか分からないのだから、どんなふうにも対応できるよう、矛盾したこと言われても焦らないようにするという訓練と思えば、納得できるが、それにしても奇異であることはたしか。それぞれの指導員はきちんと教育的なのだが、この場合はこうという個別具体的な文脈説明を省いているので、理解不能のところが出てくる。こうしたことを言葉ではないかたちでつかむプロセスが必要のようだ。 結局、基本の動きがまだ不安定です、このままだと先に行って苦労しますという黒い予言を託される。しかし、予習復習のしにくい自動車教習の場合はどうすればいいのかな。学科教習10時間のうち6時間まで受けているので、それを先行させつつ、技能講座という任意の講座も受けてみるようにしようとけなげに決意する。 気分を換えてリフレッシュ。帰りにスーパーで牛肉を買い、今夜は牛肉のニラ焼き。牛の切落し肉にニラとネギ、卵と小麦粉、ごま油を混ぜて、一口大に焼く。これに醤油と辣油をつけて食す。ウドも酢みそ和えにし、サラダをつける。満腹になったあと、丸座布団でハンドル操作の練習! |
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04.14
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木曜日は会議日なのだが、今年は学科主任を交代したので、授業を入れることにしたところ、1限と3限に入れられた。だいたい2限の時間帯に、研究室会議があり、4限から教授会が入るので、この日は、授業、研究室会議、昼休み、授業、教授会と、昼休み以外は空き時間のない状態に追いやられる。こうなると教授会をいかに過ごすかが大事なことになりそう。それにこのあと大学に行くことがないので、月曜日の早稲田の授業で資料が要るときは、この曜日に作っておかなければならない。まず1週間のリズムを身に付けるようにしなくては。 | ||||||||||||||||||
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04.13
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午前中、大学院の初授業。20人以上の受講生になり、部屋の椅子も足りないぐらい。今年はいろいろ面白そうな新入生も多いので楽しみです。 午後、卒論指導とゼミ。ここに書いている自動車学校の件がさかんに話題になる。19歳や20歳でとったという学生に対して、負けるものかという意地が出てくる。ああ、また意地だけで無理をしそうな予感。自然体、自然体と自分に言い聞かせる。 |
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04.12
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午前中、自動車学校で技能教習。いよいよ実車だが、びっくりするのは最初からすぐに運転させるんですね。ひととおりの説明が終ると、もう助手席から運転席に交代して、発進と停止をやらせる。ついで所内の周回コースを走らせる。頭では理解しているつもりが、なかなか目と手と足がばらばらになる。そりゃそうだよね、初めてなんだから。でも、教習の指導員は容赦しない。ハンドル操作に「ふらつき」があると言う。うーん。2時間目では少し慣れて、強制ブレーキを踏まれる回数が減る。ぐるぐる周回コースをまわるだけだけれど、だんだんハンドルの動かし方がわかってくる。1時間目はふらついたけど、2時間目は大丈夫だったかな。でも、その油断が危なそうだ。1時間ごとに新しい内容が増えるのだが、果たして覚え切れるかどうか。午後、大学でいくつか書類作成をしたあと、授業。そして会議。 | ||||||||||||||||||
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04.11
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早稲田の教育学部で一回目の授業。カナイさんがいないため、一コマ、出講することになったもの。文理のゼミと同様に、林芙美子をテーマにすることにしたが、こちらは「浮雲」など戦後のものをあつかう予定。早稲田は図書館を利用できるのが最大の長所。キャンパスは次々に立て替えが進んで、新旧混在が著しい。総長は数年後にさらに大きな学部再編を構想しているらしく、動きが烈しそうだ。 | ||||||||||||||||||
| 04.10 | 風がつよい一日。これで桜はピーク終わりだなと思い、原稿書きかけのまま、ふらふらと桜見物へ。とはいえ昼食を兼ねて、近所の妙法寺近辺へ。さすがに満開のときに強風で、桜の花片がおびただしく舞っている。環七へ出て、ぐるりと散歩。眞法寺の壁ぞいに花片が桜色の雪のようにつもっている。それを父親につれられた女の子が手ですくっては宙に撒いていた。遠目に見ただけなのだけれど、風といい、光といい、キレイな情景でした。 スーパーマーケットで夕食の買い物をしたあと帰宅。原稿をしあげてメールで送る。今日の夕食は、サーモンの刺身をマリネにして、サラダとトッピング。それに春キャベツと豚肉の味噌炒め。ワラビが出ていたので、これもあく抜きして酢みそ和えにしてみました。ちょっと食べ過ぎの気分。 今日はずいぶんあいた日誌もうめたので文字を書きすぎだ。教習所日誌もいよいよ佳境になっていくのでしょうか。 |
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04.09
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いよいよ自動車学校で初の技能実習。初回は車の運転席をまねてつくった模擬実習用の機械で。お相撲さんが同じ時間に受けていて、かれのちょんまげやなかなか二枚目の顔が気になる。あとは若いお嬢さんが2人。画面にうつるビデオに合わせながら、運転席の機器類を覚え、使い方をマスターする。ブレーキを踏んで、はい、まずうしろを確認。ついでハンドブレーキの確認。はい、ギアチェンジがパーキングになっているかどうかを目でチェック。キイを動かしてエンジンを入れる。ウィンカーをつけて、ふたたびうしろを確認。ハンドブレーキ解除。ギアをドライブに変える。ブレーキをゆるめて発進です。いやはや、この順番を体で覚えなきゃいけない。とにもかくにも、ハンドブレーキとブレーキがすべてですね。 | ||||||||||||||||||
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04.08
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入学式・開講式だが、セレモニーだけなのでサボらしてもらい、自宅で授業の準備と原稿書き。14時に早稲田でひとつ打合せ会議があり、そのあと文理に向かう。さらに書類を1つ2つ書いて、打合せをすませたあと、卒業生たちの集まりに出る。8年前に卒業した伊藤さんや吉瀬くん、古森さん、武山さん、平山さんらと飲む。それぞれの学生時代の秘話や逸話が飛び出し、はやくも11時過ぎに。明日の技能教習に酒気帯びでは行けないからと言って、渋谷で夜明かしというみなさんと別れ、帰宅。連日遅いので、猫たちが不満を言いに来る。すみませんと餌をたっぷりあげる。 | ||||||||||||||||||
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04.07
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午前中から研究室会議。13時からは1年生のオリエンテーション。クラスで自己紹介をさせる。いろんな学生たちがそれぞれに自己紹介をしたが、一時期よりもいろんなことを話すようになったような気がする。その後、文理国文独自の日本語日本文学基礎教養テストを実施。1時間ほど試験をさせて、語学、古典、近代のそれぞれで解説を行なう。また試験かあとあきらめ気分の学生、すっかり寝入っている学生などもいるが、解説ではテンションをあげて、みんなの緊張を高めるようにもっていく。 夕方から学術フロンティアの日文チームの打合せ会議。さらにその後、もう1つ学科の小委員会をすませて、夕食。新学科主任の竹下さんが歓送迎会でいけなかったイタリア料理の「トニーノ」に行きたいというので、新旧主任の打合せも兼ねて出かける。ピッツァを数枚食べたあと、金子さん、小平さん、森井さんが「快海亭」にいるというので合流。自動車学校での話をしたりすると、金子さんがこれからがたいへんだという。小平さんがそう言って脅せば脅すほど、紅野さんは調子に乗って挑戦するから無視した方がいいんですとおっしゃる。いやはや適確。癪だとか、意地だとかでやっている気がいつもしていましたが、そうだったのか。 |
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04.05
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午前中、自動車学校の学科教習2コマ。朝からだと、自宅近くの送迎バスでは時間があわないので、荻窪まで出かけて、べつの送迎バスに乗り込む。この日の先生は、まず用語の特殊性に慣れるよう教えてくれました。たとえば、「ここに若葉マークがあるが、これは車の免許をとって1年以内のあいだ、車の前と後ろにつけていなければいけない。はい、この文章は○か×か。」という質問。机にある○×?の3つのボタンで回答する。当然、いいんじゃないのと思って、○を押したら、正解は×。なんで?と思うと、車という言い方ではダメなんだそうな。車の免許とふつうに言えば、普通自動車の運転免許を指すと日常的には理解されているが、法律用語では、車は普通自動車ばかりとかぎらない。自転車などの軽車両やトロリーバスもふくむので、あくまでも普通自動車という言葉であるかどうかを注意しなければならないという。なるほど〜。 こんな引っかけのような質問と回答をくりかえしながら、運転免許をとるまでのあいだ覚えなければならない用語法を認識させ、日常会話の用語と異なることを意識させていました。たしかに用語体系の違いに気づかないと、試験のときにどんどん引っ掛かってしまいますね。 こんな質問もありました。はみ出し追い越し禁止の標示や進路変更禁止の標示を教本でさらりと示したあと、黒板に黄色い線をひいて、これは何だとたずねる。はみ禁なら○、進路変更禁止なら×、わからければ?を押してください。ほんとにわからなかったので、?を押したら、それが正解だという。どうしてでしょうと質問され、答えを見つけられずにいたら、ほかの生徒が、その黄色い線だけでは道路の中央線か、境界線かわからないからと答えてました。うわー、すごい。そうか。同じ黄色の線でも、上り下りをわける中央線もあれば、上り下りどちらかの車道のなかに引かれている境界線の場合もある。境界線はふつうは白い線が引かれているけれど、黄色ならば、進路変更を禁止になるというわけ。もう、ふーんの連続。 こんな調子で、歩行者の保護や安全確認と合図、追い越しなどについて3時限ほど習いました。たくさんメモをとったり、マーカーをつけたりしました、ちゃんと覚えているかなあ。記憶力の低下を如実に感じています。 |
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04.04
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夕方から自動車学校の入校式。10名ほどの少人数で、この時期はすいているのだそうな。あらわれた先生いわく、7月ぐらいから混み始めて、9月から2月までは、一月で300人ぐらいの入学生があったこともあるとか。300人入って、ひとり30万近い授業料が入るわけかと、妙なところで胸算用をしてしまう。受験生の人数を気にする大学教員くさい反応に自分でいやになる。授業の受け方について諸注意がある。携帯は電源を切ること。授業中の睡眠もダメ。一歩でも教室の外へ出ると、その時間は受講せずとなるという。公安委員会の指定であり、運転免許は国家が認定するのだから仕方ないと思ってくださいとのお話。そうか、ここにも国家が出てくるんだ。先生は若い20歳前後の大学生が90%だとみて、大学の教室と同じように思ってはいけませんとのたまう。ときどき大学教授もこの学校に習いに来るが、みなさん、こういうふうに大学でも授業が出来るといいんだがと言ってます。したがって、ここを大学と同じように考えてはいけません、とな。はい、大学とは同じに考えていませんてば。 2時限目は、適性検査。心理テストも入っているらしく、問題用紙の表紙の監修者のなかに、『頭の体操』の多湖輝先生や詫摩武俊先生のお名前などを見たように記憶する。ロールシャッハ・テストみたいなのをさかんにやり、これは熊に見えるか、子供が踊っているすがたに見えるかなどの、しょーもない質問に応えていく。ただし、アルファベットのAを大小たくさん書いていくといった制限時間ありの課題には妙に必死になる。お隣の席の若い子に負けてられない。そんな意地だけでやっていていいのだろうか。この結果は、仮免取得前に教えてくれるとか。どんな結果なのでしょう。 3時限目は、学科教習の1回目。こちらはビデオを見ながら、安全運転の基本や交通ルールについて分かりやすい説明を受ける。どうも先生は、若い子にまじって受けているオッサンが気になるらしく、ときとしてこちらに向かうように話してくれる。おいてけぼりになりそうな気配が漂っているのでしょうか。先生の気遣いを見るにつけ、社会人聴講生の気分がちょっと分かるようになりました。この日は、3時間も授業を受けて、ああ、くたびれた。帰宅は、もう8時半をまわっていたので、近所の高味園で食事にする。 |
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04.02
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新入生ガイダンスおよび大学院ガイダンスの初日。今年はひさしぶりに1年生の担任なので、副担任の副手さんや学生委員のひとたちと一緒に、新入生に相対する。向こうも新たな集団に入るので緊張しているのがわかる。たっぷりの資料を配布し、写真撮影などを行なう。午後は院生たちとも対面。近代の院生がだいぶふえた模様。 夜は国文学科の歓送迎会。今年から荻野綱男さん、鈴木功眞さんが専任教員に加わった。荻野さんは都立大学からのトラバーユで、言語学・日本語学では知られた存在。コンピュータにもくわしくて、国文のIT能力も一気に上昇しそうです。鈴木さんは中世古辞書の専門家で、新村出賞の研究奨励金を受けたりしたことのある若手。日本語学が大幅に戦力アップで、にぎやかになりそうです。さらに助手の千葉さん、副手の小峯さんが加わり、桜入水のフランス料理屋「陽樹」の夜は更けていきました。 授業時間割もようやく出たので、メニューバーのLectureのところにあげておきました。今年は学科主任から解放されたので、久しぶりに3日の勤務。火曜、水曜、木曜が出校日となります。 |
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04.01
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この日、某自動車学校に通うことを決定。この間、じつはあちこちの教習所の資料を取り寄せて、比較検討していたのだけれど、ついに一校に絞り込む。ここは自宅のそばから無料送迎バスが出ているうえでに、さらに教習所から大学の近くまで、またべつの無料送迎バスが出ているのです。何とお徳用な。結局、教習所はしょっちゅう通えるようなところじゃないと行けなくなるので、住居と職場のあいだにあるのが一番。とはいえ、この日はまず偵察のつもりでした。その送迎バスに乗って出かけてみると、ふむふむ、何だかバスの発着センターのような雰囲気。事務所の受付で説明を聞くはずが、どんどん入学の方に話がもっていかれてしまう。説明してくれた女性事務員さんは花粉症らしく、苦しそうに説明してくれるので、何だか、また考えて出直しますというのも言いにくい。さんざんまわりから脅されたので慎重に考えすぎたかなと思い、よーしと腹を決めて、入校手続きをしてしまう。所内の実習車の運転手さんたちを見ると、花粉症のひとが多いらしく、マスクマンがいっぱい。ふーむ、このひとたちから鍛えられるのかとじっくり見渡しておいた。 | ||||||||||||||||||
| 03.30 | 工事もぶじ終了。動物病院から2匹を連れ帰る。オシッコちびりのQ太郎はそれでもちゃんとご飯を食べたのに、もう人間でいえば中年猫のハッピーはご飯をあまり食べなかったそうな。帰宅後、いつものご飯にありついている。べつに高価なメシじゃないんだけどなあ。 | ||||||||||||||||||
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03.28
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朝7時起きして、空をみあげ、「おおっ、雨」と嘆く。今日から家のなかに工事の業者さんが入るので、猫たちをあずけなければならないのだ。2匹いるから、雨が降ったら、一度につれていくことができない。結局、それぞれキャリーバッグに入れて、ミャアミャア泣くのを近所の動物病院まで2往復してとどけることになる。ワクチンの注射を打たれる2匹に「3日間、がまんしなさい」と言い聞かせるのだが、Q太郎はもうオシッコをちびっている。情けないやつだ。 午後、大学で新年度のガイダンス打合せ会。これも毎年恒例のことなんだけど、どうしてもっと分かりやすくシンプルな資料集に出来ないのだろうかと、またまた今年も首をかしげてしまう。4時まで作業をして、直行で高円寺へ。業者さんと家の鍵の引渡しをして、ふたたび新宿へ。タイ料理の店で金子さん、小平さんたちと会食。辛い料理は苦手という金子さんに配慮して、比較的、辛さをおさえたお店でした。香菜やナンプラーの匂いをたっぷり堪能。ただ、タイ料理店はどこもそうだけど、飲み物にバラエティがないのが玉に瑕。シンハー・ビールを飲んだあと、結局、チリワイン。それも一種類しかない。よく冷えた赤ワインで、常温じゃないとなんか味がわからんねなどと言いながら、数本ボトルを空けてしまう。わが日大国文チームは、食べることと飲むことにはほんと貪欲だね。 |
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03.27
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明日からの給水管工事のための準備。蛇口のある台所や洗面所の棚のなかをぜんぶ空っぽにしなければならないのです。大掃除の気分で、あちこち整理整頓。猫たちはいや〜な気配を感じたらしく、どうしたの?と不思議顔してました。 夕方にシアトルのカナイさんから電話。ドイツ、フランスと回って、ワシントン経由でシアトルに飛ぶはずが、大西洋横断の便が遅れ、トランジットがうまく行かなかったそうな。1日遅れでシアトルのTed Mackさん夫婦に迎えに来てもらったらしい。ドイツで竹内敏晴さんと一緒のワークショップも無事終えて、パリではセシル・サカイさんと再会。長旅にもかかわらず、元気そうでした。 |
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03.26
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さすがにヘトヘト。夕方まで家でごろごろしたあと、買い物に出る。でも、思ったより二日酔もないし、さわやか〜。やはり学科主任の業務から解放されると思うと、違うね。 | ||||||||||||||||||
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03.25
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卒業式の日。学生たちは、いつも武道館である卒業式のあと、文理キャンパスまで戻って学位記伝達式を行なう。当初、4号館の教室で行なう予定だったのだが、車椅子で参加する学生がいるので、バリアフリーの図書館オーバルホールに変更。かえって、その方がセレモニーらしくなりました。前日から会場設営に追われ、学科主任みずから卒業生に配布する資料を事前に座席に運んだりしました。ひとりひとりに学位記を渡すので、132回、名前を呼び上げ、「以下、同文です。おめでとうございます」をくりかえす。そんなに回数をくりかえすと、しまいに「以下、同文」という言葉が何かへんなような気がしてくるから不思議、ちょっと言い換えようかと思ったけれど、一応、厳粛なセレモニーなので遠慮。ひととおり受け渡しが終わり、学部長賞やら優等賞の授与も終ったところで、祝辞となりました。感じのいいホールでのセレモニーなので、ちょっと気分よく長めのスピーチ。途中で、なぜかどこかの教室の無線マイクを拾ってしまったのか、急にべつな音声がかぶるという一瞬がありましたが、ここは笑いで切り抜け、この大学で4年間学んだことの仕上げでまとめました。 研究室にやって来たゼミの学生たちと2時間ぐらい語らい、彼らが引揚げたあと、修士課程を終えた加藤くんが来訪。ここで缶ビールを飲み始め、それに中谷さんが加わり、もう6時だというので、副手さんふくめ「爺」に繰り出したのはいいのですが、やがてゼミ学生との宴会を切り上げた金子さんが加わって、一気にヒートアップ。結局、気づいたら、12時まわって電車のなくなったひとたちが、久しぶりに「オール」で行くかと言う。それならばと高円寺までタクシーを飛ばし、2時過ぎまでバーで飲んだあと、わが家の猫たちの顔を見ていっておくれとご招待。朝6時までのトークショーとなったのでした。しかし、実際には、どうやらカナイさんが不在のおり、みなさん、ぼくのことを心配してくれていたみたいです。いやはや、心配がオールナイトの飲みになるとは、健康なんだか、不健康なんだか、よく分からないですね。 |
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03.23
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1ヶ月後の4月23日から下高井戸シネマで、毎年恒例、ドキュメンタリー映画特集があります。今年のテーマは「生命のかたち 風のいろ」。森康行監督の夜間中学を描いた「こんばんは」上映を前夜祭にして、台湾の呉乙峰の「生命 希望の贈り物」や佐藤真の「阿賀の記憶」、キム・ドウォンの「送還日記」、渋谷昶子の「兼子」、澄川嘉彦の「タイマグラばあちゃん」、金井勝の「時が乱吹く」など10作品がならぶ。上映プログラムはこちらの下高井戸シネマへ。モーニングショーとレイトショーのスケジュール表に出ています。ぼくも24日の「兼子」上映後にトークをする予定。前夜祭2000円、1回券1000 円で、チケットをあずかっています。 | ||||||||||||||||||
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03.21
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大学院OBの瀬戸さん、大崎くん、北澤くん、大塚さんと新宿で飲む。瀬戸さんはwriter兼editorとして、大崎くんはHPのシスアド、北澤くんは文具業界のフリーペーパーの編集者、大塚さんは文理の非常勤と、それぞれに活躍中。 | ||||||||||||||||||
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03.17
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03.16
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ようやく春めいたお天気。カナイさんが欧米留学に出発。ひと一人入りそうな大きなスーツケースを持って新宿駅まで見送る。階段を持ち上げるのでひと苦労。カナイさんは昨夜、渡航前日なのに大学で仕事があったとか言って7時過ぎに帰宅。もう12時まわってから、ドイツに一緒に行ってもらうミヤシタさんと成田エクスプレスで合流するはずが、彼女のメールにあった横浜での乗車時間と、自分の新宿での乗車時間が違うことに気づいたと言って大騒ぎ。成田エクスプレスの時刻表をネットで確認してごらんと言ったのに、なかなか時刻表を探し当てられず、さかんに焦っている。呆れて調べてみたら、横浜発の列車と大宮発、新宿経由の列車が東京駅で合体して成田に向かうだけのことでした。それで小一時間さんざんうろたえり、怒ったりしたあと、昨夜5時までごそごそ準備をしていました。大丈夫なんでしょうかねぇ、こんなことで。
この日は、4年の卒業パーティもありました。小田急サザンタワーのレストランが会場。新宿の夜景を楽しみながら、たっぷり2時間。4年生たちと名残りを惜しみました。幹事たちがよく頑張りましたが、さらに加えて金子さんが教員側幹事として大活躍。14のゼミで幹事に撮影させた授業風景などのビデオ映像を編集して、各ゼミ2分程度の紹介ビデオを作成。パーティでの披露となりました。この熱の入れ方、ちょっと論文に向けた方がいいんじゃないというまなざしを浴びながらも、ビデオ編集に打ち込んだ金子さん。さすがにサバティカル目前だとサービスに励む、励む。あげく紅野ゼミ、金子ゼミ合同での二次会となりました。
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03.15
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二ヶ月ほど日本に滞在していたTed Mackさんが訪ねてきてくれて、下高井戸の「虫の巣」というパスタ屋で昼食を一緒にとる。神戸大学での滞在や今後の研究計画についてあれこれ楽しい雑談をする。夕方から、学部の担当会。 | ||||||||||||||||||
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03.14
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午前中、文理学部で書類作成など。3時から市ケ谷の本部で図書館長会議。4時に終了したのですぐに新宿へ出る。あいだ時間が2時間半ほどあったので、映画館に飛び込む。上映していたのは「ローレライ」。役所広司や妻夫木聡らが出演している、日本ではめずらしい潜水艦ものだが、中身はまったくの漫画で、CGを駆使しっ放しなのだけれど、さすが「ガメラ」映画の監督、それなりに見せるB級娯楽になってました。ただ、ナチスの人種改良で超能力をもった少女がすごい優秀なソナーの役割をするというのはいかにも首をかしげるような話。それにしてもよく分からないのは、堤真一や石黒賢の役柄。とりわけ石黒賢にいたっては、漫画そのものの演技なので、あんまり深刻に見てはいけません。柳葉敏郎や国村隼、小野武彦がなかなか良かったけれど、でも、このメンバーって「踊る大捜査線」のひとたち。どうもTV的に見えてしまうのはこちらのせいでしょうか。 | ||||||||||||||||||
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03.09
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また、更新まであいだがあいてしまいました。2〜3月は少しは暇になるかと思いきや、まったくそうではないんですね。このところ平日はすべて出勤です。 ところで、この日は誕生日。助手・副手さんたちがケーキを買ってお祝いをしてくれました。昨日はお花も届けてくれる方があったし、ほんとありがとうございます。いくつになっても誕生日は誕生日ですね。 |
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02.20
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朝から朴さんが車を運転してくれて、ソウル市内ツアー。まず安重根記念館に行く。朴正熙体制のときの建築様式らしいが、それ自体がいかにも事大主義的なナショナリズムの記念物となっている。安重根自身の紹介では、この間、日本のテロが失敗した例ばかり見ていたので、暗殺に成功しただけでもたいしたもんだと感じ入る。地方の知識人として事業を起こしたり、十分に社会性をもった人物だったことを知る。その後、南山タワーにのぼる。この展望台からソウル市街を一望。平坦な東京などとちがって、大きな漢江を中心にした平地に山が入り込み、それらの山間に街が発展したありさまが手に取るようにわかる。やはり地形の把握というのは、視覚的に大事ですね。これでソウルの原型的なイメージマップが出来たように思う。お昼には焼き肉を堪能。まだ風邪がぬけないのだけれど、食欲だけは回復してきた。 ここで朴さんとわかれ、金浦空港へ。国内線利用の高さんともわかれ、一路、羽田へ。体調最悪のツアーでしたが、朴さん、高さんのおかげで何とか無事に乗り切れました。 |
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02.19
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前日よりは声が出るようになる。高麗大学校の会場に行き、コンピュータなどの準備。朴さんが順番を変わってくれたので、発表は午後になる。VIP用食堂で昼食をとったあと、「『大衆文学』の成立?『大菩薩峠』の出版・受容史」について発表。このパネルが終わったあと、朴さん、高さんとソウル市の歴史博物館に出かける。両班の暮らした旧市街などをまわったあと、伝統的な韓定食のレストランで夕食。叙さんや渡辺さんから電話があり、食後、繁華街の喫茶店で合流。ようやく調子がもどりつつあるも、アルコールを一切口にせず。10時過ぎにはホテルに帰り、熟睡。 | ||||||||||||||||||
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02.18
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ソウルでの韓国日本学会に出発。朝から体調がすぐれなかったが、羽田空港にたどりつくまでで青息吐息。うーん、これは大丈夫かなと危ぶんだが、自分なりに調子をチェックして、倒れるまではいかないだろうとふんで搭乗。金浦空港までは2時間強だから、ほんのわずかだ。空港についてから、先発隊の高さんの迎えを受ける。ただ、依然、のどが焼けるように痛いので、午後のスケジュールをとりやめ、ホテルで休息することにする。ミョンドンのホテルに入って、すぐに手足をお湯で温めた後ベッドにもぐりこむ。たっぷり3時間睡眠をとったのち、夕方の学会レセプションに出る。朴裕河さん、崔官さんに再会、金春美さんに紹介される。事務局で世話になった渡辺直紀さんとも知り合う。風邪をこじらせたと聞いて、朴さんが参鶏湯の店につれていってくれる。この参鶏湯が効いた。 | ||||||||||||||||||
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02.17
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社系入試の日。社系学科の受験者数は増加。社会学科、教育学科などのきなみ伸びていて、これもいささか不思議。ともあれ文系減少分が相殺されたのはかろうじてよかったかもしれない。 のどの具合が悪く、風邪気味の気配。用心するが、試験監督だけは避けられない。空気の悪い教室でがまんしつづける。 |
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02.15
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文系入試の日。今年は国文学科はじめ、文系学科がのきなみ受験者減。この数年の減少傾向からさらにがくんと拍車がかかった感じ。やはり、小手先の入試改革では行き詰まってきているように思う。そう思って担当会にのぞんだから、この間の入試管理委員会の議論がふいになってしまうような話の展開。いったいどうなっているんだろう。 | ||||||||||||||||||
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02.12
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人文研の共同研究会。今回のテーマは「ハルビン」。ウッドロー・ウィルソン・センターの研究員のDavid Wolfさんと都立大学の中嶋毅さんの発表。土屋さんの司会のもと、植民都市ハルビンの錯綜した歴史と成立過程、民族的混成について報告を聞く。 | ||||||||||||||||||
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02.09
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卒論口述試問。9人のゼミ生と次々面談するが、途中で涙ぐむものも! いやあ、最後はやっぱり痛みも覚えておいてもらわないと。つづいて修論口述、博士課程退学者の面談とつづき、4時から判定会議。130名近い卒業予定者の卒論の成績を一気に決めていく。 6時半から「たつみ」でゼミコンパ。3年生がかなりインフルエンザで討ち死にした模様。それでも幹事たちが4年生への記念品を用意していたりして、4年は感激。卒業できなかった4年生も「やっぱり来てよかったぁ」と。そうですよ。留年するにしても、堂々と留年しなくっちゃ。 |
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02.04
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筑摩書房の国語教科書編集スタッフによる新年会。昨年一年間、改訂版の編集に関与し、これもようやく打ち上げ。日比谷松本楼での一次会のあと、数人で新橋のカラオケスナックへ。そのむかし小林順さんという編集者が好きで、よく出かけたお店。熊沢編集長もおなじみらしく、ついたらそこだった。清水良典さん、浜田雄介さん、吉田光さんらの歌声を聞く。 | ||||||||||||||||||
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01.30
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八木書店で「徳田秋聲全集」別巻のための編集委員座談会をひらく。最初の巻の刊行からもう8年。40数巻におよぶ全集のしめくくりだ。宗像さんと一緒に参加してきたが、この作業の中で全集編集の初等教育を受けてきたような思いがする。 | ||||||||||||||||||
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01.29
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朝から「近代東アジアにおける検閲・出版・文学」というシンポジウムに参加。ぼくがコメントする第三部は、韓基亨さん、河原功さんの発表。日帝時代の朝鮮半島、台湾における検閲の実態に迫るそれぞれの発表を聞きながら、それまでの第一部・第二部の議論をふまえて植民地的主体の錯綜に言及する。戦前の日本では、「内地」でも同じように検閲が行われたわけだが、その方法論や法律の適用法において植民地と地域差があった。それらをかいくぐりながら、植民地知識人がどのように自分たちの表現にかたちを与えようとしたか。近代化と反植民地主義の葛藤がさまざまなテクストを通して浮上してきた。懇親会では、韓萬洙さんと話を交わす。 | ||||||||||||||||||
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01.23
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東大の東洋文化研究所で開かれる来週末のシンポジウムの発表原稿を読む。東大の東文研と韓国の成均館大学東アジア研究院の共同で「近代東アジアにおける検閲・出版・文学」というシンポジウムが、1月29日に開催される。そのパネルの1つで、コメンテーターの役割を与えられたのだが、あまり専門でないのでよくわからない。たぶん「出版・文学」というところで呼ばれたのだろうけれど、台湾や韓国の日本統治期の検閲についてにわか勉強する。さて、うまく出来るだろうか。 2月の中旬には、ソウルの高麗大学校で開かれる韓国日本学会でも発表させられることになっている。こちらは「日本学の前近代・近代・脱近代」というテーマで、20人近い方がいくつかのパネルを組む。ぼくは「『大衆文学』の成立ー『大菩薩峠』の出版・受容史」という持ちネタで臨むのだが、おそらく『大菩薩峠』を完読している人はそう多くないだろうから、わかりやすくしないとまずいでしょうね。この数年、追いかけているテーマなので、何とか読んでない人にもおもしろく聞いてもらえるように準備することにした。 |
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01.22
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午後、人文研の共同研究による研究会。大澤正道さんに初めてお会いする。司会の山口さんも言っていたけれど、高校生や大学生のころ、大澤さんの訳でバクーニンの本を読んだり、大杉栄の存在を知ったりしたものだった。『遊戯と労働の弁証法』などは、紀伊國屋書店で復刊されたけど、あれなど早い時期に「遊戯」の存在論を説いた本だったのではないか。いま見ると、75年の本で、ハーバート・リードの『アナキズムの哲学』で「遊戯」の評価がされていると書かれている。アナキズムと遊びという命題もおもしろそうだ。 その大澤さんと亀田博さんに『日本アナキズム運動人名事典』の背景や編集意図などについて話をうかがう。亀田さんは資料が10数枚。参加者は全部で20名ほど。この事典の最初の書評者である井家上隆幸さんや編集委員の川口秀彦さん、ドキュメンタリー映画の会の飯田光代さんもみえる。学内からは曾根さんも登場。若かりし頃の曾根さんは大杉栄に興味を持っていて、40年前、大澤さんたちがやっていた研究会に出たことがあったのだという。出席者からは当然ながら、事典にあれこれ注文がつけられる。事典は、編集中も刊行後もつねに批判にさらされるものだが、さすがに平凡社で事典編集が長かった大澤さん、少しも動ぜず、悠揚迫らず対応しているのに感心(失礼!)する。なるほど、こういう人を中心にしないと完成できないものだ。 事典の表題に「日本」と冠したこと、「アナキスト人名事典」でもなければ「アナキズム運動史事典」でもなく、「運動」「人名」とつないだことの意味について話が展開する。運動を「史」で語るのではなく「人」で語ったことがこの事典のおもしろさだと思う。井家上さんの発言にもあったが、わずか数行の人名項目、その背後に何があるのか、不明だからこそ、争議のときの役割や警察調書から見えた情報だけが提示されているのだろう。かえって、その見えない空白が想像をかきたてる。 東アジアのアナキズムのネットワークを追及している亀田さんの大量の情報にも圧倒される。大学院の授業のときもそう思ったが、ひたすら有名無名のアナキストたちを追いかけ、調査していく情熱はすごい。しかも、職業的に研究をしているわけではないのだから。こういう無償の情熱によってアナキズム研究が進んでいることに感動する。 終了後、「海晴亭」で打ち上げ。お疲れさまでした。 |
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01.13
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来週の22日に『日本アナキズム運動人名事典』を題材に人文研の研究会を開きます。大杉栄研究などで知られる大澤正道さんや亀田博さんに話をうかがう予定です。一般にも公開しますので、関心のある方はぜひどうぞ。こちらにチラシを出しておきます。 | ||||||||||||||||||
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01.05
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あけましておめでとうございます。ようやく新年始動です。 それにしても年末のインドシナ、スマトラ沖地震と津波の被害はすさまじいことになっていますね。2004年がひどかったから、今年はと思っていた向きには、そういう年越し・年明けの信仰がいかに効果ないかを突きつけたような災害でした。ぼくにとっては、タイのプーケット島はなつかしい旅の記憶のつまった場所。もう12年前になりますが、国際交流基金の東南アジア日本研究セミナーの講師として、タイやインドネシアなど数ヶ所を回ったことがありました。歴史家の坂野潤治さんと一緒で、凸凹コンビだったのが印象的です。そのときタイの良さに魅かれ、翌年からプライベートで暮れにタイ旅行を毎年していた時期がありました。なかでもプーケット島のナイハン・ビーチにあるル・メリディアン・プーケット・ヨットクラブというホテルがお気に入りになり、3回も行ってしまいました。クリスマスシーズンはホテル内のイベントも多く、ヨーロッパからの観光客もたくさん来ていたのを覚えています。被害の大きかったのは、パトン・ビーチのようですが、ヨットクラブが無事であったか、気になるところです。 一方、この間もイラクは泥沼化しています。米軍のファルージャ総攻撃でゲリラを一掃するなんて嘘ばっかり。一向に自爆テロ攻撃は収束せず、毎日のように殺された人々の数が報じられています。15万人の死者に比べれば小さな数字ではありますが、逆にその影に隠れてしまわないように注意していかなければなりません。いずれにせよ、欧米や韓国、中国、日本など東アジアが経済的に繁栄するかたわらで、東南アジアや南アジア、中東で自然災害、人災がくり返されている。この矛盾が一層あらわになった正月でした。 はてさて、今年はどうなるのか。あいかわらず不透明ですが、この不安と混乱を日常としていく覚悟が要りそうですね。 |
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12.24
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「日本文学入門2」「特殊研究ゼミナール」「メディア論1(メディアと教育)」「歴史と社会4(学校論)」の授業の試験・レポートの課題をアップしました。こちらをご覧下さい。 | ||||||||||||||||||
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12.23
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同志社大学国文学会が出している『同志社国文』の最新号を頂戴する。すごい分厚い記念号で、まずその厚さに驚く。なかに近代の小特集が組まれていて、田中さん、真銅さん、西川さんら専任教員のほか、西村将洋さんらPDや卒業生、院生らが書いている。同志社出身のひとが文理の大学院にも来ているが、いま関西では同志社がにぎやからしい。 宇佐美毅さんから『小説表現としての近代』(翰林書房)を頂戴する。表現史というとらえ方は、山田有策さん以降、鈴木貞美さんが提唱していたが、テクスト論以後になると、その考えが一般的になったのであまり前面に出されなくなっていた。宇佐美さんのは改めてその再考を促す一冊のようだ。 |
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12.22
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大学で雑用をすませたあと、市ケ谷の本部で古典籍調査の打合せ会議。日本大学総合学術情報センター所蔵の『古典籍資料目録』の第3冊「中古中世散文篇」が完成。年度内には「中世歌書篇」の第2分冊分も完成の予定で、毎年2冊という計画はスムーズに進行中。今回の会議で、近世チームの調査も順調で、来年度は「中世歌書篇」の第3分冊に加え、「仮名草子・浮世草子」を中心とした近世篇の第1分冊も発行できそうだ。古典の先生方も着実に勢いが出てきて実にたのもしい。 自分の専門の近代のところに手を付ける暇がないのが痛いが、もとは古典籍資料の整理が主なので致し方ない。ただ、近代関係の文学以外の資料の展示・展覧会などを一度試みたいもの。仕事が軽減されそうな来年度以降の状況で考えてみようと思う。 |
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12.20
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授業最終日。各授業のレポート課題も近日中にアップの予定です。 | ||||||||||||||||||
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12.19
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非常勤に来ていただいている丸川哲史さんから新著『帝国の亡霊 日本文学の精神地図』(青土社)を頂戴した。谷崎、安部、目取真などを扱っている。ずいぶん読みごたえのありそうな本なので、正月休みにとっておくことにする。 | ||||||||||||||||||
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12.18
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ずいぶん更新できない期間があったので、「どうした?」とお叱りの声。すみません。年末になるにつれて、雑用がどっとふえてしまい、更新もままならない日々がつづいてました。18日分から再開! 院生たちと本郷・駒込アナキズム文学散歩に出かける。亀田さんに案内していただき、Ann Sherifさん、高榮蘭さん、マスターの院生たち総勢12名。本郷三丁目を起点に、大杉虐殺後に和田久太郎が福田陸将を狙撃して失敗した「燕楽軒」跡、菊坂をおりて長泉寺を訪問。この寺の前は新東宝の映画「大虐殺」でロケ地となっていました。寺をぬけて、啄木ゆかりの赤心館跡、つづいて本郷菊富士ホテルの石碑を見て、定宿にしていた人々のリストを確認。旅館太榮館の前で啄木のいた蓋平館跡という記念碑を見たあと、森川町の徳田秋声旧宅へ。さらに三階建ての下宿屋・本郷館にびっくりして、今度は西片町から白山へ。ここで昼食をとったあと、寺島珠雄さんや森まゆみさんが書いた1階が書店、2階がカフェ・レストランでアナキストやダダイストたちの集った南天堂書店を訪ねる。いまは名前だけで経営も異なり、すっかりふつうの本屋でしたが、寺島さんの遺著がしっかり2冊も平台に置いてありました。本郷通りを吉祥寺方面に歩き、岡本潤が短期間やっていたというおでんや「ゴロニヤ」や労働運動社の跡を歩く。大杉らの遺骨がとどき、例の遺骨盗難騒ぎが起きたのもここ。獄中で重篤になった村木源次郎が退所した後、亡くなったのもここである。ふたたび団子坂に戻り、観潮楼跡を訪ねて、谷中方面へ。日暮里近くまで歩いて、ここで解散。6時間近いコースでした。有名なところもあったけれど、文学とアナキズムを織り交ぜた面白い散歩でした。みなさんお疲れさま。 |
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11.27
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保健体育審議会の推薦による運動部の学生の入学試験。国文学科の志望は7名で、午前中から面接を行なう。午後、書類をいくつか書き終えたのち、国文学会の研究集会。今回は、「新古今和歌集 800年目の視点」という題で、田渕句美子さん、浅田徹さん、藤平泉さんの報告。新古今の成立をめぐって、生々しい政治的なやりとりや後鳥羽院というかなりイケズな上皇によって右往左往させられるさまがうかがえました。終了後、「天喜与」で会食。 | ||||||||||||||||||
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11.25
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研究室会議に編入学試験の採点・面接。この時期は五月雨式の入試がつづきます。夕方からは図書常任委員会。各学科から出た高額資料の購入希望リストをチェックし、補助金申請のものを選ぶ。 藤田三男さんから『保昌正夫一巻本選集』(河出書房新社)を頂戴する。やはりいい造本。保昌さんの文章に魅かれて、あちこち拾い読み。 |
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11.24
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新図書館の展示ホールで、有吉保先生の個人蔵のコレクションをもとに「新古今和歌集」関連資料展が開かれる。やはり新図書館開館記念のイベントの1つ。中世文学の先生たちを介して、有吉先生が所蔵される新古今集関連の資料をお借りして展示。先生みずから毎日、来られて、見学者に解説してくださった。展示資料のみごとさとともに、先生の熱心さに頭がさがる。 それにしても、新図書館内部のチャイムが鳴り響いたり、空調がいまひとつ機能がよくないのが気にかかる。管財課に改善を申し入れているのだが、チャイムは全体で音量調節ができないうえに、非常放送と連動していて切るわけにいかず、やっかいきわまりない。プログラムそのものの改修をお願いする。 大学院の授業では、亀田さんからビデオをお借りして小森白監督の新東宝作品「大虐殺」を見る。大杉栄、伊藤野枝が殺されたあと、古田大次郎や和田久太郎らがテロに走り、弾圧されていくプロセスを描いたもの。映画としては、関東大震災をスペクタクルとして描いてはいるが、物語的にはかなり陳腐で笑える。ただ、どうして新東宝がこういう映画を撮ったのか、そのいきさつが気になる。それに背景やロケ地が史実をふまえているらしく、古河三樹松さんがクレジットにはないものの、知恵をかしたらしい。天知茂が古田を演じていて、劇中、天知の生歌声が聞こえる。亀田さんとともに井家上隆幸さんもあらわれる。せっかくのシネマプロジェクターの調子がわるく、結局、液晶テレビで写すことになったのが残念。 |
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11.23
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武者小路実篤記念館で「白樺派とメディア」と題して講演。秋の特別展「ポスターの美〜実篤はどう伝えられてきたか〜」にちなんだもの。少し前に出かけ、展覧会や記念館の収蔵庫を見せていただく。小さな記念館だが、実篤公園とともに地域住民にとって憩いの場になっている模様。あちこちの大規模な文学館にはない味わいがあるのではないでしょうか。講演終了後、近所のお菓子屋さんでつくった「実篤最中」などを拝見。新作の「実篤パイ」をいただく。かぼちゃやナスビをたくさん描いたひとでもあるからなぁ。実際、パイはなかなか美味しかったです。ご馳走さまでした。 | ||||||||||||||||||
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11.18
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新図書館記念のイベントがつづいている。べつに館長のぼくが指示したのではなく、学部執行部が記念イベントに予算をつけたため。いくつかの企画が動いているが、この日は、教育学科の羽田さん、関川さんたちが企画した「新しい私立大学の挑戦〜文理学部の評価と未来〜」というシンポジウムと、同じ教育学科の北野さん(FD委員会委員長)が企画した「魅力ある大学教育の模索−文理学部の授業と評価が変わる!」というシンポジウムとワークショップが同時並行して開催。いくら何でも、同じ日、同じ時間帯にやるこたぁないだろうと思うのだが、なぜか、相互の情報伝達がなかったみたいで、同じキャンパスで2つにわかれて開かれた。ぼくは、FD委員会の立ち上げに関わったし、そちらは金子さんや小平さんが参加しているので心ひかれたが、関川さんたちからは報告者としての参加を求められ、図書館長という立場でということなので、拒否できず。オーバルホールの会場に足を運んだ。報告は、羽田さんとぼくのほか、横浜市立新田中学の飛田仁校長先生と、『大学改革』などの著書で知られる教育学者の天野郁夫さん。天野さんのお仕事は『試験の社会史』などを参考にさせていただいている。全体が2時間強という時間設定なので、報告20分、全体質疑が30分ほど。開架式図書館になることで産まれたオープンリソースの可能性について、keynoteを使いながら報告。終了後、北野グループの懇親会に顔を出した後、天野さん、飛田さんを囲んでの会食に参加した。 | ||||||||||||||||||
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11.16
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文理学部と提携しているカリフォルニア大学サンタバーバラ校からお客様が来訪するというので、接待役をたのまれる。あいている時間帯だったので引き受けたが、どなたが見えるのかは前日まで知らなかった。日本学の研究者なので、指名されたのだろうと思っていたら、三島や大江の研究で知られるJohn Nathanさんをはじめ、「歴史学のなかの南京大虐殺」の著者Joshua Fogelさん、歌舞伎研究のKatherine Saltzmanさんがあらわれた。初めてお目にかかるが、Nathan教授の明るい雰囲気に応じて、こちらも中文の山口守さんとともに気楽に応接することになりました。フォーマルな訪問にお疲れもあったのでしょうね、冗談を交わしながら、中文や国文の研究室、それに新図書館をご案内。ジャパニーズホラー映画のリメークの話から最近の東アジアの情勢などにも話題がとんで、あっという間の二時間でした。 | ||||||||||||||||||
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11.13
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朝、市ケ谷の日大本部で会議を1つすませてから、横浜へ移動。11時半にフェリスに到着。午後の報告とシンポジウムに参加。林芙美子の「浮雲」をめぐって小説とその映画化の差異をめぐって、歴史的な時差から来る敗戦のとらえ方の違いなどにふれる。司会は三田村さん。ベトナム文学の加藤麻子さんや中古文学の立石和弘さん、ドイツ思想史の山本泰生さん、矢野久美子さんや、フェリスや日大の院生さんから質問。フェリスの佐藤裕子さんにはたいへんお世話になりました。終了後、懇親会。女子大の学生食堂がきれいなのに妙に感心。三谷邦明さんや千種さんや朴さんらといろいろ話ができました。帰宅は深夜。やはり横浜は遠い。沖縄や水俣が近いように感じてしまうのと対照的。交通網の展開にともない地理的な空間とはべつな距離空間が出来ているんですね。 | ||||||||||||||||||
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11.12
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フェリス女学院大学での第3回日本文学国際会議に参加。今年のテーマは「声・映像・ジャーナリズムーメディアの中の戦争と文学」とのこと。2日間おこなわれ、ぼくの報告は明日。フェリスは元町と思っていたら、もう1つのキャンパスが緑園都市にあったんですね。ここは相鉄線でも指折りの人工都市で、街の雰囲気が独特、ただ地名のあらわすごとく緑が多いのが気持いい。今日は、李建志さんが戦時下の時局落語や漫才など芸能の動員について、千種キムラ・スティーブンさんがニュージーランドの反核運動と日本の原爆文学について、朴裕河さんが「きけわだつみの声」から戦争による死を受け入れていく青年たちの論理構造についての報告を聞いた。 3時から市ケ谷の日大本部で会議があり、途中退席。明日の天気がちょっぴり不安です。 |
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11.11
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いつもの木曜日会議デー。5つ目の会議にあたる大学院教授会は早々に抜け出して、研究室で校務をこなす。7時にこの3月に卒業した元ゼミ生数人が訪ねてきた。就職が決まったもの、早くも転職したもの、非常勤しながら専任教員を狙っているもの、いろいろだ。新図書館を案内したあと、「海晴亭」で一杯。残業があったらしく、9時に到着した卒業生もいた。ご苦労様。千葉の奥に住んでいる彼女は1時間ほど食べて飲んで、電車がなくなる〜と言って帰っていった。社会人はつくづくたいへんだ。なかに憧れのアパレル産業につとめた途端、ヘキエキして退職し、いまは出版社に転じたという女の子もいた。なにを卒論にしていいかわからないと4年のはじめにのたまわったその彼女、アパレルに行きたいというから、「じゃ、君は三越や百貨店の雑誌の研究」と指示したところ、けっこうその気になって卒論そこそこにまとめていった。ところが、そのアパレルを辞めて出版社に再就職するについて、面接時に卒論のテーマの説明がけっこう決め手だったという。ほんとかなぁ。さもありなんと思いつつも、どこかいい加減だと思ってしまうのはイケナイかな。 | ||||||||||||||||||
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11.07
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午前中はホテル周辺の海岸を散策。午後にふたたび「よみたんまつり」会場へ。比嘉さんたちのグループの出店もある。前の村長夫人にもお目にかかり、いずれ取材させてほしいとお願いしておいた。とにかく、この村は単に地域コミュニティの活性化に成功した村というだけでなく、日本と沖縄と米軍との政治的な葛藤が錯綜した最たる場所であり、それでいながら、いま最もユニークでラジカルな村行政を展開しているところでもある。地域のお祭りとなめてはいけません。3歳ぐらいの子からお年寄りまで、いろんなかたちで村にかかわり、祭りに参加しているのがわかる。もちろん、ほっといてくれというひともいるだろう。個人主義を温存しながら、祭りが祭りとして機能している、その正体をよく見てみたい。 クライマックスの芝居まで見ていたかったが、残念ながら飛行機の時間が来た。那覇まで車を飛ばし、公設市場で簡単な腹ごしらえをして、7時過ぎの便に乗り込んだ。帰宅は11時。驚くべき時間の短さでもある。 |
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11.06
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今回のツアーのメイン、本島の読谷村を再訪し、「よみたんまつり」を見学。読谷の地域ガイドグループを主宰する比嘉涼子さんに連絡し、午前中に前回見られなかったところを案内していただく。まずは読谷村のテーマパークともいうべき「むら咲きむら」。ここはNHKの大河ドラマ「琉球の風」の撮影のために、急きょつくられたオープンセットがもとになったのだという。にわか作りの古い村の風情が、しかし、村人たちの郷愁をそそり、撮影終了後に壊してしまうのがもったいないと考え、地元の商工会の人たちが観光や体験学習の場に変えていったのだという。NHKのドラマのためにつくったと聞くと、どこかガックリきてしまうものだが、そうした機会をとにかく生かして再利用していこうとしたことが大事なのだ。内部では、必ずしもスムーズではない、ぎくしゃくしたところもたくさん抱えていたみたいだが、戦争によって過去の風物をすべて焼かれてしまったこの島で、連続性を感じうる数少ない場所となったのだという。仮構されたアイデンティティだと嗤うことはたやすい。しかし、にわか作りであることを承知のうえで引き受けることで、ここの家々や石垣や樹木、草木が次第に時間の風化をへて落ち着いてきたことも事実だ。たよりなさと確かさとがない合わさっているような場所になっていた。 つづいて読谷村と嘉手納町の境にある入り江に向かう。ここは1945年の米軍の上陸地点でもある。自然の入り江の残る読谷村に比べ、対岸の嘉手納町は海岸線をなくして道路がはしり、海際まで高層の建物が立ち並んでいる。嘉手納町はその土地の80%近くが米軍基地になっている。町民の居住地はほんのわずかなのだ。だから、人びとは自然にかまってなどいられない。海を埋め立て、ビルを建ててそこに住んでいる。読谷側の海沿いの崖にはいくつも特攻艇を隠した洞穴がある。米軍の攻撃に対して自爆攻撃をしかけた特攻隊。そのかれらの暮らした日々を想起させる穴。そして向かい側に広がる基地と住民。風景のなかにいくつもの立場や歴史が織り込まれているのを感じる。 最後は嘉手納基地のすぐ脇にあるドライブイン「道の駅 かでな」。このドライブインの3階は嘉手納の戦中・戦後史を語る展示館になっており、常時3台のビデオカメラに写された基地の様子を見ることができる。実際、店の前の丘に立つと、この基地の広さがわかる。対潜哨戒機や空中空輸機などが何台も待機している。この日は静かだったが、すさまじい爆音で悩まされる日々がたくさんあるにちがいない。 ガイドの仕事がある比嘉さんと別れ、よみたんまつりの会場へ。基地内の軍用滑走路や演習場につくられた村役場のすぐ脇、日米地位協定の文言をかいくぐって出来た「文化施設」のひとつ、巨大運動場が会場である。たくさん並ぶテントのなかから、漁協青年団のを見つけ、さっそくサザエの壺焼き(5個ついて500円!)、タイが頭ごとごっそり入った丼サイズの魚汁(これも500円)、もずくの天ぷらなどを食べる。ビールの美味しいこと。農協はもちろん、いろいろな店が立ち並び、縁日の状態。あちこちのぞいて堪能する。 |
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11.05
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今年二度目の沖縄ツアーに出発。初日は南部戦跡という、沖縄平和学習の必須コースをチェック。琉球バスの定期観光を予約して、午後1時から6時間のコースに参加する。沖縄はバスガイドのレベルが本土よりもはるかに高いことで知られているが、たしかにそのとおり。やや古めかしい言葉遣いはもとの原稿の書き手の年代を想像させるが、そうであってもガイドさんはすらすらとよどみなく語りつづけた。南部戦跡は、ひめゆりの塔、摩文仁の丘、平和祈念堂などをまわり、これに沖縄王国村などの古民家テーマパークや土産物店を組み合わせたもの。ひめゆりの塔周辺の俗化はすさまじいのだが、もはや観光資源が経済のたよりというこの島で、守るべき一線がどこにあるのか、わかりにくい状況になっていることがよくわかる。 それにしても平和公園の石碑の大群には打たれた。沖縄戦で亡くなった人、国籍・民族を問わずに戦没者としてその名を刻み込んだ碑がずらっと並んでいた。名前の圧倒的な量とその訴求力を強く実感する。那覇に戻ったあと、読谷村に向かう。 宿泊は読谷のホテル日航アリビラ。このホテル、建築デザインといい、部屋のつくり、色調、従業員のサービス、レストランの味といい、国内ホテルでも一二を争うところではないだろうか。今回は往復の交通費と二泊分の込みで6万円。9.11以後の観光不況で、価格破壊が起きているのかもしれない。ただし、この値段、ウチナンチューには意味がない。かれらが本土や東京に出てくるときは、こうした廉価サービスを受けられないからだ。不均衡のうえに成り立つ観光業。その恩恵を受けながら、しかし、ホテルの良さには感心してしまう。日航もやれば出来るんじゃないですか。 |
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10.27
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午前中、授業2つを行なってから、知念正勝さんの講演を聞くイベントを早稲田の金井研究室と共催。知念さんは、この夏、氷上信廣さんに紹介された沖縄のハンセン病の元患者さんで、この病気の国家賠償訴訟の宮古島原告団の事務局長をつとめた方。二晩つづきで泡盛を飲んで話をうかがって、すっかり魅了された人ですが、この25日に東京に来られると聞き、めったにない東京来訪中にぜひ大学で話をしてもらおうということになったのです。なにしろ、ご年齢は71歳。最近は心臓の手術を三回も受けられている。前日は宿泊先のホテルの近くで、氷上さんはじめ宮古島南静園に毎夏いかれている「南風(パイカジ)の会」のメンバーとともに知念さんご夫婦を囲んで予行演習(?)をしたものの、果たして大丈夫か、ちらっと不安になりましたが、そんな不安は一掃。知念さんの話しぶりにあらためて感動しました。当初は1時間半の授業プログラムのなかで対応する予定だったのですが、時間が足りなくなり、急きょ、教室を変えて、あとの授業と重ならない参加可能な学生のみ残って継続。結局、知念さんの講演はまる2時間強に及びました。 最初の会場は100名ほどの学生たちで満員。日大文理からも院生を中心に10数名とともに参加。移動してからも40名ほどが話を聞きつづけました。まず最初に知念さんが語ったのは東京に来た理由でした。自分たちの国家賠償の裁判は勝利に終わり、補償法が制定されました。ところが、韓国のソロクト島で戦時中、日本政府によってハンセン病施設に強制隔離された元患者さんたちにその法による補償が適用されなかったのだそうです。そこで彼らが起こした日本政府相手の訴訟裁判の傍聴に来られたのだという。そのソロクトの施設に入園させられたハンセン病の元患者さんたちと話をする機会があったが、彼らの扱われ方は自分たちの比ではなかった。ハンセン病患者に対する日本政府の人権無視は言うまでもないが、それが植民地に及んだときにどういうことが起きたか。その話をさりげなく前にふり、したがって、自分たちの受けた差別などは序の口に過ぎなかったと前置きしながら、宮古群島のさらに離島である、小さな小さな水納(ミンナ)島に生まれてから発病するまでの話が始まりました。 この「海人(ウミンチュ)」としての暮しの話から、1943年の発病、そのときの家族とのやりとり、離島ゆえの治療の困難、宮古島南静園への入園(1951年)にいたるまでの話は、氷上さんの小説「洞窟まで」(同人誌『梟』2、4号)で部分的に知ってはいたが、あらためて生の声で聞いてひきこまれました。すでに1944年にハンセン病に効く薬プロミンが生み出されていたにもかかわらず、戦後、米軍支配下の沖縄でもそれまでの日本政府と同様に、療養所への強制隔離が徹底され、在宅治療が禁止されたのです。これにより17歳の少年が両親・祖母(オバァ)と引き離された経緯は、聞きながら目頭が熱くなりました。宮古島の診療所でハンセン病と宣告されたその日、シケで多良間島・水納島に戻ることができなかった。病気と宣告された子どもとその父母を泊めてくれるところはない。探し当てた自然洞窟のなかで明かした眠れぬ一晩。その洞窟の入口に、口数の少ない漁師の父親が魔除けだと言いながらアジュマルの葉を交差させた、そのときの思い。そして別れを告げるために帰った水納島で、オバァが知念さんを手放すまいとして日延べしつづけ、村外れに小屋をつくってそこで自分が一生この子の面倒をみると言い続けた。そのオバァをふりきって、唯一、治療をしてもらえるという南静園に知念さんは行くことになったのです。すでにそのとき特効薬があり、ハンセン病が感染力の弱い病気だと政府にも医療関係者にも分かっていたにもかかわらず。 こうした話を聞いているとき、それがあまりに具体的な細部をともないながら語られるので、知念さんが物語の原初的な語り部であるかのように感じました。説経節の「小栗判官」を語った語り部たち、彼らはハンセン病患者ではなかったかもしれませんが、そういう語り部に語らしめるようになった患者さんたちが中世に多くいたはずで、そうした原・語り部たちと連続しているものが知念さんのなかにあらわれているように感じたのです。 もちろん、入園後の知念さんたちの戦いの物語があとにつづきます。やがて同じ患者さんとのあいだで結婚が成り立ち、療養所の強制的な堕胎政策に抗して健康な子どもを産むのですが、その子どもは園外に出させられ、親元にあずけられなければならなかった。その幼い娘が親元を抜け出して、夜、南静園に訪ねてくるような出来事があり、この娘の親であるために園を出て社会復帰するまでの苦闘が語られました。ハンセン病は末梢神経がマヒするため、手足の指を傷つけても気づかず、それにより多くの障害がひろがります。そのハンディを乗り越えながら、大工や集金の仕事をして、南静園の外に一家を構えるまでになったそうです。わずか10坪の土地にトタン屋根の家を手作りで建てたときの喜び。しかし、それでもずっと差別が気になってハンセン病の元患者であることを言えなかった、隠しつづけた。それを表に出せるようになっていったのが、社会福祉主事となって秘匿されたまま在宅のハンセン病元患者さんたちに働きかけるようになり、あまりに非道な国策に対する裁判の原告になってからだったそうです。 氷上さんが初めて会ったころの知念さんは、いろんな苦難をへてコチンとしたところのある厳しい人だったといいます。その片りんは今もうかがえますが、氷上さんが冗談半分に「知念老いたり熟したり」というごとく、いまはすばらしい開かれた快活さのなかにある。同時に自分を取り戻し、自分たちを作り上げていくことを通して、71歳の知念さんのなかに若々しさが甦っている、そこがすごいと思います。すでに入園者の高齢化が進み、統廃合の危険もあるのですが、そのなかで地域と結びつきながらハンセン病の歴史を語り継いでいくという施設維持に向けた積極的なプランを語って、2時間の講演が終わりました。「ハンセン病問題」の解説者でなく、その渦中を生きて自らの知性と感性を鍛えてきたオジィの清々しさに、みんなが打たれた瞬間でした。文学作品にふれた話があったわけではありませんが、文学なるものの原形が生み出されるそのときに立ち合っている、そんな思いを共有したのではないでしょうか。 知念さんは夜の飛行機で沖縄に戻られましたが、あらためてその話に敬意を表するとともに、心からお礼を言いたいと思います。 |
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10.24
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亀田さんに誘われて、「初期社会主義研究会」の例会に参加。「甦る大杉榮」がテーマで、若い研究者2人の大杉論の報告を聞く。最近の大杉研究の動向などをウォッチングしたが、主宰者の梅森直之さんにお目にかかれたのが収穫でした。 | ||||||||||||||||||
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10.22
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学術フロンティアの中間報告会。森井さん、大塚さんとともに出席。作業自体は積み上げられているものの、忙しすぎて前回からチャプターが変わるほどの大きな進展がないのが反省点。 | ||||||||||||||||||
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10.21
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会議日。11時からの研究室会議をすませたあと、9月卒業の学生に対する学位記伝達式をとりおこなう。すぐにつづいて病欠になられた先生の卒論指導の学生を集め、報告と他の先生への振り分けを伝える。昼食をかきこんだら、学科主任会議。そのまま合同教授会、教授会、大学院分科委員会。最後の会議あたりになると、やたらにのんびり時間をかけて議事を進める議長の物言いが腹立たしくなってくる。いけない、いけないと自制し、持参した本などを読んで、心をしずめる。 | ||||||||||||||||||
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10.17
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学会2日目。午前中、同志社のPDの人の発表を聞く。保田が中河与一の「ゴルフ」という小説をどのように評価したかを入り口に、同時代のソビエト文学理論ふくめ、グローバルな文芸情報をいかにコラージュし、自分の論理構築に取り込んだかをめぐる話。とても面白かったけど、へんな発言者が自説の開陳で質疑の時間を奪いそうだったので、もとの話に戻すべく質問に立つ。そのあと城殿さんの質問も出て、ようやく議論らしいかたちになった。昼食のとき学生食堂でカレーを食べる。水が多すぎてご飯が柔らかすぎる。まあ、学食に多くを求めてもしかたないか。文理も「チェリー」を抱えているので強いことは到底いえない。午後は特集の報告4本を聞いたところで退席。明日の授業が3つもあるので、早々に帰路につく。帰りの新幹線で、本を一冊読むつもりだったのだけれど、疲れ果てて熟睡。帰ってから、猫のトイレのお掃除。一晩だれもいなかったので、欲求不満のせいか、やたらになついてブラシをかけろとせがむ。 | ||||||||||||||||||
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10.16
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学会1日目。朝8時の新幹線に乗って奈良大学へ向かう。上乗の天気で、こんなときに学会とはもったいない。ということで、奈良公園の鹿の写真をちらっと掲げておきましょう。
評議員会では、その前の案件でもめすぎて、時間がないため説明が十分になされず、したがって、一部の評議員からは危惧の声もあがったが、これはべつに学際性を高めることが目的ではないし、むしろその逆の効果もあることが重要なのだ。たとえば、これまでの大会テーマでは、「徳富蘇峰と徳富蘆花」といったようなマイナーとされてしまう企画はまず不可能だったけれど、分科会にすれば不可能ではない。コーディネイターがいて、3人の発表者を集めれば企画案は成り立つ。あとはその案を運営委員会の選択にゆだねるだけだ。同じように、近代文学の書誌の部屋があってもいいし、作家論の部屋があってもいい。同様に学際的なテーマの部屋もあるというわけだ。もちろん、あとで参加者数は斟酌されることになるだろう。でも、横並びでいろいろなテーマを会員みずからが作れるのがこの方式のいいところだ。従来からの個人発表のコーナーも残していく。当面は来年秋の大会にかぎるという条件で承認されたけれども、ぜひともこれを成功させて、継続させるようにしたいものですね。 奈良ロイヤルホテルでの懇親会に出る。終了後、金子さんと奈良町近辺へ移動。小平さんや大野さんらが待っている割烹へ。料理は美味しいけど、メニューがない、お酒は2種類、焼酎はいいちこのみという不思議なお店でした。迷ってしまいそうな路地の奥で、もう一度行けと言われても、行けそうにないな。 |
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10.15
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書道の藤木先生が亡くなられて、後期の代講や来年度の担当科目の件で追われていたが、今度は日本語学の先生がやはりご病気で出講できないという緊急事態。他の語学の先生と協議して、急遽、6コマ分の代講手続きに追われる。今年はいろいろな出来事があって、学科主任は目がまわっています。他の先生や助手たちの協力で何とか切り抜けることができたけれど、さすがにC社の編集会議はキャンセル。明日の学会のために、夜の新幹線に乗るつもりだったが、これもキャンセルしました。お疲れモード全開です。 | ||||||||||||||||||
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10.11
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スクーリング最終日。昼は味噌カツに挑戦。16時40分、天気にもめぐまれてようやくゴール。みなさんお疲れさまでした。17時24分の新幹線に乗る。東京まで1時間40分。ずいぶん早いもんですね。 | ||||||||||||||||||
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10.10
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スクーリング2日目、朝9時から17時10分まで授業。お昼は榮の繁華街まで出て、櫃まぶしを食べる。くどい味だけど悪くない。夜は、金城学院大学の藤森さんご夫婦を呼び出して一緒に夕食をとる。かよ子夫人はすごく魅力的な英文学者。最近の大学事情や日本文学、英文学の学界、カルチュラル・スタディーズの現在など、いろいろな話に花が咲く。 | ||||||||||||||||||
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10.09
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スクーリング初日。他の3人の先生にご挨拶、職員も2人派遣されている。スクーリングは高榮蘭の代講。彼女が日本学術振興会の外国人特別研究員に合格したので、収入のある仕事を禁止されてしまったのだ。シラバスは、島崎藤村の『破戒』をもとに博士論文の内容を踏まえたものになっているため、ここは指導教授が出ていかざるをえないというわけだ。あらためて高さんの博論をふりかえり、自分なりにトレースすることが出来た。まだまだ若い衆には負けないぞという気持ちで。 会場は愛知県青年会館。受講生は12人。ちょうどいい人数で、セミナー的な授業にすることができる。教室の机の配置も変え、ロの字型にして話をする。この日の昼食は近所のきしめん。夜は通信OBの学友会や指導員、受講生あわせて懇親会。 |
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10.08
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学術フロンティアの会合。大日本印刷のプレゼンテーションを聞く。デジタルページマスターや外字処理データベースの話に興味をひかれる。 17時に切り上げ、そのまま新幹線に飛び乗って名古屋へ。明日から通信教育部のスクーリング授業のため。大型台風が接近しているらしくどうなることか。名古屋駅からホテルまでの道のりがかなりの雨でした。ホテルの大浴場は「準天然温泉」とある。「準」というのはどういう意味なんだろう。ただ、お湯だけは気持ちいい。お肌もツルツル! |
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10.02
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「蒙古横断」をめぐる公開パネルディスカッション。午前中は、デジタル化したこの映画を解説つきで鑑賞。1925年の撮影になる100分程度の記録映画だが、映画としてはかなりのプロが撮影した模様。パーリン右旗という部族のジャガルという王について、北京から内モンゴルへ旅したときの記録である。内モンゴルの自然、風土、生活習俗を克明にとらえた映像としては世界初とのことで、史料としての価値はきわめて大きい。これを製作した薄守次というひとは、馬賊として「天鬼将軍」の異名をもった薄益三の甥にあたり、やはり「白竜」と呼ばれた。川島浪速らによる満蒙独立運動に関与したが、それに挫折したのちも、満州や内蒙古の政治情勢に深く関わっていたのだろう。この映画自体は、皇室に見せられたのち文部省認定を受けている。どの程度の公開を果たし、どんな評価を受けたかは定かでないが、撮影者の立場の微妙さはともかくとして、モンゴル学に欠かせない歴史史料であることがあらためて確認された。午後は、この映画についての報告と討論。専門外のぼくは、実写から記録映画への過渡期における映画史的位置について報告。ロバート・フラハティの「極北のナヌーク」(1922)には比べるべくもないが、しかし、そうした記録映画の出発期に製作されたことの意味と映像の質について話した。会場には80人程度の参加者があり、モンゴル共和国、内モンゴル自治区の出身者も多く見えていた。侵略者側からの視点ではあるが、そこに映し出された出生以前の故国の風景に心を奪われた方も多かったようだ。 この日の晩は、3年前のゼミの卒業生たちの同窓会。横山美紀さんが幹事で東京在住の8人ほどが集まる。 |
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09.30
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いよいよ図書館開館。気になるので、8時半に大学にいく。9時オープンだが、すでに並んでいる学生もちらほら。始業のチャイムとともに、開館すると、次々に学生さんがやって来る。結局、9時から13時までで1627名の入館者があり、この日だけで3600人のカウントまでいった。
この日は、研究室会議、学科主任会議、教授会がある一方、大学院特別講義で関礼子さんに来てもらっている。講義のあと、関さんやAnn Sherifさんを図書館に案内。高さんや、関さん応援にかけつけてくれた大野さんまじえ、「海晴亭」へ。べつの会議に出ていた曽根さん、「語文」編集会議を終えた金子さん、小平さん、中谷さんも加わり、打ち上げ。図書館関係の業務もひとくぎりなので、ほっとしてビールが進む。 |
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09.29
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図書館竣工式当日。1限の授業を10時過ぎに終えて、図書館に向かう。10時20分に集合で、40分からテープカットだという。新築工事のたびごとにテープカットをくりかえすのは、ほとんどそのセンスを疑いたくなるのだが、総長、理事長以下、お歴々が並んでいるので、ひとりだけ勝手をいうわけにもいかず、金色のはさみに白手袋という小道具つきでカットにのぞむ。あれこれやって、今度は修祓式。神主さんが来て御祓い。これがまた長い。予定より五分遅れで、内覧が始まる。コンピュータセンターの鈴木さんとともに、お歴々を率いて、館内を御案内する。100名以上いるので、うしろの方は声も聞こえないだろうと大声をあげて歩き回る。地下は省いて、1階から3階まで、25分でかけぬけた。12時からは祝賀会。今度は学部内の役職者や旧教職員まじえて、百周年記念館のアリーナを半分つかってパーティ。金屏風に数多くの円卓。世田谷区やOBやらの祝辞とか、なんとかかんとか、いろんな行事があって、乾杯があったのが13時5分。1時間も挨拶がつづいた。図書館長としては、これは図書館の行事ではなく、大学の政治的な儀式なのだと納得。どうも自分とは距離が遠すぎる。 終了後、一息ついて図書館内をもう一度、散策。明日が開館なので、そちらの方が気になる。 |
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09.28
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明日が新図書館竣工式なので準備にあわただしい。総長・理事長を案内しての内覧の順序に変更が出たとかで、再度、内覧の予行演習につきあう。テープカットとか、形式的な儀礼行事が多い。花を飾るだの、盆栽を飾るだの、図書館にかかわりないことで追われている館員たちが気の毒になる。眉間にしわが寄っていたらしく、助手から機嫌が悪いんですかと聞かれる。 ひとつ週末に開かれるパネルディスカッションの宣伝をしておきます。 【テーマ】 「<辺境>の視覚的構築--文理学部図書館蔵「薄守次作製フィルム『蒙古横断』」をめぐって--」 日時:2004年10月2日(土)10時半〜17時半(終了後、懇親会予定) 会場:文理学部新図書館3階オーバル・ホール 報告者: (1)基調報告者;広川 佐保氏(日本大学文理学部非常勤講師) (2)パネリスト;岡 洋樹氏(東北大学東北アジア研究センター助教授) 紅野謙介(日本大学文理学部教授) 長井 暁氏(NHK放送総局放送80年事務局) 中生 勝美氏(大阪市立大学大学院文学研究科アジア都市文化学専攻助教授) リ・ナランゴア氏(国立オーストラリア大学助教授) (3)オーガナイザー・司会;松重 充浩 氏(日本大学文理学部史学科教授) 当日プログラム: (1)10時半〜12時:薄守次作製フィルム『蒙古横断』上映(広川佐保氏解説) (2)12時〜13時半:昼食 (3)13時半〜17時半:パネルディスカッション 以上です。 薄守次作製の映画は、1920年代にモンゴル地域のある部族を撮影したもので、遺族から寄贈を受け、フィルムのクリーニングとデジタル化を図書館で行なったものです。制作の薄氏という人が戦前の日本人馬賊としても知られた人物で、そうした撮影者の側の事情もかなり面白そうです。 この日は、上田京子さんの結婚式で再会した後藤雅子さん、田中美雅さんたちと会食。田中さんとはじつに13年ぶりでした。ソウル駐在の同僚からすすめられたという新大久保の「グリーン食堂」という韓国料理のお店にいく。職安通りからさらに路地を入っていったところにあるが、もう日が暮れてから行ったせいか、ますます東京ではない、KoreanTownの雰囲気でうれしくなる。みんな、ぼくが彼女たちを教えていた時期の年齢なんですねえ。それにしては若々しいのがうらやましい。田中さんは会社の広報の仕事をしているらしいけど、小料理屋出店のすすめもあるらしく、まじめにどこに出すのがいいかをアドバイス(?)。将来の女将の推奨よろしく、たしかにここの韓国料理は美味しい。焼き肉はいうまでもないけど、豚の三段バラ(名前が何ともいえないけど)が美味。とりわけ肋肉にネギと荏胡麻の葉、そしてたっぷりしたじゃがいもを入れた鍋が最高でした。話ももりあがり、すっかり堪能して、いずれ今度は下高井戸で会いましょうという約束になる。 |
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09.27
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「日本文学入門2」では、ガイダンスのあと、近代小説と「語り」についての概説。ポーの「モルグ街の殺人事件」、ドイルの「緋色の研究」の冒頭を資料にして、探偵小説における語り手の位置と探偵との関係、物語における語りの順序と事件の関係などについて講義。次回から本題に入るので、漱石の「坊っちゃん」を通読しておくように指示。 「メディア論1」は、教室変更があり、構内をウロウロ。ガイダンスのあと、メディアの定義やメディア・リテラシーについて概説。次回、9.11をめぐるテレビドキュメンタリーをとりあげることを予告。 ゼミでは、後期にとりあげる作家、作品について説明し、狙いを語る。その後、発表スケジュールを確認し、初回の大杉榮のテキストに取り組むいくつかの方法を示唆。 しかし、3つの授業すべて講義というのは、さすがに疲れますね。7時過ぎになったので、新高円寺の「高味園」で久しぶりに夕食。黄ニラと干し豆腐の炒め物が美味。 |
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09.25
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附属高校生のための体験授業の日。同時に教職員のための新図書館内覧もはじまる。 夕方から人文研の共同研究会。今日は、来日中のワシントン大学のTed Mackさんの「海を渡った邦字印刷物--サンパウロ 1918-1935」をめぐって。ブラジルのサンパウロの邦字新聞に出ていた書店の広告を調査して、日系人の移民社会において本や雑誌がどのように流通し、受け入れられていたのかを検討したもの。多くのスライドを使って、いままでほとんどかえりみられたことのない新鮮な対象に関して報告がなされた。山口、土屋、金子、小平といういつものメンバーに加えて、外部からもゲストがあり、活発な議論がなされた。聞いたことのない作家名や作品名もあがり、なかなか面白い会議になった。終了後、下高井戸の「爺」にて二次会。次回は「日本アナキズム運動人名事典」を肴にすることになりそう。 |
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09.22
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後期の授業が始まる。後期からは「ジェンダー論」の担当で、内藤千珠子さんに来てもらうことになった。その初日なので、内藤さんにご挨拶。安藤恭子さん、大野亮司さん、野中潤さん、吉田司雄さんと、非常勤に来ていただいている方たちもますますにぎやかな顔触れになってきた。 | ||||||||||||||||||
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09.19
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急用ができて、朝から熱海へ出かける。昼前についたので、まず腹ごしらえ。伊豆山にある「伊豆花」に行く。完全予約制のお店だが、ロケーションが絶好。伊豆山の海を眼下に、初島や大島がみえる。店内からウッドデッキに出られるようになっているのだが、そのデッキで猫が日なたぼっこをしている。三毛と白の雑種だが、生後1年ぐらいで、いま餌付けの最中だそうだ。おそらくどこかの別荘族の飼い猫の血でもひいているのだろう。愛嬌のあるいい顔をしている。いちばん安いコースを頼んだのだが、このローストビーフが言葉にならないぐらい絶品。脂身がめちゃくちゃおいしい。米沢牛の肉をつかっているそうだが、季節によって産地をかえるという。食後、デッキに出たら、今度は野生の猿が屋根にいるのを発見。これは最近、群れで山から下りてくるのだそうな。田畑を荒らしているため、近隣ではエアガンで追い払ったりしているらしい。外に出ているときは引っ込んでいたが、店内にもどると、木々の果実をかじったりしている。なかには小さな小猿もいる。隣の席にいた年配の集団はかわいい小猿の出現におおさわぎ。レストランのドアをたたく音もして、シェフがのぞいたら猿だった。猿害も大きいが、観光客には予想外のオプションだ。 夕方、東京にもどり、夜は梅ヶ丘の有名な寿司屋で宴会、大学時代のシネマ研究会の同窓会である。5月に仲間のひとりが亡くなったのと、最年長の池田くんが50歳に突入したので、これを機会に集まることになった。一度、大掛かりな同窓会を開いたが、あれはもう7年ぐらい前のことだった。梅ヶ丘はその最年長の仲間が下宿していた街で、よくそこでみんな遊んだ。いまはすっかり有名になってチェーン店になった寿司屋も当時から安くて、アルバイトでお金ができると食べに出かけたものだった。もうみんないい年齢で、映画やテレビの業界で活躍しているものや、広告制作会社の社長やケーブルテレビの社長までいる。企業人もいれば、もう子どもが大学を卒業したとか、入学したとかいう奥様もいる。総勢30人ぐらいか。それぞれ恰幅もいいやつらばかりだけれど、顔をあわせると、四半世紀前に戻ってしまう。社長や部長、課長クラスのものが立場に関係なく一生懸命、幹事役をやってたり、畳にこぼした飲み物を手ふきでごしごしふいたりしている。ふだんの肩書きを脱ぎ捨てる自由さがある。それが楽しい。 ちょっと遅れていったら、女優業をしている室井滋のとなりになったので、その昔、ぼくもちょい役で出させられた「A子のカラス」という映画の話になった。ぼくの役どころは彼女の演じるホステス目当てにキャバレーに通っている地主の息子。どうもお坊ちゃん顔だったらしい。このあいだビデオにしたので見直したけど、紅野さん、いまと全然、変わらないよと言われて、ちょいとへこむ。彼女の知りあいの小説家保坂和志や町田康の話題が出たので、そちらに切り替えてまたもりあがる。ほかにも小説の話があちこちで出る。文学系の学科を出たのは、ぼくぐらいで、みんな政治経済や商学部、社会学部などの出身者が多いのだけれど、なかなか小説の話にくわしかったりする。みんな、そこそこにインテリだ。こちらの方がたどたどしくて恥ずかしくなる。 このホームページを見てくれているひともいて、「父と暮らせば」や「新選組」の話題で意気投合。大学の教員はいい商売だなあと、みな口をそろえて言う。そうだなと少しは思うけど、そうかなあとも思う。けっこう大変な商売なんだけど、どうもぼくの顔はのんきに見えるらしい。ただ、こればっかりは自分でも仕方がない。結局、明日もお休みなので、深夜までしゃべりつづける。 |
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09.17
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午前中、大学。夕方のC社の教科書編集委員会まであいだがあるので、神保町下車、岩波ホールで黒木和雄監督の映画「父と暮らせば」を見る。いうまでもなく井上ひさし原作、宮沢りえ、原田芳雄主演のものだが、全編この2人だけの演技となる。最初、宮沢りえのブリッコぶりや原田芳雄の善人幽霊ぶりが浮いたように見えたが、その世界に慣れてしまうとじわじわと来る。鈴木達夫のカメラ、木村威夫の美術、みごとな小宇宙をつくりあげている。途中、宮沢りえの長い、長いセリフと原田芳雄との巧みな掛け合いを聞いているうちに、不覚にも落涙。岩波ホールの場内はすすり泣きの声で満ちていました。「麦秋」といい、涙もろくなってきているんでしょうかね。 | ||||||||||||||||||
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09.15
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合宿最終日。この日の午前中は、怪獣映画「モスラ」を見る。もちろん、ザ・ピーナッツの出る1961年版である。フランキー堺の過剰なハッスル、香川京子の女カメラマンという珍しい役どころ、ジェリー伊藤の怪演など見どころは多いが、初期怪獣映画のチープでキッチュな作り方が妙におかしい。戦車も大砲も消防車もジープもみんな玩具で撮っているのが丸分かり。でも、1954年の「ゴジラ」、55年の「ゴジラの逆襲」以後、この「モスラ」になるわけで、本格的な怪獣映画のシリーズ化は、ゴジラにつぐ新たな怪獣キャラクターの登場によって可能になったんです。中村真一郎、福永武彦、堀田善衞の原作の話や、東京大空襲や第五福竜丸事件、60年安保の記憶などを紹介。
午後は自由行動。あまりにいい秋日和で、旧軽井沢周辺を買い物がてら散策。「薮そば」で軽井沢そばを堪能し、沢屋で桑の実のジャムを買う。最後に研修所で撮った写真を掲げておきましょう。
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09.14
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合宿二日目。今度は午前中から小津安二郎の「麦秋」を見る。DVDの新しい版で見たが、これまでよりも映像がはるかにクリアなのに感動。学生の反応はどうかなと心配だったけれど、「麦秋」はみな絶賛。この良さが分かるのはうれしい。菅井一郎と東山千栄子の老夫婦が博物館前の庭園で昼食をたべる後ろ姿、原節子と三宅邦子が鎌倉の浜辺を歩くシーンの美しさ。原節子の結婚が決まり、家族の将来に心傷めた菅井一郎がカナリアの餌を買いに出て、江ノ電の踏み切り前でぼう然と石に腰掛ける場面。大学生になったばかりの頃、銀座並木座でこのシーンを見て、無常という感覚はこういう場面を指していうんだなと感じたことを思い出した。美しい、にもかかわらず悲惨である。思わず学生に見えないように涙ぐむ。しかし、最後に菅井と東山の老夫婦が娘の結婚のあと、笠智衆の長男夫婦の家を出て、大和に帰ることになるのだが、この「やまと」を神奈川県大和市のことだと思ったという学生がいたのにがく然とする。「大和は国のまほろばぞ」というセリフがあったのになあ。 午後は、是枝裕和の「ワンダフルライフ」。こちらは賛否両論の出る問題作となった。死者たちが1週間かけて、自分の人生の最良の思い出を選び、映像にしてそれだけを記憶して天国に向かうという設定に反対論が出る。そのような選択の出来ないものたち、赤ん坊や意識混濁した老人や、徹底的な悪人はどうするのか。まずその排除が許せないという。さらに人生最良の思い出だけで過ごせるという天国への嫌悪も示された。なかなかいいところを突いている。あの映画では、伊勢谷友介の演じる若者がそうした批判的な役どころを占めているのだが、物語設定では、そのカレが今度は人生の思い出を聞き取る役割になるのだから、循環から出られない。批判が批判として貫徹しないのが問題点なのだ。個々の語られる人生の面白さとは別に、こうした批判が論議されたのが収穫。 |
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09.13
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軽井沢研修所でゼミ合宿。今年は映画をひたすら見せることにして、プロジェクターとDVDプレイヤーを持ち込んだ。初日はドン・シーゲルの「ダーティ・ハリー」。1971年製作、クリント・イーストウッド主演のこの刑事物を、万田邦敏の映画評論と合わせて見る試み。常軌を逸した犯罪者とやはり常軌を逸した刑事の追いかけっこを描いたこの映画は、ジャンルの創出という点でも注目すべきだが、ほかにも映画的な細部の一貫性でいかにすぐれているかをとらえる。しかし、あらためて見返してみて、この映画のハリー・キャラハン刑事の異様さは、後年の「許されざる者」のジーン・ハックマン扮する、「俺が法律だ」式の保安官とどこが違うのか迷うほどだ。ということは、イーストウッドは、一方で異常な犯罪者たちを撃ち殺す刑事を演じながら、他方でそうした暴力刑事たちが王国をつくりあげたときの異常さをも描いたわけだ。「ミスティック・リバー」の暴力の連鎖についての認識にしても、やはりイーストウッドはただ者ではないことに驚愕する。 | ||||||||||||||||||
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08.30
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駒沢大学で日本近代文学会の臨時評議員会。新聞報道にあったように、近代文学会など270ほどの学会が業務委託をしていた日本学会事務センターが巨額の負債を抱えて破綻した。これにより学会の預託金はパーになるし、会費納入から入退会処理、会報・機関誌の発送や名簿作成のすべてがストップしてしまう。この緊急事態の対策をめぐる臨時の評議員会というわけだ。会議開催の通知からわずか半月足らずではあったけれど、さすがにこの事態に50人以上の評議員が集まる。 経緯説明や当面の対策がなされ、質疑。損失と現有資金の報告が理解できない評議員がいて、何度となく質疑応答がつづく。理事会としては、秋季大会に臨時総会を開かざるをえず、また臨時処置もそこまでが限度だという事務局当番校の意見もあり、その先、来年度以降の対策をめぐる検討委員会を設置するという提案。この提案に関して侃々諤々となった。委員会の性格や位置づけ、どこまでを決める委員会なのかの定義などが曖昧で揺れたためである。 理事のなかからは、学会事務センターに代わる民間会社と新たな契約を結ぶか、アルバイト等を使いながら当番校とは別個に事務局を置くかの二者択一という意見も出る。たしかに、20年以上前のように、すべての事務処理を当番校がやるような事態は不可能だ。その頃は、1200人ぐらいの会員数で、それでもうアップアップしていた。いまは1900人から2000人に達しようかという数である。ただし、この間の学会事務センターは学者集団を甘くみて、おいしい商売をしていたことは確か。その結果が資金流用と負債となったのである。しかも、今はパーソナルコンピュータがある。センターがやっていた業務のかなりはPCで素人にも十分可能である。 しかし、だからといって二者択一のどちらかひとつに決められるかというと、かなり怪しい。もっと条件面や会計上の計算を行いながら、検討する必要があるのだが。結局、2時開始で、5時半まで議論がつづいた。結論としては、来年度の事務処理をどうするかの短期的な見通しをめぐる検討委員会を設置することとし、人選も理事会一任となった。しかし、学会を機構改革するとしたら、このタイミングしかないはず。いったん動き出したシステムを変えるのはそんなに容易ではない。ここで決めたことがずるするとまた10年つづくことの方が確率高い。でも、そこまで一気に変える意欲まではないようだ。 学会事務センターは、もともと東大闘争のときに学会事務をしていた研究室がロックアウトされたため、やむなく始まった学会組織のインフラだという。20年前に近代文学会が委嘱したときは、まだぼろい本郷のビルに間借りしていた。それがいつのまにか自社ビルまで建てて、資金運用に失敗したのである。それほど儲けたとも言えるわけで、ぼくなどは毎年の予算から見て、めちゃくちゃ甘いこんなセンターと組むより、はやめに自立して事務組織を作った方がいいという主張だった。学会の資金が半減するほど大きなダメージを受けたあと、あえてお金を使う選択に踏み出すのはむずかしいかもしれないけれど、この千載一遇の機会に、むしろ国文系の新たな学会事務センターを作るぐらいの覚悟で臨めばいいと思ったのだけれど、そんな意見を言っても、反応はごくわずか。みなさんもう守りに入っているんですね。せっかくのチャンスを逃しているんじゃないかなあ。 帰りに駒沢通り沿いの焼鳥屋で焼酎を飲みながら、あだごとを言って愚痴る。 |
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08.29
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相思社最終日。午前中、不知火海で打たせ舟に乗せてもらう企画だったが、台風のため中止とのこと。ならば、帰りの飛行機が鹿児島空港、最終便だったのを変更し、午前中より博多へ出発。福岡空港からの便に切り替える手続きをとった。これがまんまとあたり、何とか1時半の飛行機を確保する。空港で鯛飯の昼食をとり、筋肉痛にたえながら、機内でははやくも高いびき。結局、台風の惨禍にあわずにぶじ帰ることができたのでした。前の沖縄ツアーといい、今年の旅行はついているようです。 | ||||||||||||||||||
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08.28
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朝9時に実行委員、ボランティアが会場集合。まだ一部残っていた能舞台の設営やら、1600席というイス席の配置などの作業を行なう。おそらくボランティアの数、40〜50人前後。これにプロスタッフが加わっている。特製Tシャツをもらい、ぼくは橋懸かりのセッティング。演出の岡田哲也氏の指示を受けながら、複数の鉄骨を組合わせ、平台をのせ、ビスで固定していく。天気予報では台風16号は停滞しており、九州上陸は明日の夜らしい。しかし、風が強くても、ちょっとの雨が降っても、能は成立できない。午前中は晴れ間のなかにも黒い雲が行き来し、風もときおり強く吹いている。スリリングな気配。 午後2時過ぎ、いったん作業を終えて、同行予定のI書店の女性編集者を迎えに出る。今夜なんとしても決行するのはいいが、台風のため、すべての片づけも今夜中に行なうという。たぶん夕食をとる時間はない。夕方、汗を流しに湯ノ児温泉で風呂に入ったあと、握り飯を2つほどほお張ってから、ふたたび会場に向かう。 開場が6時、開演7時の予定だが、すでに5時半で開場待ちのお客さんたちが並んでいる。今度の仕事は、会場前の通路にかかげる竹ろうそくの準備と点火。斜めに切った竹の節に小さなロウソクを数百立てて、明かりにするという趣向だが、風が強く、火はすぐに消えてしまう。この風で大丈夫なのだろうか。ボランティアの仕事に対する指示や命令系統もはっきりせず、実行委員会の素人っぽさが浮き上がっている。 入口付近のロウソクだけにあきらめて、今度は開場の用意。ようやく開場すると、今度は座席案内が一部混乱している。いったん入場すると退場できないというルールも客を困惑させている。 上演間際になって、風が凪いできた。護岸のそばの海をのぞきこむと、直径20センチ以上はある茶色いクラゲがゆらりゆらりと泳いでいるのに気づいた。目をこらすと、あっちにもこっちにもいる。数十のクラゲが岸辺にゆらめいている不気味な光景である。そのうえ、夕映えの光が雲に異様なまでの赤みを射して、荘厳な舞台背景をつくりだしている。海の上には恋路島が岸からの照明でくっきりと濃い緑を浮かべている。この唯一無二のロケーションのなかで、新作能の奉納がはじまった。 作品評価はとりあえずおこう。この場所、この時機で上演されたことに意味があったと、ぼくは思う。「不知火」の題字を書いた胎児性患者の鬼塚勇治さんは、まったくぼくと同じ年の生まれだ。かれや患者の人たちが大勢集まった。未認定患者の補償問題はまだ残っており、それはそれで厳しく追究していかなければならないものの、これは被害者・加害者の二分法を超えて、死んでいったものたち、傷ついたものたち、人ばかりでなく死傷した生物すべての鎮魂をめざした能舞台である。風も雨もなく、恐ろしいほどの夕焼けと恋路島、不知火海の海をバックに、生死の境界を超えた姉弟の再会と妹背のちぎりを描いて、荘厳そのものだった。能としての評価はともかく、出来事としての意味はあった。あまりに苛烈無残な大量死を前に、憎悪と憤怒で狂乱した長い年月。しかし、憎悪だけでは生きられない。憤怒だけでは死者の魂は慰められない。その苦しく、傷だらけで乗り越えていこうという思いが舞台から伝わった。そのことが大事だと思う。 舞台終了が9時。さきほどの竹ロウソクも灯っている。実行委員会のアイデアも無駄ではなかった。お客さんたちの帰り道を照らす、何百もの竹ロウソクはなかなかすてきだった。さて、それから片づけだ。1600席のイス、巨大な能舞台や照明など機材を人海戦術で運び出し、すべてが終わったのが深夜12時。なお動きのはやい雲のかなたに満月がうっすらと浮かんでいた。交流会の開かれているレストランはまだやっている。すべりこんで、1時間ほど空きっ腹に流し込む。その後は相思社に戻って、4人でビール片手に談論風発。交互に宴会たけなわの最首ゼミの横をぬけ、ときに話の輪に加えてもらいながらシャワーを浴び、結局、就寝したのが午前4時。疲労の極に達していたのも当然ですね。 |
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08.27
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早朝の飛行機で福岡へ飛び、特急と開通したばかりの新幹線を乗り継いで水俣へ。毎年恒例の水俣病センター相思社に宿泊。ここは一泊、千数百円で安いのだけれど、食事は自炊。トイレは昔風の落し便所。風呂は共有シャワーのみ、冷房ナシという素晴らしい環境だ。本棟には亡くなった患者さんで、相思社に縁あった人たちの位牌をおいた仏壇もある。夜になると、大きな足なが蜘蛛も蝉も部屋に入ってくる。 今回は石牟礼道子さんの新作能「不知火」を水俣で奉納上演をするというので、その実行委員会の加勢ボランティアが目的である。会場は、親水護岸。かつて有機水銀がもっとも大量に流れ込んだ水俣湾の一角を埋め立ててつくった公園だ。この下には処理に困った多くの水銀汚染した魚介類がドラム缶につめて埋められている。死屍累々の場所。そこで能を上演するというわけだ。 先発隊の2人と合流し、前日の準備の状況などを聞き、まずは湯の鶴温泉で一風呂あびたのち、夜のリハーサルに参加。台風16号が九州に近づいているため、明日の上演がぶじに屋外で出来るかどうか怪しい。この日のリハーサルしか見られないもしれない。そんな不安から関係者もかたずを飲んで見守る。梅若六郎、桜間金記といった能役者たちの気合いの入った通し稽古を見るうちに、次第に水俣の空気に取り込まれて行くのを感じた。 相思社では、最首悟さんのゼミと合流。水俣にとりつかれた人たちが集まってきているのを実感。 |
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08.26
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森井さんや院生たちと、靖国神社の遊就館を見学。さすがにその歴史記述の虚構性にみなあきれ果ててはいたが、たくみに作られていることにも驚嘆。これじゃあ、かなりの人はとりこまれるだろうな。しかし、プレートに書かれている文章は、ほとんど日本は否応なく戦争に巻き込まれ、戦争せざるをえなくなったという論法。これで説得されてしまうということは、相当に批評性が失われているんでしょうね。 遊就館のあと、九段下の昭和館も訪れる。建設段階でもめにもめた記念館だが、こちらは庶民の風俗・生活史に焦点をあてた展示。遊就館よりはマシだけど、視点を限定することで隠している展示の文法があらわでもあった。昭和館の図書室で所蔵資料をチェック。 翌朝はやいので、院生たちと別れて帰宅。ちょうど高円寺阿波踊りの前夜祭。駅から自宅まで10分の路地が、踊り子たちと見物客でうめつくされ、倍以上の時間がかかる。いくつかの連の踊りを見たが、大太鼓の響きに心そそられ、帰宅後、荷物をおいて見物に出る。阿波踊りが来るともう8月も終りだ。鉦や笛、三味線の音色、男踊り、女踊りのすがたかたちに見とれる。何の宗教性もない戦後生まれの商店街の祭りだが、身体で受けとめるような音曲の力にやはり浮き立ってしまう。 |
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08.22
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日大や早稲田に来ているAnn Sherifさん、Leonard Smithさん、Seiji Lippittさん、David Henryさん、Chisato Murakamiさん、Richard Reitanさんをわが家に招いて、ホームパーティ。というほど広くもないし、狭いマンションなんだけど、日本の中年学者はどんな暮しぶりかをお見せした次第。Annさんの息子のIanくんも来訪。沖縄風料理などを召し上がっていただいた。ゴーヤチャンプルーを出したら、そこにスパムの肉が入っているので一気に話が盛り上がる。スパムは沖縄で多用されているミート缶だが、アメリカではママの手抜き料理の代表的な食材だそうで、しかも何の肉が入っているのか分からない怪しげなものなのだそうな。アメリカのアニメには「スパムの歌」まであるとかで、西欧史研究者のLenさんと、桃太郎研究者のDavidが大合唱、大笑いになった。でも、考えてみれば、スパムは占領軍が持ち込んだ軍需物資のひとつ。ぼくが子供の頃に給食で飲まされた脱脂粉乳みたいなもので、それをゴーヤや島豆腐と合わせて炒めた沖縄人のきびしい戦後がつまっている。アメリカでは軍隊経由の怪しげな食べ物だったものが、沖縄で重要な蛋白源となり、抵抗感をもちながらも主要な食材になっていった過程自体がひとつの歴史でもある。それがさらに、ぼくのような本土の観光客に珍しいものとしてとらえられ、銀座のショップでずらっとスパムが並ぶようなことが起きている。アメリカ、沖縄、日本の権力関係や歴史的錯綜がまさにチャンプルーされている。そういうものとして食べてみると、スパムの食感や塩加減も奥行きがありそうだ。 ちょうどNHKで「冬ソナ」最終回の日。韓国語ブームで仕事が殺到していた高栄蘭も加わって、「冬ソナ」裏話でまた盛り上がる。このなかで誰が「冬ソナ」に夢中かは内緒です。 |
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08.18
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成城大の卒業生で非常勤のときに教えた小川くん、蔵本くん、白石さんと吉祥寺で飲む。小川くんはいまやWebやパンフレットのデザインで活躍中で、最近、会社を立ち上げたばかり。何やら未来のライブドアになりそうな(?)気配で、はやくロッテを買収する話をぶちあげてくれと依頼。小川と組んで社長になった川北くんもあとから登場。2軒目でいい気分になった某くん、飲み屋で働いていた英文出身の女の子にさかんに英語で口説こうとするが果たせず。いまや英語力は重要だね。年とってて良かった。 | ||||||||||||||||||
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08.17
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今日の「朝日新聞」夕刊に出ていましたが、雑誌『短歌研究』の新人評論賞に、ポストドクターの森井マスミさんが選ばれました。森井さんは塚本邦雄さんのもとで短歌を勉強し、文理の笠原伸夫さんのもとで泉鏡花の研究を重ね、いまは喜多村緑郎文庫のデータベース作りの中心を担ってくれています。短歌評論をつづけていることは聞いていましたが、いよいよ批評家デビュー。すっかりうれしくなりました。 じつは、昨年、博士号を取得した高栄蘭さんも、つい先日、日本学術振興会の外国人特別研究員に採用されることが発表されたところです。私学の、しかも文学系の研究生にとってかなりの難関であることは申請段階から分かっていましたが、みごとにクリアすることができました。これで2年間、研究者としての身分と環境が保証されることになったわけです。藤木さんの悲報でがっくりきていたところだけに、この2つの朗報に勇気づけられています。 力のあるひとがきちんと評価されて行くこと。それが何よりも大事です。批評や研究という仕事は専門になればなるほど、なかなか理解されにくいもの。これまでにも実力があるのに正当に評価されず、ために足を洗ってしまったひとたちがどれだけいるか。研究職について活躍しているひとたちより、そこにたどりつけなかったけれど、現職のひとより潜在力にすぐれていたひとたちがたくさんいました。でも、ひとはやはり誉められてナンボのもの。相手にされずに何十年も仕事しつづけるのはむずかしい。だから、評価されることはとても大事だと思う。 日大文理にさまざまなハンディはあるけれど、踊りもおどるし、歌もうたう、その覚悟で叩きつづければ必ず扉は開く。10年前では不可能だったことがようやく出来るようになってきたと思います。国文学という学問に逆風が吹いているとよく言いますが、その狭い閉域にとどまらず、むしろ逆風を味方にするぐらいのつもりでやっていってもらいたいですね。 |
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08.13
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銀座のアップル直営店でiPodを購入。20Gのものを買おうと思っていたら、もう品切れで入荷は未定だという。泣く泣く40Gの方を買う。1万曲も記憶できるというのだけど、そんなに必要かなあ。ただし、ボイスレコーダーをつけると、録音機にもなるのがすごい。スケジュール表やアドレスブックとの同期も可能なので、かつてのPDAのようなことはだいたい出来そうです。ほくほくして帰る。 「わした」で沖縄の物産も買う。ついでに買った中江祐司監督の記録映画「白百合クラブ、東京へ行く」のDVDを見たところ、かなり面白かった。この監督の「ナビィの恋」が脱力系の琉球ミュージカルですぐれものではあったけど、こちらの「白百合クラブ」もいい。石垣島の白保で、1946年に結成されたアマチュアの素人バンドの話だが、56年たってもまだ続いていて、The BOOMと組んで東京ライブを成功させるまでが撮られている。オジイ、オバアの生活ぶりと、昭和歌謡史をチャンプルーしたようなこのバンドの下手ウマぶりがおかしい。DVDに特典映像としてメイキングの映像が入っていて、こちらも良かった。みんなに見せたくなる映画。 |
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08.12
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まだ前期の採点が終わっておらず、学術フロンティアの部屋でレポートの成績付け。6時近くまで作業して、そのあと会議。ふぁ、いったいどこまで行ったら、この泥沼から脱せられるのかな。 | ||||||||||||||||||
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08.10
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この一週間、毎日、大学に行っている。大学にいるのが好きなんじゃないかと聞かれたけれど、そんなことは断固ないのです! 沖縄旅行に行っている間にたまった書類やら成績つけやらが堆積して、研究室はもうゴチャゴチャ。この日は、新図書館のパンフレット作成の打合せ会議。9/29が竣工式なのに、これから打合せ。業者も未定というし、大丈夫か。館員たちやコンピュータセンターの人たちと、判型や原稿をぜんぶ作成して割り付けることになりそう。原案は作ったけど、こういうときはデザイナーが不可欠なはず。デザインについての理解や感受性のない、学部の**たちを相手にしているとほんと疲れます。 |
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08.04
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この日は、学術フロンティアで喜多村緑郎日記の翻刻作業をしている院生たちと打上げ会。森井さんを筆頭に、ノートPC、9台もフル稼働。でも、みんな喜多村緑郎についてちゃんと知っているのはほんのわずかなんだなぁ。金子さんお気に入りの「海晴亭」で、ベルギービールなどを飲む。 | ||||||||||||||||||
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08.02
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昨夜は11時過ぎに帰宅したのだけど、その翌日のこの日、日大の図書館研修会。午後のパネルディスカッションに出なければいけないので、旅行前に送っておいたPowerPointの資料を確認。午前中にゲストの津野海太郎さんの講演があるので、それを聞きに行く。若干、質疑に加わったあと、津野さんとそそくさと昼食。 そのあとすぐに本部を出て、浅草・東本願寺での藤木先生の告別式に列席する。炎天下のなか、大勢の人たちが見えている。昨日のお通夜もすごい数だったらしい。助手さん、副手さんたちが直射のなかで差配に加わっている。パネルディスカッションに間に合うよう、40分ほど参列したあと市ケ谷に戻る。 「大学図書館の未来像」をめぐるディスカッションは、文系を代表するのはぼくだけ。すばやく新しい学術情報を得られれば十分だという理系的な図書館像に対して、アーカイブの意義を研究・教育的価値だけでなく、それらの塊がつくりだす独特な空間と時間としてとらえることを提起。 Diane Asseo Grilichesという写真家の撮った“Library: The Drama Within”をもとに、図書館のアメニティを強調した話をする。図書館の風景を撮った彼女の写真は上記のサイトで見れるのですが、なかなかいいと思いませんか。懇親会を終えて、7時過ぎに帰宅したが、さすがにくたくたで早寝してしまう。 |
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08.01
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この日は、球紀さんの故郷・伊良部島へ。宮古島からさらにフェリーに乗って、25分。全体に宮古群島はサンゴ礁から成るため、山がなく、同時に水が少ない。伊良部島はもっとそうで、球紀さんは子供のときから水運びをしていたという。小学校の校舎は台風が来ると壊れ、生徒たちは自分たちで石垣を組み、材木で校舎をつくることから始めたという。手作りの学校! 授業は2時限ぐらいで終り、あとはそうした労働作業。兄弟がたくさんいる家庭が多く、小学生が赤ん坊を背負って学校に来ていた。その間、母親はサトウキビ畑で仕事だった。 伊良部島の向こうにさらに下地島がある。多くの浜辺を見て、そのつど美しさに息をのむ。ふたたびフェリーに乗り、今度は畑の真ん中のマンゴー園へ。盛オジのすすめたマンゴー農園で土産ものを買う。店内はマンゴーの香りで充満している。港で、知念さんが買った舟、氷上さんが文字を書いた「南風号」を見て、全行程終了。 三日間、びっしり濃密なスケジュールにつきあっていただいた氷上さんご夫婦、そして桃子さんに感謝、感謝。宮古空港でわかれ、帰京の途につく。氷上さんの疲れがこのあとどっと出ないといいのだけれど。 この間の写真をアップしました。こちらへどうぞ。 |
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07.31
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この日は、池間島から出るガラスボートに乗り、八重干瀬に行くことになる。重装備を求められ、行き道に水にぬれてもいい運動靴などを購入。この日は十五夜の満月のため、大潮で、沖合の海水が引き、海底のサンゴ礁があらわれてくるというのだ。ガラスボートというのは、ボートの船底の真ん中を透明ガラスにして、海中を観察できるようにしたもの。船に乗ると、船頭さんが八重干瀬は観光客で荒らされているから、大神島の干瀬の方がいいというので、そちらに行き先変更。行ってみると、これが衝撃的に美しい世界だった。池間島と大神島のあいだ、まさに沖合の真ん中、ふだんは2メートルほどの深さのところが浅瀬になっている。下りてみると、くるぶしぐらいのところもある。周囲はびっしりさまざまな種類のサンゴで、色とりどり。水中目がねで海中をのぞくと、それ以上にあざやかな色合いの魚たちが泳ぎ回っている。深いところはそのまま泳いでみると、水族館の熱帯魚コーナーを泳いでいるかのよう。すっかり童心にかえって、1時間、遊びまわりました。 その後、氷上邸に戻り、海水を洗い流す。出かけているあいだに、盛オジがカツオをさばいてくれていました。夜は、このカツオやアオブダイ、マチなどの刺し身を肴にする。今夜は知念さんが訪ねて来てくれて、二晩つづきでおつきあいいただく。夜中、請われるままに、知念さんが宮古民謡を披露。喝采をあびる。 知念さんとは初めて会うが、氷上さんが会わせたがっていたのがわかる。小学校の時に発病して、療養所生活を送り、差別と偏見のなかにいた人がこんなにおおらかで、魅力的である、そのことにあらためて驚いてしまう。 それにしても氷上さんという人はすごい。むかし、やはり同僚でロシア史学者の加藤史朗さんが「いままで会ってきたなかで氷上がほんとうのインテリだと思う」と語っていたが、あのときも思わずうなづいてしまった。学者稼業のヤクザなこと、大学教員だとか研究者だとか言っていることがむなしく聞こえてしまう。麻布時代を思い出しつつ、泡盛を飲みつづける。 |
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07.30
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昨晩、同僚の藤木正次先生、急逝の報告が入る。ショック。肝臓ガンだったので、もしやとは思っていたけれど、沖縄に立つ二日前にお見舞いにうかがったばかりだった。そのときは顔色もよく、後期の授業について打合せたのだが、それからわずか数日後にお亡くなりになるなんて。文理国文の書道を一身に担っていただけに残念。オープンキャンパスの拓本実演も、去年のOC打ち上げのときに1年後には面白いことやりますと、そのアイデアに子供のように喜んでおられたのだが。ともあれ心よりご冥福をお祈りいたします。 このあとの旅程をどうするか迷ったが、もし何かあれば、辻先生、竹下先生に万事をたくすことになっている。仕事のできる助手たちもいるので、思い切って、予定通りに宮古島に移動することにする。 午前中、那覇の公設市場周辺を見学し、11時過ぎに宮古行きの飛行機に乗る。搭乗すること50分。眼下には真っ青な海に点在する島々がみえる。やがて宮古空港へ。空港では、氷上さんと長女の桃子さんが迎えに来てくれていた。 氷上夫人の実家に荷物を置き、さっそく宮古見学。まず、島内のメインストリートを見た後、夫人の球紀さんが看護婦としてはたらき、氷上さんがもう25年もボランティアに来ている宮古南静園というハンセン病の療養所に出かける。絶好のロケーションに立つ療養所だが、同時に患者の自由をうばう場所でもあったところだ。知りあいの患者さんたち数人をたずね、話をする。みなさんいずれもお年寄りだが、いろんな患者さんたちがいて、みんな話し相手を待っている様子。数日後には氷上さんを中心にしたボランティアグループ「南風の会」がやってくる。所内で「納涼まつり」も予定されていて、それを待ちかねているようだった。この南静園の歴史は近代日本のハンセン病の歴史でもある。ある医師の書いた「南静園の70年」という文章を紹介しておく。 市内にもどり、平良市役所を訪問。中心街を歩く。さらに美しい海岸線を眺めたあと、西平安名岬で夕陽をみる。大きな太陽と月が東西に対面。大海に沈みゆく夕陽はたしかに荘厳で宗教的感情を呼び起こさせるようだ。 夜、ハンセン病患者たちの国家賠償訴訟原告団の宮古南静園の事務局長をつとめた知念正勝さんのお宅を訪ねる。氷上さんの長年の友人である。このあいだの台風で軒屋根が吹っ飛んだという庭のテラスで乾杯。知念さんの闘病、そして闘争の歴史や、漁師としての海での日々を肴に泡盛を飲みつづける。 |
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07.29
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那覇から一時間ほど離れた読谷村に出かける。ここで「よみたんガイド風の会」の比嘉さんと会い、朝9時から19時まで、10時間ものあいだ、村のなかを案内してもらう。ここは沖縄戦の激戦地で、米軍が最初に上陸してきた浜辺のすぐそばにあたる。避難した村民のうち、チビチリガマという洞窟では兵隊に行っていなかった老人と女性たちが子どもたちを道連れに集団自決した。比嘉さんにまず、このチビチリガマに案内してもらう。「風の会」は、中学高校の修学旅行をはじめ、総合学習・平和学習のためのガイドを組織している読谷村キモイリのグループで、比嘉さんは沖縄バスのガイド出身だそうだ。話してみて、まったくの同年代に気づく。同じ洞窟でも、千人の避難者が助かった近くのシムクガマにも行く。こちらは避難者のなかにハワイの出稼ぎから帰った老人が2名いたことにより、集団自決が回避されたという。 読谷村は、戦後、村の大半の土地が基地に接収された。北谷と同じく、広大な嘉手納基地があり、米軍の軍事訓練によって死者も出している。有名な米軍の通信施設で、「象のオリ」と呼ばれている楚辺通信所もこの村にある。ここでは通信傍受が目的とされていて、携帯電話の内容も傍受できると言われている。基地は、なぜか神社の鳥居をかたどったオブジェを入り口に設けたトリー・ステーションのように、出入りを厳重にとりしまり、周囲にフェンスをはりめぐらしたものから、まったくおおわれていないものまである。そのむきだしの場所は、いったん事あれば、軍事演習の舞台となり、グリーンベレーのパラシュート降下練習場になったりする。その降下中に、軍需物資のトレーラーが落ちてきて亡くなった小学生もいた。 この練習場のど真ん中に建つのが、読谷村村役場である。当時の山内徳信村長は、日米地位協定の条文のすき間をぬって、文化施設を基地のなかに建てることを計画。風水学などを根拠に(!)、文化施設を併設した村役場を建てたのである。これにより、米軍はここで軍事演習がしにくくなり、返還交渉に有利に働いたという。司令官が変われば、新司令官をすぐに読谷村の文化や歴史にふれさせるようにし、夫人には読谷村の織物を見せた。文化や歴史を知らせること、そうすれば軍事目的に利用することの不条理に気づくのだというわけだ。教条的ではない、実践的な基地返還闘争をつらぬいた場所、それが読谷村なのである。 実際の村役場に行ってみた。両サイドを演習場にはさまれながら、役場の展望台では基地を一望できる。敷地内には、憲法九条の碑や、村役場を建てたときの記念碑が立っている。人口3万人を超えるが、町制には移行せず、読谷村でいくという。政治家にロクな人はいないと思わされてばかり入るが、もっとも葛藤と苦悩の深い場所で、すぐれた地方行政家がいたんですね。 首里城の何倍もすばらしい景観の座喜味城趾を堪能したあと、読谷村のやちむんの里を訪ね、のぼり窯に火入れしているところに遭遇。お皿やガラスをいくつか購入。夕方、残波岬の夕陽を眺めていたら、近所でKiroroの2人が家族、スタッフらしき人々とともにバーベキューを楽しんでいました。いい風景でした。 金井さんとすっかり意気投合した比嘉さんに那覇まで送っていただき、ホテル側の「安里家」で晩飯。よく歩き回ったのですぐ熟睡。 |
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07.28
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沖縄本島、那覇に到着。東京よりはるかにしのぎやすい。気温も32度で、先日の39度近かった本土より涼しい。日陰に入ると汗もひく。ただし、紫外線は強いらしく、直射日光は肌に射すようでした。空港からモノレールで牧志駅でおり、国際通りへ。ホテルに荷物をあずけたあと、昼食。郵便局で沖縄そばのおすすめの店を聞き出し、路地裏にある「ツルちゃん」というお店で、ソーキそばを一杯食する。スープがじつにおいしい。午後、市立の焼物博物館、やちむんの里、首里城公園を見学。夕方、「うりずん」で沖縄の料理をさかなに泡盛の古酒を飲む。 | ||||||||||||||||||
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07.27
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定期健診のあと、大学へ。書類整理や学科内の打合せなどであっという間に時間がたってしまう。午後から某印刷会社の方たちと打合せ。 明日から、沖縄、宮古島に出かけます。宮古島では、麻布の校長の氷上信廣さんと会う予定。8月1日に戻る予定ですが、台風10号も近づいているようで、果たしてどうなることやら。 |
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07.25
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オープンキャンパスが終わる。学部全体では、1日目が2226名、2日目が2608名で、合計4834名の来場者があったそうです。今回は、小平さんが広報委員で、ノベルティもなかなかお洒落な小物でした。 国文学科の展示室の方も、1日目が255名、2日目が248名で、合計して503名が署名されました。前年より数字は伸びているのはありがたいのですが、いささか付属高校の占める割合が高くなっているのが気がかりです。いまはもうどこの大学もオープンキャンパス花盛りで、オープンキャンパスのはしごも当たり前の状態。世田谷の立地もそう威張れるほどではないような気がします。次の作戦を練らないといけないな。 とはいえ、ぶじにこの行事も終了。手伝ってくれた学生さんたちと教員、25名で、打ち上げ会。ゼミの女子学生から、紅野のうわさをしていたら、国文の某女性教員2名から、「紅野先生の笑顔を信用してはいけない。あれはハリウッド・スマイル、ヨン様スマイルに過ぎない」と言われたとのこと。ヨン様にたとえられるのは光栄だけど、しょせん表だけの笑顔に「過ぎない」とはね。トホホ。 |
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07.24
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オープンキャンパス初日。今回も、模擬授業のほかに、国文学科の展示室が2教室をとって行われる。従来と同じく、教員と学生による相談コーナーのほか、初版複製本や写本の展示、卒論サンプル、ゼミ展示、金子製作所の「ヴァーチャル世田谷文学散歩」や「クイズ百人一首」などのコンピュータゲーム、方言分析や声紋採取コーナーなどの企画。とにかく毎年、企画が増えているのは頼もしいかぎりで、好評の貴重書体験コーナーに加えて、今回は、書道で拓本の実演コーナーが用意された。これが大好評で、高校生が順番待ちするほど。やはり実技・実演の面白さがあり、なぜかアルバイト学生や教員までもが並んでいました。小平ゼミも強力で、東京文学散歩のほかに、1年生の前期授業による「現代日本文学ガイド」が冊子で並びました。これはなかなかの代物。後期分と合わせて、本格版が出来るそうですが、競争心がかきたてられました。
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07.10
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日本大学国文学会の総会。ゲスト講演に三谷邦明さん。発表が院生2名に竹下さん。懇親会のあと、ぼくが「鮎の塩焼きを食べたい」と叫んだため、二次会は「爺」に移動。韓国・韓神大学の光安くんもあらわれ、終電近くまで大騒ぎ。 | ||||||||||||||||||
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07.04
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大学院卒業生の夏目さんの結婚式に、大塚さんとともに出席。浜松の高層ホテルの最上階でした。遠州灘の波頭をながめながら、お2人の門出を祝いました。 | ||||||||||||||||||
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07.03
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総合教育科目「映画論1」「歴史と社会1(戦争論)」の学期末レポート課題を掲げました。 | ||||||||||||||||||
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07.02
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久しぶりの休日。新宿で行定勲監督の「世界の中心で、愛をさけぶ」を見てしまう。見てしまうと言いたくなるほど、なんだかセカチュウ・ブームなんだそうだが、まだ原作は読んでいない。だから比較は出来ないのだけれど、映画はやや長いものの、メロドラマとしては佳作なのではないでしょうか。内容的には、「愛と死をみつめて」以来の闘病・純愛物語に、「ノルウェイの森」と「ラブ・レター」を足したような話なんですね。そういうパッチワークみたいな物語を、いろいろ工夫して見せる映画にしていました。記憶や時間、手紙(テープ)と時差、配達人などの要素がちりばめられています。「GO」でもこの監督は、柴咲コウに裸足で路上を歩かせてましたが、ここでも森山未來くんが裸足で走るシーンがありました。今回は柴咲コウにブーツを履かせっぱなしなんですが、もう一人のヒロインの子にもさかんに足を見せるようにしてました。足にこだわりがあるんですね。 ただ、「世界の中心」として想定されるオーストラリアのエアーズロックの描き方がいかにも通俗的。これは原作の問題なんでしょうね。アボリジニの世界観もオリエンタリズムが出過ぎていて、興ざめ。結局、エアーズロックまで行かせずに終わるところが映画側のメッセージなのかな。 |
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