日本大学英文学会  

日本大学英文学会通信88号(2007.11)


 

ご挨拶
日本大学英文学会会長 寺崎 隆行

 今年の夏はかつてなかったほどの記録的猛暑で、その余韻が9月も半ばを過ぎた現在でも残暑の形で未だに残っていますが、学会員の皆様におかれましたは、お元気でご活躍のことと拝察いたします。
 この4月今期会長職をお引き受けいたしましてから、早半年になろうとしています。その間副会長の吉良先生をはじめとして、常任委員の先生方、また編集委員の先生方のお力添えをえて、職務が全うできていることを痛感いたしております。感謝申しあげます。
 今年度上半期は首都圏の大学で「はしか」が流行し、多くの大学で、学期途中にして学園内立ち入り禁止措置が講じられました。文理学部も例外ではなく、10日間の休講措置が講じられ、学内立ち入りが禁じられました。この「はしか」騒ぎは「日本英文学会」の年次大会が慶応大学で、「日本ナサニエル・ホーソーン協会」の全国大会が文理学部で開催されることになっているのと、まさに同じ時期の出来事でした。周知の通り、この「日本ナサニエル・ホーソーン協会」の事務局は英文学科内にあり、現協会会長は當麻先生です。日本のホーソーン研究者たちが一堂に会するこの大会開催を心配いたしましたが、後日先生から盛会のうちに閉幕したと伺って安堵いたしました。當麻先生をはじめこの協会には、私どもの英文学会会員の先生方も多数所属されています。今年度大会では特にご苦労が多かったのではないかと拝察いたします。
 私どもの学会上半期の活動に目を転じますと、4・5・6月に月例研究発表会を、また前年度から設けられた編集委員会の尽力による機関誌「英文学論叢」の発刊および「会員名簿」「英文学会通信」と併せての会員諸兄姉への郵送等の会務を行いました。なお会務開催、遂行にあたっては、その都度常任委員会の承認を得て行うようにしています。
月例会のうち、昨年度までは1月例会時に行っていた「特別講演会」を、本年度より6月例会時に行うことになっておりましたが、その「特別講演会」講師として関西学院大学の八木克正先生をお招きして、言語コミュニケーション文化の立場からご講演をいただきました。さまざまな質疑に真摯に、しかもユーモアを交えて、研究者としてまた教壇に立つ者の立場からの先生の応答には深く感銘をうけました。
夏季休暇中の8月には本学会の会長職も務められ、会の発展に尽力された田室邦彦先生の悲報に接しました。先生のご冥福をお祈りいたします。また8月にはH.ジェイムズ研究家で本学副総長を長く勤めたれた秋山正幸先生から、ご自身の手になる小説としては恐らく処女作ではないかと思われますが、小説『矢よ優しく飛べ』(南雲堂)を送っていただきました。H.ジェイムズの『使者たち』を彷彿させる作品で、感動を覚えました。小説家としての先生の次作もまた期待されます。
 学会下半期の会務も目白押しです。月例会を始めとして、12月の年次大会、「英文学論叢」発刊準備、またそれらへ向けての常任委員会、運営委員会開催等が控えています。冒頭申しましたようにこれら会務・諸行事を遂行するには、常任委員、運営委員、編集委員の諸先生、また英文学科の助手の先生方、それに勿論会員諸兄姉の協力、ご支援がなければ到底叶いません。会員の皆様の会務・諸行事への積極的な参加をお願い申し上げます。
 
 
 
英文学科主任挨拶
日本大学文理学部英文学科主任 
保坂道雄
  かつてはharvestが秋を意味する語として使われておりました。まさに秋は実りの季節、文理学部でも9月18日より後学期が始まり、キャンパスにも再び活気が戻り、勉学にスポーツにと若いエネルギーを発揮して大きな実を結んでもらいたいと願っております。会員の皆様もご健勝にてご活躍のことと拝察いたします。
 さて、本年度前学期には麻疹流行という思わぬ伏兵に遭遇しました。学生・教職員とも突然の11日間にも及ぶ休校という事態に戸惑いながらも、無事前期の授業を終了することができました。夏休み期間を削っての補講実施にご理解頂いた学生の皆さん及び先生方に改めて感謝申し上げます。
  7月21日(土)・22日(日)には恒例のオープンキャンパスが開催されました。今年の模擬授業は原公章先生と私(保坂)が担当し、それぞれ「シェイクスピア, 『ソネット』29番を読む」、「マンガで学ぶ英文法」と題して講義を行いました。両日とも4号館の会場には多数の受講者がありましたが、特に「シェイクスピアのソネット」は高校の授業では味わえない内容で人気がありました。また、学科企画に関しましては、昨年同様英文学科研究室のある7号館にて実施し、3階のフロアーをフルに活用して学科紹介に努めました。学科会議室では、入学相談コーナー及び検定英語・留学紹介コーナーを設け、同時に語学研修のビデオ上映も行いました。大学院演習室と通路スペースを利用した場所では、毎年人気のある「イギリス文学の世界」やパワーアップした白鯨のオブジェとアメリカ文学の紹介、それに待ち時間まで生じた英語発音矯正体験コーナーなど、いずれも来場した高校生及びご父兄で活気に溢れておりました。中でも英文研究室入り口に設けた「本場の英国紅茶を飲みながらネイティブの先生と話そう」のコーナーは、パターソン先生及びハーディング先生を中心にいつまでも英語の歓談が絶えないほど人気がありました。今年は麻疹休講による補講の影響で準備期間がほとんど無く、前日・前々日は夜9時過ぎまで、副手・助手・大学院生を中心に奮闘頂き、その甲斐あって2日間の英文学科来場者数も過去最高の800人程となりました。この場をお借りして改めてご協力頂いた皆様に御礼申し上げます。
 7月29日〜8月21日には、12年目となるケント大学での夏期英語研修が行われました。26名(うち18名が英文学科の学生)の参加者があり、無事に研修を終えることができました。今年は、主にポンド高の影響で研修費用が大幅に上がり、やむを得ず期間を1週間短縮し3週間の研修としましたが、内容は例年にも増して充実していたと聞いております。引率頂いたハーディング先生及び閑田先生の適切な指導の下、学生一人ひとりの心に残る研修になったことと思います。
 後期開始直後の9月22日には、付属高校生向けの体験授業が行われました。松山幹秀先生に1時限目(『前置詞から見る、英語の外界世界の捉え方』)・2時限目(『受動文の成立と仕組み』)を、野呂有子先生に3時限目(『文学からミュージカルへ』)をご担当頂きました。各回とも大変盛況で、英文学科での授業(英語学・英米文学)の面白さを堪能してもらえたのではと思います。
 さて、近年日本語の誤用がよく話題に上ります。つい最近も文化庁の調査で、「上や下への大騒ぎ」(誤答率58.8%、正しくは「上を下への大騒ぎ」)、「舌の先の乾かぬうちに」(誤答率28.1%、正しくは「舌の根の乾かぬうちに」)や「流れに棹さす」(「流れに逆らって、勢いを失わせること」と逆の意味に解釈している人が62.2%もいる)等の発表がありました。まことに、こうした日本語の知識は大切にしたいものです。たとえば、夏目漱石の『草枕』の有名な冒頭部分、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」で、「情を邪魔する」と解釈しては後が続きません。本来「流れに棹さす」とは「棹を水底に突き刺して船を進める」という意味で、ここでは「情にほだされ、そのまま流される」という意味でしょう。ちなみにこの冒頭、智・情・意は、人間の認知活動にとり重要な三要素と考えられており、漱石の卓越した才知とユーモアが垣間見られます。
 ところで、こうした言葉の乱れをすべて忌むすべきものと考えるべきでしょうか。「全然平気」や「あの動物園ではパンダが見れる」等は現在多くの若者が違和感なく使っています。また、ある調査によると大学生の6割が「雰囲気」を「ふいんき」と発音すると嘆いていますが、現在「山茶花」を「さんざか」と読む人は皆無でしょうし、birdの綴りはbridが正しい(現在の発音は古英語bridの音位転移)と主張する欧米人もいないと思います。ことばは常に変化します。ことばの誤用も8割の人が正しいと思えば正用となります。それが止めることのできない川の流れだと思います。ただ、その変化の要因の説明と過去の大切な遺産の正確な解釈は、言語の歴史を研究する者としての勤めの一つであると感じております。
 この夏、『般若心経』を読む機会がありました。大乗仏教の基本経典『大般若経』六百巻の精髄をわずか二百六十二文字に収めたこのお経はまさに仏陀の深遠な思想を凝縮したものと言えると思います。私などには、その内容を説明することなど到底できませんが、その最後の句が強く印象に残っております。それは「羯諦羯諦(ぎやていぎやてい) 波羅(はら)羯諦(ぎゃてい) 波羅(はら)僧(そう)羯諦(ぎやてい) 菩提(ぼじ)薩婆訶(そわか)」という言葉です。『般若心経』の多くは、「色即(しきそく)是空(ぜくう) 空即(くうそく)是色(ぜしき)」(「色」(物質的現象)はすなわち「空」(実体が無いこと)であり、「空」はすなわち「色」である)のように、漢文の素養があればその表面的意味を推測することは可能です。しかし、この最後の文言だけは意味不明で全くお手上げです。実はこれにはちゃんとした理由があります。それは、この部分がサンスクリット語(gate, gate, paragate, para-samgate bodhi svaha. “O wisdom, Gone, Gone to the other shore, landed at the other shore, svaha!”)からの全くの音写ということです。なぜ、この部分を漢語に訳さなかったかの真意は玄奘三蔵に聞かないとわかりませんが、その後の仏教学者たちによるとここが翻訳されていないことに意味があるようです。意味がわからないからこそ意味がある。すなわち、真理は決して言葉で説明できるものではなく、悟るしかない。その悟りに至るにはひたすらこの真言を唱えるべしというわけです。
 仏陀の言葉であるサンスクリット語は印欧語の一部であり、英語を含むヨーロッパの言語と源を一にしています。宗教とは言うなれば当時の思想・哲学の集大成。仏陀はキリストが誕生する500年程前に生まれたと言われていますが、ともに当時の形骸化した宗教(バラモン教やユダヤ教)に対し失望し、弟子とともに新たな教えを広めていきます。現存する聖書も仏典もすべて後生の者たちによる聞き伝えである点もよく似ています。もちろん、その教えの中身は異なりますが、仏教もキリスト教も当時の新興宗教として、新たな思想・哲学を生み出した点では共通しているわけです。歴史言語学を学ぶ者として、『般若心経』の中に西洋と東洋が交差する姿が見てとれることを誠に興味深く感じました。
 この2年程、学部では旧約聖書の創世記(17世紀の欽定訳聖書)を、大学院では新約聖書の四福音書(10世紀のWest Saxon Gospels)を読んでおります。もちろん、中心は語学的な議論ですが、素人ながらその内容の奥深さに感銘を受けております。仏典にしろ、聖書にしろ、人間の叡智を結集したものであり、何千年という時の流れの中でさえ、その輝きは決して衰えることがありません。ことばの研究に携わる者としてこうした作品に出会えたことは誠に幸せであると感じております。日本人はよく無宗教と言われることがありますが、ある意味で世の中を公平に見ることができる素地を持っているようにも思われます。今こそ、宗教的精神から一歩退いて、その思想・哲学を眺め直してみることが必要な時代なのかもしれません。
 最後に、本年度より主に理系学科を中心に導入されたレベル別クラス編成が次年度は文系社系にも拡大する予定でおります。ご担当の先生方には曜日や時間の調整等ご無理をお願いすることがあるかもしれませんが、文理学部の英語教育発展のため、ご協力いただければ何よりと思っております。学科としても専門科目の再検討を含め将来のカリキュラム改訂に向け、議論を深めていく時期になっております。今後も会員の皆様より忌憚のないご意見を頂ければ有り難く思います。何卒よろしくお願い申し上げます。

 
 
H. スウィート その墓と家を訪ねて
元国際関係学部教授
谷口 富男
 Henry Sweet(1845-1912)はイギリスの音声学者・英語学者で英語学の建設者であった。35年まえ、私はロンドン大学留学(1972-73)、真夏6月Paddington駅から汽車に乗ってOxford駅に向った。途中Reading General附近で河が見え船が浮いていた。Oxfordに着きNo.4のバスに乗り、Wolvercoteに着く。しばらく歩いて市の共同墓地に着く。彼の墓はSection E2のNo.57にあった。たまたま墓守の人に案内され、墓碑はCeltic Cross Graniteであり、またこの墓の近くにも、Celtic Cross Graniteが3つほどあった。Sweetの墓にはかなりの雑草が生えており、私がカメラを向けると墓守が除草を始めたので、私も手伝い、作業が終って、二人で合掌した。この親切な墓守はSweetが住んでいたRawlingston Roadまで送ると言ってくれたので、その世話になった。家の近くで下車した。暑い、実に暑い!そこに二人の老婦人が居たので、こんな暑いことを何と言うかと尋ねてみると、Flaming June or clear sky or beautiful blue sky, etc. 本当に暑い。ついにSweetの居住地に着いた。立派なビクトリア風の三階建のものだ。たまたま老婦が留守番中で5時には帰宅するとのことで、その間近くのBalliol College(1263年創設。Oxfordでは2番目の古さであり、Sweetが入学した。)とTrinity College(1555年創設。Oxfordでは15番目。)を見学した。再度訪宅すると、現在はMr Brain(ジャーナリスト) Mrs Brain(Lady Margaret Hall(1878年創設。)Senior lecturer)この夫妻は8年前から住んでいるとのこと。以前は1953年エベレスト登山探検家E. Hillaryと共にした有名なNoyce家族が住んでいたとのこと。20疊ほどある応接間が一段あがったところにあり、広い庭はよく手入れされ美しい花々が咲き、静かな邸宅であった。親切な接待を受けた。せっかくOxfordへ来たのだから、宿泊所を案内しましょう。これはきっと記念になるであろうと提案してくれたので、承諾すると、車で案内された。その場所は3 BANBURY ROAD OXFORDにある“The Old Parsonage Hotel”で、13世紀に建てられ古く、そこには16人のUniversity College(1249年創設。Oxfordでは最古のもの。)の学生達が寄宿しており、夕食後6人の学生達と談話をしていた。一人の学生が突然隅の方へ行き、泣き始めた。理由(わけ)をきくと彼は言う。最近Oxford大学はCambridge大学に負けてきた。そのわけは、CollegeやHallが男女共学を始めたからだと言う。その頃はすでに3つほどのCollegeは開始していた。現在では相当数男女共学になっている筈である。
 Sweetは幼少の頃から社交性には乏しく、他にはしばしば風変りな印象と誤解をもたれた。無愛想であり、その上毒舌を吐くので、Henry SweetをBitter Sweetと綽名をつけられたそうだ。一時Bathに居住したりしたが、最後はこのOxfordのRawlingston Road(1895-1912)に定住した。彼等には子供がないまま1912年4月30日、悪性貧血のため、亡くなった。享年67才。
 
 
英語カリキュラム改定の反省点
日本大学理工学部の改定を中心に
 
理工学部一般教育教室
頼 住 憲 一
 
最近、少子化による大学入学人口の減少、学力の低下、学生の精神年齢の若年化などの社会的要因により、大学の意図とは関係なしにカリキュラムの改定が迫られている。このような状況下で各大学、各学部では独自のカリキュラム改定を行っていると思慮される。筆者の所属している理工学部でも、平成20年度から新カリキュラムに移行するため全学部的なカリキュラム改定を行った。一般教育の英語カリキュラムも全面的な改定が行われたが、種々の反省事項が残った。理工学部の英語カリキュラム改定に関し筆者の気が付いた反省点を紹介し、今後行われるであろう各方面の一般教育英語カラキュラム改定の一助になればと筆を執る次第である。
カリキュラムの特徴と科目内容
今回の英語カリキュラム改定に盛り込まれた特徴とこれを反映した科目内容を挙げると次のようなことになる。

特  徴
① 各科目を2単位の通年制から、1単位の半期制への移行
② 年数回の統一テスト(TOEIC Bridge)による習熟度別クラス編成
③ 英語習得達成目標の設定
④ 補習的内容を考慮した上記習熟度別クラスの設置
⑤ 授業へe-learningの積極活用(及びe-learningによる自習環境の確保)
⑥ 授業の教養的側面から実用的側面重視への移行

科目内容
・1年次生を対象とした基礎的科目(必須)
従来の講読、文法、作文、会話等英語音声の基礎的力の養成を目的とする。1年次後期終了時点での統一テスト(TOEIC Bridge)で130点(要検討)を達成ガイドラインとする。習熟度別クラス編成。
・2年次生以上を対象とした応用・実践科目
基礎的科目の応用力と実践的英語力(英検、TOEIC、TOEFLなど)の養成を目的とする。習熟度別クラス編成。2年終了時TOEIC 450点を達成目標とする。
・2年次生以上を対象とした会話科目 
 授業内容は目標を明確にした4つのクラス(プレゼンテーション、ビジネス、状況別、比較文化など)を設置する。
・2年次生以上を対象とした科学技術系科目 
 科学技術にかかわる用語・数式・図などの含まれるような英文を講読する。又、後期では工業英検3級ないし4級に対応した演習を行う。

英語教員の関与の薄い英語カリキュラム編成要綱
以上が、理工学部英語の新カリキュラムの概要であるが、このカリキュラムには理工学部当局の英語教育に関する意図が色濃く反映されている。その理由は、理工学部の英語を重視した「科学技術教育」と、昨今の文部省の提唱する「卒業時における質の保障」に由来している。それゆえ、実用教育志向が強まり、教養的側面が疎かにされているように感じざるを得ない。学務委員会のカリキュラムに関する小委員会や学部執行部でカリキュラム編成要綱の原案がきめられ、編成要綱は学部教授会で決定された。英語教員はこの要綱に従ってカリキュラムを作成するよう要請され、教授会決定事項であるので、これに逸脱したカリキュラムの編成は許されなかった。
一般的に言って、従来の大学カリキュラムは、授業内容やテキストの採用などに教員の教育思想や意向が強く反映できるものであった。しかし、今回の理工学部の英語新カラキュラムは教育課程が組織化され、指導要領で教育を行う高等学校や専修学校のようなものとなっている。各授業科目に教員の意見の入る余地は、かなり制限されている。
カリキュラム改定に英語教員の声が強く反映されるような機会は、今回はなかった。このような状況が続くと、教員を単なる教育マシーンとしてしまう恐れがある。又、大学教育の崩壊に繋がってはしまわないだろうかという懸念さえも持ってしまう。この事態を招いた背景と反省点として、以下の点を揚げてる。

Ⅰ大学全入時代を迎えた英語教育の理念の明確化
 大学全入時代を迎えて学生の英語の実力が多様化してきている。当たり前で当然過ぎる話ではあるが、旧態依然とした英語教育の価値観でこれに対応することは難しい。残念ながら、理工学部の英語教員間で教育理念について、しっかりした話し合いの場を持ったことがなかった。英語教員の明確な教育理念が学内の英語教育方針となることに気が付くべきである。この教育理念がなければ学内での、英語教員による英語教育の信用は失墜するであろう。結果、理工学部のカリキュラム改定に、英語教員以外からの意見が強く反映されてしまっている。

Ⅱ教養英語か、実用英語か、教員間の意思の確認と、英語教育における教養と実用の比率の明確化
 大学における一般教育の英語教育は、実用英語に重点を置くのか、または、教養教育に重点をおくのか。この問題は、英語教育を論ずるときには、いつも、英語教員以外から出される意見である。
専門学科の教員は、実用としての英語教育を求めている。しかし、学生の現実の英語学力を考えると実用教育の実施には困難を感じる。どちらか一方の教育では学生の英語学力は向上しない。カリキュラム改定に際してはこの比率を十分に検討すべきである。

Ⅲ英語教育または英語について、学内の教員との日ごろからの意見交換と情報収集
 英語教育について、語学系以外の教員に少なからず誤解が存在している場合が多い。そのため、安易な語学教育論で英語教育やカリキュラム改定を見られてしまう。英語教員は積極的に他の教育と意見交換を行いこの弊害を無くすべきである。

Ⅳ新しい方針を取り入れる場合は、その方針の十分な吟味を行うべきである。
 たとえば、「統一テストとしてのTOEIC Bridge」や「e-learningの積極活用」などが新しい方針として盛り込まれたが、果たして、TOEIC Bridgeが理工学部学生の学力判定に適しているかの、e-learningが学力向上に効率的に使用可能なのかなど、十分な検討がなされないまま、学部当局の意向で導入されてしまった。TOEIC Bridgeやe-learningには多大な費用が必要となる。効果が無ければこの費用は無駄になってしまう。

 以上であるが、カリキュラム改定には、カリキュラム実施について沢山の現実的問題が存在するように思える。他大学や他学部ではカリキュラム改定でどのようなことを経験したか、この問題についての情報をお持ちする。
 
 
古 谷 メ ソ ッ ド
                             西 村 克 彦
 
 1.チャーチルの英文法学習法
 第2次世界大戦中、ナチスドイツと勇敢に戦うことを英国民並びに世界の人々に訴え、反ナチス連合国を勝利に導き、自由ヨーロッパを守り、のちにノーベル文学賞を受賞した、イギリスの偉大なる政治家、ウィンストン・チャーチルは文学者としても20世紀のイギリス文壇にその名を留めています。
 文才豊かだったチャーチルも、少年時代には英語の文章を正しく理解することは容易でなかったようです。大森実の人物現代史4「チャーチル」(講談社)の中に次のような一節があります。
  「ソマヴェルという英文法の先生が、黒、赤、青、緑の多色インキを使って、主語、動詞、目的語、関係詞などを、色分けして、文章構造の解剖学的教育をやってくれたことに対して、チャーチルは、『英文の基本構造を骨のズイまでしゃぶることができた』と回想している。」                    
 チャーチルに英文法を指導したソマヴェル先生が行った、英語の語・句・節の色分けによる指導法は、英語を構造的に徹底的に把握させする手段でありました。英国人のチャーチルでさえも、正しい英語を習得するのにかなりの苦労をしたことがうかがえます。
 チャーチルが英文法の基本を会得したという、ソマヴェル式指導方法は「古谷メソッド」と一脈通じるところがあるように思います。
 
2.古谷先生の孫弟子
古谷専三先生の名前は、現在の日本大学英文学科においては伝説的なものになっているかもしれません。古谷先生は昭和時代の前半に「古谷メソッド」の名によって、受験英語や学習参考書の世界で一世を風靡し、のちに我が日本大学英文学科において教授として後進の育成に心血を注がれました。
無尽蔵とも思える英文法の知識を19の原則にまとめた「古谷メソッド」による英語の研究方法は、すべての英語の語句を、品詞を中心に機能的に捉えて、文法と意味との融合を図ることにありました。「古谷メソッド」は文法が文法のために存在するのではなく、内容理解に到達するための実践的な文法なのです。いわば、英語理解のためのマニュアルといってもよいかと思います。
さて、話は古谷先生に出会うより少し前にさかのぼります。私が高等学校の3年間、英語の薫陶を受けたのは古谷先生の弟子の一人である岩崎恭平という先生でありました。この先生は日本大学英文学科の卒業生ではなく、法律学を専攻し、のちに英語の教員となった先生でありました。
高校一年生の時、岩崎先生から次の英文によって、「古谷メソッド」による分析的英語学習法の第一歩の手ほどきを受けました。
   When asked what one thing helped him over his greatest obstacle, Henry Ford replied: “The preceding one.”
この引用文は古谷先生の『英語の徹底的研究(基礎篇)』(績文堂)の第1章に収録されている英文でありました。古谷先生は解説の中で、「これは僅かに17語から成る小さな一文ですが、これを徹底的に研究しますと、英語学習の根本鉄則の半分以上をわがものとすることが出来ます。」と、A5版の書物で45ページに及ぶ紙幅を費やして英語研究の根本鉄則を詳しく述べています。
 この一文を利用して、岩崎先生は45ページ分の解説文に匹敵する解説を高校1年生の私たちにしてくれました。それまで、なんとなく英語が分かるが、内容のある高等な英文に出会うと皆目理解不能に陥ったり、理解した積もりでいてもどこか曖昧さが残る模糊とした学習をしていた生徒たちの大半は「古谷メソッド」に出会い、英語学習の方法論について目から鱗が落ちるような印象を受けました。
 この鉄則(古谷メソッド)によって3年間の英語学習の指導を受けた私達に対して、岩崎先生は「君たちは古谷先生の孫弟子である。」とよく言っていたものでした。
 
3.古谷先生の直弟子となって
 英語は「物を書くにはやさしい言葉ではありませんし、その文法ときたら手もつけられれぬほどむづかしい」(瀧口直太郎訳)言語であると、サマーセット・モームは『文学と人生』という読書論の中で述べています。ノーベル文学賞を受賞したチャーチルでさえ、若き時代に英文法習得に徹底したトレーニングを受けていた事実からもモームの言っていることはうなづけます。
今日、英語学習の方法が、英語の精緻な理解力と鑑賞力を練成することよりも、直感に頼った、速読・速解力を求めることに重点が置かれる傾向にあります。この学習方法の意味がわからないことはありませんが、果たしてこれだけで、英国人にとっても難しい文法を擁し、チャーチルも習得に苦労した英語の実力がつくのでしょうか。
 古谷先生から、学生として、助手として、また、のちに教員となってからも薫陶を受け続け、「古谷メソッド」の組織だった学習方法の正当性を信じ、弟子の一人として誇りをもってそれを受け継ぎ、教壇でそれを実践してきました。
 古谷先生は「古谷メソッド」を、講義で直接指導したり、書物によって間接的に伝授したりして、子弟の系譜がたどれないほどの多くの弟子を全国に生み出しました。英語・英文学以外の畑違いの人から、古谷先生や「古谷メソッド」の話を聞くことがあり、恩師の蒔いた種が今も生き続けていることを知って、嬉しさと驚きを感じています。
 
 
 
学問と教育の真の意味を求めて
 
             日本大学文理学部国際関係学部工学部講師 岡田善明
  私は日本大学英文学科を昭和50年に卒業した後、商社の仕事をしました。当時、青葉若葉に魅せられて、自分の人生の意味を真に考え始めました。あの時ほど自然の青葉若葉の深遠さが強く心に感じたことはなく、青葉若葉を意味する職業に就きたい、それは教育と学問の仕事である、と気づきました。そして大学院で英文学を専攻し英語教師になる決心をしたのです。
 昭和53年に日本大学大学院に入り英米文学を専攻しました。授業でワーズワースのThe Preludeを読んでいるとき「自然との交感」がでてきまして、私が体験した感情であることが分かり、自然は人間に生きる道を指し示してくれることを学びました。
 その後、昭和55年に神奈川県立寒川高校そして昭和59年から綾瀬西高校に勤務し、共に緑に囲まれた職場に勤務しながら、自宅では「自然との交感」を体験した弘法大師空海やエマソンの著作を読み始めたのもこの頃で、Natureを読んだとき自然と人生の意味と目的を教えられました。私は空海とエマソンの思想により、人生の意味が自然を理解し利他の精神を学ぶことにあり、また教育や学問の目的は人間の利他の精神を養い社会を平和に繁栄させることであることを学びました。
 1992年度、神奈川県から米国のメリーランド州に交換教員として派遣され、高校と中学で日本語と日本文化を教えました。米国の教員と一緒に仕事をし、多くの授業参観を通して、米国の授業の本質と目的が生徒の生きる力の養成、利他の精神の育成及び社会福祉と繁栄にあることに気づき、いろいろと教育理論や教育哲学を調べた結果、その源泉がプラグマティズムの哲学にあることを知りました。夜はセントメリー大学に通い古典文学の授業をとり、ホメロス、オビディウス、プラトンの作品等ギリシア・ローマの古典文学そしてコーランや聖書の解釈を学び論文を書きました。米国の大学には専門に関係なく今でも文学による人間性の陶冶に重点が置かれていて、日本では失いかけている教養課程の人間性育成の教育の本質を米国の大学は失ってはいないようです。
 翌年、神奈川県立有馬高校の外国語コースが新設され、日本に戻り私が担当することになりました。米国のプラグマティズムの教育を基本に、出来るだけ英語を用いて授業を行いながら、コミュニケーションの授業にも文学的な内容を入れ人間性の育成も行いました。このプラグマティズムの思想は更に調べていくとエマソンの思想に源があり、エマソンを本格的に研究し、またエマソンに影響を与えたコールリッジの作品を読み論文を書き、更にコールリッジに影響を与えたカントの著作を読みあさりました。エマソンやコールリッジの思想はミルトンから大きく影響されているので、ミルトンの著作も多く読み論文を書きました。そしてミルトンに影響を与えたシェイクスピアまで遡ってきてしまったのです。
 5年前から3校の高校の教頭として管理職の立場で学校創りに励み、教育や学問の本質を考えてきました。教育改革で生徒の個性や技能や能力を伸ばし、魅力特色を高めるように文科省が影響を与え、それに基づいて私も改革を行ってきました。しかし、ずっと気になっていた点は、日本の教育改革が時代のニーズに合わせた生徒の個性や技能・能力を伸展させることは賛成ですが、一方で普遍的な学問や教育の本質、すなわち教育や学問を通した人間性の育成を見失いつつあるという点です。英語教育もコミュニケーション能力や語学的知識等の技能・知識面が重視され、文学・哲学・思想等から学ばれる言語文化による精神性の陶冶が忘れ去られてきているようです。生徒や学生の個性・技能・能力は正しい人間性の上に養われてこそ意味があります。現在の日本の低迷は、不正や不祥事・犯罪・いじめ・自殺等々、精神性の低迷が根底にあり、人間性の欠如によりもたらされているのです。人間性の向上や利他の精神を教育や学問の第一の目的に置かなくては、どんなに教育や学問の改革が行われようと、真の社会発展はあり得なく、むしろ社会は崩壊していきます。教育改革の基本は生徒の人間性と生きる力の育成に置かれるべきで、個性や技能・能力はその後にくるべきであると信じてきました。明治維新をもたらした精神を育成した吉田松陰の教育理念の根本には文学による人間教育があり、また明治時代の真の国際人を育成した英学精神には文学や哲学による人間性の育成があったのです。実用のため英語のみでオーラルの授業を行い、英語学を専門にし日本の英語教育の基礎を作った岡倉由三郎先生は、英語教授による人間性の教育であるので「英語教育」と命名し、英文学研究の普及にも貢献しました。言語行為の目的は人間の意志や精神を伝達するのが第一の機能にあり、言語によるその文化の人間の精神性の教育は言語教育では大切なことで、国語教育では古典文学や現代文学の学習で日本人の精神性の伝授がなされているのに、英語教育で忘れ去れて来ているのは日本の教育の不備と感じます。言語はその文化の精神性に密接に関連しています。世界的な応用言語学者のロッド・エリス氏は今世紀始めに「日本ではまだ認識されていないが、世界的には外国語としての文学教育の価値の見直しが始まっている」と述べ、私が3年間受講した昭和女子大大学院の特別講義の授業で、文学教材の英語のオーラルによる指導法を4週にわたり講義しました。言語教育の目的は、意思伝達の技能とその言語を通じた人間性の育成にあると信じています。
 このような思いを深く持ち、真の学問と教育を追求したく、県立横浜桜陽高校教頭をこの3月に退職し、4月より日本大学の教壇に講師として立たせていただいています。より良い教育を求めて、授業中英語を用いて学生の個性・能力・技能の面を高めながら、人間性の育成にも繋がる授業を心がけています。また人間性追求や社会の発展を自らの学問の基本に置いて文学を中心に学問研究に励みたいと考えています。
最後に、本英文学会が日本が忘れかけている教育の本質である文学による人間性の追求を学問の根底に置いて英米文学・英語学を研究している価値ある学会であり、日本の教育と学問の真の向上に不可欠な学会であることを確信し、その発展を祈念しています。
 
 
 
「English Café という考え方」
日本工業大学専任講師 杉本宏昭
 
 私が出講している日本工業大学は、名前の通り工業大学である。しかも工業高校の生徒たちを主に受け入れていると言えば、学生たちが英語をどのように考えているか想像がつくと思う。
 非常勤講師として出講していた時、思ったこと。「学生たちは、英語が嫌いだ、自分の人生に英語は必要ない、と思っているのではないか。でももし就職して海外の工場か何かに出向しなければならなくなった時どうするのか?」また「もし英語が嫌いなら、英語の面白さを伝えてあげよう。でもどうやって? 文法がそんなに面白いのか? 単語を覚えるのも? 英会話。でもこの授業はリーディングの授業だし。」このようなことを考えていた。 
 日本工業大学には英語教育センターという場所があり、もちろん私もそこに所属している。センター創設のコンセプトは、学生の面倒を見るということである。でも、どうやって? 個別対応? 全学生4800人を? センターで企画したプログラムの実行? たとえば文法やり直しドリルの時間とか。旅行英会話はウケルかもしれない。そうだ、カナダのサマースクールに合わせてホームステイ英語はどうかな? それと・・・それと・・・
 時間は? 何曜日、何限、誰が担当? 学生は何人くらいを見込む? 部屋のキャパシティーからいって最大15人。 内容は? スケジュールは? よしこれでいいだろう。あとは学生が来るのを待つのみ。
 しかし、来なかった。学生の面倒をみる場所でありながら、あまりにも学生たちのことを知らなかったから。学生たちのあいている曜日は、時間は? 学生たちは英語に何を期待しているの? そもそも学生たちは英語を勉強したいの?
 別件で、1年生で英語を履修している900人の学生にアンケートを取った。その時の結果は私が今まで思ってきた全てを覆した。学生たちは、英語の勉強が嫌いなだけで、英語自体には興味を持っているということだった。この結果を知った瞬間に、このような考えが浮かんだ。「もしかしたら、彼らは今まで英語に接する環境が合わなかったんじゃないか? 彼らは英語に対してモチベーションがあるんだから、そのモチベーションをどんどん伸ばしてやるべきなんじゃないか? そうだ! でも、「伸ばす」? 教科の響きだ。いや、「楽しむ」と言うほうがいい。楽しいからいいんじゃないか?」
 このように思った時、私のイメージはすでに「カフェ」だった。「カフェ」は勉強じゃない。なのでスケジュール化したプログラムは組まない。まして教科としての英語でもない。だから点数をつけることも、宿題をだすこともしない。スペースがある。一日中出たり入ったりする学生。こっちの角では映画を見ている。あっちの角では外国人とゲームをしている。ここではパソコンでTOEICの練習。あそこでは私に質問をし、そのすぐ向こうではソファーで多読の本を読んでいる。
また違う時間には外国人と一緒にカラオケをする。
外に飛び出してはどうか? 学生が外国人を連れてキャンパスを案内する。逆に外国人がキャンパスを案内してあげる。一緒にサッカーをしてもいい、卓球でも、キャッチボールでもいい。お昼を皆で食べてもいい。
しかもこの「空間」は日本じゃない。外国だ。全て英語。遊び道具は英語。楽しく遊んで意味がある。イングリッシュ・カフェなんだからコーヒーを出してもいい。でも、さすがに、それは、無理かな。
  カフェでお喋りをし、くつろぎ、本を読む。一日中居座る学生もいるかもしれない。一瞬しかいない学生もいるだろう。でもそれでいい。みんながカフェに立ち寄り、英語の匂いを存分に嗅ぎ、そして吸った息を下手くそでも英語で吐き出せばいい。英語に接して楽しんでいる別の自分が見つけられれば最高にうれしい。
 この夢を実現するにはまだまだ足りないことだらけ。マテリアルも、人も、システムも。そして何より私自身のパワーが足りない。でも必ずやり遂げたい。「役に立つ英語」よりも先に「楽しい英語」をしたいから。英語に立ち向かえる学生を作りたいから。
 
『この6ヶ月を振り返って』
 
東北女子大学 助教 杉本久美子
 
青森県弘前市にある東北女子大学で働かせていただくようになってから早いもので6ヶ月が過ぎました。こちらに来る前は、大学での面接やら引っ越しやらで怒涛のようでしたが、勤務し始めてからは毎日静かにそして着実に時が経っていく気がします。
 もともと青森県出身とはいえ東京生活は学生時代も含めると10年を超えており、弘前
での生活になじめるのか不安もありました。同じ青森県でも私は南部出身、弘前は津軽になるので、方言やら土地や人の気質に馴染めないのではないのかと思ったからです。地図上青森県の中心に八甲田連峰があり、右側が南部、左側が津軽と思っていただければイメージしやすいと思います。こちらに来てたげ驚いたことは(「たげ」とは津軽弁で「すごく」という意味で驚き加減で「たんげ」になったりします。)学生たちの純朴さでした。初めて大学を訪れたとき、廊下ですれ違うほぼすべての学生たちが「こんにちは」と挨拶をしてくれたとき、驚きというよりもむしろまだこんな学校が残っていたのだと感激したことを覚えています。礼節を重んじる校風なので、講演等で来校された方々からは「大和なでしこはまだいたのですね」などとおっしゃっていただいたりします。東北女子大学は一学部二学科と小規模校ではありますが、特に児童学科の学生たちはほとんどが教員志望のため、卒業生の5割ほどが幼稚園、小学校あるいは高等学校の教諭としての道に進んでいきます。そのためこちらに来た当初は「どうしたら教師になれるのか」「教師をしていて一番つらいことは」などといった質問をよく受けました。中学校・高等学校の教員免許課程とは違い、幼稚園、小学校の免許課程は演習・実習も多く、学生たちは週6日ほぼ毎時間授業があるという厳しい状況ながらもひたむきに勉強に取り組んでいます。根が純朴で真面目な学生たちが多いので、中には授業についていけない自分をふがいなく思い、そこから不登校や精神的に不安定になるものもいます。また経済的理由から退学せざるを得なくなり辞める学生、経済的には問題なくとも早く社会に出て自立したいという思いから辞める学生などもおり、この半年の間に実に様々なもの・様々な人生を見た気がします。退学する学生を見送るとき、自分が教師として学生たちにどれほどのことができたのか、もっとできることはなかったのか考えさせられます。その度にまだまだ短い経験の中からできること伝えられるもの少なく、自分の浅さやいたらなさを痛感します。ですが今はただ自分自身が英語教師として勉強し続けるだけでなく、一個人としてまわりから多くを学びそれを学生たちに伝えていけたらと思っています。こちらに来てからは、非常勤で授業だけしていた頃よりもやらなければならない仕事も増えました。手を抜こうとすればいくらでも抜けるかもしれませんが、教師としての指針である周りの先生方の暖かい心遣いや授業や学生たちに対するあり方を見る度に、自分自身が真摯に取り組んでいかなければならないと思います。そして何よりまっすぐに歩んでいる学生たちに、私は支えられている気がします。こちらに来てつくづく思うのは、この仕事は教えることよりもまわりから教わることが多いのではないのだろうか、ということです。ときには東京といういわば前線から退き、地方にいるという現実は時として教師としては学ぶことが多いけれど研究者としては良かったのだろうかという憂いももたらしますが、その憂いを糧にして今は以前より研究のほうにも力を注いでいます。
弘前に引っ越してきた当初は雪化粧をしていた岩木山も夏の雄々しい姿から、今は燃えるような紅葉の季節に向かって徐々に色づき始め、この文章がみなさんの目に触れる頃にはまた岩木山もうっすらと白くなっているのではないかと思います。教師として研究者としてまた一個人としてこの与えられた出会い、機会を大切に今後も日々頑張り続けていきたいと思っております。
 
outputする勇気を
 
日本大学櫻丘高等学校 教諭
中原 友香子
 「先生,部屋の鍵が開かないんですけど!」
昨年の修学旅行でオーストラリアへ行ったときのことだ。ある生徒が部屋のカードキーが作動しないと言ってきた。
「フロントへカードを持って行って,“It doesn’t work.”と言ってみてごらん」
私は透かさずそうアドバイスした。
その生徒は英語が苦手だった。私が指示したとき,僅かにためらっていたように感じられた。それでも私はそれ以上の助け舟は出さなかった。その生徒は1人でフロントへ赴き,問題は解決した。苦手ながらも勇気を持って,たった一言の英語を通じさせた。私は心の中で,それを大いに評価した。
 日頃学校で英語教育を行っていて,残念に思うことがある。昨年・今年と1年生のOral Communicationの授業を持たせて頂いている。本校ではnative講師と日本人教員によるteam teachingが行われている。1クラスを2つに分割しているため,生徒がnativeと英語で話すチャンスは多いはずである。しかし,生徒たちはなかなか英語を話そうとしない。質問はたいてい私に日本語でする。native講師にすら日本語で話しかける生徒も多い。英語を話すということに抵抗感を覚えているのだ。
 夏休み前のある日,毎年行われるイギリスでの語学研修に参加する生徒に,出発前の心境を聞いてみたことがある。
「英語が通じるか心配です。だって,文法とかメチャクチャだし・・・」
 生徒たちがなかなか英語を話そうとしないのは,文法上の正確さなどを気にし,間違えては恥ずかしいと考えているからではないだろうか。彼らの中では,正しい言葉を正しい語順で言えることが「英語を話せる」ことなのであり,そのレベルに到達していないと,英語は苦手だとみなしてしまうのであろう。
 ところで,いつかテレビで面白いデータを見た。日本人に「英語は話せますか」という質問をしたところ,yesと答える人の割合は小さい。しかし,日本の街中を歩く外国人に対して「日本語を話せますか」という質問をしたところ,多くの外国人が「話せる」と答えていた。さらにどれくらい話せるか聞いたところ,「コンニチワ」「アリガトウ」「フジサン」「シンカンセン」など,ほんの一言レベルの回答も多かったという。要するにsentenceとして話せる人だけでなく,僅かな単語や表現を知っているという人まで,自分は日本語を話せると胸を張って言っているのだ。
 それを考えると,生徒の英語レベルはそう低くはない。彼らは英語を話せるはずなのだ。
 長期休暇明けの1回目の授業で,私は毎回休暇中の思い出を自由に英作文させている。確かに彼らの文章のほとんどは,brokenな英語で書かれている。使われている単語や文法も中学生レベルのものが多い。しかし,彼らが言いたいことは十分に読み取れる。彼らは自分の気持ちを伝える力を持っているのだ。
彼らは「英語が話せない」のではなく,「話せないと思っている」のだと思う。brokenでも伝えることはできる。まずはそのことに自信を持ってもらいたい。
言葉は口に出し,何度も間違えながら身に付いていくものである。間違えることを恐れずに,学んだことを,そして自分の気持ちをoutputする勇気を,生徒たちが持てるように指導してゆきたいと思う。
 
          海外旅行、 あれこれ…

                                                                   日本大学第二中学・高等学校教諭
                                                                                             黒澤  隆司

大学を出て英語教師になって早18年。この間に随分と海外に出て行ったものである。訪れた国はおそらく25ヶ国以上になるだろうか。珍しいところだと、パラオ、南アフリカ、ケニア、北朝鮮などなど…。
 今回は、そんないろいろな国へ出かけての思い出の中からいくつかお話しさせていただくことにする。

◆一人旅の始まり
 1993年の春休み、僕はオーストラリアへ一人旅をした。初め、シドニーに1週間ほど滞在し、この間にキャンベラまで足を伸ばした。そのときのバスツアーで、アデレードという町出身の中年夫妻と知り合った。たまたま翌々日、僕はアデレードに行くことになっており、現地で再会し、あちこち案内してもらった。おまけに彼らの家にまで招待してくれ、お昼に庭でbarbie(BBQ)をご馳走してくれた。ビールを片手に耳慣れないオーストラリア英語を教えてもらったのを覚えている。何でもオーストラリア人はmateshipを重んずる国民だとか…。こんな出会いがきっかけで僕の「ふれあい一人旅」に火がついてしまった。その後も3回ほどアデレードを訪れ、彼らの家に泊めてもらっている。

◆パラオに残るニホンゴ?!
 パラオは西部太平洋に位置する、屋久島ほどの大きさの島国である。2001年の夏休み、僕は青年海外協力隊のOB会が企画した「パラオスタディツアー」に参加した。
ツアーの中身は、協力隊の活動見学、かつての戦地訪問、現地生徒との交流、ホームステイといった盛りだくさんのプログラムだった。
 僕がお世話になったファミリーは、お父さん、お母さん以外に子供が2人いた。お父さんは特に仕事を持たず、釣りが趣味のようで釣れたらその魚を売って生計(?)をたてていたようである。お母さんは銀行員だった。
 ホームステイが始まり、お母さんに家の中を案内してもらった。そのときTakashi, you can use your emonkake in your roomと言われた。エモンカケ?一瞬戸惑った。そう、ここパラオはかつて日本が委任統治していた関係で、ニホンゴが未だに残っている。「エモンカケ」は「衣紋掛け」と書き、ハンガーのことである。僕が小さい頃、祖母が言っていたのを思い出した。その他、チチバンド(ブラジャー)やゾウリ、スコーキ(飛行機)、ベンジョなど今でも使われている。ちなみにツアーの仲間が現地の高校で「おベンジョ」と丁寧に言ったら通じなかった!

◆北の大地から
 2002年11月、小泉元首相の最初の訪朝からわずか2ヶ月弱、僕は北朝鮮に行ってみた。雑誌の広告欄にあった「北朝鮮観光」のツアー情報に目がとまり、連休に休日出勤の代休を取り、北朝鮮訪問を決意した。当時、北朝鮮が日本人拉致を認め、日朝友好はおろか却って気まずい状況になろうとしているときだった。
 新潟空港からウラジオストックを経由し、隙間風の吹く(?)プロペラ機で平壌に入った。夜の9時を回っていただろうか、街は真っ暗だった。
 8人のツアーだったが、ガイドが2人にドライバー、そしてまるで我々を監視しているかのようなビデオカメラマン(ツアーの最後にビデオを販売)。北朝鮮ツアーではお決まりの観光スポットを回った。
 宿泊は高級ホテルではあったが、我々の泊まっているフロア以外は、エレベーターを降りてみたが、真っ暗だった。食事は、お粗末というしかない。けれども我々が食べたものは、きっと最高のものだったのだろう…。そうそう冷麺だけは美味しかった!冷麺と言えば平壌と言うほどで、そば粉多目の麺が日本の焼肉屋で食べるゴムのような麺とは違い、実にいい食感だった。ちなみに最近の韓国では食べやすくするため、麺にハサミを入れて食べるが、「北」の人にその話をしたら、驚いていた。長い麺を楽しむものなのだそうだ。
 板門店(南北会談の場所)にも行った。「南」からも訪れたことがあるが、結構制約が厳しい。写真が撮れる場所の制限や兵士と話してはいけない、など。しかし、「北」からの場合は意外と自由で、写真もOKだし、兵士も気さくだった。万一拉致されたときの賄賂(?)としてタバコを買って行き、1箱あげたら喜んでいた。「教師という仕事はいいものだ。立派な人を育てて欲しい。いつか生徒さんを連れてまた来て欲しい」と言っていた。

◆また電話ちょうだい?!
 何年か前にイギリスに行ったときのことである。夕飯を食べに一人イタリアンレストランに入った。大衆的だが、味もよく、感じのいい店だった。それにも増してウェイトレスがきれいな女の子で、ついつい優しい言葉に乗せられ、デザートまで食べてしまった。いよいよ勘定を済ませ、レシートを受け取ると、なんと「また電話ちょうだい」と書いてあった。「おや、これはまんざらでもない(・・・・・・・・)のか…」と勝手に思い込んだ。英語ではThanks. Call Againと手書きで記されてあった。「いや、おかしい」とすぐに思った。Againがひっかかった。それ以前に電話していないのにagainは変だ。よくよく考えてみると、このcall againは「また(お店に)来てくださいね」のことである。中学でも習うcall on / atのcallなのである!美人の手書きというところに「期待」をしてしまったのだろう?!



以前に読んだ本の中に「地図は現地ではない」と書いてあった。もちろん、僕のようにフラフラ海外に脱出できる人もそうはいないと思う。しかし、生徒にはできるだけ「実体験」を話してあげたい。英語をはじめ他の言語を知っていることで、人々との出会いや新しい文化に触れることができる。不思議な発見もたくさんある。言葉を勉強することで未知の世界を開拓する喜びを伝えていきたい。
 
 
初めて海外を旅した時のこと
 
渋木義夫
(日本大学習志野高等学校教諭)
 ふと気づくと既に20年もの時間が経過してしまった。初めて海外を旅した頃の話である。当時はまだ海外旅行が、今ほど安く行ける時代ではなかった。また、現在のようにインターネットがたくさんの情報を与えてくれる時代でもなかった。何とか見つけたヨーロッパへの格安旅行券がエジプト航空の33万3千円。今では隔世の感があるが、当時としてはその名の通りの「格安」チケットであった。それも当時の世界情勢のため、現在のようにロシア上空を越えて行く直行便ではなく、成田からマニラ、バンコック、カイロを経由してロンドンまで実に24時間かけての乗り継ぎ便であった。
修士論文作成で忙しいはずの夏休み。就職したら長期休暇など望むべくもない。自分が勉強してきた英語がどれ程通じるものなのか知りたい。何よりも、机上の知識を実際に見て、確認してみたい。この機会を逃したら一度も海外に行かずに人生が終わってしまうだろう、半ば悲壮な思いで海外に一人で出かけた。
当時は一人旅が主流であったが、寂しいと感じたことは一度も無かった。それは世界中から集まったバックパッカーと食事を共にし、目的地が同じであれば、旅の道連れができる。見知らぬ人との出会いが、かえって一人でいることの身軽さを感じさせた。
学生の身分である。貧乏旅行となるのは必然である。しばらく洗っていないジーパンを見てか、とても私達では食べ切れなかったからと言って、年配の日本人旅行者から、有名ホテルの袋に入ったパンやリンゴをもらったことがある。旅をすることは苦労をすること。travel はtraveil(骨折り、労苦)と同じ語源であるという。外国で受ける同国人からの親切は同胞ゆえの連帯感を意識させる。相手の心遣いが国内で受けるよりも強く心に浸みていく。このように旅の労苦も何かしらの貴重な体験へと昇華していく毎日を過ごしていたように思う。
 
 旅の会話に慣れてきた頃のこと、駅の案内所でその日の宿を探してもらっていた。「今夜泊まるのか?」と聞かれた。なんでそんなことを聞くのだろう、と思いながらも、確認が面倒でただ一言「イエス」と返事した。思った以上の出費に驚いたが、疲れていたため、それ程気に留めていなかった。着いてみると様子がおかしい。急いで、バウチャーを再確認してみると、一泊の予定が二泊になっていた。今夜のtonightと二晩のtwo nightsを文字で見ていたら、間違えるはずもない。せめて、「ツ」をもう少し強く発音してくれていたら、なんて思っても仕方が無い。しばらく悔しい思いをした。
 
フィレンツェからローマまでは宿代を節約のため、夜行列車での移動。夜には普段座っている椅子を伸ばしてベッドになるコンパートメントでぐっすり寝込んでいた。深夜に背の高い男が入ってきて、首から提げたパスポート入れに手を入れた。その瞬間、「タワケ」と大声で叫んでいる自分に気がついた。頭を出口に思いっきりぶつけて、その男はコンパートメントを出て行った。いざという時に出てくる言葉が、その人の母国語なのだ。確かに日本語であったが、私は東京生まれの東京育ち、名古屋出身の先輩の口癖を思い出した。
今使っている教科書に建築家の安藤忠雄氏の記事が載っている。建築の専門教育を受けてはいない安藤氏が、世界的に活躍する建築家となれたのはどうしてか。「建築家は旅をしろ」という言葉に刺激を受けて、世界の建築を自分の目で見て歩くことを選択し、その経験が建築家となった安藤氏に大きな影響を与えたと書かれている。また、貴族社会の昔、ヨーロッパの子弟はグランドツアーと称した旅を通して諸外国を見て回り、自分自身を鍛え、学んだという。著名な建築家や貴族の子弟の例を挙げるまでもなく、若く感受性が豊かな時期に海外に出て、自分の目で見て、感動し、自分の内に蓄えておくことは決して無駄な経験ではない。
 職を得た今となっても、幸い海外を訪れる機会に幾度か恵まれた。また、旅の形態も変わり今では一人で行くことはなくなった。クロアチアを妻と旅している時、バックパックを背負っている二人の日本人と会った。好奇心の強そうな目が印象的であった。聞けば、日大法学部の学生だそうだ。食べきれず袋に詰めて持っていた食料を黙って差し出したのは場所と時間が変わっただけの恩返しである。
Seeing is believing
英文学科 3年 菊地理恵
 海外語学研修とは、約一ヶ月間イギリスのケント大学にて現地の専任教員による授業を受けて英語を勉強し休日にはロンドンやブライトンなどへ小旅行をして海外の文化も学ぶというプログラムです。私はこの夏休みに海外語学研修を通してイギリスを訪れました。私がこのプログラムに参加しようと思ったのは、この海外語学研修に参加さえすれば私の乏しい英語力はネイティブと日常会話が楽に出来るレベルまで引き上げられるのかと思っていたからです。
私はケント大学にて午前中は英語のみでの授業、午後はカンタベリーやブライトンの町へ出かけて自分の調べたいものについて調査やプレゼンをするプロジェクト・ワーク、休日での小旅行を経験し、とても楽しみました。ですが、やはりただ授業に出席するだけでは英語力は上がらないことを身をもって知りました。せっかく外国に来たのだから自分の能力を引き上げたい、その為にはどうしたら英語力を上げることが出来るのだろうか、私は友人と話し合いました。私の友人は「ただ授業に出たり課題をこなしたり、ただの学校・旅行気分でいるだけでは駄目だ。こんな経験は、一生に一度しかないのかもしれない。残りの期間で出来ることを全て出し切ろう。」と言ってくれました。その言葉のおかげで、残った滞在期間の中で私は積極的に現地の人に話しかけたり、授業では出来る限り発言したり、学校が企画した小旅行以外にも友達と皆で小旅行を企画し、ロンドンやドーバーに行きました。
結果として、私は自分の英語力に劇的な変化をきたすことは出来なかったと思います。しかし、海外語学研修出発前と帰国後の私とでは確実に自分の中で何かが変わりました。まず一つ目の変化として知人に指摘されて始めて気づいたのですが、初対面の人でもすぐに話かけることが出来る程にコミュニケーション能力が上がりました。おそらくそれはイギリスという知り合いがほとんどいない環境の中で会話をしようと全く知らない人・違う人種の人と自分から話すことで、積極的になり人見知りが治ったのではないかと思います。続いての変化として、英語力に大幅な変化はなかったものの英語に対するモチベーションがとても上がりました。今までは単位を気にしてテスト対策くらいにしか英語を勉強していなかったんですが、今ではテストに出ることであろうがなかろうが自主的に勉強したりTOEICを受けたり授業中も前よりも集中して勉強するようになりました。これらの変化はとても小さなものかもしれませんが、自分を成長させることが出来たという点ではとても大きな第一歩だったと思います。
海外語学研修に参加してみて、私は他では得難い経験をして自分を成長させることが出来ました。Seeing is believing(百聞は一見にしかず)!ぜひあなたも海外語学研修へ行ってみて下さい。そこで得た経験は、あなたのことをきっと成長させてくれるはずです。
海外語学研修に参加して
 
英文学科 3年 千葉 久美子
 私は一年生の頃からこの研修に参加したいと思っていました。三年生になって行ける事となり、とても嬉しく思いました。
それまで英文科でありながら、私は外国人と話すことの出来るような力も、話そうという積極性もあまり持ち合わせてはいませんでした。けれど今回の参加した研修では環境にも恵まれ、折角の機会を生かして自分の力を出していきたいという意欲が湧きました。
現地で受けた英語学習の授業は非常にいい刺激になりました。なかでもプレゼンテーションをする内容の授業では、向こうの地域や文化を調べることが主でしたが、詳しく知ることでさらに興味をもち、より楽しめたと思います。クラス揃って遠出する機会が何回かあり、その時の自分の調べたいテーマに沿って目的地を回るようにしていましたが、テーマがあることではっきりとした目的と意欲を持つきっかけとなり非常に良かったです。私は作家チャールズ・ディケンズ等について調べましたが、著者の育った地、生家を訪ねたりすることでより深く理解できたことが嬉しかったです。また、自分自身の興味関心もあってさまざまな教会建築物や博物館を訪ねましたが、そのどれもが非常に興味深く、逆に、上手く時間を使って回れなかったことを残念に思うこともありました。そして先生方の指導の中、心地良い緊張感の中でプレゼンテーションを進めることができました。一緒に発表したクラスの皆の作品も素晴らしく他のテーマに興味をもつきっかけになりました。
研修では、毎日の授業の他にも、私の予想していた以上に様々なイベントが殆ど毎日と言っていいほどありました。また授業や休みの日に度々外出する機会があり、出掛け先のあちこちで向こうの方と話すチャンスがありました。積極的にと人に道を訪ねることにも最初は勇気が要りましたが、むしろ度々向こうの方々から声を掛けられることが多かったので驚きました。初めは戸惑いましたが段々と話せるようになり、環境に慣れていく自分を実感し嬉しく思いました。またある時、図書館でパソコンを使おうとした時に上手く使えず職員さんに訊ねたときに、拙い英語にも拘らず、一から十までと言っていいぐらい、とても親切に説明して頂いたことがとても嬉しく、頭に残っています。
英語を学ぶだけでなく、英国の文化を日本との違いや利便不便も含めて肌で体験出来たことは本当に楽しかったです。
このように充実した研修を終えとても満足でした。引率の先生方ならびに現地で授業を教えて頂いた先生方、そして一緒に三週間を過ごした皆にとても感謝しています。今回の体験で学んだことを学習に生かしていけるよう、これからも勉強に励みたいです。
ストラットフォード・アポン・エイヴォン、シェークスピア研究所で学んだ一年
を振り返って
 
日本大学大学院博士後期課程3年
亦部 美希
  2006年度、日本大学大学院海外派遣奨学金生として、私はBirmingham大学所属、Shakespeare研究所 MA courseで1年間学ぶことができました。
 貴重な機会を与えてくださった、日本大学及び文理学部の方々、諸先生方、研究所の先生方、staffの方々には、深い感謝でいっぱいです。この場をお借りして御礼を申し上げます。
  Shakespeare研究所の学生達は、Shakespeareの生まれた町、Stratford-upon-Avonで生活し、Shakespeare、もしくは同時代の作家について学びます。Stratford-upon-AvonはEngland中部Warwickshireにある町です。Shakespeareゆかりの建造物が遺されたこの地にあって、学生達は、Royal Shakespeare Theaterで最新のShakespeare Performanceに常時触れることができ、研究所の図書館は、貴重な資料にあふれています。
 ご指導下さったShakespeare研究所の先生方についてご紹介させて頂きます。Kate McLuskie先生は近世文化におけるtheatreとdramaの役割、近世のdramaが現代社会に及ぼす影響、ShakespeareのFeminist Criticismなどについて研究されています。Catherine Alexander 先生はShakespeare Performance、18世紀におけるShakespeare、教育におけるShakespeareなどについて研究されています。 John Jowett先生はediting、textual criticism、 Renaissance theatre culture、Shakespeare時代の劇作家などについて研究されています。Martin Wiggins先生はEnglish ReformationとEnglish Revolutionの間に書かれたdrama、masque、Shakespeareの Jacobean Tragedy、Renaissance Englandにおける drama と権力の推移などについて研究されています。Catherine Richardson先生はdomestic tragedyにおける家庭の意味、textと生産・消費におけるmaterial circumstancesの関連性、urban contextにおけるdressの機能などについて研究されています。
 授業は主に、“Plays and Poems A”、 “History of Shakespeare Criticism”、 “Textual Studies in Shakespeare”、 “Shakespeare and Performance”、 “Plays and Poems B” の5つで構成されています。(MLA の書式などのResearch Skills やBibliographical Essayについても学べます。) ここで、2006年度、私の学んだcaseについて説明します。  
 Autumn Termは、“Plays and Poems A”、“History of Shakespeare Criticism”、“Textual Studies in Shakespeare”で構成されています。“Plays and Poems A” で学生たちは、自分たち自身のpresentationとgroup discussionを通じて、Shakespeare研究の実践力が試されます。 presentationの研究テーマは自由で、historical criticism、new criticism、feminism、Bakhtin、Freud、多様な議論が交わされ、教授の指導、発問により議論は精錬されていきます。私は自分の研究テーマであるMachiavellismとの関係で、presentationを行いました。切り口が斬新であると言って、好意的な評価を与えてくれたclassmatesもいました。"History of Shakespeare Criticism”と“Textual Studies in Shakespeare”と合わせて、Autumn Termでは、研究者としての足場を固める構成となっていました。"Plays and Poems of Shakespeare” は授業 Bとして、spring termも継続されます。
 spring termの授業、“Shakespeare and Performance” では、autumn termの研究成果を立体的に構築しました。具体的に、2006年度のこの授業では、English RenaissanceのShakespeare文学から生まれるperformanceが、現代に生きる世界中の人々との “negotiation”で生育されていくことを学びました。故に、私はこの授業で、“Plays and Poems”の授業でご紹介した、New Criticismなどの多様なmethodological studiesや、“History of Shakespeare Criticism”、 “Textual Studies in Shakespeare”の全てが、今生きている他者と私に溶け込んでいくという、熱い思いを体験することができました。言い換えれば、私なりに以下のような体験ができたように思います。課題論文を書き進める課程で、ひとつひとつの語句の定義、反論、その歴史的背景、文献や体験から解することができる、Shakespeare時代から現在に至る現象のひとつひとつが私自身の中で渾然一体となり、単なる知識ではなく、生きる力となっていくという不思議な体験です。この体験をもとにして少しでも良い論文が書けるように、今後も全力を尽くし、精進していきたいと思います。
 第二に、研究所の仲間達との思い出について述べたいと思います。研究所の方々はとても親切で、温かい交流をすることができました。困ったことができたら、先生方、事務の方々があっという間に手をさしのべて下さり、図書館のstaffや先輩方は、私が日常生活で直面する様々な問題に、親身になって対応して下さいました。(どこそこの店は夜8時まで開いているから今行けば間に合うとか、Birmingham大学の売店でmemory stickが驚くほどお買い得であることなど。)また、同じflatに住むIreland出身の同級生Emmaと、論文の進み具合やShakespeare研究について話し合ったり、七面鳥ですき焼きを作って一緒に食べたり、flatの皆でShakespeare劇を見に行ったりしました。
 毎晩のように学習室に通い、本の虫となってShakespeareと“negotiate”した日々は、一生忘れられない、楽しい思い出です。
 夏休みは、Oxford大学の学会Oxford大学の学会 “London in Text and History, 1400-1700” に参加しました。朝食の席で、私の向かいに座った老教授が、Shakespeare作Kenneth Branagh監督のfilm Henry Vを見ることによって人生が変わった少年の話をして下さいました。家が貧しく、勉強が全くできなかった少年が、BranaghのHenry Vを見てから猛勉強し、Shakespeare俳優になったそうです。寄寓にも、私は研究所で、ShakespeareのHenry Vの論文を書き、自分の出した結論を読んで感涙してしまいました。老教授と私は世代は大きく異なるものの、国を越えて、Henry Vの偉大さを、分かち合うことができました。  
 研究の喜びを味わわさせて下さった、Shakespeare研究所の温かい先生方、先輩方、仲間達、これまで私を育てて下さった日本大学の先生方、先輩方、仲間達に深い感謝を申し上げます。

 
田室さんのこと  
渡邉 敏郎
 
 田室さんが死んだ。これは本当のことなのだが、まだ私の腑には落ち切っておらず、追悼の言葉など書く気分にはない。しかし英文学科から一文を寄せるよう求められたのに断るわけにもいかない。英語学者、英文学科主任、日大英文学会会長としての田室さんについては他の人に任せ、私は個人的なことを少しだけ書くことにしよう。
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 はじめて彼を知ったのは私がまだ英文学科の副手をしている頃だった。小田急線・梅ヶ丘駅近くに間借りしていた私の隣室に学生の彼が移ってきたのである。しかし、彼は間もなく別のところに引っ越して行った。その後大学院に進学して副手となり、そのころ助手になっていた私の同僚になったが、修士課程修了とともに三島の付属高校に赴任し、私との距離は離れた。専攻が私は文学、彼は語学であり、ここまで田室さんと私は特に親しい間柄ではなかった。
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 再び私たちが接近したのはそれから8年後である。当時英文学科の専任講師だった私は、1969年に終熄した日大闘争に自分なりのピリオドを打つため文理学部を辞することを決めて出口を模索していた。当時田室さんは日大英文の大先輩である元北海道大学教授・吉田稔先生が主任教授を務める東横学園女子短期大学英語英文科におり、そこではたまたま教員の欠員が生じていた。その話に飛びついた私は止める先輩たちの手を振り切って移籍し、田室さんと私は再び同僚になった。以後7年間、女子短大の狭い研究室で私たちは何事につけても額を寄せて相談し、教授会では共同戦線を張った。女性教員が圧倒的に多く、女護が島に取り残されたような気分だった。吉田稔先生は私たちを誘って年1回自由が丘の楼蘭という中華料理屋で“同窓会”を開いて下さった。かなり異なる気質の持ち主の田室さんと私だったが、このような生活の中で否応なしに戦友的な連帯意識を持ち、互いに相手との折り合いのつけ方を会得して行ったようだ。
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 田室さんは好奇心が強く、凝り性で、一旦何かに興味を持つと納得が行くまで集中的・徹底的に調べずにはおかなかった。パソコンが今ほど普及しておらず、user unfriendly で、使いこなすには大変な努力が必要であったころに彼は早くもそれを自在にあやつっていた。私に登山の趣味があると知って彼は俄然興味を起こし、しきりに同行をせがんだ。そろそろ体力の限界を感じて高い山からは足が遠のいていた私だが、彼に引きずられる形でまた登りはじめた。二人の足の向く先は山梨県の金峰山を手始めに巻機山、空木岳、木曽御岳、八ヶ岳、甲斐駒ヶ岳、仙丈岳、富士山、光岳、恵那山、甲武信岳、上州武尊山などから伊豆大島の三原山、四国の石鎚山、鹿児島の開聞岳にまで及んだ。彼と私の山行は、私が日大経済学部、彼が農獣医学部(その後文理学部)と勤務先が分かれてからも続き、私の登山ノートには20数回に及ぶ彼との山行が記されている。山友達とはどういう人間関係なのか、山登りが好きな人なら分かってくれるだろうと思う。
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 1983年、田室さんと私は約1か月半、ヨーロッパを旅した。しかし最初に着いた先のロンドンの宿で何が原因だったか忘れたが衝突してしまいフランス・イタリアでは別行動となったが、スペインで再び合流しモロッコ、ギリシャ、トルコを回って一緒に帰ってきた。田室さんは人情の機微に分け入る柔軟な視線を持ち、事を処するに当たって周辺への十分な目配りを怠ることがなかった。東横学園の教職員組合役員として組合員からいろいろな相談を持ち込まれ、それに熱心に根気よく応える姿を私はしばしば目にしている。その反面、田室さんは自分の激しい感情を飼い馴らすことが下手だったようにも思う。特に偽善・狡猾・阿諛・卑屈・権威主義などを前にした時、それに対する嫌悪感の激発を抑えるのが難しかったようだ。その点いい加減な所がある私は、もう少し適当にあしらっておけば波風が立たず、自分も傷つかないで楽なのにと思い、また時にはそういう彼をうらやましいと思うこともあった。
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 今春、相模原の北里大学病院に見舞った時、彼の目には力があり、握った手は骨太で、山の急坂で私を引き上げてくれた手と変わらなかった。あの目、あの手が既にこの世に存在しないとは……。亡くなってまだ2か月だが、その間に彼を思い出すことが多かったせいか、もっとずっと長い時間が経ったように私には感じられる。今はどこにいるのか。放浪が好きでせっかちな所もある彼のことだからもう冥王星あたりをうろついているかもしれない。1974年11月、飛騨側から木曽御岳に入り寒風吹きすさぶ山頂近くで小休止したとき、荒涼とした賽の河原を眺めながら、二人のうち先に死んだ者の遺骨の一部を、生き残った者がここに持ってきて埋めようという約束をした。その時、私の頭にあったのは年長の私の遺骨だった。それが逆になってしまい、このような文を書かされることになろうとは夢にも思わなかった。しかも今の私には標高3000メートルを超える木曽御岳に登る脚力は残っていない。まもなく彼岸で田室さんに会うことになるだろうが、その時は「約束したのに」とブツブツ文句を言われるかもしれない。2人で7年間を過ごした東横学園短大の英語英文科は10年前に廃止されて今はなく、短大そのものも近く武蔵工業大学に吸収されて消える。田室さんと過ごした日々を振り返るとき私の心に浮かぶのは「往事茫々」という言葉である。
Trespassing with Professor Tamuro
 
Sometime in the early nineties we began traveling together. Like most teachers in Eibun I had begun to be assigned “Schooling” duty for the university’s Correspondence Division, two long weekend trips a year to the provinces to teach English communication to the locals, and perhaps he thought, seeing as my own communication skills in Japanese were so fragile, that I might get lost or come to grief (I’m sure he was right). So Professor Tamuro had us scheduled to do the same trips, and over seven or eight years we managed to cover the country: from Obihiro to Kumamoto, from Fukui to Sendai, from Aomori to Takamatsu. And instead of losing my way all on my own in alien cities, Tamuro-sensei invariably arranged it that, come what may, wherever we went, we would both get lost together.
Professor Tamuro the wayward traveler, tempted always to the unconventional route, the radical path, the frequent trespasser, out of bounds. A path once seen, leading mysteriously into wild forest or city hinterland was for him an irresistible challenge to explore. And if there was no path, so much the better, just strike through the trees. There was always a discovery ahead, mostly because the consequence of such an approach was almost always that we would find ourselves on private property and confronted by an outraged tenant, a guard, a railway official. Once, after a very pleasant evening’s eating and drinking in Hakata, I remember, we managed to stray into the courtyard garden of a large corporation. The trees and the pitch darkness attracted him, I think. But we had not been there more than a minute when the stillness was destroyed by a the shrill barking of an official voice (CCTV and hidden speakers, no doubt): “No Trespassing ! Leave immediately!” Scurrying away like chastened schoolboys, he muttered to me “I’m really scared!”
He was like that, it was an element in his philosophy and in his deep radicalism. The most intellectual of any Japanese I have ever known, the most widely read in matters Japanese (literature, history, religion – he had been both a Buddhist and a Catholic in his time) and the most avid reader of English, Tamuro-sensei was mostly impatient with tradition and was wont to trespass on it, even when it scared him to do so. But by breaking boundaries he often succeeded in expanding them. Our department is a more open community today from his efforts to reform it, we are more open to the outside world, and more open to each other.
I imagine, wherever he is, that he is still at it. But I do not think that the Almighty would have it in his heart to scold him for it. He once told me that while he was at Kent University with students on the summer programme (I was not with him then) he used to wander alone through the lanes and fields that surround the campus. His instincts to explore undiminished, he once strayed into forest, and pressing forward he found himself, miraculously, in a woodland of Japanese trees. Settling down to read in this peaceful arboretum he lost track of time, until startled by the approach of a stranger who asked him what he was doing there. It was, of course, private property. So he explained how he came there, and when he had finished the stranger told him that surely he was most welcome to remain in a place so clearly meant for one such as him, and that he might return whenever he wished. And perhaps that is where he is now.
                                                                     
 
Theatre (1937) からThe Razor’s Edge (1944) へ
 
日本大学文理学部助手 前島 洋平
 
 これまで論じられることが少なかったTheatre (1937)だが、今年初めに『華麗なる恋の舞台で』という邦題で日本でも劇場公開されたのは記憶に新しい。主演のアネット・ベニングが2005年のアカデミー賞主演女優賞を『ミリオンダラー・ベイビー』のヒラリー・スワンクと競り合い、惜しくも受賞を逃したという事実も、この作品への関心を高める働きがあったと思われる。
 この映画の原題Being Juliaは、アネット・ベニングが演じるJulia Lambertに焦点を当てたものであり、確かに、大女優の華やかな舞台裏を描いた作品であることに疑いはない。しかし、本発表ではこの作品に通底する二面性に着目し、Christmas Holiday (1939)、そしてThe Razor’s Edge (1944)へと続く、モームの後期小説の特徴を考えてみたい。
 
シェイクスピア喜劇の男装のヒロイン
―蜷川幸雄演出『お気に召すまま』と『NINAGAWA十二夜』―
 
日本大学文理学部非常勤講師
元氏 久美子
 
  2007年7月、蜷川演出の二つの喜劇、『お気に召すまま』(2004年8月初演)と『NINAGAWA十二夜』(2005年7月初演)が再演された。前者は若手俳優成宮寛貴主演、後者は尾上菊之助主演の歌舞伎座公演と共に男優のみの舞台であり、女優が存在しなかったシェイクスピア時代の少年俳優を思わせる。ほとんど女役を演じることのない現代劇の男優と、女役を演じるプロである歌舞伎の女形。本来男性である彼らが女性を演じ、その女性が劇中で男装し男性を演じる。男装のヒロインを男優が演じることによってヒロインの男装はさらなる劇的アイロニーを生み出し、喜劇をより複雑なものにする。この二つの舞台を参考に男装のヒロインのジェンダーについて、「性」を演じることについて、さらにそのヒロインと観客との関係について考えてみたい。
「Sallyはどこから来たか」
発表要旨 遠藤幸子
 英語の命名法の歴史をたどると、古くは古英語の名前、ノルマン人の征服による影響、そしてキリスト教の影響をへて、現在は様々な外国語の名前、新しく作られた名前、普通名詞の名前への応用など、その種類は豊富である。そしてまた英語の命名法の大きな特徴は多くの愛称を生んできたことである。
 JohnはどうしてJohnnieと呼ばれるのか。Edwardの愛称がどうしてNedになるのか、など、一般に知られている愛称ができた経緯をたどってみる。特にノルマン名を元とするHobやDickの発生にかかわる音変化と、さらに、MaryからMollyが、そしてSarahからSallyができたのはどうしてであるのかを考察する。
言語の形式と意味
- 対格名詞句+to不定詞補文からの考察 -
 
日本大学文理学部英文学科教授 松山幹秀
   
 
「対格名詞句+to不定詞補文」(Accusative with to-Infinitive)は、その構文的意味や統語的振舞いの違いからpersuade型、want型、believe型に大別される。一方で、措定された幾つかの統語原理に基づいてPRO control-type とECM(例外的格標識)
-type というタイプ区分に依拠した分析がなされる場合もある。
本発表では、当該補文をtenseless constructional fusionを成す「融合形式」と捉えたうえで、(1)意味的に近似値的な対応関係をもつ、that節ほか数種類の補文形式との異同、(2)「モノ+スル」から「モノ+デアル」までの当該補文事象の漸次的推移の態様、この二つを基軸として当該言語現象の全体像を形式と意味の両面から明らかにしたい。
分析手順としては、まず、3型の「対格名詞句+to不定詞補文」の顕著な意味的相違が前置詞toの多義性と相関性をもつことを示す。当該3型式の補文構造の意味的多義性が前置詞toの多義性に由来し、意味的にも軌を一にするという仮説であり、具体的には3型式の構文的多義性がJohn broke the vase to pieces.(結果含意)、A-Rod threw a ball to the first.(方向性、結果非含意)、Sue found the key to the car.(二者一意)に対応するという主張である。次に、*I learned the report to be correct.や*They said it to be the right choice.の非文法性、さらにはI maintain these facts to be {true /*obscure}. やWe believe that story to be {true / ?false}.に見られる文法性や容認性の違いが、例えば、例外的格標識(ECM)といった格付与の例外的現象という形式・統語論的扱いでは説明できないことを示し、形式=意味論に基づく代替案を提示する。
最終的には、当該補文の構文的意味をOperative Control、Operative Propositional、Concurrent Propositionalの三つに大別し、そのような構文的意味が導出される根拠を示しつつ、さらに各々が細分化され全体として「対格名詞句+to不定詞補文」が一つの意味体系を成すことを示す。この補文形式の史的変遷、受動化の可否、Vendlerが提唱する動詞句の4種類の意味分類、さらにはallegedly、reportedlyなど1800年以降に誕生した~ly離接詞(content disjunct)との関連なども、本論への傍証として適宜言及する。

 

 

 

 

 

 

 







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