日本大学英文学会  

日本大学英文学会通信87号(2007.6)


ご挨拶

 

さらに開かれた学会に向けて

日本大学英文学会会長   寺崎 隆行

 

 昨年の12月の総会で、原 公章先生の後を受け、日本大学英文学会今期会長に選出されました。それまでの副会長の職責以上に、その重責に身が引き締まる思いです。この学会が規約の組織改変で、研究会員と同窓会員に分けられたことにより、英文学科の主任教授が会長職を兼務する従来型から、学科主任職と学会会長職が分離されて久しくなります。しかしその改変以降も、この会長職は英文学科内の教授陣の中から推挙という形でなされてきました。ですから英文学科に所属しない者が会長を務めるなどということは、長い学会の歴史の中にこれまでなかったことですし、また考えられなかったことです。

歴史と伝統あるこの日本大学英文学会が、学科外部から会長を迎えることを容認した背景のひとつに、従来にもまして研究活動の充実と研究会員相互の研究を通しての緊密な意思疎通の拡充への期待と、若手研究者や教育者育成へのさらなる期待があるように思えます。  

研究・教育分野のますますの細分化、また研究・教授方法の多様化、教育現場での多岐性等に伴い、研究会員諸兄姉には自らが専門とする分野の諸学会や教育の現場での、研究活動や教育活動での活躍が、近年際立つようになってきています。本学会機関紙「英文学論叢」の巻末の業績一覧や「会員名簿」の勤務先欄が示しますように、研究会員の各研究分野や教育現場での活躍ぶりは目を見張るものがあります。この学会の母体である英文学科がこのような研究者や教育者を、先達、諸先生たちのご努力、ご指導によって数多く世に送り出し、今日のような会員諸氏の社会での活躍という果実をもたらしてきました。そのような諸兄姉の社会での活躍は極めて喜ばしいことですし、さらに大いに推進されるべきことです。この「通信」を始めとして、さまざま機会を捉えて紹介し相互の励みとさせていただきますので、随時事務局にご連絡いただければと思います。しかし反面、こうした細分化、多様化傾向は、現実の営みの中で多忙という口実の元に、学会への帰属意識を希薄なものにしてきたように思えます。

日本の社会は今まさに高齢化社会を迎え、いわゆる団塊の世代が大挙して現役を退く状況が、少子化状況と併せて連日のように報道されています。 英文学科は一昨年創設80周年を迎えましたが、この学会が学会としての発足を、その最も重要な会務である機関紙「英文学論叢」(前身は「英文学会会報」)の発刊におくとすれば、その第一号が創刊されるのが1933年ですから、今年で発足74年ということになります。ちなみに「会報」は以後第四号まで刊行されて、第2次世界大戦のために休刊を余儀なくされ、1950年に第五号が発刊されることになりますが、その空白期間を除きますと、実質的学会としての活動は年齢に換算しますとほぼ団塊の世代にあたります。個人の場合ですと一線から退いて、企業なり組織の発展・行く末を外側から見守るということになりますが、学会が会長職を学科外部に求めたのは、個人の場合とは逆に、それまで外側から見守ってきた者の視点を注入することによって、W. ホイットマンの『僕自身の歌』を援用いたしますと、’loaf’することによって「本来あるべき活力」をさらに強固なものにするための手段からであるように思えます。諸先生・諸先輩また現役の諸兄姉が一丸となって築き上げてきた、あるいは現在築いているこの学会のさらなる向上を求めての選択からであったように思えます。このような認識から、会員諸兄姉の意識の中にある帰属意識を刺激し、学会諸行事をさらに再検討することによって、会務に積極的に参加してもらえる環境づくりを私の最重要課題としたいと思います。

とは申しましても、学会事務局はもちろん英文学科内にあり、会務の遂行にあたっては、従来どおり英文学科の諸先生、助手の皆さんに負うことになります。歴代会長たちが築いてこられた会運営および方針を踏襲しつつ、掲げた課題を遂行し、学会が持つ「本来あるべき活力」を強固のものとするという至難の業を果たすには、会員の皆様の温かくかつ厳しい支援と協力が不可欠です。忌憚のないご意見、ご要望等お寄せいただきますようお願いいたします。どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 


ご挨拶

 

―退任にあたって  

前日本大学英文学会会長  原 公章

 

新年度も無事に始まり、また一年、心新たな出発の時期を迎えております。昨年12月の総会席上で、会長辞任のご挨拶をいたしましたが、この『通信』でもそのご報告をし、あわせて全会員の皆様に感謝の意を表したいと思います。

私が関谷武史先生のあとを受けて、本学会の会長になったのが2003年10月ですから、数えれば3年以上もの間、私は会長職を務めたことになります。この間、多くの皆様のお力をもって何とか本会を運営できたことを、まず感謝いたします。とりわけ、常任委員・運営委員の諸先生には、本会運営の大きな推進力となっていただきました。また、実際の運営に当たっては、何と言っても研究室の歴代助手・副手の方々の力が不可欠であり、事実上、この会の年間計画の実施や会計実務などは、ほとんど助手・副手の皆さんの手によってなされてきました。さらに、月例会や大会、それにこの『通信』や『論叢』などでご協力いただいた会員の皆様の数は、数え切れないほどです。本学会の歴史の重みをこれらの方々の活動とご協力から、感じないわけにはいきませんでした。「伝統」とは、その中で落ち着きをもって考え行動できる様式です。本会のこの伝統は、英文学科創設以来80年にわたる、多くの先生方のご努力の集積だと思わないわけにまいりません。

前会長の関谷先生は本会の学問的レヴェルを高めることを第一の目標とされ、『論叢』の充実と院生の学外における研究発表の奨励などを、機会あるごとに話されました。関谷先生が毎号『通信』に書かれたご文章は、先生の学識とお人柄がにじみでた、実に味わい深いものでした。先生には到底及びませんでしたが、私も先生の後塵を拝し、先生が敷かれた路線で何とか本学会の舵を取ってきたつもりです。中でも2005年5月、第77回日本英文学会が本英文学科全専任教員と多くの会員・院生・学生の力で無事に開催できたことは、私の任期中最も思い出深い出来事でした。これもまた、本学会の伝統のしからしめたものと自負いたします。

ひるがえって、昨今の日本の大学を眺めると、「英文学科」という名称を持ち、さらに「英文学会」をも併設している大学は、ますます少なくなっているようです。現に昨年、特別講演の講師を勤められた南山大学名誉教授荻野昌利先生は、ご自分の大学で長い伝統のあった英文学科が消滅したことに比して、日本大学が今なお「英文学科・英文学会」を堅持していることを賞賛されておりました。他大学から本大学大学院受験者が増えたのも、「国際」・「文化」・「情報」などの言葉が花盛りの現在、古風な「英文学科」・「英文学会」という名称が、かえって新鮮な響きを与えたからかもしれません。いずれにせよ、学問に王道なし、時代が変わり、制度も変わっていく中で、本英文学会は改めるべきところは改めつつも、これからもぜひ、今までの歴史を重ねていってほしいと、心から念願いたします。

さいわい、新会長の寺崎隆行先生と新副会長の吉良文孝先生は、長らく常任委員として本学会の活動の重責を担ってこられました。お二人の新たな力を先頭に、本学会のますますの発展を願ってやみません。私も、今少し、本会のために努力する所存です。それでは、皆様、本当にありがとうございました。

 

 


 

英文学科主任挨拶

 

―平成19年度を迎えて―

日本大学文理学部英文学科主任  保坂 道雄

 

  この4月より松山幹秀先生のあとを引き継ぎ英文学科主任を務めることになりました保坂です。文字通り私の力に余る職責ですが、会員皆様のご協力を頂きこの務めを果たせればと考えております。何卒宜しくお願い申し上げます。

 さて、本年度は新たに学部新入生184名、大学院新入生13名を迎え、無事に新年度のスタートをきることができました。学部の入学者数は例年150名程度であり、大学全入時代の今、これほど多くの学生たちが日本大学英文学科を選び入学されたことに、教員及びスタッフ一同心よりうれしく思うと同時に、その責任の重さを痛感しております。一方、大学院の入学者は前期課程9名、後期課程4名で、文理学部の他学科や他大学の英文学科に比してもその数は多く、またいずれの入学者もしっかりした目標をもって専攻を選んでおり、大変頼もしく思っております。

 本年度は英文学科の教員・スタッフの異動はわずかで、新任副手(正式には助手Bとなりますが、この件の詳細については後ほどご説明致します)として、この3月英文学科卒業の千葉麻衣子さんをお迎えしました。昨年来続いていた欠員状態がようやく解消され、副手4名・助手2名の通常体制に戻ることができました。とはいえ、ガイダンス及び授業始めの4月は大変忙しく、土日の休みも返上して毎日夜8時、9時まで学生対応や事務整理に奮闘いただいております。教員一同、学科及び学会を支える縁の下の力持ちに本当に感謝しております。

 ところで、新聞等でも既に報道されている通り、本年度より大学組織の内部構成の名称が変更になりました。日本大学もこれにならい、教授・准教授・(専任講師)・助教・助手(AB)という名称に決まりました。専任講師のポストは近い将来無くなることが予定されており、助教がこれまでの専任講師と助手の役割を兼ねたポストとなり、その採用は任期制(任期3年で上限3期まで)です。また、助手は主に研究補助担当の助手Aと事務補助担当の助手Bにわかれ、ともに任期3年(上限2期まで)となりました。なお、英文学科では、名称の混乱を避けるため現行のスタッフが退職するまで、これまで通り助手・副手という名称を用います。職名の明確化や講座制の廃止等を目的として導入された変更のようですが、英文学科としては大して恩恵のある改変ではなかったのではと感じております。

 近年、大学教育に関わる大きな改革が幾たびか行われてきました。授業評価やシラバスの導入、GPAの採用等もそうした例です。確かにこうした改革の必要性は十分理解できますが、その実効性に関しては今後厳しく評価していく必要があるかと思います。実際、授業評価やシラバスの形骸化も大いに懸念されます。

 こうした問題の原因の一つはその導入経緯にあると感じております。すなわち、こうした改革の多くは海外、特に米国の大学のシステムを日本の大学教育に当てはめて運用しようとしたものですが、その導入方法が単なる形式的な借用となっている点に問題があります。たとえば、シラバスを例に取ると、米国の大学では確かにシラバスを配布して授業内容を明確化し学生の学習指針となっておりますが、それは多くの場合、授業開始の時点で配られるものです。製本して配布されるCatalogue(授業の概略説明)とSyllabus(詳細な授業計画)は異なるものです。実際、数ヶ月も前に授業計画の詳細を提出することはあまり意味がないと思われます。こうした点を見ても、形式的な導入という感が否めません。また、GPAに関しても、米国の大学ように、一週間に受ける授業(週2回から3回、同一科目の授業が行われる)の種類が一桁程度に収まればその成績の平均値が有効になると思われますが、日本における多くの大学のように、一週間毎日異なる科目を3、4科目も受講するシステムでは、GPAの有効利用は難しいと思われます。日本の大学教育改革は、形式より中身を重視して行うべきではないかと日々感じております。

 さて、英文学科においても、数年後に予定されている次期カリキュラム改訂に向けて、真に教育効果の上がるカリキュラムを作成できるように、本年度より小グループを作り取り組んで行く予定です。年々英文学科に入学してくる学生の学力及び目標も多様化しており、個々の学生に合った指導が必要となっております。前回、英語能力の涵養と英米文学による多面的な世界観の把握を目標に掲げ、大幅なカリキュラム改訂が行われたのは平成12年度であり、その際、「TOEIC」、「TOEFL」、「通訳英語」、「英文翻訳技能」等の実用的英語科目が導入されました。また、専門科目では、各種演習科目の充実に加え、「イギリス社会論」、「アメリカ社会論」、「マルティ・カルチュラル文学演習」、「英米演劇実践演習」、「統語論演習」等のより専門性の高い科目の拡充も図りました。しかしながら、マイナーチェンジはあったとは言え、大幅な改訂から7年以上も経ち、新たな時代に向けたカリキュラムの必要性が益々高まっております。そこで、次期カリキュラム改訂では、学生のニーズにきっちりと応え、かつ英文学科の伝統である専門科目の基礎知識をしっかりと教えることができるカリキュラムを再度検討したいと考えております。どうか日本大学英文学会会員の皆様からも貴重なご意見を伺えれば幸いです。

  また、近年在学中に海外で勉強をしたいという要望を数多く聞くようになりました。ちなみに、昨年度は13名の学生がアメリカやイギリスを中心に約1年の長期留学をおります。以前より英文学科を中心に米国ハワイ大学と英国ケント大学に学生を送るプログラムを行ってきておりますが、本年1月に、川島彪秀先生のご尽力により、ハワイ大学にて行われた会合で交換留学プログラムの更なる進展がございました。具体的には、交換留学をより実効性のあるものとするために、ハワイ大学からの留学生を受け入れる体制(留学生向けに行う英語での授業等)を充実させるというもので、現在高橋利明先生を中心に計画が進んでおります。また、この4月には、ケント大学より、副学長代行であるキース・マンダー教授が表敬訪問に訪れ、同大学との間でも双方向の交換プログラムを実行できるように話し合いを深めていくことで同意致しました。これからもこうした留学プログラムが英文学科の学生にとってより魅力的なものとなるよう努力していきたいと思います。

 なお、本年度より、英文学科の英語名称をDepartment of English Language and Literatureと改めました。ほんの小さな変更ですが、今後もこれまでの伝統を大切にしつつ、常に新たな挑戦ができる活力に溢れた英文学科でありたいと願っております。今後とも、日本大学英文学会会員の皆様のご協力を切にお願い申し上げます。

 

 



学術専門書の出版について

日本大学理工学部准教授  佐藤 勝

 

  昨年『英語不定詞の通時的研究—英語聖書四福音書を言語資料として—』(英宝社、20069月刊、xvi184頁)を上梓した。拙著の紹介は、その「はしがき」、『英語史研究会会報』オンライン版の「新刊紹介(8)」等にお任せし、ここでは、この度の経験を踏まえ、学術専門書の出版に関して特にお伝えしたい点を記す。今後出版を考えている方に少しでも資することがあれば幸いである。

 私の場合出版に関する行程は次の通りであった: (I) 執筆、原稿完成 [約1年] (II) 3者チェック [3週間] (III) 最終推敲、最終原稿完成 [約1箇月] (IV) 入稿 → (V) 校正(著者3校+編集者念校) [約4箇月] (VI) 編集者による最終確認、印刷・発行 [3週間] (VII) 献本 → (VIII) 出版記念祝賀会。出版社による見積は(I)完了後であり、(II)の間に出版社と契約を取り交わした。なお、出版社に声をかけるタイミングは、著者と出版社の関係にもよるが、(I)完了の目処のついた時点でよかろう。以下、特にお伝えしたい点を列挙する。なお、専門分野の上で関係のない点は読み飛ばしていただきたい。

 (1)全行程期間中は、御用繁多の身であっても、日々の継続、朝から夜中まで机に向かう、余暇時間減、休日返上等の姿勢が必要である。(2)執筆について、これまで発表してきた論文をまとめる場合、章により差はあろうが、書き直すのがよかろう。(3)執筆について、本文以外の頁(ローマ数字頁部分・索引等)の執筆に相当な時間が取られる。この点は論文執筆とは大きく異なる。(4)第3者チェックは必要であり、可能であれば複数がよい。チェッカーは直に会って話のできる方がよい。(5)最終推敲は自己責任で行う。第3者チェッカーへの依存は御法度である。(6)出版社の決定は慎重に行う。出版社の編集力・ネームバリュー・宣伝力・経営力、出版費用、出版社との人間関係等を冷静に評価する必要がある。また、複数の出版社に声をかける点については各自の判断による。(7)出版助成金の取得にこだわり過ぎてはいけない。助成金の取得は、書籍の内容の他、発行時期、価格設定、出版社の意向等にも左右される。助成金については総合的に評価・判断する必要がある。1つ言っておきたいことは、出版助成金取得は、その書籍に対する1つの評価にはなろうが、「出版助成金取得の書籍=名著」とは必ずしも言えない。出版費用に関する選択に自費・助成金・出版社持・折半等のある中で(単著学専書の場合自費・助成金が普通)、一番大切なことは、自己にとって最善の選択をすることである。(8)入稿には、推敲し尽くされた完成原稿を入稿しなければならない。校正段階での内容の変更は御法度である。契約にも関わることであるから、入稿には慎重を期すべきである。著者・編集者間では信頼関係が大切であり、互いの信頼関係構築のため入稿の果たす役割は大きい。(9)校正では、編集者を尊敬・尊重し、一方では編集者に生産的な意見を遠慮なくぶつけることが大切である。10校正は、毎校充分な校正を行い、後の校や編集者頼みの姿勢であってはならない。また、電子版原稿の入稿であっても、毎校全文を読み直すのがよかろう。11校正について、レイアウト、スペース、表・図の在り方、使用文字・記号、文字のフォント・大きさ・太さ等の決定に、通常の論文作成以上の気を使わねばならない。12学専書の出版は相当に気を使わねばならない仕事ではあるが、どこかで切りをつけねばならないことを忘れてはならない。13献本する範囲決定には慎重を期し、不愉快な思いをしないよう注意されたい。14出版記念祝賀会は、開催していただければ幸運くらいの気持ちでいるべきである。開催の場合、その内容・規模の決定には慎重を期していただき、不愉快な思いをしないよう配慮していただくとよい。

 以上、舌足らずの点がありましょう。気軽にお尋ねいただきたい。

 経験豊富な英宝社より、自己の誕生日に学専書を出版できたことは大きな喜びである(拙著奥付参照)。また、大変有り難いことに、先輩が音頭を取り出版記念祝賀会を開催してくださった。さまざまな面に配慮くださり、皆が充分楽しめた会であった。年齢と共に深く感ずることは、「同窓生とは実にいいものだなあ」ということである。


 


 

Galsworthyのこと

元日本大学理工学部教授  桑山 泰助

 

最近日本ではGalsworthyがあまり読まれなくなったようであるが、英国では彼の再評価がなされ、また特にThe Forsyte Sagaのテレビドラマ化がなされてから再び読者が増えてきたようである。V. Woolf D.H.Lawrence が評論家としてよりはむしろ作家としての観点からGalsworthyへの批判を強めてから、また時代の変化もあってGalsworthyは一時期急速に人気を失っていった。WoolfLawrenceは果たしてThe Forsyte Sagaの真価をよく理解していたのかどうか疑問が残る。この物語を一度読んで考えただけの印象的評価では真実の理解は得られないであろう。彼らは作家的見地から批評したのであるからそれなりの意義はあるにしても多少一方的な見解にならざるを得ない。The Forsyte Sagaの評価には時代を背景にして深く読み込む必要があるであろう。

John Galsworthy は1932年にノーベル文学賞を受賞したが、それはThe Forsyte Sagaの評価が基になっていると言っても過言ではない。彼は国際文芸家団体であるP.E.N. Club の創設に力をそそぎ、初代会長となり、その発展のため尽力した。またノーベル賞の賞金はすべてP.E.N. Clubに寄付された。彼は個性の強い作家ではなかった。彼はupper-middle class の出身でパブリックスクールの名門Harrow校からOxfordNew Collegeに進んだ。いわば、紳士養成コースを歩んだのである。大学卒業後ロンドンの法学院で法律を学んだがそもそも会社社長をしていた父の要請でそうしただけなので、勉学に精進せず、父の会社の海外事業所視察の名目で海外旅行に出かけてしまった。

旅の途中、船の中でJoseph Conrad と出会い、以後生涯にわたって親交を結んだのはよく知られている。その後彼は作家への道を進んだが、その動機は彼の妻Adaの影響が大きいと言われている。

AdaJohnのいとこと結婚していたが、その結婚生活が不幸であったためJohnが同情し二人は恋仲になり9年間も待ち続けた後、Adaが裁判により離婚できたので二人は結婚した。離婚前の交際中にAdaWhy don’t you write? You’re just the person.と言われた言葉によりJohnは作家への決意を固めたと言われている。いわば彼はAdaによって作家に仕立てられたと言っても過言ではない。彼女は妻としてだけでなく、Johnが死ぬまで作家John Galsworthyを助けていった。彼女は作品に対して助言をするだけでなく、タイプを打ったりピアノを弾いたりして彼の執筆を助けた。彼は執筆中、よく妻にピアノを弾かせた。彼女のピアノを聞きながら書くと執筆が順調に進んだと言われている。彼女はピアノが上手なだけでなく感受性が強く審美観に富んでいた。

The Forsyte Sagaの女主人公Irene Adaを原型としている。Irene は主人公Soames Forsyte の妻であるがSoamesとは性格的にも人生に対する考え方も、生き方も、ほぼ正反対であり、結婚生活に不満を抱くようになる。SoamesIreneの女友達であるJune Forsyteが進歩的な考え方の人なので彼女の影響を断つためにロンドン郊外に邸宅を建てて妻をJuneと切り離そうとする。しかしJuneの婚約者で建築家のBosinneyに建築を依頼したため美的感覚の同じようなところから意気投合して二人は恋仲になる。金銭感覚のないBosinneyは建築の完成時に契約の予算を超過して裁判に負け、破産して、ロンドンの霧深い街頭で交通事故で死んでしまう。IreneBosinneyと駆け落ちをしようとして家を出るがBosinneyの訃報を聞いて落胆しSoamesの家に帰る。ここで第1部が終わる。

Galsworthyはヴィクトリア朝時代のupper-middle classの所有欲に基づいた財産観念、唯物的価値観、人間性を無視した経済重視の態度など、彼らの生き方に疑問を抱き、鋭い批判的態度でSoamesを代表するForsytesの群像を描きあげた。著者はBut this long tale is no scientific study of a period ; it is rather an intimate incarnation of the disturbance that Beauty effects in the lives of men. と述べているようにIreneの存在を美の象徴とし、Forsytesの物欲の世界に挑戦させ、それがいかにもろいかを示し、「美」と「財」の対立の世界を描いた。そのモデルになっているのがAdaである。AdaなくしてThe Forsyte Sagaは生まれなかったであろう。The Forsyte Sagaを日本の現代社会の現状と比較しながら考えてみると興味深いものがある。

字数の関係で充分理解していただける内容になるまで書けませんでしたが、学部学生及び大学院生にもThe Forsyte Sagaに関心を持っていただけたら幸いです。

 

 


 

Summing up ―研究と教育―

日本大学法学部教授  児玉 直起

 

  近年、文化と戦争の関係に興味がある。「戦争文化論」と名付けたこの研究は、その性質上formalismの美的な方法論にMarxismの歴史的な視点をうまく取り入れねばならない。これはJaussの受容理論に近いスタンスなのだが、実際やってみるとなかなか思うようには進まない。ともかく、これまで論じた文学者で、いわゆる英文学に属するのはGeorge Steinerだけである。W. B. YeatsShakespeareの英文学から出発しながら、なぜ、より広範な“文化”に、それも“文化と戦争の問題”に関心がシフトしたのか。自分を取り巻く環境や時代の変化がそこに作用したのかも知れない。今回「英文学会通信」から与えられたこの機会に、私の研究テーマと教員としての職場環境をめぐるささやかな総括を試みたい。

 昨春、私は17年間務めた東京国際大学(TIU)を退職し、日本大学法学部で再スタートを切った。TIUに着任した1989(平成元)年は、昭和が終わりベルリンの壁が崩壊するなど、国内外共に大きな区切りの年だった。当初所属の教養学部時代には、英文学講読、一般英語等の授業を担当し、初年度の講読では、先達の助言に従いThe Merchant of Veniceをテクストに選んだ。研究の方は、同年Othelloの文化的他者性に焦点を当てている。しかし、私はTIUでの教育・研究両面で次第に違和感を覚えるようになった。

 私が所属した国際学科には、国際政治学や国際法、アジア・アメリカの地域研究等を専門とする同僚が大半だった。こうした環境に居ると、自分がやっていることの意味を相対化せざるをえなくなる。私の場合、それは文学研究・語学(英文学)教育であったから、文学以外の専門家たちにも通じるコトバ(研究・教育)を模索するようになった。一方、教育では、“実学”志向の学生に“虚学”(文学)の面白さを教えるという難問に直面した。そもそもシェイクスピアの英語は文学部の学生には簡単に読めるはずもない。技術的な困難を乗りこえて“文学”の高みに登るよう学生に促すのは至難の業だ。教員としての試練である(この事態は、文学部のみならず、当の文学部でも生じていたことが後に判明した)。私に違和感を引き起こしたこれらの現実が、私の関心を、英文学の作品論から、Paul de Man等の文学理論へとシフトさせたのかも知れない。少なくとも要因のひとつではあったろう。文学の価値を前提にできない環境は、文学の自明性を問う理論家たちの思考/志向をより切実なものにするからだ。

 だが、文学や芸術の“価値”を他者とほとんど共有しえない環境は、なにも私が在職した大学・学部に限ったことではなかった。当時の日本社会全体が、文化/教養(culture)の価値を評価するのとは正反対の方向に進んでいたのだ。私が専任になった80年代の終わりは、まさに「大学改革」の波が起こり、「教養教育の解体」が進んでいく起点の時期だった。わが教養学部もこの波に巻き込まれ、1995年、人間社会学部(社会文化学科・福祉心理学科)に改組される。私は社会文化学科に所属し、演習(ゼミ)も担当するようになった(いま思えば、TIUでのゼミ運営――特に1年次のゼミ――は教育の醍醐味だった)。95年は戦後50年の節目に当たり(阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件も同年)、Claude LanzmannShoah (1985) がこの年日本に初上陸した。ホロコースト(ショアー)を主題とするこの驚くべき映画は、その後の私の研究・教育を方向づけたともいえる。私は『ショアー』から、また『ショアー』を観たゼミ生たちのレポートから、ずいぶんencourageされた。この頃から、芸術文化と危機を結びつけ、前者を後者の苦境において見る視点が、私のなかで、より明確に意識化された。学部改組以降の教育面は、紙幅が尽きたので省略する。

『ショアー』論の翌年、「戦争文化論――序説」と題し、危機と芸術文化の親密さに関するWalter Benjaminやスタイナーの認識を跡づけた。ランズマンを含め、いずれも欧州での蛮行から洞察を引き出したユダヤ人である。彼らのcritical(危機的/批評的)な洞察を自分の問題へとつなぐには、日本の文脈に眼を向けざるをえない。そのころ私は、効率性を最優先する社会環境にあって、ますます、自分が惹かれる文学観の淵源を探りたい衝動に駆られていた。実は、「戦争文化論」を構想する以前に、先のド・マンに加えT. S. EliotLionel Trilling等の評論を材料に、ロマン主義(近代文学)の起源に関する考察を試みたが、うまくいかなかった。西欧の文学観を論じながら、自分の力不足と共に隔靴掻痒の感を禁じえなかったのだ。私は、実存にじかに響いてくる対象を求めた。それが、作家を目指しながらも挫折し、美術エッセイストとして名を馳せた洲之内徹だった。特に、中国での加害者体験に根ざした洲之内の戦小説は、「文学の根」を求める先の衝動に恰好の対象だった。

 洲之内論以後は少し間が空くが、日大法学部への移籍を機に、大政翼賛会の文化部長を務めた劇作家岸田國士を取り上げ、現在に至る。いずれにしても、英文学で培ったclose readingが分析の武器となったことは間違いない。

 


 


 

光永先生を偲んで

日本大学理工学部准教授  小中 秀彦

 

最初に光永先生にお会いしたのは,日本大学理工学部(船橋校舎)の英語研究室だった。当時の研究室は個室ではなく,大部屋でサロンのようだった。古きよき時代である。非常勤講師として理工学部に出講していた先生は決まって昼休みに研究室を訪れ,当時,副手だったか,助手だったかは記憶が定かでないが,とにかくお茶くみが主な仕事だった私が出したお茶をおいしそうに飲みながら,理工学部の先生たちと歓談されていた。その後,先生の本務校である,水道橋にある日本大学法学部で日本英語表現学会の大会が行われる時,受付のアルバイトを先生に頼まれた。これが私の表現学会入会のきっかけだった。先生は表現学会で紀要部会の委員長を長年務められ,学会のブレティンでは,「表現学会の思い出-紀要創刊の頃-」というタイトルでエッセーに,「学会活動中の中で紀要部会の仕事は,私にとって楽しいものの一つでした。」と書いている。そして,その紀要の創刊号に,ロンドン大学の Prof. Sidney Greenbaum からメッセージをもらえたことを何度も何度も自慢されていたことを懐かしく思い出す。紀要部会の委員長を辞された後も表現学会では顧問として活躍された。研究面では,『ハックルベリー・フィンの冒険』の言語学的分析を中心に研究してこられ,1995年には吾妻書房から,Language Characteristics of Adventures of Huckleberry Finnという名著を出版している。早稲田大学の田辺洋二氏による書評では,「著者の長期にわたる Mark Twain Huckleberry Finn 研究がなくては,本書のような愛情のこもった,しかも文学と語学を包含した広く高い観点からの手引書は生れない。(中略)本書は全文が英語で書かれている。参考の地図も Notes もすべて英語。本書は研究書だが,大学の英語講読教材としてよい。とくにアメリカ文学愛好者や学生には逸品である。一読を奨めたい。」と絶賛している。通信学部のサマースクーリングで知らない先生ばかりの四面楚歌状態だった私に講師室でやさしく声をかけてくれた光永先生。定年の時には,自分の研究室を整理して,たぶん「勉強しなさい」という意味だったのだろう・・・何冊かの辞書をくださった光永先生。今,手もとにあるのは『チョムスキー理論辞典』(研究社出版)で,表紙に先生の名刺が貼ってあり,熊本での表現学会の後だったのだろうか,「熊本ではおつかれさまでした」とコメントがついている。表現学会の懇親会では,私の好きなビールを会場のどんなに遠くにいてもつぎに来てくれた光永先生。今でも,マーク・トウェイン,『トム・ソーヤーの冒険』,『ハックルベリー・フィンの冒険』,2語動詞,ロンドン大学,日本大学法学部,熊本といった言葉に触れると,先生のやさしいお顔が思い出される。

謹んで先生のご冥福をお祈りいたします。

 

 


 

西村満男先生の思い出  

日本大学文理学部教授  原 公章

 

  2005年12月中旬、元国際関係学部教授の西村満男先生から、突然お電話を頂いた。先生とお話するのは何年ぶりだろうか。お電話で先生は「英文学科創設80周年記念に際し、私の蔵書の中から、O・ヘンリーに関する本を日大英文学科に寄贈したい」と申し出られた。先生は日本大学教養部(三島)、文理学部(三島)を経て、今の国際関係学部に至るまで、数えて40年あまり三島の日本大学で教鞭をとられ、しばらく前に70歳のご定年で退かれた。そして現在、先生は静岡県駿東郡長泉町のご自宅で、奥様の正子様とお二人、悠々自適の生活を送っていらっしゃることは存じていた。先生はお電話でまた、「もう身辺整理をする年でね」と言われ、さらに「実は、体をこわして入院もしてたんだ」と言われた。だが、昔と少しも変わらない、はりのあるお元気そうなお声からは、ご入院など想像できないほどだった。そこで私はすぐに、ご本のご寄贈に感謝すると同時に、「先生のご近況などを英文学会通信に書いていただけませんか」とお願いしたところ、先生はあっさりと引き受けられた。それから数日もしないうちに、まず先生ご自身が丁寧に梱包された、O・ヘンリー関係の貴重な蔵書が研究室あてに届いた。先生作成の蔵書一覧の説明と、貴重な本を取り扱うさいの注意まで書き添えられていた。几帳面な先生らしいお心配りであった。送られてきた本は、現在世界でも入手困難な全集始め、貴重な研究書など多岐にわたった。さらにそれから数日後の12月下旬、お願いした原稿が早くも届けられた。それが『学会通信』第85号掲載の「英語教師の独り言」と題する先生の玉稿である。早速お礼の電話を差し上げたが、このときは、まさかこれが先生のご遺稿になろうとは、夢にも思わなかった。また、これが先生のお声を聞く最後になろうとは、夢にも思わなかった。

 明けて2006年2月上旬、奥様から突然お電話を頂き、先生が1月25日にご逝去されたことを知った。驚きのあまり、言葉を失ってしまった。ご蔵書が送られてきた手際の速さ、執筆原稿をすぐにお送りくださったそのお心遣い、いずれも、あのとき先生はご自身の中に何か「予感」があったのだろう、と今にして思う。奥様のお話では、蔵書と原稿をお送り下さったあと、すぐに再入院され、あっと言う間にこの世を去られたとのことだった。ご葬儀では、先生のお好きなクラシック音楽が流され続けたともおっしゃられた。

 現代アメリカ文学研究者としての西村先生のご業績は、ご専門のO・ヘンリーやアーウィン・ショーなどに関する論文をはじめ数々残されているが、同時に先生は英語研究の面でも顕著な業績を挙げられている。中でも先生が1995年に国際関係学部の紀要『国際関係研究』第16巻に書かれた「”government of the people”再考」は、リンカーンのゲティスバーグ演説の有名な一節、”government of the people, by the people, for the people”の前置詞”of”をめぐる論考である。これは翻訳家の飛田茂雄先生の目にとまり、『英語青年』1999年9月号で絶賛された。西村先生は、リンカーンのこの有名な言い回しが日本でさまざまに解釈されてきた経緯を振り返りつつ、リンカーンが実際に使った他の例などをもとに、このofが所有を表すのではなく、目的を表す of であることを実証された。先生の学問研究は、このような緻密さが第一の特徴である。それがご専門のアメリカ文学研究にも、また恐らく日本で随一のO・ヘンリー関係の蔵書収集にも、さらに堅実でかつあかぬけたそのご授業ぶりにも現れていた。先生は開拓社の井上義昌著『英米語用法辞典』を高く評価されていらっしゃったが、この辞書を始め、内外の多くの語法辞典を駆使されつつ文学作品に当たる先生の実証的方法は、どんな小さな言葉もないがしろにしない先生のお人柄がよく現れていた。それは先に述べた先生のご遺稿にも十分に窺われる。

 実は、私が西村先生と出会ったのは、私が高校生のときにさかのぼる。三島で生まれ育った私は、高校時代、あるジャズ・ピアニストについてしばらくジャズ・ギターを学んでいたことがあった。私が高校3年の時、そのピアノの先生が三島混声合唱団から、「山の歌」の特集をするから伴奏をしてくれないかと頼まれ、その結果、先生がピアニカ、私がギターを舞台で弾くことになった。それでリハーサルに行ってみると、そのときの三島混声合唱団の団長兼指揮者が、西村先生だったのだ。これが先生との初対面である。西村先生はアメリカ文学と同じくらい音楽にもご造詣が深く、ご自分で編曲もされ、歌も歌われた。大学の「歌集」を作ったのも西村先生である。それで三島市文化会館での定期演奏会では先生の指揮のもと、私たちの伴奏で、合唱団は「山の歌」を何曲もメドレーで歌った。私も拙いながら懸命に伴奏したが、今から思えば冷や汗ものである。だが当時、先生はまだ40歳前、演奏会の熱気に包まれた、長身でダンディな先生のさっそうとした指揮者ぶりは、40年以上たった今も目に焼きついている。

 次に私が先生の教えを受けたのは、演奏会の翌年、私が日本大学に入学し、その初年度を三島校舎で過ごした時である。この時、英語IIIの授業を担当されたのが西村先生だった。三島時代は私にとってのアルトハイデルベルグである。その中で最も忘れがたい授業が、西村先生の編まれたテキスト『アメリカン・アクセント』を使った、この授業だった。このテキストは、コールドウェル、ヘミングウェイ、サロィアン、カポーティ、ショーなど、現代アメリカを代表する粒ぞろいの短編小説のアンソロジーである。先生による作品の選択と編集、テキストにつけられた先生の英文の前書きと注釈、何より授業中、先生がそれぞれの場面で話された解説や背景の説明などは、大学入学したての私たちには、どれもすべて奥深く、しかも新鮮であった。たとえば、コールドウェル「いちごの季節」では、初恋の小さな物語に胸ふさがる思いをし、今なおいちごの季節になると決まってこの物語を思い出す。また、サロィアンの「蛇」では孤独な青年がセントラル・パークで見つけた小蛇を弄び最後に逃す話だが、この蛇が後に会う青年の恋人のシンボルだと解説されたときなど、思わずのけぞってしまったほどだった。先生は、スタインベックにも「蛇」という同じ題の短編があるから、比較してごらん、とも言われた。これが大学の英語の授業なんだ、と思った。私はこのテキストを通して、初めて英語と文学の楽しさ・奥深さに目が開いたといっても過言ではない。実際、私がその後、1970年にある短大の教員となった時、真っ先に英文専攻で使ったテキストが『アメリカン・アクセント』だった。授業の最中、何度も西村先生が話された言葉を思い出し、あるときはそれを真似たりもした。そういうわけで、「山の歌」と『アメリカン・アクセント』は、私の大学入学前後の最も思い出に残るものであり、それが同時に西村先生の思い出と深くつながっている。時がたてばたつほど、その思い出は深まるばかりである。

 先生は世田谷校舎にもしばらく非常勤講師としてお見えになっていたことがあり、その時にキャンパス内でお目にかかったり、また、私の卒業後は日本大学英文学会の年次大会や懇親会でお話する機会があった。また、三島の日大にいる友人たちから、先生のご消息を伺うこともあった。だが先生の晩年、実際にお目にかかることは、残念ながらほとんどなかった。だが、世田谷の英文学科で私が働いていることを、先生が大変喜ばれていたということを、いろいろな方々から漏れ聞いていた。先生のご厚情をいまさらながらありがたく思う。私にとっての西村先生は、やはりいつまでも三島混声の先生であり、英語IIIの先生であり続けた。

 昨年の夏休み前、奥様からさらに先生ご所蔵のO・ヘンリーの翻訳書など、残りのO・ヘンリー関係のご蔵書を、先生のご遺志としてお送りいただいた。それには奥様のご丁寧な書状も添えられていて、さらに先生のお元気な最近の写真も同封されていた。写真の中の西村先生は、40年前と不思議なほど変わらない、眼鏡の似合うダンディなお姿である。奥様はまたお手紙の中で、先生の最後について「余りにもうまい死に方でした」とも書かれていた。人間の真価がその最後の場面に現れるとすれば、先生の一生はまた、英語と文学と音楽に身を捧げた見事な一生だったと言えよう。先生は現在、京都にある先生ご一家の菩提寺、金戒光明寺の墓地に眠っていらっしゃる。そこは京都社寺巡礼でも知られる美しい寺だが、奥様はこのお寺の写真集をも同封してくださった。その風景写真を拝見すると、ここは西村先生にまことにふさわしい静かで美しい終焉の地である。先生は最後までダンディを貫かれたのだと、思う。

 

 


 

追悼:岡田篤志先生

日本大学国際関係学部教授  宗形 賢二

 

  岡田篤志。日本大学国際関係学部助教授。平成18年7月18日肺癌のため逝去。享年

60歳。トマス・ハーディの研究者。葬儀は東京三鷹の実家で身内のみで行われた。菩提寺は西多摩郡日の出町の「保泉院」。

 岡田さんが亡くなってまだ1年も経たないが、日々の喧騒の中でいつの間にか遠い存在になっていることに気づく。というよりも、10年以上も後輩の、平凡な毎日を送る自分などにとって、岡田篤志さんという存在は、もともとどこか理解しがたいものを持つ、凡俗を離れた孤高の存在であった。後輩に見せた顔は一面にすぎないかも知れないが、英文学者としてというよりは、「文学」に携わる者として、また、一個性としても稀有な存在であったことは誰もが認める人であったと思う。

 岡田さんに初めて出会ったのは、まだ学生運動の傷跡が生々しい文理学部への入学時、「英作文研究会」という何とも古色蒼然とした部活の懇親会だったと記憶する。部の創設メーンバーとして時折顔を出していたのであった。大学院生としてハーディを研究していた時期である。東京郊外の愛情あふれるご家庭の末っ子(三男)として育ったが、三鷹市立第一小学校時代から近所でも有名なガキ大将であったと、後にお兄さんからうかがった。あの太い声と大きな身体で、この学生時代もたっぷりとその雰囲気は残していた。同級生や先輩にとっては、おそらくとても扱いにくい存在であったことと思う。ただ、後輩の面倒見は良かった。どういう訳かよく声をかけてもらい、こちらが大学院生時代には銀座や六本木、あるいは原宿と「夜の世界」を見せてもらった。親しかった戸川昌子さんのシャンソンの店などにも何度か行った。実に粋な遊び方だった。本人がダンディズムを意識していたかどうか分からないが、どこかで自己を律する美意識が感じられる人だった。時にはクラブやゲイバーなどにも顔を出した。岡田さんには水商売とか性とかへの差別意識は皆無だった。ただ、何かの拍子に、触れてはならない部分にガサツに近づくと、感情が爆発した。何かひどく真剣な部分があった。岡田さんが昭和50年、日本大学『英文学論叢』に書いた最初の論文「森に住む人たちにおける近代のいらだちと原始的感情について」はハーディの作品論だが、このタイトルに何か象徴的なものを感じてならない。自宅のあった茅ヶ崎で、海を見たり、暑い夏の夜でもエアコンなどかけず、ビールを飲みながら好きな加山雄三の曲を聴いているときが、わずかに心休まる時間だったのでは、と思う。

  今から振り返ると、この時期の岡田さんには、就職や結婚話など精神的に重い出来事が続いていた。我々には、そのような話は一切せず、とにかく文学研究者として一流のものに接し体験するよう度々口にし、慶応で開催されるアメリカ文学会などに引っ張っていってくれた(亡くなる数年前、学会にも多額の寄付をしたと聞く)。岡田さんの文学観は、ある意味ひと昔前のロマンティックなものであったかもしれない。銀座を舞台にした小説を書いていると何度か聞いたことがある。10年近く前、偶然にも三島で同僚となり、岡田さんの晩年を見ることになったが、病気のせいもあってか、時に苦しそうな表情を見せることがあった。学生には常に人気があった先生であったが、なりたかったのは小説家であったという。確かに、岡田さんに他のどんな職業が合うだろうか。「人生が仕立て下ろしのように、しっかり身に合う人間にとっては、文学は必要ではない」という吉行淳之介の言葉を思い出す(『わたくし論』)。心からご冥福を祈りたい。

 

 


 

副手就任のご挨拶

日本大学文理学部副手  千葉 麻衣子

 

  本年度から、英文科研究室の助手Bとして勤務することになりました。つい1週間くらい前までは本校の学生だった私が、今、研究室の一員として働かせて頂いていることがまだ不思議な気持ちで仕方ありません。学生の立場から一気に逆転して、英文学科のスタッフとして主体的に運営に携わることが出来る喜びとともに、社会人としての責任の重さを感じながら日々仕事に取り組んでおります。4年間の学生生活を振りかえると、私は専らサークル活動に力を注いでいたような気が致しますが、それでもしっかりと学業との両立を成し遂げることが出来たのは、英文学科の副手の方々が影でサポートをして下さっていたおかげなのだと今感じております。いつも優しく、時には厳しくも見守って下さっている副手の方々の姿にいつしか憧れ、今、その職種に就くことが出来とても嬉しく感じます。私も学生一人ひとりが充実した学生生活を送れるよう精一杯サポートしていきたいと思います。そして、人と人とのつながりを大切にし、徐々に信頼関係を深め、学生だけでなく先生方からも頼りにされる存在になりたいです。また、英文学科の学生、先生方、スタッフが毎日笑顔で、気持ちよく過ごせるような環境を作り出すムードメーカーになれるよう心がけたいと思います。今はまだ何もかもが手探りの状態でご迷惑をおかけすることも多いと思いますが、早く皆様のお役に立ちたいと考えておりますのでどうぞ宜しくお願い致します 。

          

 

 







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