日本大学英文学会  

日本大学英文学会通信86号(2006.10)


 

ご挨拶

―本年度の大会を前に―

 

日本大学英文学会会長   原  公 章

 

 

 つい先日、新年を迎えたばかりと思っていたら、はや、今年のカレンダーも残り少なとなりました。時の過ぎる速さにまたもや愕然としております。会員の皆様にはお元気でお過ごしのことと思います。本年度の大会は、日程の都合上、12月16日という押し迫った時期に設定せざるをえませんでした。お忙しい時期ではありますが、どうぞ万障お繰り合わせの上お出かけください。また、来年1月13日(土)午後には、本学会主催の特別講演会も予定されており、南山大学名誉教授、荻野昌利先生のお話をうかがうことになっております。こちらも、ぜひご参加をお待ちいたします。

 さて、昨年から今年にかけて、会員の訃報が相次ぎました。昨年7月20日に元法学部教授の光永司雄先生、同じく7月28日に文理学部講師の伊藤裕道先生がお亡くなりになりました。さらに本年に入ってからは、1月25日に元国際関係学部教授の西村満男先生、6月3日に元文理学部教授の江川泰一郎先生、そして7月18日に国際関係学部助教授の岡田篤志先生がお亡くなりになりました。いずれの先生も本学会にとっては、かけがえのない会員でした。この『学会通信』ではお亡くなりになられた方々の「思い出の記」を順次、掲載していこうと思います。今号は、八木悦子先生から伊藤先生の、吉良文孝先生から江川先生の、それぞれお心こもった「思い出の記」をお寄せいただきました。本当にありがとうございました。

 考えてみますと、かつて私が英文学科で教えを受けた先生は、現在、ほとんど幽明境を異としておられます。お名前を挙げれば、大和資雄先生、古谷専三先生、鈴木幸康先生、石橋幸太郎先生、岡崎祥明先生、原田茂夫先生、内多毅先生、新倉龍一先生、佐藤宏先生、安田哲夫先生。さらに同僚であった先生のうち、阿部義雄先生、薄井良夫先生、大川裕先生、桑原謙先生、小宮山久之助先生、小柳睦夫先生、松田徳一郎先生がお亡くなりになっています。さらに、長らく非常勤講師として本学科で教鞭をとられた三橋敦子先生、大竹勝先生ほか、何人かの先生方のお姿ももう見えません。いずれの先生についても、それぞれ忘れがたい思い出が今も胸によみがえってきます。こうして亡くなられた方々のお名前を挙げることを「点鬼簿」と言いますが、これをするようになると、名前を挙げている本人自身が「向こうの世界」に近づいてきた証拠だそうです。私もそろそろそのような年齢になったと、最近つくづく感じます。とりわけ昨年6月、思いもよらない「くも膜下出血」に倒れ救急車で運ばれて、およそ1週間、意識不明もしくは朦朧となったことがあり、その時に「もはやこれまで」と覚悟もしました。幸い治療の甲斐あって26日間の入院ですみ、何とか日常に復帰いたしました。この間、ご迷惑とご心配をおけけしましたが、また多くの会員の皆様から暖かな励ましも頂き、本当にありがとうございました。あのときの経験から改めて「生死(しょうじ)」のことを考えないわけにはいかない日々が続いております。「生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり」とは『修証義』の冒頭の一行ですが、いまだに何も「あきらめて」いない自分の無明を恥じるばかりです。

 ヘンリー・ジェイムズに「死者の祭壇」(“The Altar of the Dead”)という中編小説があるのをご存じでしょう。これは主人公ストランサムが、愛する人の死を決して忘れない、それどころか「死」こそ、彼の「愛」の真の対象となってしまう物語です。死者をまつる祭壇に灯明をともす彼の行為は、死と生の境界を無くしてしまうかのようです。それは彼自身、死者となるまで終わることはありません。またジェイムズ・ジョイスのよく知られた短編小説「死者たち」(“The Dead”)では、アイルランド全土に降り積もる雪の下に、数え切れない死者たちが眠っていて、生ける者たちはその死者たちの目に見えぬ力を受けながらこの世に生きながらえています。考えてみれば、現生人類が発生してから約4万年、この世界の広大な歴史は死者たちの歴史であった、と言っても過言ではありません。地球の現在の全人口は約60億人、しかしいま、その何千倍の死者たちがこの世を覆っているでしょうか。何より、いま生きている私たちも例外なく、いつか必ず死者の仲間入りをします。それだからこそ、死者の思い出を忘れないストランサムに共感するのだと思います。いま生きている私たちは、この世にいるかぎり互いにいがみあったり、憎みあったりするのではなく、支え合い、助け合い、慈しみあうことが、最も大切な生の(あかし)となります。そしてこれこそ、亡くなった方々への本当の弔いとなるのではないか、と私は思います。

                     *

追記。前号で私は漱石を引用いたしましたが、そこで漱石は「猿が手を持つから始めてクライブに終わる教育の恐るべき事」と書いていました。これは当時の初級用英語教科書『ウィルソン第一読本』の冒頭にある”The ape has hands.”への言及です。英語教師としての漱石については、川島幸希『英語教師 夏目漱石』(新潮選書)という面白い本があります。

 

 


 

 

英文学科主任挨拶

 

日本大学文理学部英文学科主任  松山幹秀

 

 

錦秋の候、会員の皆様にはご清適にてご活躍のことと拝察いたします。

英文学科も920日(水)から後期の授業が始まりました。その前日の19日には昨年同様、後期を初めて経験する1年次生と卒業論文執筆を次年度に控えた3年次生を対象に「後期ガイダンス」を行いました。それぞれに100%に近い出席率で、後期に向けての学生諸君の意気込みを感じることができたのは教員にとっても欣幸の至りでした。

次に、英文学科のスタッフに新たな異動がありましたのでご報告いたします。4月に助手を退職された堀切大史さんの後任として10月から一條祐哉さんが助手として着任されました。専門は英語学で、この6月までハワイ大学言語学科の大学院で統語論・意味論を中心に研鑽を積んできた気鋭の若手研究者です。また、一身上の都合で6月末をもって副手を退かれた青木友理さんに代わって昨春英文学科を卒業された小坂宏美さんが9月から後任の副手として着任されました。「此の間に自から伏龍、鳳雛(ほうすう)有り」(鳳雛は他日、大鳳となる雛)と言えば少し大袈裟に過ぎるでしょうが、お二人には英文学科の大きな戦力になっていただけるものと期待しています。また、懸案であった学科事務室の機器備品の整備も後期を迎えて一通り完了し、新たなスタッフを迎えたことと相俟って学科事務室には新学期を二度迎えたような雰囲気が漂っています。

退職なさった青木友理さんは、副手としての在職期間こそ短かったものの、歴代の副手の方々の殿堂にしっかりとその名を刻まれるほどの貢献をしていただきました。教員・スタッフを代表してここに厚くお礼を申し上げます。

次に、前回の学会通信発行以降の学科関連行事について申し述べますと、722日(土)、23日(日)の両日に恒例となったオープン・キャンパスが開催されました。今年の模擬授業は私(松山)と高橋利明先生が担当し、それぞれ「英語の仕組み、不思議発見!」、「英語で読む『星の王子さま』」と題して講義を行いました。両日ともに4号館の会場には多数の受講者がありましたが、とくに『星の王子様』は大変な活況を呈しておりました。もう一つの柱である学科企画は、今年は会場を英文学科研究室のある7号館3階に移して実施し、学科事務室・会議室・大学院演習室・教員研究室、さらには3階階段口から通路スペースまでフルに活用して学科紹介に努めました。

英語の発音矯正体験コーナー、入学相談ならびに検定英語・留学・カリキュラム紹介コーナー、語学研修のビデオ上映、とここまでは昨年と同じ企画でしたが、大学院演習室の一室すべてを天井まで使った「イギリス文学の世界」は今年の目玉企画と言っていいほどの充実ぶりでしたし、通路スペースに展示した「白鯨」のオブジェは他学科の展示物と較べても白眉といえる出来ばえでした。今年は手伝いをしてくれた院生諸君が3日も前から夜遅くまで準備にあたってくれ、当日も粉骨砕身の働きぶりで、その努力の甲斐あって2日間に来場した高校生と保護者の数は昨年を大きく上回り、700人を超えました。この場を

借りて改めて院生の皆さんに心からお礼を申し上げます。

ところで、オープン・キャンパスで学科紹介をしたり入学相談に乗っていて痛感するのは、「英文学科」という存在が高校生(および広く社会一般)にとっては、魅惑とある種の忌避の間で揺れ動く概念体であるということです。一方で留学を含めたコミュニケーション分野への強い関心から生じる魅惑があると同時に、他方で「古くて硬くて難しい英語を読まされる」ことへの忌避意識が感じられるのです。そうであるとすれば、我々に与えられた課題は、人間を真に理解するには人の生き様を示してくれる文学を素材にするしかないと断言できるほどに自信を持ちつつ、文学、なかんずく英語圏の文学がその素材に富むということをしっかりと伝えていくことにあるように思います。

最後に、1995年に第一回研修が実施されて以来(一回の中止をはさんで)今年で11回目を迎えた英国ケント大学夏季語学研修ですが、今年は7月23日から822日までの日程で行われ、引率を担当されたS.J.ハーディング先生と保坂道雄先生の全体指導のもと、参加した24名の学生たちはそれぞれにかけがえのない異文化体験をして無事に帰国いたしました。以上をもって学科関連のご報告とさせていただきます。

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さて、前号の学会通信で英文学科の沿革について略述しましたので、古い会員の皆さんの追蹤の便を図るという意味もこめて歴代の学科主任について追記をさせて頂きます。前号の拙文の中で、1926年(大正15年)に高等師範部に英語科が設置(4月開講)されたことをもって英文学科創設の起源とする、といたしました。この学科創設の年である1926年に初代主任となったのは森村豊で(以下、敬称は略させていただきます)、その逝去によって大和資雄が2代目の学科代表(当時の職称は「学科主任」ではなく「学科代表」)に就任する1956年(昭和31年)まで、森村は実に30年の永きに亘って学科主任の職責にありました。大和資雄が2代目学科代表であった期間は1956年から定年退職する1968年までの12年間でした。大和のあとを継いで学科代表となったのは鈴木幸康で、このときから学科代表(=学科主任)の任期は原則2年となります。

以下に歴代の学科主任を初代から順に就任年を列記しますと、1926年森村豊(初代)、1956年大和資雄(2代:この代から12代目までは「学科代表」という職称)、1968年鈴木幸康(3代)、1970年新倉龍一(4代)、1972年新倉龍一(5代:再任)、1973年安田哲夫(6代)、1975年中島邦男(7代)、1977年阪田勝三(8代)、1978年安田哲夫(9代:再任)、1980年新倉龍一(10代:再々任)1982年藤井繁(11代)、1987年薄井良夫(12代)、1989年小竹一男(13代:この代から「学科代表」から「学科主任」に名称変更)、1990年田室邦彦(14代)、1992年當麻一太郎(15代)、1994年関谷武史(16代)、1996年原公章(17代)、1998年當麻一太郎(18代:再任)2000年田室邦彦(19代:再任)、2001年原公章(20代:再任)、2003年當麻一太郎 (21代:再々任)、そして2005年松山幹秀(22代)となります。

初代の森村豊と2代目の大和資雄が主任職にあった期間が42年間もの永きに亘っていること、現在の「文理学部英文学科」となった1958年(昭和33年)4 の学科代表(=学科主任)は大和であったことは特筆すべき点といってよいかと思います。なお、森村、大和に次いで主任在職期間が長いのは我らが當麻一太郎先生で、6年です。

なお、日本大学英文学会の会長のほうは日本大学英文学会が創設された1933年(昭和8年)以来、学科主任が兼職するのを恒例としてきましたが、1992年から両職が分離されることになり新倉龍一日本大学英文学会会長、當麻一太郎学科主任の体制となりました。しかし、199412月新倉会長の急逝に伴いしばらく会長職空位の期間が続いたのち、1995年秋から半年だけ関谷武史学科主任が英文学会会長を兼務されるという暫定的な兼帯措置が取られました。そして翌19964月から関谷会長の専任職となり、2003年に原公章会長に引き継がれて現在に至っています。

 

最後の雑感 ◆

立身出世の思想

この『英文学会通信』には毎号いろいろなエッセーが載せられていて興味深く拝読しています。例えば、前号(第85号)には、「(Longfellowの詩から読み取れる心情は)卒業式の歌『仰げば尊とし』に出てくる立身出世の思想とはかけ離れた理念である」という趣旨のエッセーがあります。明治17年に小学唱歌が編集された際に唱歌の一つに加えられた『仰げば尊し』は、ご存知のように「今こそ別れめ、いざ、さらば」で終わります。この「別れめ」というのは「別れ目」の意味ではなく、「め」は「こそ」と係り結びで呼応した意志を表す助動詞「む」の已然形、古事記に「今こそは我鳥にあら」の例が見えるほどに古い用法です。 ―― といったトリビア話はともかく、「立身出世の思想」とは、第二節の歌詞にでてくる「身を立て、名をあげ、やよ、励めよ」の箇所を指してのことですが、それが教育上不適切だという理由で現在の音楽の教科書では、第二節を削除して(本来の)第三節を第二節としているほどです。

しかしながら、この歌詞は『孝経』の開宗明義章第一、「敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。身を立て道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕わすは、孝の終りなり」の一節から採られたもので、『孝経』の該当箇所をよく読むとそこに立身出世という思想がないことが分かります。『孝経』は孔子が門人の曾参に親に仕える道(=孝道)を説いたものとされますが、「身を立てる」は『論語』に云う「三十にして立つ」ということで生活の基盤を確立して独立すること、「名をあげる」というのは道を正しく行って人格が立派であるという評判が立つことの謂です。原意とは異なる解釈が流布していくのは世の習いということでしょうか。

 

詩について

大和資雄は ―― 森鴎外、司馬遼太郎と書くのと同じ意味合いで敢えて敬称は略します ―― 『英米文學史』(昭和26年初版)の中で、詩は「純文學の精華といいうる」(304頁)ものであり、「およそ國力の盛んなときには先ず詩が大いに興る」(334頁)と書き、衰微していくばかりに見える英文學にあって、詩の分野においては、やがて偉大な伝統をたもつ英詩人たちが灰燼のうちから不死鳥のごとく甦るだろうという希望を託して第七章「第二十世紀」を締め括っています。私自身はおよそノン・ポエティックな人間で、若いころ萩原朔太郎の詩に少し入れ込む程度で、明治365月に満1610ヶ月で華厳の滝から投身自殺を遂げた旧制一高生、藤村操の「巌頭之感」を暗記して悦にいるくらいが関の山でした。(もちろんこれは辞世の句とは呼べても詩ではありませんが、陶淵明の五言古詩に詩趣が近いものがあります。惜しむらくは藤村操に淵明流の達観や人生への意趣返しがあったればと思います。)

「悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安ある無し。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。」

巌頭の大きなミズナラの樹肌を削って書き残したこの遺書の存在を私が知ったのは奇しくも16歳のときで、同い年でこれだけの文が書ける人がいるということにまずもって強い衝撃を受けたことを憶えています。(なお、「ホレーショの哲學」云々は、ハムレットが学友のホレーショーに向かって発した科白を藤村操が誤読したものであることを外山滋比古氏がその著もずばり『ホレーショーの哲学』(研究社出版1987年)で指摘しています。いみじくも、本学会通信77号(2002年)で関谷先生が触れておられる、There are more things in heaven and earth, Horatio, than are dreamt of in your philosophy.の最後の句、your philosophyの解釈を藤村は決定的に間違っていたという指摘です。)

「人生不可解」と言って投身自殺したエリート学生の死は、後追い自殺が続出するほどに社会的にも大きな影響を与えましたが、中でも一高で藤村のクラスの英語を担当していた夏目漱石は、自殺の前日に、予習をしてこなかった藤村を叱責したことをその後ずっと気に病み、それが後のうつ病の一因となったと言われます。ちなみに、『吾輩は猫である』十に「可哀想に。打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない。」の一文が見えます。―― ところで自殺の本当の理由ですが、当時言われた「哲学的な死の選択」や「厭世観」などではなく、実は馬島千代という女性(茶道師範をしていた藤村操の母のお弟子さん)に失恋したことにあることが後に判明します。(1986年7月1日の朝日新聞夕刊に詳報)

この夏、故あってアメリカの国民的詩人として親しまれたロバート・フロスト(Robert Frost 18741963)の詩のほとんどに目を通す機会がありました。フロストは国民的人気が高いばかりではなく、David Lehman編のアンソロジーThe Best American Poetry 2000の巻末特集、14人の米詩人・批評家が選んだ「20世紀アメリカ最高の詩人たち」(32)でも最多の得票数を得て、栄えある第1位に輝いています。

フロストは、最初の詩集A Boy’s Will1913年)から最後の詩集In the Clearing1962年)に収められたものまでを数えあげますと365篇ほどの詩(および劇詩)を残しています。(最初の詩集のタイトルは、フロストが敬愛していた、上記Henry Longfellowの‘My Lost Youth’のレフレイン“A Boy’s will is the wind’s will,…”から採ってきたものです。)フロストの詩をキーワード的に捉えるとlifegriefacceptance(人生・苦悩・受容)、naturemetaphorsound of sense(自然世界、隠喩的内的世界、詩の言葉の音と意味)といったところになるでしょうか。妻、そして6人の子供のうち4人に先立たれる不幸を味わいつつも、4回もピューリツァー賞を受賞し、晩年は19611月のケネディの大統領就任式で自分の詩を朗読したりと、詩人としては最高の栄誉に浴しています。この、大統領就任式のときに朗読した詩が‘The Gift Outright’で、この詩については200211月号の『英語青年』で渡辺利雄先生が従来の訳および解釈とは異なる‘所有’の読みを披露なさっています。やはり一流の文学研究者の読みは違う、と思わせるものがあります。

フロストに触発されてこの夏、漢詩(杜甫、李白、陶淵明、唐詩選)にもチャレンジしてみましたが、病膏肓に入ると言いますか、寝ていても羊の代わりに雲樹深深、晴煙漠漠といった漢語が飛び交うまでになりました。

昔聞く洞庭の水    今上る岳陽楼

呉楚東南に坼(さ)け 乾坤日夜浮かぶ

これは杜甫の「登岳陽楼」の最初の四行ですが、呉楚東南以下のたった10文字で雄大な中国大陸や悠久の時の移ろいを表現できる才能にはただただ脱帽です。芭蕉もこの詩から受くる感興頗る大きかったとみえて、「魂 呉楚東南にはしり 身は瀟湘洞庭に立つ」という文(『幻住庵記』)を草しています。

詩聖と称された杜甫が岳陽楼ならば、詩仙李白は黄鶴楼。

孤帆の遠影 碧空に尽き

唯見る 長江の天際に流るるを

黄鶴楼から、揚州に旅立つ孟浩然の乗った帆船を見送った李白の詩も千古の絶唱とも言うべきもので、個人的には李杜の詩の中でこの詩が一番好きです。ちなみに李白は1000篇ほどの、そして杜甫は1450篇余の詩を残しています。李杜の詩すべてに目を通すのはさすが気根が続かず、それに比べ陶淵明(李杜より350年くらい前の人)は124篇余と数も格段に少ないうえに、『風呂で読む陶淵明』(世界思想社)という陶淵明を読むのに打ってつけの本があるのも誠に有難く、すべてを味読、賞玩することができたのはこの夏最大の僥倖でした。詩聖杜甫から大きな影響を受けたのが俳聖芭蕉なら、陶淵明から甚大な影響を受けたのは与謝蕪村。そもそも蕪村という号そのものが、陶淵明の帰去来辞の冒頭、「田園将に蕪(あ)れなんとす」に由来します。

英文学科においても言葉による至高の芸術である詩を学び、その真髄を感得する授業の必要性を強く感じる、というのが私の一番言いたいことなのですが、実は漢詩と英文学者とは浅からぬ因縁があります。英文学の泰斗であった齋藤勇は、太平洋戦争敗戦直後の日本において東洋文化への否定的な雰囲気が強く漂うなかにあって、『杜甫-その人、その詩』(研究社:初版昭和219月)を著し、戦後の杜詩受容において多大な貢献をしました。自分は英文學専攻者であり下手の横好きに過ぎず、この本は「一門外漢の覚え書」程度のもの ―― そのように謙遜はしていますが、戦時中という物心両面で困窮を極めた状況にあって、能う限りの参考書と注釈書に目を通して書き上げた畢生の出来ばえと言ってよいものです。巻末に挙げられた「杜甫書誌」は執筆にあたって利用したものの三分の一ほどだと齋藤は書いていますが、それだけでも膨大な量です。       

 「全くの門外漢でも門外漢なりに鑑賞はできる。大文學にはさういふ魅力がある。そして杜詩はさういふ大文學である」「特に杜甫の世界を選んだのは、その詩が蒼勁雄渾であり、(中略)きのふけふの書きおろしのやうに生氣があり、又彼の人となりが至誠に終始してゐるからである」―― 齋藤勇は、ときにキーツ、シェリー、シェイクスピア、そしてダンテの詩とも対比しながら、「乾坤一腐儒」を以って任じた杜甫の人となりと杜詩の完成度の高さ、詩境の素晴らしさを縷述していますが、杜詩が真に大文学に値すること、および杜甫が至誠の人であったというのが『杜甫』を書かせた最大の動機だったというわけです。

 杜甫の詩は、間然とするところのない緻密さがあり、政治的社会的意図をもって人間の生活全体に対して想を及ぼし、押韻を到底させながら語を練りに練って一句一句彫琢するように詩を刻んでいく趣きがあります。そういう点が齋藤の気質にはよほど合っていたのではないか、というのが私の管見です。それは兎も角、この本(半紙のような紙が使われているので見かけは薄い本なのですが、371頁もあります)を読んで、特筆すべき点が3つあるように思えます。まず、(1)漢詩文に見られる構文的、統語構造的曖昧さ、そしてそれに付随する意味的曖昧さを「門外漢」の立場を利用して大胆に指摘していること、(2)ダンテを含めた西洋詩、英詩と杜詩を敢えて比すると最終的には西洋詩に軍配があがると述べていること、そして(3)『杜甫』を書くことで日本が侵略戦争を行っていた中国に対するせめてものお詫びの気持ちの一端を表そうとしたように思えること ― 以上の3点です。

(2)について言えば、「杜甫の詩にはカタルシスが十分にあるとはいへない」「悲歎にかきくれるだけで、思想により信仰によってそれを克服しようとする努力が十分でない」という否定的評価につながりますが、それは取りも直さず齋藤勇が唯一絶対神の聖福と光明とを仰ぎ見るキリスト教徒であったことに起因します。それでも、「文章は千古の事であり、杜詩は不朽の盛事である。(中略)彼にそこばくの缺陷があるにせよ、杜詩は永く私の心を惹くであらう。」という言葉で自著の掉尾を飾っています。

またもう一人、英文学者の土井(つちい)晩翠には有名な長編詩「星落秋風五丈原」(『天地有情』所収)があり、これは杜甫が「詠懐古跡五首」と題して諸葛孔明について詠懐したものを下敷きにしています。英文学者としてよりもホメロスの名訳詩や「荒城の月」の作詞で有名な晩翠ですが、自伝でも「詩に於ては屈原、李白、杜甫を多年に亙つて尊敬してゐる。」と書いています。

 

大和魂

ところで本学会通信でも群を抜いてその名が登場し、本稿でも度々言及している大和資雄(18981990)は、1925年(大正14年)に東京帝国大学文学部英吉利文学科を卒業し、2年間高野山大学教授として英文学を講じたのち1927年(昭和2年)、29歳のときに日本大学予科教授に転じ、爾来1968年(昭和43年)に70歳で定年退職するまで41年間に亘って日本大学の専任教授の職にあり、文字通り我が英文学科の礎を築いた重鎮です。定年で退いたのが1968年(昭和43年)ですから、直接謦咳に接した、最も若い世代ですらそろそろ還暦を迎えるほどの歳月が流れたことになります。本学会通信や記念論文集などに載っている大和資雄に纏わるエピソードの数々を読むと、強烈な個性の持ち主だったことが窺われ、私のような生前の大和を知らない人間にとってはまさに「大和魂の人」というイメージを強くします。実際、1942年(昭和17年)1月、大和が43歳のときに上梓した『英文學の話』(健文社)の序文には「私は機會あるごとに一方において英米人に斯く警告し、他方においてわが國の英語英文學徒の大和魂を鼓舞して來たのであつたが、今や米英の傍若無人なる暴戻を斷固として膺懲すべく東洋民族は蹶起した。」とあります。開戦直後の時代背景を反映したものとは言え、なかなかに檄文調のものです。

大和魂と言えば、新渡戸稲造の『武士道』でも取り上げられている、本居宣長の「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」(第15章)や吉田松陰の「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」(第16章)がすぐに想い浮かびます。ちなみに新渡戸稲造はこの吉田松蔭の句を(安政の大獄の)「処刑前夜に詠んだ辞世の歌」と書いていますが、それは新渡戸の誤解です。これは吉田松蔭が護送の途中に高輪泉岳寺前を通ったときに赤穂義士に手向けた一首で、彼の辞世の句は「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」です。等しく大和魂、大和心と云っても、大和資雄のそれは「万邦比類なき卓越した日本の精神性」の謂であって国粋的大和魂と呼ぶほうが相応しく、「情緒(もののあわれ)を理解する心」(宣長)や「武士(もののふ)の道こそ多き世の中に ただ一筋の大和魂」の句に顕著に見られる「日本民族固有の勇敢で潔い、特に主君に対して忠義な武士道の精神性」(松蔭)とは趣を異にします。

大和資雄が戦前に著した、上述の『英文學の話』は戦後6年を経て1951年(昭和26年)に『英米文學史』と書名を変えて角川文庫の一冊として出版されます。『英文學の話』にあった「序」「凡例」と肖像画・写真・図版がすっかり削除されていること、「第八章アメリカ文學」と題された30頁余りの1章が新たに書き下ろされ、他の4つの章で2~4行程度の加筆修正が行われていることを除けば両書は同じ内容です。

『太平洋戦争と英文学者』(宮崎芳三著、研究社出版1999年)という本では、齋藤勇、中野好夫など俎上に載せられた英文学者5人の中で最も多くの紙数を割いて大和資雄への論及がなされています。そこで焦点が当てられているのは、もちろん大和の一面でしかないかもしれませんが、日本大学英文学科の今後益々の飛躍を期する意味でも、徒に礼賛に礼賛を連ねるのではなく、今一度大和資雄が残したものをきちんと顕彰、そして検証と見証を行うべき時期に至っている気がいたします。

ちなみにその本での齋藤勇に対する評価は「世間から離れた学問の囲いの中で勉強に精を出す学者」というものです。しかし、齋藤は上述の『杜甫』(出版は昭和21年ですが戦時中に執筆)においてキリスト教徒として、ささやかながらも不抜の決意を表明しています。曰く、「軍閥が我が國民におしつけてゐた考へとは全然ちがつた理想を實現しなければならない。(中略)眞の平和は神の意志にそむくものにはあり得ない。」

 

書は人なり?

 旧聞に属しますが、今年1月初旬から2月中旬にかけて国宝や皇室に伝わる御物、さらには中国から特別出品された書の名品190余りを集めた特別展、『書の至宝-日本と中国』が東京国立博物館で開催されました。私も二度足を運び、特に、空海の「風信帖」(最澄に宛てた書状三通を一巻に仕立てたもの)、蘭渓道隆の「法語規則」そして梁同書(18世紀清の人)の「谷神章軸」には強く心を動かされました。逆に三蹟とされる小野道風、藤原佐理、藤原行成には貴族的で単に美麗な能書という感懐しか持ちえませんでした。ただ残念だったのは、書聖王羲之の拓本(その書を愛した唐の第2代皇帝太宗が、集めた真筆2000余点すべてを墓に副葬したため真筆は現存せず、残っているのは拓本のみ)は十点も公開されましたが、一度は見てみたいと思っていた顔真卿の書が一点もなかったことです。

ところで、空海には、弟子の真済が編集した『性霊集』という漢詩文集があり、その序文の中で真済は「天假吾師多伎術、就中草聖最狂逸」という言葉を引いています。天は空海に万般にわたる技能の才を賦与したが、なかんずく草書は聖人といっていいほどに優れていた、という意味ですが、個人的には草書よりも「風信帖」の一部の行書体のほうが好みなのは私が書の素人だからなのでしょう。

書というのは、大岡信氏が言うように、絵画と違ってひとたび線を引けば二度とその上をなぞることのできない、言わば一期一会の精神を特徴とする芸術であって、であればこその「眼福」を味わうことができます。それでは、「書は人なり」、つまり書と人柄が合致するというのは果たして真実なのでしょうか。私自身の経験で言えば七割がたはそう、といったところでしょうか。「書は人なり」の典型は、一休宗純に止めをさすと言われますが、建仁寺を開いた中国からの渡来僧、蘭渓道隆や良寛の書も自在の境地に達した禅僧による最高の筆致だと思います。しかし、何事にも例外はつきもので、北宋の蔡京(12世紀初頭の人)は、蘇軾などと共に宋の四絶と称された大変な能書家ですが、『水滸伝』には四奸臣として登場する酷薄な能臣です。

閑話休題(それはさておき)、文学は「想像の力を借り、言語によって外界および内界を表現する、詩歌・小説・戯曲・随筆・評論などの芸術(作品)」とひとまずは定義できますが、その表現形態の中心は何よりも文字であり文です。文字(≒書)を蔑ろにした文学研究者というのは私にはいま一つ信用できない存在に感じられます。入力(ワープロ)から出力(プリンタ)に至るまで自分で文字を書かなくても済む現代であればこそ、文学研究者には(英文学研究者であっても)何よりも文字(≒書)を大切にしてほしい、というのが、自戒を込めつつ若い研究者に対して申し述べたいことです。

 

偉大な作家、そして文学研究

『英語青年』(2005年5月号)の編集後記に、1995年から2004年までの10年間に日本人研究者によって書かれたイギリス文学関係の論文数が、『英語年鑑』を資料にして数えたものが載っています。Shakespeare(371)を筆頭にLawrence(349)Hardy(222)T.S. Eliot(159)、そしてWordsworth(132)と続きます。この5人が言うなればイギリス文学研究者の人気作家ベスト5といったところでしょうか。(『日本における英国小説研究書誌』によれば、小説に限って言うとLawrenceが群を抜いて1位で、次いでHardyJoyceDickensWoolfの順になるそうです。)

ところで、自然科学系の学問と違い、カール・ポパーの云う「反証可能性」falsifiability(=検証されようとしている仮説実験観察によって反証される可能性があること)という基盤を持ちえない文学研究においては、「偉大な作家は普遍的ヒューマニズムを描いており、そうした偉大な作家の普遍的価値観を文学研究者は共有しつつ、そうした普遍的ヒューマニズムの本質的様態を解き明かしていく」という前提や想定に立つことが多いように思われます。極言すれば、神のように人間の本質を見通す慧眼をもった偉大な作家とその作家を研究する自分、といった前提や想定といってもよいかもしれません。(あくまで英語学専攻者である、私の第三者としての印象ではありますが。)もしそうだとすると、研究対象についての前提や想定そのものが、所与のものとして言わばbegging the questionされていることになります。

アメリカの著名なフォークナー学者であるカール・ゼンダー(カリフォルニア大学教授)は、多くのアメリカの学者たちが「フォークナーは、階級と人種とジェンダーのあらゆるものを包括するポストモダンの政治学を先取りした作家である」という想定を自明の理としていると述べていますが(Faulkner and the Politics of Reading, 2002)、こうした自分の研究対象である生身の作家への、ある種の神格化にどう歯止めをかけ、どう冷静に距離感を保っていけるかが研究のスタンスの在り方として大切だという気がします。つまり、自分が研究する「一人の偉大な作家」に心酔しすぎる陥穽に嵌り込まない精神的相対化が必要ではないかと思うのです。馴れ合いすぎた、主客が溶けあった気分に酔って明確な対象化が行えないことは学問研究としては致命的であり、そのことは「偉大な作家」に限らず、イェスペルセン、チョムスキー、ハリディ、ラネカー、プリンス&スモレンスキー、ウィルソン&スペルベルなどの枠組みで英語学の諸分野の研究に携わる人たちにも等しく当てはまることだと思います。現時点での私の心性は陶淵明の詩に一番親和性をもちますが、その一方で空海の言語論である『吽字義』、さらにはソシュール、メルロ=ポンティ、ヴィトゲンシュタイン、マイケル・ポランニーなどの言語論(あるいは非言語論)を読むと、もちろん難解さは伴うものの、それこそ「意に会するもの有る毎に、便(=即)ち欣然として食を忘る」(陶淵明、五柳先生伝)という経験をすることができます。研究の姿勢としては、偏せずして遍(あまね)し、しかして偏して遍からん、という止揚された状態を理想としたいものだと思います。一つのことすら究めることのできない人間の戯言に過ぎませんが、広く関心の幅を広げ、相対化と深化という異なるベクトルの合一が目指せればと愚考する次第です。

 

最後に

『英文学科創設七十周年記念論文集』(1996)に「至福の時を振り返って」と題した回想記を寄せておられる阪田勝三先生(91歳でご存生と伺っています)は、その回想記の中で「日大の英文科は高等師範的」であって「作品をいくら丁寧に分析、解説しても論文とはならない」(341)と書いておられます。「論文とは自分の感性でとらえたものを、論理的に再構築すること」(342) ―― つまり、それこそが文学研究の階梯の中で一番高みの段階だと阪田先生はお考えなのだと思います。「高等師範的」というのは学問研究の階梯にあって避けては通れない必須の一段階であり、「区区たる諸老翁 事を為すに誠に慇懃たり」と陶淵明が詠じた章句の学ではあっても、それは決して揶揄嘲弄されるべきものではありません。しかし、それでも尚、その上に屹立するレベルを目ざすべきではないか、というのが阪田先生の思いではなかったかと忖度いたします。今の英文学科にその言が当てはまるかどうかは兎も角、ある意味でかなり勇気の要るご発言であったと思います。

阪田先生は回想記の最後で、(文学の先生だけを念頭に入れつつ)英文学科の第一期は大和・古谷先生の時代、第二期は齋藤光・阿部・阪田先生の時代、第三期は関谷・原・當麻先生の時代だと仰っています。来年度からは、第四期を築いていくことになる新しい主任のもとで活気ある学問・教育の場が創生され、英文学科は更なる飛躍を遂げていくことになります。阪田先生の言を杞憂とするような英文学科第四期の現出と光輝を心から願ってやみません。

今回は、能うかぎり文学に擦り寄り、また素人ながらも文学(研究)についての感懐ならぬ愚見を地に足のついた文を綴ろうと試みはしましたが、一知半解に加えて、相も変わらぬ衒学趣味、そして本学会通信に挨拶文を寄せるのも最後ということもあって、今回は勢いあまって妄言を幾つも書き連ねました。それを多謝としつつ、以下の言葉を結びとして擱筆といたします。

至誠にして動かされざる者は未だこれ有らざるなり。

誠ならずして未だよく動かす者は有らざるなり。(「孟子」離婁上第十二章)

・・・・

功名いづれ夢のあと  消えざるものはたゞ誠 (土井晩翠「星落秋風五丈原」)

 

 



まったく凡庸な元教師のまったく素朴な話

元日本大学法学部教授  鳥居塚 正
 

 「英会話の勉強は、ネイティヴの子が自然に母語を習得するのとまったく同じように行われなくてはならない。」こんなセリフを私は高校教師だったころ初めて耳にし、その後も何度か聞いた。そして初めから、キャッチフレーズとしては面白いけれども、すでにとう(’’)の立っている受講生の前でこんなことを言ってもいったい何の意味があるのだろうと不思議に思っていた。もっともそんな私でも現在では、もし、年齢や環境のギャップはどうすれば埋まるのかとか、この種の条件の違いの中で勉強する場合のノウハウについてなにがしかの説明が加えられるのであれば、このようなセリフにも教育的価値はあったと思っ

ているのであるが・・・・。

 さて、潮流が変わり、今や巷には「キッズ」のための英会話教室が溢れている。遡って「帰国子女」の発生もまた印象的であった。あながち現地生れというわけではなくとも、幼少期から長く海外すなわち英語環境の中に身を置けば、使える英語にかなり習熟することを彼らは実証した。

 「キッズ」の場合なども、たとえ生活の場は日本であっても、最低の必要条件が満たされれば、つまり、「先生」に当り、加えて長期の勉強が保証されるのであれば、早めの熟達が約束されることは想像に難くない。

 それでは次のような場合はどうであろうか。すなわち、すでに幼児ではない。すぐに海外で暮す予定もない。やっと中学段階から英語に触れる。つまり、大多数の日本人はこのケースに入るわけであるが、注目すべきことは、一見これほどの悪条件の中からでも、読む書く聞く話す英語に堪能な人が輩出することである。むろん総人口からすればそれは極微少かもしれない。しかし確実に存在する。 私自身もそうだが、フツーの日本人がフツーのプロセスで英語を学ぶ場合、好条件に恵まれていないからといって、なにか特別のハウツーを与えられなければならないわけはない。あて(’’)にしてもならない。

 「英会話の勉強は、ネイティヴの子が自然に母語を習得するのとまったく同じように行われなくてはならない。」皮肉にもこの命題は、英会話も含め英語そのものの学習のあり方に係る、あまりと言えばあまりにも当然な何かを示唆している。つまり、嬰児はまったく無自覚に「ドリル」を積み重ねて、自然に母語を習得する。日本の一般の青少年は、それぞれ思う存分に意識を働かせて百パーセント必要な分「ドリル」を積む。当然のことだが、そこで初めて英語が物になる。

 百パーセント必要分の「ドリル」・・・・じつは、この一点こそ年齢や環境のギャップを埋めるよすが(’’’)であり、方法と言えばこの一点しかないのだ。

 考えてみれば、実際上のノウハウなどは、一人ひとりの事情や個性や、また、時々の都合に合せて千差万別でいいし、また、そうならざるを得ない。「先生」なども本当はいてもいなくてもよいのである。要するに、ノウハウは自分で見付ける。・・・・むろん、これをやり抜くのは至難の業ではあろう。しかし、現にこの日本で、多くの同胞と一緒に暮らしながらやり抜く人がいるのだから恐れ入る。

 自戒の意味で言うのだが、いや、弁解がましくこそ聞えるかもしれないが、私自身も含めこのレベルまではやり抜かないでしまう日本人は多い。このきびしい試練に打ち克てず、途中で挫折しそのまま英語とは無縁になってしまう人もいる。しかし、だからといって、学校で文法ばかり教えられたからとか、教師の指導が悪かったからとか、語族がどうだとか、英語圏にでも行っていれば出来たはずとか、弁解するのは見苦しい。要するに、とどのつまりは、やるべきこと、言い換えれば、ギャップが埋まるまでの勉強はやらなかった。手を抜いた。あるいは、そのための苦労は選ばなかった、と言うに過ぎない。所詮は自己責任なのである。

 さて、冒頭で触れたように、ネイティヴと母語との係りを英語教育に取り入れたいならば、無自覚かそうでないかは別として「完璧なドリル」が必要不可欠となる点を強調すべきであると同時に、もう一つ、見落されてはならない重要な側面がある。すなわち、通例ネイティヴは、生涯、そう、死ぬまで、否応なしにその母語と付き合い続けて行くという事実である。

 英語に相当馴れた帰国子女も、帰国後に改めて「ブラシュ・アップ」しなければ、せっかくの英語力も萎んでしまう。いや、外国(日本)に長らく住むネイティヴでさへ、久々に英語圏に旅立ってみて、自分の英語が「ラスティー」になっていると気付くことがあるのである。いわんや日本人は、英語力に秀でた人も、勉学途上の人も、緒についたばかりの人も、半端でない英語力が必要なら、決して手を弛めずつねに英語の生涯学習を志していなくてはならないと思うのであるが、如何?

2006年春 非常勤退職


 

海外語学研修雑感

 

日本大学理工学部助教授  頼住憲一

 

 

 今夏、本学短期海外派遣の機会を得て、1ヵ月ほど、米国各地の本学協定大学を訪問し、英語学や英語教育法などの情報を得ることができた。特に印象であったいくつかの事柄について報告を兼ね、言及しておきたい。

昨年の夏、理工学部の当番による、大学本部主管の英国CambridgePembroke Collegeでの語学研修に学生指導教員として参加した。帰国後、大学本部関連のいくつかの語学研修に参加した学生のパーティーが大学本部で開かれ、その折に、大学本部主催によるElizabethtown Collegeでの語学研修の話と研修の様子を収めた映像を見せていただき興味を覚えた。この海外派遣の機会にElizabethtown College の語学研修を参観したいと思い、大学本部国際課にお願いし参加させていただいた。Elizabethtown Collegeは、米国Pennsylvania州の州都Harrisburgの近郊ある学生数1200名ほどの小規模な大学である。この大学は、日本ではあまり馴染みがないが、「山椒は小粒でぴりりと辛い」というような大学で、施設や設備がよく整った、全米ランクでも上位の大学と言うことである。

 筆者が、語学研修を参観したのは10日ほどであったが、最初の第一週と次の第二週では、学生の授業態度、理解度や集中力などに、かなりの違いを感じた。これらが感じられるくらい向上しているのである。教師の質問に対する反応、学生の積極的な質問など、学生と教師の間のコミュニケーションや種々のアクションが、授業の始めの頃と一週間後では違ってきているのである。私が行ったCanadaBritish Columbia 大学やPembroke Collegeでの語学研修では、こんな違いは感じられなかったのである。この違いはどこから来るのか素朴な疑問が起った。語学研修に参加する学生諸君は、多かれ少なかれ英語に興味を持ち、それなりに授業には、「やる気があり」、積極的である。それ故、学生の授業態度などの学生側によるものではなく、語学研修のカリキュラムや教授法などの教える側によるのかもしれないと感じた。Elizabethtown Collegeの語学研修担当の教員とのインタビューから、以下のような、カナダや英国の語学研修とのいくつかの相違点を見た。

教員の専門性 

 Elizabethtown Collegeの授業担当者は、この大学の2名の専任教員(準教授)で、いずれもが、外国語教育の博士の学位を持ち、10年以上の授業・指導経験がある。これに対し、他の研修校の教員は、非常勤の外国語教育資格を有する小学校の教員であったり、当該大学の国際部のような組織に属する非英語教育系の教員であったりする。

教育計画                       

 上述の2名の教員が、その年度ごとにカリキュラムを作成し、担当する学生の日々の進展状況を見て、適宜カリキュラムを調整しながら授業を行ういわゆる手作り方式カリキュラム運用である。他校では、市販のテキストや当該大学の語学学習センターなどが作成した教材・カリキュラムや既成のコースブック、コースウェアなどを用いる教育計画を採用している。

語学教育の教育法と内容          

 Elizabethtown Collegeでは、読む、書く、語彙や文法に午前と午後の各3時間を当て、オーソドックスな内容の教育を行っている。学生の会話能力は、不十分ではあるが、町に出て自分の用足しくらいは出来るくらいまでは向上していた。British Columbia 大学やPembroke Collegeでは、あるテーマについて(自国・家族などの紹介、ドラマを演じるなど)、グループでそれを完成させ、発表させるという教育法とその内容である。

授業以外の活動への教員の積極参加         

 授業時は、勿論のこと、学生が参加する遠足などの学内外の活動、教員の自宅に学生を招いての夕食会など、休日を除いて、ほぼ1日、担当教員が指導する。他大学では、いわゆる、課外アクティビティは指導学生にまかせ、教員が参加することは少ない。

これら特徴的相違点を手短に言うと、語学教育専門家のオーソドックスな教授法による手作り教育と教員と学生との密な交流ということになるであろう。

 さて、Elizabethtown Collegeでの印象的な教育は上述したようなものであるが、これは筆者個人の調査と感想であり、なんら、学術的根拠によるものでないことをお断りしたい。

 

 


 

 

『シャーロック・ホームズとお食事を―ベイカー街クックブック』出版に寄せて

 

日本大学文理学部教授   野呂有子

 

 本年〔2006年〕620日付けで東京堂出版より『シャーロック・ホームズとお食事を―ベイカー街クックブック』(国文学科教授粕谷宏紀・野呂有子監修・監訳、堀切大史、茂木健幸、山本由布子、亦部美希共訳)を出版する運びと相成りました。これもひとえに、元日本大学英文学会会長関谷武史教授、現会長原公章教授をはじめ、日大英文学会会員諸氏の応援と激励のお蔭と深く感謝申し上げます。足掛け四年に亘る仕事を終えて、漸く肩の荷が下りたという思いで一杯です。紙面をお借りして、I.翻訳・出版の経緯、II. ホームズとヴィクトリア朝世界について本訳作業を通して得た興味深い知識・情報・叡智、III.ホームズ作品とシェークスピア作品との関係、という三つの観点からお話をさせていただこうと思います。どうぞよろしくお願いします。(※関谷先生は粕谷先生とは高知大学以来の親友です。また、関谷先生には本訳書掲載のホームズ関連写真撮影者で教え子の中島ひろ子氏をご紹介いただきました。原先生と當麻一太郎先生、それに日本大学名誉教授・客員教授川島彪秀先生には終始お励ましいただきました。一言お礼を申し述べさせていただきます。)

 

I.翻訳・出版の経緯

 今を去ること15年前、知る人ぞ知るシャーロッキアンである粕谷教授は、神田神保町の「北沢書店」で本訳書の原典、Julia Carlson Rosenblatt & Frederic H. SonneshmidtDining with Sherlock HolmesA Baker Street Cookbook (New York: Fordam University Press, 1990[第二版])を購求しました。そして、協力者の出現を待ってそれをそのまま暖めていた、というわけです。コナン・ドイル関係研究書を博捜していた粕谷教授の目に原書が留まったのは、運命の巡りあわせというべきでありましょうか。

 それから、11年後の200291日から10日間の日程で、粕谷教授はドイツのマインツで開催された、ヨハネス・グーテンベルク大学と本学文理学部共催の国際学会に参加し研究発表を行いました。この国際学会には英文学科から不肖野呂も参加し研究発表を行いました。(詳細は、2002年度日本大学英文学会通信秋季号に掲載)両者はこの学会において日本文化とドイツ文化の相互理解・交流・融合について深い興味を抱いていることを確認し合いましたが、折しも日本では日本文化を海外に広く紹介したことでも著名なドイツ人フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)の『日本植物誌』の植物画の展覧会が開催されていました。

二人は他の仲間も誘ってこの展覧会にでかけましたが、その席上で翻訳出版の話が粕谷教授より切り出されました。話題はちょうどイングランドはウェールズの神田と云われるHay-on-Wyeで粕谷教授と當麻教授が逗留したバスカヴィル・ホテルに及んでいました。野呂がバスカヴィルと言えば、ホームズ作品〔『バスカヴィル家の犬』〕で有名ではないか、と言った途端、粕谷教授の目がきらりと光ったのです。「僕ね、ホームズ関連の料理本を長いこと温めているんだけど、一緒に訳さない?」二つ返事で引き受けた野呂でしたが、当日の野呂の服装がグレン・チェックのグレーの背広上下に(鹿猟帽(ディアストーカー)らぬ)白い帽子を目深にかぶり、トレンチ・コートという、まさにホームズを思わせるいでたちであったのは、偶然のいたずらと言えましょうか。

 しかし、翻訳作業が順調に進んだというわけではありませんでした。最初は粕谷教授と野呂の二人で、という話だったのですが、マインツから帰国後、どういうわけか野呂は体調が崩れ、それは次第に深刻の度を増していきました。フォーダム大学出版社との契約による出版予定日のこともあり、野呂は他にも共訳者を募ることを粕谷教授に提案し、それは了承されました。さて、共訳者の人選ですが、当時、大学院の博士後期課程に所属していた茂木氏と前期課程所属の山本・亦部両氏、そして助手の堀切氏に白羽の矢が立ちました。院生の三名はちょうど2003年度「英文学特殊講義」で野呂の指導のもと、17世紀英国の革命叙事詩人John Milton(1608-74)著、Paradise Lost1667)第1巻、第2巻の読解のために丹念にOEDを引く等して積極的かつ真摯に研究に取組んでおり、その実力のほどは了解済みでした。また、堀切氏については、2003年秋に開催された日本大学英文学会シンポジウム「ミルトンを搦め取る―Antagonists, Aesthetics & Intertextuality」で共同研究・発表した際に、その積極的、献身的かつ真摯な研究態度が確認されていたからです。

 翻訳作業を進める過程で忘れられない出来事といえば、一つはこの出版事業そのものがおしゃかになるのでは、と危ぶまれた事件です。名前は詳らかにされていませんが、日本の著名なシャーロッキアンであり、アメリカで最も権威あるシャーロッキアン団体「ベイカー・ストリート・イレギュラーズ」〔もともとはホームズ作品に登場する浮浪児のグループの名称で、彼らはロンドンの裏町事情に通じており、ホームズの手足となって活躍します。本団体名はこれに因んでいます〕でも日本人シャーロッキアンとして一目を置かれている方で、ローゼンブラット女史とも交流の深い方が、著者と直接交渉して原書の翻訳を許可されたというニュースが東京堂の編集者より舞い込みました。頼みの綱の粕谷先生からは「小生、ショックで寝込んでおります」というメールが来るし、一時はかなりの窮地に陥ったかと思われました。そこで野呂が編集の渡部氏に強調して申し上げたのは、「学生たちが初めて取組んだ公的な仕事が途中で挫折したという経験を持たせたくない」という、ただその一点でした。渡部氏が奮闘する中で、<翻訳権は出版社が所有しており、一旦契約が成立すれば、著者であってもこれに異議を差し挟む権限はない>という法律条項が確認されました。こうして、我々は安心して再び翻訳作業に戻ることができたのです。

 そうこうする内、<渡部さんが、くも膜下出血で倒れた、たとえ助かっても再起は不能>という重大ニュースが翻訳共同体を駆け巡りました。不幸中の幸いと言うべきか、倒れたのが昼間、職場で、同僚がその場に居合わせたため発見が早く、即刻、救急車で運び込まれた病院で適切な処置が施されました。さらに医者も驚くほどに本人の生命力が強く、以前にも増して元気良くわれわれを激励・叱咤するまでに回復したのは、まさに奇跡という他はありません。

 やがて翻訳作業も終盤にさしかかり、出版の日取りが話題に上るようになったある日のことでした。野呂は学生の一人を呼んで、僅かながら印税が支払われること、その配分については未決定であること、当然、学生・助手にも取り分が認められることを話しました。そこで、共訳者四人でよく話し合って印税の取り分について自分たちの統一見解を出すように、それを受けた上で粕谷先生と東京堂に野呂から話しをする旨、伝えました。一週間ほどして助手の堀切氏が統一見解を纏めて共訳者代表として、野呂のところへやって来ました。その返事は野呂の予想を超えた驚くべきものでした。

 一言で云えば<印税をいただくなんてとんでもない!>というのです。その理由として堀切氏が挙げたのは、「シャーロック・ホームズ関連の素晴らしい作品に関わることが出来、勉強させてもらい、鍛えてもらう機会が与えられただけでも有難いのに、共訳者として名前を出してもらえる。しかも東京堂のような出版社から出版される本に自分たちの名前が掲載される。それだけで一同、十分に感謝している。これ以上、印税だなんて言ったらバチがあたる」というものでした。野呂はしばらくあっけにとられて言葉が出ませんでした。なんと当世学生気質からかけ離れた、時代遅れの、昔気質の律儀な答えだったことでしょうか。けれども、暫くして気を取り直した野呂が思い至ったのは<日本大学文理学部の英文学科は80年間こういう律儀で実直、誠実な学生たちをずっと育て続けてきたのだ!>という事実でした。その後、印税の配分については東京堂に一任して、一同納得のもと、世間相場に従ったことを付け加えておきます。

 

II. ホームズとヴィクトリア朝世界について得た興味深い知識・情報・叡知

 翻訳作業を重ねる中で、ホームズ世界の背景等を調べていった訳ですが、そこでわれわれが今まで知らなかった多くの興味深い事実等について学ぶことができました。以下に、その内のいくつかをご紹介いたしましょう。

(1)   鱒のミルク煮(The Trout in the Milk

本訳書で提供される料理の一品です。著者のローゼンブラット女史とソネンシュミット・シェフは、ホームズ作品で言及される具体的な料理をヴィクトリア朝の料理方法を調査して再現したり、具体的には明示されていない料理をコンテクストや登場人物たちの台詞を基に推理・再現したりします。(ときには、著者は駄洒落を大いに活用します。例えば「唇の捩れた男」でホームズが「些細なこと」の意味で使用している“trifle”の語に着目して、夕飯で出されたのは「トライフル〔スポンジケーキ、果物、クリーム等を重ねて作る英国の家庭的菓子〕」だと推理するわけです。)“The Adventure of a Noble Bachelor”の中でホームズは、アメリカの作家・思想家ヘンリー・デイビッド・ソロー(1817-62)の“The Trout in the Milk”という言葉を引用して言います。「状況証拠は時には大いに役立つよ……牛乳の中から鱒が出てくるというものさ。」ホームズのこの台詞を正確に理解する為には、われわれは当時の牛乳事情というものを承知している必要があります。谷田博幸著『図説ヴィクトリア朝百貨事典』(2001,河出書房新社)によれば、当時は川から汲んだ水で牛乳を薄めて飲んでいました。ひどい時で50%、それも汚染された水であることが多かったのです。バケツほどの容器で受け渡しされていた為、鱒の類が出てくることも大いにあり得ただろうし、それは牛乳が川の水で薄められていた紛れもない証拠となるのです。

(2)   Chaplinとホームズ作品

「マザリンの宝石」で、ホームズと下宿の女主人ハドスン夫人の会話が、ボーイのビリーを通じてワトスン博士に報告されます。それは以下のような常軌を逸したものでした。

ハドスン夫人「ホームズ様、夕飯は何時がよろしいでしょうか?」

ホームズ  「あさっての7時半にお願いします」

 ところで、1901年に英国で初めてホームズ作品が上演された際、(アメリカではそれ以前に上演されていましたが)、地方巡業でこのボーイのビリー役を演じたのがトーキー映画の王者といわれるチャールズ・チャップリン(1889-1977)でした。12歳と6ヶ月だったチャップリンは年齢を14歳と偽って応募し採用されました。当時チャップリン一家は極貧に喘いでおり、母親は栄養失調から発狂・入院を余儀なくされていました。字の読めなかったチャップリンは兄に台本を読んでもらって口伝えで台詞を覚えたといいます。(中野好夫訳『チャップリン自伝』〔1981,新潮文庫〕)舞台出演がきっかけとなって極貧生活から抜け出すとともに、演劇界での前途が開けたわけですから、チャップリンの「輝かしき経歴の出発点」はホームズ作品にあったということになります。

(3)   しっかり食事を摂って、しっかり犯人追跡

 ホームズはグルメだっただけでなく、自ら献立を作り手早く料理する才能にも恵まれていました。それが『四つのサイン』中で遺憾なく発揮され、ワトスンとアセルニー・ジョーンズ警部は、ホームズの手料理、「牡蠣と雷鳥のつがい」をとっておきの白ワインとともに堪能します。そこで、ローゼンブラット女史とソネンシュミット・シェフは「牡蠣のカクテル、雷鳥のロースト冷製 仔牛もも肉のロースト添え」といったほっぺたの落ちそうなメニューとレシピを読者に提供してくれます。(ちなみに、H. MayhewLondon Labour and the London Poor (1851)〔邦訳『ロンドン路地裏の生活誌』〕によれば、1851年のリビングズゲイト市場では、牡蠣が495,896,000 、海老が489,428,468尾売られていたそうです。)ホームズはどんな苦境に陥っても、あくまでも食事を大切にしています。食事中は通常、事件には一切触れず、純粋に食事と会話を楽しみ、そしてその後、やおら精力的に事件解決に取組むのです。こうした<われらが偉大な探偵>の姿勢は、とかく食事が疎かになりがちな現代日本の風潮に一石を投じてくれるものではないでしょうか。

 

III.ホームズ作品とシェークスピア作品の関係

「シャーロック・ホームズ作品」の著者コナン・ドイル(1859-1930)は、他の英国の作家だれもがそうであるのと同様、William Shakespeare(1564-1616)の作品を愛読していました。そしてシェークスピアの影響がホームズ作品中に認められるのです。主に三つの観点から簡単にご説明いたしましょう。

 (1) シェークスピア作品からの引用がホームズ作品中に散見されること

「アビ農園」の冒頭、ホームズは就寝中のワトスンをたたき起こして言います。

The game is afoot.”日本語にすれば、「獲物が飛び立つぞ」となります。「アビ農園」では「犯人が動き出した。事件解決のチャンスを逃す手はない」という意味になるでしょうか。その後、ホームズを開祖として発展した英米の推理探偵小説で多くの作家がしばしばこの文を引用しています。もともとはシェークスピアの『ヘンリー四世』第1部第13278行及び『ヘンリー五世』第3幕1場32行に出典があります。どちらのシーンでも、首輪を解き放たれた猟犬が飛び出す獲物に飛びかかる瞬間のイメージが支配的です。他にもホームズ作品にはシェークスピア作品からの引用が散見されますが、本訳書でもそれを踏まえてシェークスピア作品からの引用が意識的になされます。

(2)劇的効果、芝居がかった台詞、所作、展開などが作品中に指摘されること

ホームズ〔作者コナン・ドイル〕は事件が解決してもそれを淡々と説明するだけでは飽き足らなかったのか、しばしば芝居がかった設定を用意して、依頼人、ワトスン、そして読者を驚かせるのを楽しんでいたようです。例えば「海軍条約文書事件」の終幕、ホームズは依頼人のパーシ・フェルプスを、ハドスン夫人が気合を入れて用意した豪華な朝食に招待します。国家間の紛争に発展する可能性のある、紛失した文書の行方が気がかりで朝食どころではない依頼人の蒼ざめた顔に赤みがさしたのは、ホームズが料理の蓋いを取って条約文書を差し出した時でした。他にも「最期の事件」でホームズは宿敵モリアーティともみ合う内、スイスのライヘンバッハ滝に落下して<大いなる敵対者>もろとも劇的な死を遂げたと思われていました。が、後に熱心な読者たちの要請と出版社から著者ドイルに提示された高額な原稿料とが功を奏して、ホームズは劇的に復活します。

(3)シェークスピアが得意とした<変装>がしばしば作品中で採用されること

変装と言えば、記念すべきホームズ復活の第一弾「空家の冒険」でベイカー街221b(アビイ・ナショナルのプレートに敬意を表して小文字を採用)に生還したときホームズは老いた古本屋の変装を解いてワトスンを驚愕させています。このようにホームズ作品ではホームズ自身も登場人物もしばしば変装しますが、先に挙げた「唇の捩れた男」や、「花婿失踪事件」のように変装それ自体が鍵となる事件もしばしば執筆されました。その中でもシェークスピア作品との関連で特筆すべきは何と言っても「ボヘミアの醜聞」に登場するアイリーン・アドラーでしょう。惚れっぽいワトスンとは対照的に女性に心動かされることの少ないホームズが殆ど唯一魅せられたのがこの女性です。彼女は変装したホームズに一杯食わされたと気づくや否や、自分自身、男装してホームズに一矢報いるのです。非常な才色兼備であり、ホームズより一枚上手のこの女性のモデルと言えば、それはやはりシェークスピア作品に登場する才色兼備の男装の麗人たち、特に『ベニスの商人』のポーシャを連想するのは私だけでしょうか。

他にもシャーロッキアンの人々がホームズ作品を「正典」、ホームズを「われらが主」と呼んで聖書解釈学の手法を用いて“the Grand Game”とも云うホームズ作品研究を行っていること、20世紀最大の英文学者と言われるT. S. Eliot(1888-1965)が戯曲『寺院の殺人』(1939)や、不滅のミュージカル『キャッツ』の原作詩集『ポッサム爺さんの実用猫読本』(1939)でホームズ作品から大いに引用していること等、探偵推理小説の隆盛のみならず、ホームズ作品が英文学において先達から継承したもの、後世に遺したものは計り知れません。また、最近ではヴィクトリア朝社会を知る上での資料としての価値も極めて高いことが研究者の間で確認されています。この機会に皆さんもホームズ作品を読んでみませんか。その際、『シャーロック・ホームズとお食事を』が何かのお役に立てば、訳者冥利に尽きるというものです。

 

 余談になりますが、昨年10月に開催された日本大学英文学会英語教育シンポジウムで講師を務めていただいた2名の先生方の内、池田紅玉先生は、「そろばん英語」が、あの場に取材に来ていた「朝日ウィークリー」の記者の目に留まり記事に纏められました。ご覧になった会員もおられるかと思います。また、宿谷睦夫先生は本年、アメリカのPhoenix Booksより100 Tanka Poems for 100 People が出版されました。英語俳句・短歌の第一人者として国際的にもご活躍の先生ですが、本書はこのジャンルでは全米一位の売り上げだそうです。また、宿谷先生のご紹介で、サイデンステッカー、ドナルド・キーンと並んで日本文化紹介者として代表的な三名の学者の一人である、ラファイエット・デ・メンテ氏に英語教育シンポジウムに飛び入りでご参加いただき、ミニ講演をしていただいたのも記念すべき思い出です。


 


 

 

江川泰一郎先生、

     あの思い出この思い出。

 

日本大学 文理学部助教授  吉良文孝

 

 

 

一本の電話。

  

「あぁ、吉良君、例の君の論文なんだがねぇ、話 をしたいことがあるのでうちに来てくれないか。 いつにするかはまた連絡するから。」

 

受話器を手に深々とお辞儀をしながら、「は、はい。わかりました。ありがとうございます。」緊張の固まりのような自分がそこにいた。授業での恐怖心からか、話すときは直立不動、話が終われば電話機にお辞儀。条件反射ともいえる行動である。江川先生の教え子なら皆そうであると思う。

 ほどなくして緊張も解け、そうか、江川先生のお宅にお邪魔できるのか。どんなお宅なんだろう。楽しみだな。どんな書斎なのかな。天下の江川先生だからなぁ、いっぱい本もあるんだろうな。あれやこれやと思いを膨らませていると、また一本の電話。3分とは経っていないだろう。

 

 「あぁ、吉良君、日にちの件なんだけどね、早速でなんなんだが、今週の土曜日に来てくれないか。… 」
 

 「はい、では、2時ぐらいにお邪魔します。」

 

一回の電話で済んだんじゃないのかなぁと思いつつも、再び、電話に向かって最敬礼。いろいろとお考えになるところがあったに違いない。そして思い立った瞬間、2度目の電話をかけてくださったのであろう。それが江川先生らしいといえば、らしい、のである。(そういえば、こういうこともあった。私が院生の頃、高校で非常勤をしないかというお電話を江川先生からいただいた。即答はせず、明日にでもお返事をしますと電話を切った。すると、2、3分してまた電話がかかった。「あぁ、吉良君、さっきの件だけどねぇ、君は少し考えたいといっていたけど、もう先方には君が引き受けるという話になっているからね。君に引き受けてもらわないと困るんだ。」これまた江川先生らしい。聞けば、「自分の教え子に、知力・体力・人間性の三拍子揃った男がいる。」と大風呂敷を敷き、早々に話を決めてしまわれたとのこと。身に余るありがたいお褒めの言葉である。ただ、実際のところ、体力だけは要した。当時「高幡不動」に住んでいた自宅からは、電車、バスを乗り継いで2時間半はかかった。しかも授業は1限から。とはいえ、(すでに結婚をして)生活がかかっていた私としては、先生からのそのお話は本当に助かった。)

 さて、江川先生のいう「例の君の論文」とは、本学会の機関誌である『英文学論叢』に(初めて)投稿した論文のことである。前年4月の例会で口頭発表した内容に手を加えまとめた論文であった。時に私が博士後期課程の2年、英語で書いた生涯初の論文である。当時は、指導教授が論文査読者であることが(投稿者である院生にも)暗黙に了解され、査読結果が出る前にそれ相応の事前指導が指導教授と院生との間で行なわれていた時代である。

 いよいよその土曜日がやってきた。私は足どりも軽く意気揚々と江川先生のお宅を訪ねた。しかし、よくよく考えてみるに、相手は江川先生である。そんじょそこらの人を訪ねるのとはわけが違う。緊張するはずなのに、それほどまでに一種浮かれた心持ちでいられたのはなぜか。その理由は、その投稿論文にあった。お褒めの言葉を江川先生からいただけるものと思い込んでいたからである。当時、私は、高校の非常勤講師をしていた(これは、上でも触れたように、江川先生からの紹介によるものであった)。そこには言語学に明るい、つまり、大学院で英語学を専攻したネイティブの先生がいらした。その先生には、事前に、私の英語論文の英語はもとよりその内容にいたるまで入念にチェックをしていただいていたのである(今思えば、その先生にとっては本当に迷惑な話である)。ネイティブチェックを受けているのだから間違いはなかろう。だから、自信満々であった。能天気といおうか、実に浅はかである。

 「おぉ、来たか。」と、居間に通された。正方形の座卓の隅にはお茶菓子の用意と急須と湯飲み茶碗がふたつ。奥様は不在であった(「ワイフは急用で出掛けたんだ。」とのことであった)。

 さて、座卓を挟み、江川先生の前に正座したその瞬間から、そう、あれは私にとっての修羅場であった。予想だにしないことが起こったのである。私の論文を取り出すと、先生の顔色が変わった。授業中のそれである。「吉良君、その論文を音読しなさい。」えっ、音読?でも従わないわけにもいかない。兎にも角にも、声に出して読まなければならないのである。3、4行を読んだあたりであろうか、「ストップ!」と、江川先生の声。すると、先生の講義が始まる。「君ねぇ、そのwhereの先行詞は何?それ、おかしいでしょ。何でもかんでもwhereで繋げられると思ったら大間違いだよ。」一語一句漏らすまいとメモをとる。そう言われればそんな感じもするなぁと思いつつ、と同時に、「(チェックをしてくれた)あのネイティブの先生当てにならないな」と心の中でブツブツつぶやいた。気をとり直してまた次の文を読む。すると、またしばらくして「ストップ!」の声がかかる。「君ねぇ、その副詞は何っていう意味なの。それ、辞書を引かなければわかんないような副詞でしょ。しかも、引いた次の日には絶対忘れてしまうような難しい意味の副詞だよ。そんな肩肘張った英語を書いちゃぁ、ダメだよ。読んでスーと意味の通る英語を書きなさい。」そう言われて、納得するのと同時にメモもとらなければならない。すると、先生は、「そんなメモはとらなくてもいい。次を読みなさい。」と妙に先を急がせる。しばらく読むと、また「ストップ!」の声。講義と音読の繰り返しである。次第次第に私は自分の英語に自信をなくしていく。江川先生の親心に気づくのには長い時間はかからなかった。そう、先生は、こんな私の無様な姿を見させまいとして、奥様には「外出するように」と事前に話をしていらしたのである。

 まだ1ページも終わっていない。このままでいくと夜中までかかるんじゃないかと思いながらも、音読と講義が繰り返される。すでに汗だくである。ワンポイント講義の後にその内容をメモ書きしようとすると、なぜだか、「そんなものとる必要はない。」と江川先生はおっしゃり、先へ先へと音読をうながされた。1時間もした頃だろうか、私の顔に疲れが見てとれたのであろう。江川先生は、何かをお尻のあたりで探り、探り当てたものを私の目の前に出された。私の論文のコピーであった。そのコピーを見て私は驚いた。びっしりと朱が入れてあるのである。不適切な英文を、一文一文、直してくださっていたのである。「メモはとらなくてもいい。」という先生の言葉に合点がいった。先生は、「あまり僕が手を入れ過ぎたのでは君の論文なのか、僕の論文なのかわからなくなってしまう。だから、最低限度、これくらいなら外に出しても恥ずかしくないという程度には直しておいたからね。」と言葉を添えられた。もう返す言葉はなかった。恐縮し、落ち込んだ。そんな私の姿を見た江川先生は、すかさず、「いやー、手直しできるほどの論文だからそうしたんだよ。どうにもならないような論文だったら手直しなんかしないからね」と、慰めのことばも忘れない。教育者である。そのあと、先生はお茶を入れてくださった。先生とはいろいろな話をしたと思うが、朱を入れた論文を前にして、感謝の気持ちやら、緊張やらで何を話したのかは思い出せない。が、最後に江川先生は、その日を総括するようにこうおっしゃった。それはよく覚えている。

 

 「吉良君、英語を書くということは、こういうことなんだよ。それがいかに難しいかということ が君にもよくわかっただろう。」

 

先生は四ツ木駅まで(歩いて)送ってくださった。その道すがら、先生のご自宅からすぐ出たところの大通り沿いにある「山崎油店」という看板が偶然目に留まった。「先生、『英文法解説』の「省略」のところで出てくる山崎屋酒店というのは、ひょっとしてあのお店からとったのですか?」と思わず尋ねた。「君、よく読んでいるね。そうだよ。油店じゃぁ何だから、酒店にかえたんだよ。」少し褒められ、そして誰も知らない裏話を江川先生と共有できたことがちょっぴり嬉しかった。

 四ツ木駅からの帰り道、いろいろなことが頭をよぎった。その一つにこんなことを思い出した。あれは私が学部の4年生になったばかりの時だった。私(たち)は、江川先生が学芸大から日大に移られてはじめて卒業論文をご担当いただく学部生(いわば、江川門下の第一期生)であった。その卒論指導の最初の授業で、江川先生はわれわれを前に、開口一番こうおっしゃった。

 

 「君たちは僕から何かを教えてもらおうと思ってはいけないよ。僕は何も教える気はないからね。僕の背中を見て何事かを学びなさい。だって、

  大塚先生だってそうだったんだから。」

 

 [「大塚先生」とは、大塚高信先生のこと。キラ星の如く燦然と輝く英語学界の巨星である。その大塚先生の三大高弟のひとりが江川先生である]

 

この言葉に、当時の私は、驚いた。でも、四つ木から帰るその日、その意味合いがなんとなく理解できたような気がした。英語を書くことの難しさを痛感した一日であったが、しかし、それよりも、もっともっと大きな、私にとって意義深いものをつかみとった、私にとって忘れられない一日となった。私は心に思い、誓った。「この先生なら間違いはない。この先生のあとについて行こう」と。

 

 江川先生から教わったことの中で絶対に外せないものがひとつある。それは、「本をつくることのノウハウ」である。金子書房から1991年に出版された『英文法解説(改訂三版)』のお手伝い(校正)をさせていただいた時のあの一年間は、実にいろいろなことを学んだ。それは、また、タイミングもよかった。当時の私は助手一年目であったが、次なる専任職を得るために、助手の一年目から他大の非常勤講師をするというのが助手職を得た者の常であった。しかし、助手一年目の一年間は非常勤の口がなく、私はまったくのフリーの状態であった(2年目からは當麻一太郎先生のご推薦により、理科大に非常勤の口を得た。これも本当に助かった。この道でなんとか生きていく足がかりができたのも當麻先生のお陰であった)。

さて、その助手時代の一年目、その丸々一年が『英文法解説』の初校から青焼き校正までの期間にぴったりとおさまったのである。毎週一回、私の研究日が茗荷谷にある金子書房での校正(会議)日にあてられた。江川先生と校正・編集者の松崎悦子さん、そして私の3人での仕事である。校正とはいっても、まだ初校の段階であったために内容の細部にわたっていろいろな議論が交わされた。江川先生と出会ってから10余年、自分にも多少なりとも役に立つ意見ができるものと忌憚なく思うところを直言した。「吉良君、君ねぇ、そんなことも知らないの?それはねぇ、…」と、例によって私の浅学に対するお小言、講義が始まることもしばしばであった。が、時に、「吉良君いいこと言うねぇ。助かったよ。命拾いしたよ。」とお褒めの言葉をいただくこともあった。そんな日はルンルン気分で帰路についたものだ。公務との兼ね合いで時間がとれず、徹夜してそのまま金子書房に向かった日も数え切れない。そんな一年間を通して、本当にさまざまなことを学んだ。本というものは、その内容が一番大切であることは言うまでもないが、それに負けず劣らず大切なのは、本としての体裁、その美しさである。その1ページ1ページが、絵画や音楽のように、著者にとってはひとつの作品なのである。その道に明るい人が見ればすぐにわかることであるが、『英文法解説』には、(例えば、「…である。」や「…ではない。」で文が終わる場合、最後の1文字の「る。」や「い。」で行を送り終えるような)見苦しい行送りや、(例文とその訳文をページを分けて載せる、いわゆる、‘泣き別れ’といった)ページ送りはひとつもない。そして、書き出しをきれいに揃えるために、5ページ、10ページ先を見越して文言の加減を(初校、二校段階でも)行なっている。それは、できる限りページの最上行からセクションを始めるためである。そのためにはミリ単位の行間調整が施してある。まさに職人のこだわりである。内容の大切さもさることながら、その体裁の大切さ、美しさ、つまり、本をつくるということはどういうことなのかを知った。江川先生の自著(英語)に対する愛情、職人技ともいえるこだわり、美意識というものを垣間見た、そんな一年であった(美的センスの大切さは、中右実先生も力説しておられた。それは年賀状一枚にもにじみ出るものであると)。「この仕事の手伝いは、今後の君にとっても有意義なものになると思うよ。」と校正依頼をする際に江川先生はおっしゃったが、まさにそれを実感した一年であった。

 

 もう制限字数を裕に超えてしまった。しかし、最後にひとつ。それは亡き奥様の存在である。江川先生の脇にちょこんとお座りになり、いつもニコニコ顔、控えめでおしとやかな、そして、話の節々に知性を感ずる、そんな奥様であった。幾度となく開いた「江川先生を囲む会」では、都合のつく限りご参加いただいた。いつだか、「川甚」での囲む会では参加者全員に特製のうなぎ弁当をお土産にいただいた。「これはワイフから皆へのほんの気持ちです。」という江川先生のことばに奥様は、やはり、ニコニコ顔でした。渡英(留学)直前、先生宅に御呼ばれしたときの白ワインを注いでくださる奥様のあの笑顔。江川先生の叙勲祝賀会でのこぼれんばかりの満面の笑み。最終講義を終えた江川先生に向かって、「惚れなおしましたわ。」とはずかしそうに口にされたときのあの笑顔。あれもこれもみんな忘れられない思い出である。いつも笑顔の最愛の奥様に先立たれたときの江川先生は、それはもう悲しそうであった。でも、江川先生も今ごろは、ひと足先に旅立たれた奥様と積もる話をされていることだろう。

 

 片田舎から上京し日大に入学したこの私が、学芸大からお移りになった江川先生と出会う。しかも私が4年生になったその年に。卒業論文の振り分けで、「君は江川先生の指導を仰ぎなさい。」と中島邦男先生がおっしゃっていなければ、今に繋がる江川先生との出会いはなかったものと思う。不思議な縁である。江川先生との出会いがなければ、間違いなく、今の自分はなかったであろう。私のこれまでの人生の中で、もっとも幸運であったことのひとつは江川先生との出会いである。私の心の中にはいつも江川先生の教えがある。私にとって生涯永遠の師、それが、江川泰一郎先生である。

 

 


 

 

追悼:真摯でひたむきな探求者・伊藤裕道先生

 

日本大学文理学部講師  八木悦子

 


 「船橋の伊藤です」と落ち着いた知的な声が受話器のむこうから聞こえてきたあの日(05年7月28日)、私は一瞬相手が誰なのか認識できず、続いて伝えられた「主人が・・・」という話の内容もにわかには理解できませんでした。それほど伊藤先生のご訃報は私にとって突然のものだったのです。わずか一ヶ月半前、自論を展開するメールを熱心に何通も送って下さり、9月に予定されている恒例の『英文法解説』読書会の計画を熱く語っていらしたのですから。6月中旬に集中的に数通のメールをいただいた後、何の連絡もなかったので、私は先生が読書会の準備に没頭していられるのだろうと思っていたのです。読書会は江川先生にもお出かけいただけるよう先生のお宅に少しでも近いところで開きたい、今年は新しいやり方も取り入れてみたいなどと熱心に語っていられた伊藤先生がそんなに急に帰らぬ人になるとは思ってもみないことでした。

 追悼文を・・・というお話を頂いた時、語学の専攻でもない私がお引き受けするのはどうかとも思いましたが、伊藤先生とは年齢・性別・専攻を超えて互いに理解し合えていたという自負から、敢えて書かせていただくことに致しました。最後まで衰えなかった先生の学問に対する情熱、積み上げてこられた知の総量は驚くべきものなのにそれを誇示することのない謙虚な姿勢、他人をそしるということのない思慮深いお人柄、意に沿わぬ事をしてまで職を得たいとは思わないという凛とした生き方などをどうしても活字の形で残し賛美したかったからです。

 「sometimesのsは複数のsですか、所有格のsですか」と生徒に聞かれてとっさに答えられなかったことが、山形から東京へ、改めて勉強するために出てこられた直接の理由とお聞きしたことがあります。あるいは私の記憶違いであったかもしれませんが、私はご本人に真偽を確かめようと思ったことはありません。先生の生き方そのものがこの話の真実性を充分に証明していると考えたからです。先生はその初志を貫徹するが如く、教育の現場で生じる諸問題と学習文法にこだわり続け、多くの教科書・入学試験問題・資格試験問題・内外の辞書等を精査し続けて来られました。論文や学会発表も多く、長期に亘る入院の後に小康を得た5月にも研究発表をされ、6月には、『英語青年』7月号EIGO CLUBに掲載される事になった内容に関して編集長の津田氏と熱のこもったメールのやり取りを繰り返しました。内容はas much (many) as ~ と up to ~ とに関してでしたが、江川先生譲りの「文法知識をどのように教えるか」にあくまでもこだわる姿勢には鬼気迫るものがありました。先生はご自分の努力で得た知識を、知りたい・調べたいと思う人には惜しげもなく、親切に丁寧に教えて下さる真に「教え育てる」人でもありました。学校も学生も友人達も、これから、失ったものの大きさに気付くことになるでしょうが、先生の残された精神は「学ぼう」とする者の内に常に留まっていて下さるものと信じます。毎年恒例の『英文法解説』読書会では、江川先生と共に伊藤先生が必ずや一番前の席に座って見守っていて下さることでしょう。

  「ニ三人わが名によりて集る所には、我もその中に在るなり」(マタイ傳18:20)

伊藤裕道先生、たくさんのすばらしい贈り物をありがとうございました。また、決して器用とは言えないその生き方を理解し応援して来られた奥様に心からの賛辞を捧げます。

 

 


 

 

文学と五次元

 

埼玉医科大学専任講師 間山 伸


 

 小学校にあがる前のまだ小さな頃、子供の足で歩いて20分ほどの場所にあった銭湯へ時々行くことがありました。たいていは日のあるうちに行っていましたが、冬などは帰りがすっかり暗くなってしまうこともありました。住んでいたのは北海道の片田舎でしたから、都会のような明るい街灯も多くなく、空を見上げればそこには降るほどの明るい星々が見えたのを覚えています。

 少し大きくなると、宇宙はどこまで行っても果てがなく、真空の空間が広がっているのだと知り、謎に満ちた宇宙にとても惹かれていきました。そして学校では「一次元」「二次元」「三次元」という概念を算数の時間に学び、「次元」というものを知りました。その頃、超能力やUFOなど不思議なものがマスコミによく取り上げられていて、学校では教わらなかった「四次元」という得体の知れない次元にもとても興味を持ちました。不思議な現象を取り上げた本や、宇宙に関する本、数式の意味も分からないまま、相対性理論の本などを図書館で借りて読み、自分が直接触れることが出来ない世界にわくわくしたものです。

 現在理論物理学の世界では、四次元よりさらに上の次元、五次元の存在を証明する理論がアメリカの科学者によって発表されています。五次元空間の存在を証明するために用いられた方程式は多くの論文で引用されており、今や五次元は科学的に矛盾のない空間だと言えるようになってきているということです。その科学者によれば私たち人間は高次元に取り囲まれた三次元という膜世界にぴったり張り付いて生きていて、残念ながら五次元空間を見たり感じたり、実感することは出来ないということです。

 十九世紀末の英国人数学者によって書かれた小説の中で、低次元の世界から高次元の世界を見るということがどういうことなのかが描かれています。三次元の球体が二次元の世界を通り過ぎる時、二次元の世界では、突然二次元の平面上に円が表われて、徐々に大きくなり、また小さくなっていき、その後突然消えてしまう。二次元から三次元の球全体の姿を実感することは出来ないし、それを想像することも非常に難しいのです。

 英文学科で勉強する英・米文学にも同じようなことが言えるのではないでしょうか。小説を海に浮かぶ氷山に例えて、目に見える部分はほんのわずかで、残りの大部分は海の中に隠れていると言った小説家がいます。水面下にある氷山の大部分は海の上からではその全貌を見ることもできなければ、実感することもできません。小説を読み批評するためには、文字として表面に現れている部分を読み、理解するだけではなくて、隠れて見えない部分をも読み解くことが必要だと言っていいかもしれません。

 宇宙飛行士の若田光一さんは、科学にはインスピレーションが必要で、それを解明するのに数式が必要なのだということを言っています。文学の世界に当てはめれば、さしずめ文学には想像力が必要で、それを解明するのに分析方法・批評理論が必要だと言えます。科学者が数式を用いて私たちが実感することができない五次元の空間の存在を証明したように、小説を読み、批評する者はさまざまな分析方法、批評理論を用いて行間に隠された小説世界の全貌を読み解くのです。

 このように考えると文学の世界と最先端をいく理論物理学の多次元世界とは、全くかけ離れたものというよりも、多くの共通点があるように思えてきます。五次元を証明した科学者は小学生の頃に『不思議の国のアリス』を読んで、異次元の世界に魅せられたとインタビューで話しています。私たちはさまざまなことを文系と理系に分けて考えることがありますが、両者は全く異質なものではなく、お互いに近いところにあるものかもしれません。最先端の理論物理学も、私たちが勉強している文学も、目に見える表面的なものだけを追いかけるのではなく、目に見えずに実感できないものまでをインスピレーションや想像力で捉えて、数式や理論で解明していくことに本質があるようです。

 日々の生活の中ではとかく目に見えるものを追い求めがちですが、学問をしていく上ではインスピレーション、想像力を鍛えて、それを実証する理論を身につけることが大切ということなのでしょう。

 

 


 

 

「夢の実現、そして…」

 

日本大学大学院博士後期課程3

久井田 直之

 

 

 私が博士課程後期に入学した時に、目標にしていた大学院留学の夢。その夢が実現した。

 留学の実現までにかかった約2年半とバーミンガム大学に留学しての1年と2ヶ月は、あっという間に過ぎた時間ではあるが、改めて本当に私にとってかけがえのない時間であったと感じた。

 

 留学なんて、行ってしまえば、何とかなるものなのだから、もっと早く実現させることができたはずだと思う人もいるかもしれない。しかし、私の場合、そのように思うことはできなかった。Research Masterのコースは、Masterコースよりも長い修士論文を書く必要があり、そして初めて学ぶコーパス言語学で論文を書かなければならないため、出来るだけのことをしてから渡英しようと心がけた。そして1ヶ月に1度の教授とのリサーチミーティングでも、自分の研究をしっかりアピールできるようにディベートにも力を入れた。その結果、満足のいく論文を仕上げることが出来た。この留学を通じて研究者として、教育者として、自分にとっての英語とは何か、またここで学んだコーパス言語学を活かしてこれから自分が何をすべきか、より明確になった。

 

 バーミンガム大学での生活は本当に毎日が新鮮で、楽しかった。何よりも学ぶことの楽しさを毎日感じることができたことは私にとって、大きな経験の一つだった。勉強面で印象的だったことは、月曜日から金曜日のお昼休みに開かれる留学生用の英語クラスだった。英文法、英会話、論文を書くための英語など、ありとあらゆる英語をこのクラスを通じて勉強することができた。このクラスのいいところは、あらかじめその日(そして曜日)ごとにテーマが決められていて、興味のあるテーマの時にだけ参加できるということと、全学部の学生が参加するので、本当に色々な国の人とその授業を通じて知り合えることであった。そして、このクラスを通じて、英語だけではなく、バーミンガム大学ならではの教授法(学生中心の発見型の英語教授法)も同時に学ぶことができた。生徒のモチベーションをうまく利用しながら、生徒自らが英語を勉強することを楽しいと感じることができるような授業スタイルは、私自身も教壇に立つことができるなら、ぜひ実践したいと思うものであった。また、このクラスの先生方はほとんどが英語科の先生ということもあり、英語の教授法に関して、いろいろと話を聞くこともできた。彼らは何を私たち(英語を母語としない英語学習者)が勉強すべきかを、ネイティブスピーカーの視点で捉えて、それを授業で学べるように工夫していた。そういう視点も本当に勉強になった。

 

 勉強面以外の貴重な経験の1つとしての日本人としての自分を見つけることができたことである。14ヶ月の間のイギリス滞在で、最終的には3箇所に住んだが、私の周りにはアジアからの留学生がいつもいた。コースが始まる前の約2ヶ月はTennis Courtという学生寮で過ごした。ここは1flat5人でシェアする形式で、日本人2人、中国人2人、台湾人1人と暮らした。一緒に料理をしたり、夢、自国、自分の研究など、話題に尽きることなく語り合った。コースが始まってからの1年は、Jarratt Hallという学生寮で過ごした。ここも5人でのフラットシェアで、全員国籍の違う留学生(日本、タイ、中国、シンガポール、イラン)と暮らした。そして、最後の1週間は中国の親友の勧めで、中国と台湾の友達と一軒家に住んだ。

 

 日本からの留学生の多くは、イギリスでのアジア圏からの留学生との交流の機会の多さを予想していなかったと思う。私もその中の1人であった。しかし、私はこの留学を通じて、知り合えたアジアからの留学仲間と過ごせた時間を大切に感じているし、1人の日本人としての自分を見つけることができたことを嬉しく思っている。私と暮らした仲間たちは、日本に関することで疑問があれば、いつも私に尋ねてきた。文化、歴史など、日本でなかなか語り合うことがなかったような話題も、アジア人同士で熱く英語で語り合えた。日本を語る自分を客観的に見たときに、改めて自分が日本人であること、アジア人であることを再認識できた。そして、日本人として生まれてよかったとも感じることができた。

 

 バーミンガムで一つの夢が実現したとき、また新しい夢を抱くことができた。今度はまたその夢の実現に向けて、新たな準備を始め、少しずつ実現に向けて、前進していきたいと思う。

最後になるが、この場を借りて、この留学の実現に人力を尽くしてくれた先生方、応援してくれた家族、そして友人たちには「ありがとうございました」と心から言いたい。周りのサポートなくして、この留学は実現しなかった。自分がなんのために勉強しているのかという原点に立ち返ることができたこの留学を忘れることなく、少しでも支えてくれた方々の期待に沿えるように精進していきたい。

 

 


 

助手着任にあたって

日本大学文理学部助手  一條祐哉

 

この10月より助手として勤めさせていただくことになりました。学部入学時から数えて9年半お世話になったこの日本大学で、勤務させていただくのは大変喜ばしい限りです。

さて、ただいま「9年半お世話になった」と申し上げました。というのも私は昨年の7月中旬から約1年間、日本大学文理学部と交換留学制度を結んでいるハワイ大学マノア校に留学をしておりました。日本とアメリカの大学の学期のタイミングの違いから、日本の大学院を半年分延長する必要があったため、日本大学での所属は計9年半となり、それゆえ助手としての仕事が4月からではなく、10月から始めることとなった次第です。4月からの半年間、私の不在のために、多くの先生方やスタッフの方々にご迷惑をかけしまい、大変申し訳ありませんでした。

留学先のハワイ大学では、コミュニケーションのツールとしての英語はもちろん、私の専門分野である英語学に関連する様々なことを学ぶことができました。コミュニケーションのツールとしての英語としては、日常的に使う英会話表現だけでなく、論文の書き方や発表の仕方といったアカデミックな英語も学びました。例えば論文の書き方の授業では、資料の集め方、要約の仕方、遂行の仕方、論の展開の仕方、参考文献の書き方など、論文に書くにあたって非常に重要で実用的な技術を学びました。専門の英語学に関するものでは言語学概説、認知言語学、意味論、心理言語学などの授業を受けましたが、とりわけ心理言語学は今まで勉強したことのなかったものなので、非常に興味深いものでした。

助手採用の通知はハワイにいるときにいただいたのですが、そのとき友人達が寮のキッチンでお祝いのパーティーをしてくれたことがこの上なくうれしかったです。日本に帰国して、今度は学生ではなく助手として日本大学に所属することとなりました。これからは最近まで学生であったことと、留学で学んだことなどを生かしながら、学生にとってよりよい学習環境の場を提供していけるよう、微力ながらがんばりたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 


 

 

副手就任のご挨拶

 

日本大学文理学部副手 小坂 宏美

 

 

 初めまして。9月から副手として学生の皆様のサポートをさせて頂くことになりました。少し前までは学生として通っていた大学に今度は副手として通うことになり、まだ不思議な気持ちを感じながら通っています。私が学生時代に見てきた副手の方々はいつ見てもキビキビと、また充実している表情で働いていたことを思い出します。その様子を見て、私もそんな風になりたいと思っていました。そして今実際に憧れの副手という職を努めさせて頂いている訳ですが、至らぬ点が多々ありまだまだ到底今までの副手の方々の域には達しません。慣れていないということもあり皆様の頼れる存在になれるまでにはたくさんのご迷惑をおかけしてしまうと思いますが、学生気分を払拭し、社会人であることを自覚して、早く仕事を覚えられるように、そして学生の皆様のお役に立てるように努力してまいりますのでどうぞよろしくお願いします。







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