日本大学英文学会  

日本大学英文学会通信85号(2006.06)


ご挨拶
― 2006年度を迎えて

日本大学英文学会会長  原 公章

 会員の皆様にはお元気で新年度をお迎えのことと思います。昨年の英文学科創設80周年記念行事も皆様のおかげをもちまして,無事終了いたしました。本年はまた新たなサイクルの始まる年となり,英文学会としてもこれまでの活動を変わらずに継続させていきたいと思います。今後ともご協力をよろしくお願いいたします。なお,前号の『学会通信』の「ご挨拶」で,1925年の英文学科創設を「芸術学部英語科」としたのは私の誤りで,正しくは「法文学部文学芸術専攻」でした。謹んで訂正させて頂きます。
 さて,2006年は日本の少子・高齢化がいよいよ深刻さを増し,ついに大学全入時代の幕開けとなりました。さいわい英文学科は,本年も何とか昨年並みの受験者数と入学者数を確保できました。しかしながら,大学はこれからもますます変革と努力を求められています。何より,最盛期には350名を越えた本英文学会の研究会員の数も,昨年は280名前後となり,このままだとますます減じていきそうです。また,一般に大学生の学習意欲の低下や学力低下が認められ,退学者数,留年者数も相変わらずの数字です。反面,今の英文学科の学生諸君や院生諸君を見ていると,私の学生時代にくらべてはるかに情報を得る機会に恵まれ,情報機器の操作にも熟達した結果,知識も豊富で視野も広く,心強く思うこともしばしばです。しかも,自分を鍛え,自分の力を発揮しようと海外に目を向ける学生たちが以前にもまして増えており,そのような留学希望者の数は私の学生時代の比ではありません。「国際化時代」は単に言葉の上だけではないことが,『同窓会通信』に寄せた在学生の留学報告などからもよく窺われます。
 しかし現在のようにあまりに手軽に全世界の情報を得ることに慣れてしまうと,いつしか自分の足と頭を使って努力して,自分の手ずから知識を得ることが,億劫になりはしまいかと,少し心配にもなります。あまりに容易に得た情報は,何の重みもないまま消えさってしまうからです。便利さに慣れると,骨の折れる面倒な作業は敬遠したくなるのが人の常,ここに忍耐力と持続力の欠如が始まります。それゆえ,携帯電話もインターネットも電子辞書もなかった時代に,独力で英語や英米文学の理解に向かって行った先人の努力に改めて敬服したくなります。容量の大きさという点では,私たちは,かつてのいわゆる「日本英学界の巨人」と言われた人たちの足下にも及ばないのではないでしょうか。
 藤原正彦『国家の品格』(新潮新書, 2006)が話題になって以来,「亡国の英語教育」という言葉を耳にすることがよくあります。自らものを考えず,内容のないことをただ英語でしゃべりまくる人間は迷惑なだけで,国際社会では実はもっとも軽蔑される存在である,まず英語より日本語教育が先決だ,という批判です。「読む」ことから「話す」ことへ大きく方向を変えた今の日本の英語教育は,日本語でよく読み考えることもやめてしまい,こういう口先だけの人間の養成を結果的に行ってきたのかもしれません。現に,英文学科への入学動機として,「ネィティヴのように英語を話したいから」という新入生が多いことが認められます。しかし,このような英語教育への批判は昨日今日に始まったことではないことは,1901年(明治34年)4月頃に書かれた,次の夏目漱石の言葉からもよくわかります。
 

 猿が手を持つから始めて「クライブ」で終わる教育の恐るべきこと。英語を習って英書より受くるCulture を得るまでには読みこなせず,去りとて英書以外のカルチュアー(漢籍和書より来る)は毛頭なし。かかる人は善悪をも弁ぜず徳義の何物たるをも解せず。ただその道々にて器械的に国家の用に立つのみ。毫(ごう)も国民の品位を高むるに足らざるのみか器械的に役立つと同時に一方には国家を打ち崩しつつあり。
(三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫,1986)308-9.
 

 漱石のこの批判は,実は日本の英語教育に対して向けられ続けた,根本的な批判でもありました。英語教育には「実際の役に立つ」という,実践的な側面が常につきまとうので,その結果,ともすればテープレコーダーのような「器械的に役立つ」人間を作ることが最大の目標とされかねませんでした。それは自分が話そうとする内容よりも,いかに流暢に英語をしゃべるかだけに重きを置く人間の養成です。内容希薄で外見のみ英語で着飾った「虚うつろな人間」の誕生です。これは「亡国の英語教育」と言われても仕方ありません。(吉田健一『英語 英文学に就て』(筑摩書房, 1975)の冒頭の3つのエッセイでも,同様の批判が書かれているので,関心のある方はぜひお読みください。)私自身,ラスキンの次の言葉に心から賛成いたします。 “What is the use of learning to speak, if you have nothing to say ?”(John Ruskin, Selected Writings, Oxford World Classics)95.
 教育の目的は人間を機械にすることではありません。人間をいかに人間らしくするか,これがすべての教育の要諦です。人間と社会の機械化を激しく批判したのは,19世紀イギリスの文学者たちでした。カーライル,アーノルド,ディケンズ,ラスキン,ニューマン,ジョージ・エリオット,モリス―いずれも産業革命に端を発した人間と社会の機械化に抗議した人たちでした。それは20世紀になっても,ロレンス,ジョイス,ウルフ,オーウェルなどに引き継がれ,現在に至っています。コンピューターに象徴される現代の機械化は,かつての人たちの想像を絶するほどにまで進んできています。現代社会の機能と生産を維持するためには,機械化はもはや必要不可欠で,後戻りはできません。だからこそ私たちの英語教育は,人間を「機械」にするようなやりかたではなく,現代にふさわしい「カルチュアー」と「品位」を備えた,人間らしい人間の教育を目指す努力をやめてはいけないと,私は強く思います。
 


ご挨拶
― 2006年度を迎えて―

日本大学文理学部英文学科主任  松山 幹秀

 
会員の皆様には時下ご清祥にてお過ごしのことと拝察いたします。
 英文学科も去る3月25日に169名の学部学生および7名の大学院修士課程修了生を送り出し,4月3日には学部新入生161名,大学院新入学生9名(博士前期課程8名,博士後期課程1名)を新たに迎え入れ,2006年度を無事に始動さすことができました。ただし,今年はどういうわけか(ゲーテらの文学革新運動とは聊かも関係ありませんが)「疾風怒涛」の新学期となりました。それを乗り切ることができたのも学科スタッフ,特に副手の皆さんの奮闘,というよりもまさに尽瘁の働きがあったればこそでした。この場を借りて深く感謝いたします。
 さて,本年度は昨年のような大幅な学科教員・スタッフの移動はありませんでしたが,4年間助手として勤めてくださった堀切大史さんが任用規定に従い3月末日をもって退職されました。縁の下の大力として文字通り本学科を支えてくださったことに対し,教員・スタッフを代表して心からお礼申し上げます。なお,堀切さんは今年度からは非常勤講師として文理学部の教壇に立って後輩たちの指導にあたって頂いています。

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 英文学会通信84号(前号)発行以降の大きな学科行事としましては,皆様もご存知のとおり,昨年(2005年)12月3日に「英文学科創設80周年記念式典」が百周年記念館で執り行われました。この時期に80周年記念式典ということになりますと,2005引く80で1925,つまり普通に考えますと英文学科が創設されたのは1925年秋ころということになります。しかし実際には,1925年という年に英文学科に直接関わる公式の出来事の記録は残されていません。したがって,『英文学論叢-70周年記念論文集』の「編集後記」352頁にもありますように,1926年(大正15年)4月に高等師範部に英語科(と地理歴史科)が設置されたことをもって英文学科創設の起源と考えるのが至当のようです。(なお,同じく1926年4月に高等師範部地理歴史科として産声をあげた地理学科も昨年(2005年)10月15日に地理学科創設80周年記念事業記念祝賀会を挙行していますが,祝賀スピーチでは何人かの方から2005年を学科創設80周年とすることに疑問を呈する発言がありました。)
 英文学科の創設を1926年とするのが妥当だと考えられるのは日本大学の学部・学科沿革の中で初めて「英語」という言葉が科名に用いられたことによります。なお,「英文学」という名称が初めて用いられたのは翌1927年5月に法文学部文学科英文学専攻が設置されたときです。その意味では,70周年記念式典(1995年)のときもそうですが,旧臘の「英文学科創設80周年記念式典」(2005年)も4ヶ月ほど時期の前倒しをした記念式典ということになろうかと思います。
 ちなみに,文理学部のほうは1901(明治34)年10月に設立された高等師範科(高等師範部の前身)をその始まりとし,1991(平成3)年12月に文理学部創設90周年記念式典を,2001(平成13)年11月に文理学部創設100周年の記念式典をそれぞれ挙行しています。また,文理学部の哲学科,教育学科,心理学科,国文学科は1924年(大正13年)4月に 法文学部文学科に哲学,教育学,心理学,国文学の各専攻が設置されたことをもって学科の創設年とし,それぞれの学科で1974年に50周年,1994年に70周年,そして2004年に80周年を(正しく?)祝う式典を行っています。
 英文学科誕生前後からの略年表を時系列で示すと以下のとおりですが,上記の哲学科など4学科に比べると始まりの特定が難しい側面があることが分かります。
1924年(大正13年)4月 法文学部文学科文学芸術専攻設置【英文学科の萌芽】
1926年(大正15年)1月 法文学部文学科外国文学芸術専攻(文学芸術専攻を改称)
1926年(大正15年)4月 高等師範部英語科設置【英文学科の始まり】
1927年(昭和 2年)5月 法文学部文学科英文学専攻
1949年(昭和24年)4月 文学部英文学科
1958年(昭和33年)4月 文理学部英文学科【現在に至る】
 これを見ると,英文学科の創設時期(始まり)として3つの可能性があることが分かります。一つは1924年4月 に法文学部文学科文学芸術専攻が設置され,その中に英文学が同居していたのを起源と考えるもので,先号(本通信84号)の寺崎先生はその立場に立っておられます。ただし,1924年(4月)を英文学科の創設年だとすれば80周年は一昨年の2004年ということになります。もう一つは,1926年1月 に文学芸術専攻が外国文学芸術専攻へと名称変更され,専攻科の名称がいくぶんか英文学に近づいたときをその起源と考えるもの。そして三つ目が上で述べた,1926年(大正15年)4月 高等師範部に英語科が置かれたときを起源とするものです。名称という点だけからすれば外国文学芸術専攻が二専攻に分けられて芸術学専攻と英文学専攻となった1927年(昭和 2年)5月を英文学科の始まりとするのが一番すっきりしていると言えます。(その場合は来年2007年(5月)が80周年ということになります。)
 本学科の歩みを,ここでは一応,「高等師範部英語科」(1926) → 「法文学部文学科英文学専攻」(1927) → 「文学部英文学科」(1949) → 「文理学部英文学科」(1958~)という変遷を辿ったものと考えることにしますと,卒業生の数は,文理学部英文学科(1958年)よりも前が3,439人,文理学部英文学科になってから(つまり1958年から2006年まで)が7,639人,合計1万1,078人になります。(なお,卒業生の集計につきましては教務課の方々に大変お世話になりました。ここに記して謝意を表させていただきます。)ついでながら申し添えますと,我が英文学科が誕生したとされる1926年という年は日本放送協会,さらにはエリザベス2世,マリリン・モンローが誕生した年でもあります。
 いずれにしましても英文学科は満80歳を過ぎ,今年度で81年目を迎えたことになります。今後は学科をどう発展させていくかという大きな責務が私たちに課されることになります。取り敢えずは少子化に伴う志願者減にどう歯止めをかけるかが課題になります。
 組織の継続的発展ということで言えば,中国の唐の太宗が問うた「創業守成孰難」(『十八史略』)という言葉が思い起こされます。唐の隆盛の礎を築いた二代目太宗(李世民)は後漢の光武帝(劉秀)と並んで中国の歴史の中でも屈指の名君とされます。この太宗には,二人の有名な重臣,房玄齢と魏徴に「創業と守成とではどちらが難しいか」と問い尋ねたという故事が残されています。つまり,事業は起こすのが難しいのか,それとも起こした事業を固め守っていくほうが難しいのか,という問題です。創業のほうが困難だと言う房玄齢に対し,魏徴は守成のほうだと反論します。二人の言い分にじっと耳を傾けていた太宗は,「創業の困難はすでに過去のもの,これからは心して守成の困難を乗り切っていきたいものだ」と答えます。その後,治世24年,「貞観の治」と称えられる盛世を現出させたことはよく知られるところです。この故事から「創業は易く 守成は難し」と言われるようになりましたが,創業ならぬ創設から80年を経た我々も今後は一層,守成に専念しなければならないことだけは間違いありません。
 ちなみに,この逸話に登場する魏徴(『広辞苑』にも記載があります)は詩人としても知られ,彼の「述懐」と題する詩は,『唐詩選』の冒頭を飾っています。「中原初めて鹿を逐い 筆を投じて戎軒を事とす」で始まり,最後は「人生意気に感ず 功名誰か復た論ぜん」という有名な対句で終わっています。男たるもの,人生意気に感じて事にあたるもの,手柄や名声など問題とするに足りない ― 私も十代の終わりころにこの詩を読んでいたく感激した覚えがあります。英文学科の守成には稀代の諫言家として知られた魏徴のような存在もまた不可欠だと言えます。
 最後に。私は将棋を下手の横好き程度の趣味にしてきました。小学校低学年のころから続けてきたものなので趣味の娯楽とはいえ,腐れ縁のわが伴侶よりもはるかに長い付き合いになります。ところが,これが全くモノにならない。ではなぜ強くならないのかというと,理由は将棋の定跡をしっかり勉強しなかったことに尽きます。古来の棋士たちの研究によって「先手番,あるいは後手番にとって最善であるとされる,決まった形の指し方」を定跡と呼び,序盤の段階だけでも数十もの定跡が確立しています。これを文字通り,手が自然に動くほどに身に付けているかどうかは,上達の一番の鍵であり,勝負において決定的な重要性を持ちます。単に指して遊ぶだけなら,定跡など知らずに済みますし,勝てばそれはご愛嬌程度の僥倖。しかし,回り道で進歩が遅いようでも,がっちり定跡を踏まえて指すことを心がける,そうしないと,大抵の場合,途中でいつの間にか自分の形が崩れてしまって最後には瓦解してしまいます。これは将棋に限らず学問にも等しく言えることだろうと思います。定跡(=基本)を究めるにあたって必要なのは熱意,集中力,そして根気です。将棋の場合も,定跡の徹底した習得は退屈なものなれど,上達には他に採るべき道はなし,だったわけです。余りに遅きに失した悔悟ですが,集中力と根気は若い人たちだけに許された特権的な資質なればこそ,集中力と根気をもって基本(=‘定跡’)を身に付け,さらなる飛躍へのポテンシャルを育んだ有為な人材を輩出する ― そのような指導や組織の基盤づくりが本学科にとっても大切になっていくものと思います。次に控える最大の節目である英文学科創設100周年に向けて,会員の皆様には惜しみないご鞭撻を賜りますよう衷心よりお願い申し上げる次第です。
 


英語教師の独り言

元日本大学国際関係学部教授  西村  満男

 Longfellowの詩には“A Psalm of Life”(人生讃歌)とか“The Village Blacksmith”(村の鍛冶屋)など「誠実」「勤勉」の詩が一般にも良く知られているが,もっと短く小さな“The Arrow and the Song”(矢と歌)というのがある。三節から成り,各節四行の短い詩だから原文を掲げておく。


I shot an arrow into the air,
It fell to earth, I knew not where;
For, so swiftly it flew, the sight
Could not follow in its flight.

I breathed a song into the air,
It fell to earth, I knew not where;
For who has sight so keen and strong,
That it can follow the flight of song ?

Long, long afterward, in an oak
I found the arrow still unbroke;
And the song, from beginning to end,
I found again in the heart of a friend.


 表向きには平易な英語で書かれているから訳は付けるまでもないだろう。第一節は「矢を空に向けて射たが早くてどこへ行ったか分からない」という内容で,第二節は「歌を歌ったがどこかへ消えてしまった」という。ところで第三節の二行で「ずっと後になって森の中で折れていない矢を見つけ」,後半の二行で「歌をまるまる友人の心の中に発見した」というのである。
 教訓的な「質実剛健」の匂いのしない,一見他愛のない詩に思えるかもしれない。しかしこの「歌」とは「自分の信条」で,それが正しく伝わっていた喜びの歌なのだ。日頃熱心に講義している内容を正しく理解してくれることが教師の生き甲斐である。卒業式の歌『仰げば尊とし』に出てくる立身出世の思想とはかけ離れた理念である。「私の顔も名前も忘れて結構,講義内容の正しいと思うことを次の世代に伝えて欲しい」と最終講義を結んだ。教師でもあったLongfellowの詩に「教師冥利に尽きる」心情が読み取れたからである。教職に就く者にとっては示唆に富む詩ではなかろうか。
 卒業式の唱歌に触れたので『蛍の光』の旋律と歌詞のアクセントの関係に話題を変えよう。明治期の歌は音符の数に字数を合わせただけでアクセント無視であったから「ほたるの…」はひどい逆アクセントであって「ほたるのやどは…」という唱歌『蛍』のアクセントと比較すれば明瞭であろう。この『蛍の光』には「千島の奥も,沖縄も」という歌詞がある。沖縄諸島ばかりか千島列島も日本の領土であった。ところが日清・日露の戦争終結直後にはこの歌詞の部分が「台湾の果ても樺太も」に変えられている。台湾の統治は明治28年の下関条約の批准によるし,南樺太の割譲も明治38年のポーツマス条約の調印によるものであるが,日本が武力によって取得した領土であるから奪い返されても文句は言えない。しかし北方四島からカムチャツカ半島の近くまで千島列島という日本の領土の筈である。これらはいずれも第四節の歌詞であるが,現在『蛍の光』は第二節までしか歌われない。
 山田耕筰はアクセントにうるさかったと言われ『赤とんぼ』のアクセントに疑問を感じた團伊玖磨は,東京では「あ」を高く言うんだと田舎者扱いされて引き下がっている。しかし「嫁」や「竿」のアクセントは明らかに耕筰の矛盾を露呈しているのに,弟子の立場では強く反論できなかったらしい。『赤とんぼ』は『ふるさと』と並んで日本の愛唱歌とされているが,名歌とは言えない。アクセントも時代と共に変化し今では「あ」を高くしない。
 日本の名歌といえば『荒城の月』はその筆頭にあたるだろうが,「垣に残るはただかずら(葛)」を「…かつら」と明治34年の『中学唱歌』のままの歌詞を引き継いでいる歌集がいまだに多いのは情けない言語感覚である。
 歌詞の誤訳は多すぎて例を挙げるのに困る程である。アメリカの歌であるのに“corn”を平気で「麦」と訳したり,願望の歌“Home on the Range”を勝手に望郷の歌に変えて「峠」で牛を飼ったりして奇妙である。“range”は「放牧地」と小型辞書にも出ているのに他人の誤訳を下敷きにした訳ばかりで中学・高校の音楽教師では誤訳は見抜けず,汚染は食い止められない。
 最後に文学の解釈について少々述べて,この雑文を終わりたいと思う。Hemingwayの短編“Indian Camp”は名作の一つであるが,この作品は文学を正確に読み解く訓練のために格好の素材だと思う。少年Nickの父親である医者をどう評価するかによって文学理解の能力が判定できるのである。かつて新潟大学で日本アメリカ文学会の全国大会が開かれた時,ある若い研究者がこの作品を分析して研究発表を行った。この医者に産婦人科医の資格があったかという事に始まったが,この研究者の結論では,Nickの父親はとんでもない乱暴な医者で,人種偏見者で,この作品を書いたHemingwayまでが悪者にされてしまった。短編では,そしてHemingwayでは特に,行間の意を正確に推定しなければならないのにそれができていなかったのである。夜釣りの出先からという最初の部分から間違った先入観による推理はどんどん狂っていったし,“against the wall”を「壁に背を向けて」と訳していたから英語の学力も貧弱で,質疑応答で数点指摘したが何一つ答えられなかった。ところでこの様な意見の研究書が存在するのにも驚いた。嶋忠正『ヘミングウェイの世界』(北星堂,1978)である。粗製濫造の論文を纏めて活字にすれば学生が無批判に読む事になる。「間違いは人の常」というが恐ろしいことである。業績稼ぎの粗悪論文は書かない方がまだましであろう。
(遺 稿)
 


George Eliotと私

日本大学講師  会田 瑞枝


 早いもので教職に携わってから足かけ30数年になる。無我夢中で過ごしているうちに30数年が経過し,今春長年勤務をしていた帝京大学を退職することになった。 
 この4月から日本大学講師としてお世話になることになったが,振り返ってみると私の教職人生の原典が日本大学英文学研究室なのである。日本大学大学院修士課程に入学をした際に,思いもかけず英文学研究室の副手を拝命し,院生としては,重い大辞典を抱えて授業に出席し,研究室では各種の研究会(英語精読,英作文,第二外国語,日本文学研究会等)で切磋琢磨されその合間に研究室の雑務をこなすというかなり忙しい日々を過ごした。
 私の大学院修士課程,博士課程時代は大和資雄先生,古谷専三先生がご壮健で両先生の授業に出席するためには膨大な準備が必要であった。現在でも時々当時の授業準備に忙殺された日々を思い出すことがある。やっと授業が終了したと思ったら,すぐ翌週の授業の準備に取りかからなければならず,浅学の私にとってはいつも薄氷を踏む思いであった。しかし当時の同級生達(その中には大和資雄先生や古谷専三先生を初めとする大学院の先生方の授業を受けたいために入学して来た優秀な他大学出身の友人達も多数いた)に随分助けられた。
 両先生から受けた恩恵は計り知れない。教育者として授業に対する真摯な態度,研究に対する妥協を許さない基本姿勢は,まさに素晴らしいお手本であった。両先生のみならず当時の英文研究室を指導していらした中島邦男先生,新倉竜一先生を初めとする諸先生方には,文字通り手取足取りでご指導を頂いた。現在教職に携わっていかれるのも英文学研究室でご指導を頂いた賜なのである。もっとも当時の私の至らなさを思い出すと今でも汗顔の至りであるが。
 学部の卒業論文には私はThomas Hardyを取り上げた。Hardyをそのまま継続して研究する気持ちもあったのだが,大学院修士課程に入学をした際に,古谷専三先生の熱意溢れる授業(勿論George Eliotを題材にした)に出会ったことが,今日まで私が格闘しているGeorge Eliotとの出会いなのである。初めは授業で難解なEliotを読まされているという意識であった。
 英文科の授業で,Jane Austenを取り上げると,「昔も今も人の気持ちは変わらないのですね」「内容的にとても面白かったです」「恋愛,結婚は普遍のテ-マですね」等の声をよく聞く。
 一方Eliotの作品に関しては,「読みにくい」「内容が難解」等の声をよく耳にする。
 Eliotの作品に関しては読むことにエネルギ-を消耗してしまって,作品を味わう段階に到達出来ない。大学院生当時の私としても同じ状況で,ただただ古谷先生について行くだけだったのである。
 しかし取りつきにくいと思われたEliotも長年読んでいくうちに少しは作家の顔が見えてくる。読むのに抵抗を感じていても読み進むうちに,Eliotの思想や,観察力の鋭さに思わず引き込まれ,Eliotの作家としての顔をぜひ知りたくなるのである。
 Eliotは,19世紀の作家としてはよく旅をした作家であった。本国の英国は勿論のこと,イタリア,スペイン,ドイツ,オ-ストリア,スイス,フランスとEliotの足跡は広範囲に及んでいる。19世紀は鉄道が普及した時代とはいえ,目的地までの輸送手段として,Eliotは,鉄道のみならず,船,或いは馬車を雇って(勿論長時間の徒歩も含めて)の旅行を実行し,その時の海外での体験を土台にしてRomola, The Spanish Gypsy, Daniel Deronda等の作品を書き上げている。車社会に生きる私達と異なって,19世紀の旅行は経済的,体力的にもかなりのエネルギ-を要したものらしい。Eliotの日記を読むと,彼女が経済的,体力的に膨大なエネルギ-を費やしながら,度々海外に出かけている様子がよくわかる。
 しかしEliotに取って海外への旅は本国英国での日々とは異なって,かなりの開放感をもたらしたものらしい。
 Eliot作品を解く鍵の一つが,海外での彼女の旅にあるのではないかと思われる。
ここ数年年2回程度Eliotの作品の舞台を訪れて,topographyの視点からEliot文学の本質を検証しようと試みて来た。
 Romolaのように作品の舞台となっているフィレンツェでの,Eliotの訪れた道を辿ることにより,少しはEliotの真意を検証出来る作品もある(もっとも私は,3回当地を訪れてやっと少し手がかりを掴んだだけなのだが)。
 今春The Spanish Gypsyの舞台となったスペイン,アンダルシア地方を訪れた(マドリッドやバルセロナは訪れたことがあるが,アンダルシア地方は初めてである)が,The Spanish Gypsyに関しては,未だにEliotの顔は半分ぐらいしか見えて来ない。スペインでのEliotの足跡をさらに検証する必要性が感じられる。
 しかし去年秋ドイツ,ハイデルベルグ近郊のFreiburgを訪れた際,Eliotが劇詩Armgartでプリマドナのヒロインに,引退後の人生を地方文化都市Freiburgで過ごす選択をさせた理由を感じ取ることが出来た。Eliotの足跡を辿るうちにこのような状況に出会うこともあるのである。
 今後もこのペ-スで,Eliotの足跡を辿るつもりであるが,Eliotを理解するためには,19世紀という時代を検証しなければならず,勿論他の19世紀の作家達との比較もしなければならず,道は遙か遠くである。
 しかし幸い健康に恵まれているので,エネルギ-のあるうちに何とか纏めたいと願っている。
 大和資雄先生,古谷専三先生がご壮健であれば,少しは研究のお話が出来たと思われるが,両先生とも鬼籍に入られてしまい,不肖の弟子の私としては,ただただ恥じ入るばかりである。
 


バイユーのタペストリー
― 旅の中で気づき感じたこと ―

日本大学理工学部助教授  佐藤 勝


 1500年前はごく限られたゲルマン小部族の一言語にすぎなかった英語が,今では国際語・世界語となっている。その要因として,政治・経済・軍事的要因以外に,英語の簡素化という言語的要因も忘れてはならない。そして,英語簡素化の主要な要因として,1066年のノルマン征服が考えられる。ここでは,ノルマン征服を描いたバイユーのタペストリーについて,2004年夏の旅(デンマーク~オランダ~フランス~イギリス)の中で気づき感じたことを記す。
 バイユーとは,フランス・ノルマンディー地方の田舎町で,ノルマンディー公の城のあるカーンからは電車で15分程である。バイユーのタペストリーとは,「イングランド王エドワードの晩年~ハロルド王の誕生~ノルマンディー公ギィヨーム(後の征服王ウィリアム)の挙兵~征服王ウィリアムの誕生」を刺繍で描いた芸術作品であり,その名称は900年前からこの作品を保存している町の名に由来している。このタペストリーは,中世ヨーロッパを代表する有名な芸術作品の一つであるが,個人的にはそこに描かれている詳細な史的描写(場面1~58)に惹かれる。バイユーのタペストリーをみれば,ノルマンディー公ギィヨームがイングランドへ攻め入った理由が分かる。
 さて,2004年夏のことだが,大英博物館41室の展示物にバイユーのタペストリー(一場面のコピー展示)があり,その説明に‘Earl Harold, later king of England, hunting with hawk and hounds’とあった。適切な説明だろうか。展示の場面は場面2と判断する。イングランド王エドワードの密命を受けたハロルドが,ノルマンディーのギィヨーム公のもとへ行くため,配下に先導されイングランドの海岸へ向かっている場面である。狩りのような様相を呈しているが,狩りをしているのではなかろう。スパイに対するカムフラージュとも考えられる。バイユー・タペストリー美術館で購入した『バイユーのタペストリー・完全複製版・縮尺: 1/7』(Edition Ville de Bayeux, 2003)及び『バイユーのタペストリー』(Èditions Ouest-France, 1996)を参照しても,‘hunting with hawk and hounds’という説明では不適切であり,「ハロルドは配下に先導され,海岸に向かう」という説明が含まれるべきと考える。もし私の解釈が正しければ,残念なことである。大英博物館は世界に誇る博物館だが,自国の歴史を軽んじてはいないか。外国人の王への抵抗が現代でも続いているのか。
 これまでのことに関心の持たれた方は,次のような旅をされてはどうか: デンマーク(コペンハーゲン,ロスキレ,オーフス)~フランス(カーン,バイユー)~イギリス(ロンドン,ヨーク,ヘースティングズ,バトル)。征服王ウィリアムへの印象も変わることだろう。
 最後に,今でもふと思い出すことを記す。大英博物館の英語史関係の書籍売場でのこと。そこに英語史の本を読むスーツ姿のイギリス青年(ビジネスマン)。珍しい光景と思い,彼に話しかけた。彼は仕事に疲れていたらしく,学生時代履修していた英語史に関する本を読み,気を和ませていたようだ。幾つか質問されたが,感心させられる質問(ヴァイキング,ノルマンに関する質問)もあり,私はできる限りの回答を試みた。彼は学生時代からの胸のつかえがおりたらしく,丁寧にお礼を述べた後,清々しい顔つきで博物館を去って行った。翌日から彼はまた良い仕事をしたことだろう。私も彼のような人に会えて喜び,そして安堵した。
 


Sherlock Holmes的方法

日本大学経済学部助教授  中村 光宏


 Sherlock Holmesに凝っている。HolmesはロンドンのNo.221B, Baker Streetに住み,幾分お人よしのJohn H. Watson医学博士と一緒に幾つもの事件を解決する名探偵である。Holmesモノは小・中学生の頃のマイ・ブームだった。顧問探偵として世界初の登場であることに加え,数々の難事件をあざやかに解決するところや,犯人逮捕に至るまでのハラハラドキドキが魅力的だった。数年前から再びマイ・ブームとなったのは,推理家としてのSherlock Holmesである。
 Holmesは自身の知的作業を推理学と呼んでおり,様々な事件を解決する時に推理家としての発言をしている。例えば,雑誌に投稿した論文「The Book of Life」の中で次のように書いている: From a drop of water…a logician could infer the possibility of an Atlantic or a Niagara without having seen or heard of one or the other(A Study in Scarlet [1])。また,Watson博士に対して述べる「You have not observed. And yet you have seen(A Scandal in Bohemia [2])」のような言葉が出てくるのは一度だけではない。更に,犯人を推定していく過程で,「It is just these very simple things which are extremely liable to be overlooked(The Sign of Four [1])」と教訓的な言葉を述べたりもする。
 Holmesのように犯人を捕らえるためではないが,私たちも日常的に推理を行っている。傘を持っていくかどうかを決めるために空を観察して,雨が降る確率を予測する。また,学生時代のアパート探しでは,路線の種類,最寄り駅の位置,築年数などから家賃を推定して,予算に合った「いい場所」を探した思い出がある方も多いに違いない。私たちが日常的に行う思考では,因果関係に関する推理が多いという話を聞いたことがある。以下で取り上げる話題も,ある出来事と別の出来事との関係についての推理である。
 Watson博士が物語の中でも愛読する英医学雑誌『The Lancet』(実在する専門誌)に「SARS transmission: language and droplet production [3]」という記事が掲載された(以下Inouye(2003)とする)。SARS(Severe Acute Respiratory Syndrome:重症急性呼吸器症候群)がアジア地域を中心にして急速に広がり世界的脅威となったことは,まだ記憶にあたらしいところである。国立感染症研究所・感染症情報センターHP[4]を閲覧すると,これまでに様々な角度からSARSの研究が進められてきたことが分かる。そのうちのひとつであるInouye(2003)は,SARS感染と話しことばの関係についての仮説を展開している。
 Inouye(2003)は,「SARSはウイルスを含んだ飛ひ沫まつを吸い込むことによって感染する(飛沫感染)。そのような飛沫は患者が咳をした時に飛び散る。また,可能性は低いが,感染の初期段階においては,ことばを話すことによって飛び散ることもある。この場合,使用する言語によって感染率に差異が生ずる可能性がある(中村訳)」という。感染症情報センター[4]によると,感染は「咳やくしゃみによる飛沫感染が中心的」であり,咳やくしゃみ以外を媒介とする感染については「特別な条件下での空気感染なども完全に否定することはできませんが,可能性はかなり低いと考えられています」としている。どのようにしてInouye(2003)は,上の考えに至ったのだろうか。
 Inouye(2003)の推理は次のように展開する(①~④,⑨⑩は中村訳):①日本とアメリカから中国本土,香港そして台湾に旅行する人々は膨大な数に上る;しかし,②2003年6月中旬におけるSARS感染者は日本にはいない;一方,③アメリカでは70のケースが確認されている;④なぜ日本人旅行者にはSARS感染者がいないのだろうか。この問いに対してInouye(2003)は次のような答えを導き出した:⑤ The Chinese language has an aspiration/non-aspiration pronunciation system: the consonants p, t, k, q, ch, and c, when placed in front of vowels, are pronounced with a strong breath; ⑥ In English, but not in Japanese, p, t, k are pronounced with a similar accompanying exhalation of breath;⑦ the p sound is not used as frequently in Japanese as in English; ⑧ Aspiration could produce droplets.
 この推理をInouye(2003)は次のようにしめくくっている:⑨ 土産物ショップの中国人店員はアメリカ人旅行者に対しては英語で,そして日本人旅行者に対しては日本語で対話したと思われる;⑩ もしも中国人店員がSARSの初期段階にあり,咳をしなかったとすれば,アメリカ人旅行者は日本人旅行者よりも,ウイルスを含んだ飛沫にさらされる可能性が高くなる。
 Inouye(2003)の推理は,話しことばが感染症に関係するという驚くべきものである。そしてその方法はHolmesのやり方に似ている。Holmesの扱う事件がそうであるように,Inouye(2003)が扱うケースも「結果が既に与えられた場合に,それを生み出すのに必要でかつ十分であった条件(原因の連鎖)にさかのぼっていく推理[5]」なのである。①~⑩の展開は微妙であるが,「⑤⑥英語と中国語には帯気音があり,日本語にはないこと」と「⑨中国人店員が言語を使い分けて接客すること」という2つの事柄の関係について,明示的な記述が見あたらないのが少し気になる。
 Inouye(2003)の推理は,帯気音という音声特徴と第二言語の音声獲得に関係している。英語の無声破裂音[p, t, k]は,語頭では強い息(気音:aspiration)を伴って発音されるが,語末では気音を伴わない(pipe, Tate, cakeで確認されたい)。このような発音習慣は日本語とは異なる。日本語にも無声破裂音はあるが,破裂(気音)の度合いは英語よりも弱い。日本語を話している時に,無声破裂音が強い息を伴って発音されると,あまりいい感じがしないし,それこそ唾を飛ばされているような気さえしてしまう。そういうわけで,日本語話者が,日本語を発音するように英語を発音すると,語頭の無声破裂音の気音は,英語話者のそれよりも弱くなることが多いのである。
 一方,中国語の子音には,Inouye(2003)が指摘するように,帯気音と非帯気音の区別がある。付け加えると,中国語では「強い息を伴って発音されるかどうか」という音声特徴によって,単語の意味を区別している。例えば「pà(恐れる)」と「bà(お父さん)」の違いは,[ph] 対 [p] であり「パ」対 「バ」ではない。私たちが声の有無で区別するところを,強い息の有無で区別する。これは中国語音声・音韻体系に独特の特徴である。では,Inouye(2003)で描かれる中国人店員が外国語で接客するときに,何が起こっているのかを推理してみよう。
 少なくとも2つの可能性がある。ひとつ目。中国人店員が中国語を話すように外国語を話したと仮定しよう。店員は英語であっても日本語であっても,無声破裂音を強い帯気音として発音したはずである。この場合には,ことばを話すことを媒介としたSARSの感染率は,日米間に差がないことが予測されるだろう。しかし,この推理は先に挙げた事実②と③に反する。そこで,ふたつ目の可能性。中国人店員は外国語の音声特徴に習熟していて,発音が相手に与える印象を心得ていたと仮定しよう。この場合,中国人店員は,英語で接客する時と日本語で接客する時とでは,無声破裂音の気音の度合いを微妙に調整するという高度な能力をもっていたことになる。
 これまでの音声研究によって,話し手は主に2種類の調音運動を組み合わせて,気音の度合いを調整することが分かっている(声門開大と動的調音体の開放タイミング)。例えば,無声破裂音が3種類(軟音,帯気音,硬音)の音声特徴で発音される朝鮮語や,有声破裂音も帯気音化されるヒンディー語では,話し手によって調音運動の組み合わせが正確にコントロールされている。これは,Inouye(2003)の中国人店員についても予想できることである。更に,帯気音と非帯気音の区別が母語の音韻体系において特別な位置づけをもつ場合には,外国語音声の同種類の特徴に対しても鋭敏に反応し,それに対応できるに違いない。中国人店員は,英語で接客する時には幾分強めの気音を伴った無声破裂音を発音し,日本語で接客する時には,あまり強く破裂させないようにしていたことは,十分に考えられることではないだろうか。
 これまでの推理をSherlock Holmesが聞いていたら何と言うだろうか。ふたつの可能性を挙げておこう。ひとつ目は:The principal difficulty…lay in the fact of there being too much evidence…Of all the facts which were presented to us we had to pick up just those which we deemed to be essential, and then piece them together in their order, so as to reconstruct this very remarkable chain of events(The Naval Treaty [2])。もうひとつは:It is an old maxim of mine that when you have excluded the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth(The Adventure of the Beryl Coronet [2])。


引用文献
[1] Doyle, A.C. (1989) The Original Illustrated ‘Strand’ Sherlock Holmes. Kent: Wordsworth Editions Ltd.
[2] Klinger, L.S. (2005) The New Annotated Sherlock Holmes. London: W.W. Norton & Company Ltd.
[3] Inouye, Sakae. (2003) ‘SARS transmission: language and droplet production.’ The Lancet, Vol. 362, p. 170.
[4] http://idsc.nih.go.jp/disease/sars/QA/QAver2.html
[5] 内井惣七(1988)『シャーロック・ホームズの推理学』東京:講談社.
 


Shared Experience― Jane Eyre観劇記

日本大学法学部助教授  佐藤 明子


 去る3月3日,Cambridge Arts Theatreにおいて,Charlotte BrontëのJane Eyre(1847)を観劇した。Shared Experienceというユニークな名前の劇団による舞台である。そのコンセプトは


At the heart of the company,s work is the power and excitement of the performer,s physical presence and the collaboration between actor and audience - a shared experience.(パンフレットより)


ということだそうだ。
 この舞台には様々な驚きがあったが,第1の点は舞台装置であった。それはごくシンプルなもので,最初から最後まで変わることはない。舞台の後方左半分に火事で朽ち果てたソーンフィールドの一部と階段が作られ,その2階部分がバーサの監禁部屋になっているのだが,それは同時に幼い頃Janeが閉じ込められる赤い部屋にもなる。舞台前方ではいくつかの椅子や旅行かばんなどがその時々によって役者により運ばれ,持ち去られるという単純なしくみになっている。
 第2の驚きは,Berthaの扱いにあった。冒頭,2人の女優 ― 一人は地味なブルー・グレイの服を着て楽しげに本を読んでおり,もう一人は真っ赤なドレスで彼女と戯れている。Jane Eyreに慣れ親しんだ私も一瞬状況をよく理解できなかったが,すぐにそれがJane Eyreの冒頭シーン,本を読むJaneとそのもう一人の自己としてのBerthaだと理解できた。赤い部屋のシーンではJane自身の心の葛藤が語られるが,それがJaneとBerthaの会話形式になっている。Janeの潜在的な怒りやパッションを語るBerthaと,それ以上の罰を受けることがないようにその口をふさぐJaneという演出は非常にうまくできていると感心した。演出家(ちなみに女性であるが)によれば,この舞台は全体的に黒・グレー・白・ブルーを基調にしてダークな色合いでまとめられているが,その中でBerthaの真っ赤なドレスのみを一際目立たせ,それによってJaneの抑圧された自己と潜在的なパッションを表したそうだ。そしてBerthaはほぼ最初から最後まで姿を現し,Janeの心の内と呼応するようにドアをどんどんたたいたり,足を踏み鳴らしたり,縛られたり,静かに椅子に座っていたりする。その後もBerthaは何度か驚くような役割を演じている。JaneがRochesterのもとに戻るきっかけとなった‘Jane, Jane, Jane’という不思議な声は,まずBerthaによって発せられ,それにRochesterの声が重なるのである。それはまさにJane自身の隠された願望であり,その体現者としてのBerthaとRochesterの思いとが1つなった極めて印象的なシーンになっていた。また最後に二人が結ばれるシーンで,JaneとRochesterが抱擁するのだが,Janeの背後からBerthaがぴったりと抱きつき,それは3人の抱擁に変わる。そしてJaneに伸ばされたRochesterの手はさらにその奥にいるBerthaの頬を優しく愛撫するという非常に示唆的な結末で幕が下りるのである。Berthaについて何度か論文を書いたことがあったので,特にその演出には興味を抱いていたが,最初からもう一人の自己として登場する手法には正直度肝を抜かれた。まさにフェミニズム批評の影響をまともに受けた演出と言ってよいだろう。
 3つ目の驚きは,JaneとRochesterが最初に出会うシーンで起こった。このシーンであっけにとられなかった観客は一人もいないだろう。みんなが驚き,笑い転げたのだ。なぜならRochesterの乗っている馬と彼の犬を演じているのが男性だったからだ!と言っても,着ぐるみを着た男性ではなく,ただ上半身だけ裸で,下半身は普通に男性の格好をしているのである。この犬はその後も何度もシーンに登場し,巧みな演技で皆の笑いと感心を一心に集めていた(この舞台では主人公以外は,1人何役かをこなすので,ちなみに犬を演じた俳優はSt Johnも演じていた)。
 少女時代と大人になったJaneや,気が狂う前と後のBerthaを演ずるのは,大人の女優たちであるが,その変化を巧みにドレスを使って表現しているのには感心させられた。Janeのドレスはまったく同じなのに長さを変えることで,少女から大人になったことを表す。またBerthaの場合はきれいなドレスと,乱れてちぎれたドレスで,気が狂う前のBerthaとその後のBerthaを表している。またドレスの扱いには他にも面白い点もあって,1つにはJaneの結婚が決まってRochesterが彼女を着飾らせようとするシーンで,Berthaが赤い服を脱ぎ捨て,下着姿になってJaneにまとわりつくシーンである。2つ目は,結婚式がキャンセルになって,Jane自身が舞台上でウェディングドレスを脱ぎ,元のブルー・グレイのドレスに着替えるシーンである。これはくるくると回りながら(おそらく彼女の心の葛藤を表しているのだろう)着替えるので,大変そうに見えた。
 ところで,観劇の2日前にTheatre Dayなるものに参加した。チケットを求めたとき,これは子供向けのものだがいいかと尋ねられたので,てっきり小学生向けのBack Stage Tour,つまりどういう劇なのかとか,舞台設定などの説明があり,加えて俳優のトークがある程度のものを思っていたのだった。ところが参加者の多くはおそらく高校生くらいの学生で,その内容も極めておもしろかった。まず演出家による説明があり,その後3名の俳優が司会者とともにトークするのだが,これがインタラクティブなのである。最初に2人の俳優が怒っている人と許しを請うている人になり,それぞれ言葉を使わずに椅子を小道具に使って表現して見せる。そしてその特徴を観客に指摘させる。次にJane Eyreのいくつかのシーンを取り上げ,まず俳優たちが何の演出もなく,ただせりふを読み,観客にどのような演出をするのがいいのか尋ねる。そしてそれに応じて役者が同じシーンを演じるのである。一度演じた後で,さらに観客にその演出方法でよかったか尋ね,改善すべき点を確認し,もう一度演技し直してみせ,その効果のほどを確かめるという念のいったものであった。その後,舞台監督と音響効果の担当者がそれぞれその特徴を説明する。そして観客の中から何人かに舞台に上がってもらって,Jane Eyreの1シーンを演じさせるのだが,それにはちゃんと雨や雷,ライティングなどの効果もつけるという面白いものだった(実際の舞台では,録音による音楽に加え,チェロの演奏者が舞台の隅にいて生演奏をしていた)。参加者は高校生と思しき若いお嬢さんたちが多かったのだが,皆積極的に意見を言い,演出に参加するのにはびっくりさせられた。イギリスは,若いうちから様々な問題を論理的に解釈し,それについての自分の意見をまとめる勉強をさせていると聞いていたが,まさにそれを証明してくれるようなできごとだった。
 Jane Eyreのような作品は,Shakespeareとは違い,あまり創造性をかきたてるものではなく,オーソドックスな演出だろうと予想していたので,正直なところかなり驚かされた。Janeの演技を,私だったらもっと抑える方がいいかなと言った若干の不満は残ったものの,演劇の楽しさを再認識させてくれるような舞台であった。
 


知性との邂逅
― 知的環境を求めて,その日々の回顧 ―

日本大学法学部助教授  黒滝 真理子

  昨年11月,くろしお出版より『DeonticからEpistemicへの普遍性と相対性-モダリティの日英語対照研究―』の拙著を上梓させていただきました。
ここまでの道のりは決して楽なものではありませんでした。おもえば,私がモダリティの深遠にしてかつ奥深い世界に魅せられて早20年以上になります。大学生の頃,『英文法解説』の著者である江川泰一郎先生の英語学演習の授業で,初めて助動詞の領域に足を踏み入れました。長い研究生活のなか,一貫して助動詞を意味論的,語用論的,そして社会言語学的アプローチでみてきました。無論,次から次へと湧き出るモダリティに纏わる無限の未解決な諸問題群から,敵前逃亡を図りたくなる局面に遭遇したこともあります。試みに他の言語事象を見て寄り道をしてはみるものの,全てがモダリティと何らかの関わり合いがあることに気づき,やはり結局はモダリティに回帰するという航跡をたどってきたのです。教える現場に立っていても,日常の言語運用に携わっていても,ふと思考の止まる時があります。それは,興味深いモダリティ表現に触れ,モダリティというものを再考し新しい発見があった時です。そのような暗澹とした研究生活を営みながら,モダリティ研究に終止符をうとうか,あるいは何かしらの形で究めてみようか迷う日々が続きました。そんな研究上も,社会的身分上も,文字通り浪々の身であったこの不肖の私を,寛容にも受け入れ日本語の世界に導いてくれたのが,他ならぬお茶の水女子大学大学院だったのです。「捨てる神あれば拾う神あり」とはこのことでしょう。モダリティを探究していくことに自信を無くしかけ,一時はモダリティに関する文献を全て書庫の奥にしまっていた時でした。
  自己と向き合うため,そしてより深い内省を得るため,また自己からの解放(私的にはアイデンティティへの模索,公的には,今までの英語教育スタイルからの脱皮)を目的として,二度目の大学院生活が選択されることとなったのです。前者の私的なアイデンティティへの模索という面では,私自身英語を学ぶことを日本人としての自己確認のために必要なものと位置づけていました。その位置づけは今も変わりません。即ち、英語を学ぶことは母語との格闘であるといってよいでしょう。しかしその自らの体当たり的格闘の現場に学生を導くことができないことで,悪戦苦闘していた時期がありました。この思考プロセスの中で,いつの間にかその鏡となった「英語」という言語への新しい視点が備わっていったのです。英語を見ることで逆に日本語が見えてきます。そしてより日本語が見えてくると英語もさらに見えてくるというように。いわば日本語と英語とが相互補完的に機能し,それが私の内省で新しい様相をなして独立独歩をし始めていました。つまりはその座標軸をさらに転回させつつ対極から英語学をみるために,さらに異なる英語と日本語の在り様を追求するために,私は日本語と日本語学についても学べる環境を選びました。研究生活・教える現場での反省からも日本語の知識を武装することは価値あることだと思っての選択肢です。
  さらに,後者である従来型の英語教育スタイルからの脱皮の面では,それまで私は英語学の理論を英語教育に還元してきました。無論そういった理論一辺倒の学風に耽溺していたこともその原因です。しかしながら,実際の言語実態を捉えなければ,理論構築すらままならないことがわかったのです。
  このようにお茶の水女子大大学院時代は日本語と英語両方の学会に顔を出したり,約3ヶ月毎に研究発表をしたり,科研の共同研究のデータ処理に追われたりといった日々の忙しさの中,当初の「自己をもう一度見つめなおす」という目的はどこかに消え,むしろ自己喪失になりそうなこともありました。しかし、幸いにも研究環境は厳しいものの,女子大という性格上自分を映し出す鏡となってくれる仲間や先生の存在があり,一人で研究していた頃よりも前向きになれているといった自覚がでてきたのです。無論,女性の社会での自立を具現化し,愚娘に対し身近な具体例を提供することもできたと自負しています。また,自らの英語教育の現場でも,双方向的に考える場を提供したり,言葉を教えるだけでなく異文化体験を共有する場作りの舞台監督,というような新たな語学教育のビリーフを模索したりして,私なりの英語教育改革がなされました。
  兎にも角にも,お茶大ではこれ以上失うものは何もないという決意のもと,若い頃より以上に図々しくなったことも加わり,恥はかき捨てで無我夢中に文献をあさり,それまでは年に1本の割合で書いてきた論文も3本まで増やすという勇み足の3年間でした。そこでの研究者ネットワークと知性ネットワークは驚く程広く,また確固としたものがあり,その研究者ネットワークをいわゆる医学の世界でいう「セカンドオピニオン」のような形で利用していくと自ずと道が開けていくのは,驚愕かつ驚天動地の毎日でした。その新天地で,これまで試行錯誤を繰り返してきたモダリティ理論の構築と分析をテーマに可能な限り取り組んでみようという決意を新たにしたのです。私は常日頃から論文を書くことほど孤独な時間はないと思っています。しかしながら,この3年間は極上にして究極かつ至高のアカデミックシャワーを浴びることのみを許された禁欲的な研究生活だったせいか,孤独感さえ感じませんでした。やはり,人生にとって学歴は「見栄え」よりも「出会い」にその重要さの本質が存在すると思えます。
  さらに,私の研究者人生の中でも最も感動的な「出会い」,それも「最高の知性との邂逅」が訪れました。実は,本研究は「日本語のモダリティ構造が,いわゆる文法化で言われている言語普遍的な一方向性仮説に必ずしも一致していない」という独自性を提示している点で当初周囲からの理解がなく,予想に反して反応は必ずしも好ましくはありませんでした。むしろ総スカンに近い状態だったのです。無論,それは拙論の具体的論証が不十分であったことに由来することは言を待ちません。しかしそのような危機的状況の中,他でもない池上嘉彦先生(東京大学名誉教授,昭和女子大学教授)が関心を示してくださり,研究意義と可能性を見出してくださったのです。先生には,ご多忙の中,多々貴重なる御指摘や懇切な御指導と共に,身に余る程の多大なる知的恩恵を直に頂戴致しました。特に先生から御教示頂いた認知言語学の枠組みは,本研究の主張の裏付けになっているという意味で,本研究発展の大きな飛躍となったのです。実は,20年ほど前に先生の「意味論」の授業を東京言語研究所の理論言語学講座で受講させていただいたことがあります。無論,その当時の私からすれば雲上人であった池上先生が20年前の私を知っているはずはありませんが。その時はこのような形で20年後先生とお会いできるとはまさに「想定外」でした。正真正銘,運命の「出会い」それも「最高の知性との邂逅」だったのです。
  2004年にお茶の水女子大学より論文博士(人文科学)の学位を授与されたのですが,その前年には地獄絵図(この地獄絵図を「自己責任」や「自力救済」という美辞麗句と共に非常勤の先生方や若手研究者に強制している現状を,関係者は私も含め今こそ猛省すべき)に等しい非常勤講師生活から脱し,まことに幸運にも法学部に着任することができました。そのせいか,正直申しまして研究に対する欲を失いつつあったのです。そのような時,お茶大の指導教授が「研究者としての自立」の重要性を教えてくれました。その後は,ある意味「無」の境地で研究に没頭できました。まさに,トリノオリンピックで流麗な舞とともに我々を魅了してくれた金メダリストの荒川静香選手のように「失うものは何もなく無欲の境地」だったように思えます。無と対峙し「無の上に歩く」から冷静でもいられたのかもしれません。しかしながら,時との戦いは深刻でした。小学生の娘を一人寂しい思いにはさせたくないばかりに,気がついたら週に10ものお稽古事(ごめんね)に通わせていました。娘をお稽古事に送り,戻ってはパソコンの前に,夕食の準備を終えると片付けるまでパソコンの前に,寝る時ぐらいは娘と語り合いたく一緒に床に就くものの早朝から仕事に行くまでパソコンの前に,という生活が続きました。あの頃どのように時間と対峙していたのかを思い出してもこれ以上思い出せません。今の私には,博論執筆中の努力が何事にもひるまない自信に繋がっていると言えましょう。
  1度きりの人生で挑戦しない手はないとはいうものの,大胆にも英語のフィールドで日本語モダリティ論に勝負を挑もうとするチャレンジこそはありましたが,それは「そのモダリティ研究の集大成としてまとめあげよう」などという欲ではありませんでした。ただ現時点での私のモダリティに対する想いを伝えようとして書き上げたのがこの処女本です。それもまた,金メダリスト荒川静香選手の想いと重なるところがあるかもしれません。
  いま,巷では「下流社会」や「負け組」「勝ち組」といった「二極化」や「格差社会」が取り沙汰されています。こういった議論が安易に利用され,「警世」の美名に隠れた「品格」を名乗る安直にして愚劣な国家主義も台頭してきています。そもそも「国家」という装置に「品格」なぞあるのでしょうか。この問題は一言語学者として,看過できませんし,沈思熟考すべきトピックを含んでいます。1920年代後半から30年代にかけてのドイツは,今の日本のような状況だったのかも知れません。
  それはともかくとして,どんな境遇におかれようとも,ブルデューのいうようにやはり人間は「環境」に左右されるのです。私のここ数年の「闘い」が,その「環境」の大切さを立証できたと思われます。人生も半ばを過ぎてからの研究者としての旅立ちですが,結果的には“More haste, less speed.”が運をもたらしたと思っています。
  ここまで多くの方々から学恩を蒙りながらも,それらの知的財産を活かしきれていない非力な面も多々あります。ただ,その知的財産を我が母校である日本大学に凱旋できたという証として出版したものが,標記の拙著であります。本書の出版に際しては,日本大学の平成17年度学術論文出版助成金の交付を受けて刊行させていただきました。拙いながらも一書をまとめあげ,世に出せるような恵まれた研究環境にあったことに対しては,常々深甚なる感謝と敬意の念を,これまでお世話になった方々に表したく思っています。
  荒川選手が力を尽くして銀盤に描いた軌跡,その余韻に今尚ひたっている私ですが,しなやかに反り,あでやかに舞った,ひたむきで,しかも余裕すら感じさせたあの演技と共に,今も聴こえてくるのはプッチーニの歌劇「トゥーランドット」の「誰も寝てはならぬ」です。舞台は遥か昔北京,トゥーランドットという名前の美しい姫が,婿を選ぶ際,その求婚者は姫の出す3つの謎を解かなければ殺されてしまう。ある国の王子がそれに挑みます。「夜ごと生まれ朝には死んでしまうものは?」と姫が問うのに対して,王子は「希望です」と答えます。その王子が自分の勝ちを確信して歌う曲が,荒川選手の舞った「誰も寝てはならぬ」です。研究においても,希望は持てども欲は持たぬということでしょうか。
  いま,出版まで不自由な思いをさせてきた娘に日々一生懸命向き合っています,「寂しかったでしょう,あなたも」という言葉と共に。その娘が「もういいよ。ママの時間もあげるから」と言ってくれて,少ない時間とお金を工面し,「トゥーランドット」の生歌劇をイタリアで家族と共に観る,それが今の私の欲といえば,言えるかもしれません。
でも食いしん坊の娘からは「イタリアへ行ったら生歌劇よりも生パスタだよ」との突っ込みを受けそうですが・・・。
 


幸せは自分で決める  

日本大学文理学部英文学科4年  橋場 さやか


 あなたは自分の幸せがちゃんと見えていますか?幸せとは目を開けば常にそこにあるものであるのにつかむことが難しい。今日の日本社会はそこにある幸せに盲目になっています。皮肉にも,世界がうらやむ先進国の中の先進国となった日本では物や情報が溢れ返り,生活を精神の面で豊かにすることを忘れてしまっているように感じます。
 援助交際やキャバクラでアルバイトをする若者は本当にお金に困っているのでしょうか。自分を,親をディスリスペクトするほどお金が必要なのでしょうか。スーツに身を包んだお父さん世代は毎日お葬式のような顔をして通勤を頑張っていますが,楽しい週末を過ごせているのでしょうか。
 外国人は東京を見て“楽しいけど人が冷たい”と言います。確かに東京にいれば物に不自由することはない,電車は来る,綺麗なトイレもあります。しかし,これ程たくさんの人々と生活しているのに心の接触がありません。体がぶつかっても特に挨拶もなし,スーパーで買い物をしてもお金と物を交換するだけです。皆が疲れていて自分のことに一生懸命すぎます。それでは他人に気を遣うことができません。しかし,小さな気遣いは自らにも幸せをもたらすということを忘れてはならないと思います。
 個性,個性と謳う日本社会は個性を出すほど住みにくくなる国です。ブランド物を持たなければ,周りに合わせなくては,そんな意識がみんなの個性の芽をつぶしています。日本は素晴らしい国だけど,他国から学べることがたくさんあります。
 留学とは語学や勉強だけを学ぶ体験ではありません。違うバックグラウンドで育った人々と接することによってよく自分を知り,そして違った環境に身をおくことで自分の日本での生活を客観的に見ることができます。
 例えば,何の不自由もなく幸せに暮らしていたのは両親,友達や先生方の支えがあったからだと気づきます。私は大学で学び,また日によっては空手道場で夜まで一生懸命稽古し,そういう日は特に誇らしげに帰宅します。しかし,必ず遅い時間まで心配して待っていてくれるのは家族です。それがない留学中は真に大切にするべきものは何かと考えさせられました。私一人が私の人生を切り拓いているのではないと,頭だけでなく心で理解することができました。
 差別や文化の違いに悩まされることもありましたが,何事にも誠意を持って立ち向かい解決することができ,「人生は勉強,努力と感謝を忘れてはならない」ということを身をもって学べました。
 普段とは全く違う環境に身を置くことにより“そこにあって目に見えなかった”ことに気づく可能性が広がり,そのきっかけは無限大に散らばっています。そのチャンスを利用していかに有意義に過ごせるか,自分に足りないもの,追い求めているものを手に入れるかは全て自分次第であり,留学はそのチャンスを与えてくれる舞台に過ぎません。学べるのは語学だけでなく自分自身です。他国の人との交流,勉強に打ち込む等,なんでも新しいことに挑戦することが大切です。そして“継続は力成り”を信じ,何事も何かを感じるまで続けてみることが大切だと思います。これだ!という結果を得られない気がしても全ては人生の糧になるのです。その貴重なきっかけを下さった先生方に感謝しています。ありがとうございました。
 


英語を学びながら思うこと

元日本大学文理学部助手  堀切 大史


 私は94年から95年にかけて1年間,文理学部英文学科を休学して,カナダの都市トロントに語学留学をしました。子どもの頃から外国映画を好んで観ていた私は,映画の中の世界をとおして,異国に対する漠然とした憧れを抱いていました。私は当時ほとんど英語が話せず,また一度も外国に行ったことがありませんでしたが,留学するなら今だ,と思い,1年間の留学をする決意を固めました。留学先にトロントを選んだ理由は,当時英文学科でアメリカ文学を教えておられた,私の学部時代の恩師であるカナダ人教師D. M. オロールク先生が,トロントはいい場所だよ,とすすめてくださったからでした。はじめての外国への旅でしたので,私は大きな期待と不安を感じながら日本を発ちました。それだけに,長旅の後,無事に税関をパスし,空港の外に出て,トロントの冷たい空気を最初に吸ったときの感覚は,いまだに忘れられません。私はすぐにタクシーをつかまえて,ホームステイ先の住所を伝えました。運転手はインド系と思われる男性で,少し怖い顔をしていましたが,ぼられることもなく,無事に家まで連れて行ってもらいました。ようやく辿り着いたなあ,と私は旅の終わりを実感し,呼び鈴を押すと,ホストファミリーの人たちがあたたかく出迎えてくれました。ところが,ホッとしたのも束の間,彼らが何を言っているのかよく聞きとれず,私の言いたいことも相手に伝わらず,いきなり「会話不成立」という外国生活の洗礼を受けてしまいました。「ああ…。大変だ…。会話ができない…。1年間留学すると決めて,はるばる海を越えてこんなに遠くまで来てしまって,今さら引き返すなんて格好つかないよな…。厳しいなあ…」私は初日からホームシックにかかってしまい,その晩は一睡もできませんでした。
 翌朝,カラリと晴れわたった空を見上げながら,私は,いつまでも悩んでいても仕方がないと思い,不安を抱きながら学校へ向かいました。私が通った語学学校は,名門トロント大学の,道路を挟んだ向かいにありました。そこはトロントの中心部で,食事,買い物,娯楽など,何をするにも便利な場所でした。その日は初日ということで,クラス分けのインタビューがありました。教室にとおされた私は,ひとりぼっちで,ドキドキしながら,面接官が来るのを待っていました。しばらくすると,ドアが開いて,ひとりの男性が入ってきました。その人は,長髪にモジャモジャのひげを生やした痩せ型の男性で,服装はピンクの柄シャツにピンクのパンタロン,それにヒールの高いブーツというもので,その風貌はあたかも,60年代最大のロック音楽の祭典「ウッドストック野外コンサート」の会場からタイムトリップしてきたヒッピーのようでした。私は「誰だ…?この怪しい男は…?」と思っていると,なんとその人が面接官で,しかもその学校の先生だったのです。名前はステファン。英語がロクに話せないうえに,いきなりカルチャーショックを受けた私は,完全にうろたえてしまい,当然インタビューはうまくいかず,私のビギナー・コース行きはすぐに決定しました。ひととおりインタビューが終わると,ステファン先生は私に,「君の趣味は何なの?」と聞いてきました。私は「映画が好きです」と答えました。「どんな映画が好きだ?」と聞いてくるので,私は「ジョン・カサベテス(ニューヨーク生まれの映画監督。「アメリカ・インディペンデント映画の父」と言われている)の映画が好きです」と答えました。すると先生は,「誰だって?」と言うので,私は自分の発音が悪かったのだと思い,もう一度言い直しました。しかし,私が「カサベテス,カサベテス」と何度言ってもわかってもらえないので,私は先生がその映画監督そのものを知らないのではないか,と思い始めました。すると突然,「オー!カサヴ3ェ3テス!」と言いました。やはり私の発音が悪かったのです。先生は興奮したように,「私もカサヴェテスが好きだ。特に『グロリア』がお気に入りだ」と言いました。日本ではほとんど知られていないジョン・カサヴェテスを知っている人がいて,しかも彼の映画が好きだということを聞いて,私も感動し,つい興奮してしまいました。ギリシャ系のカサヴェテスは,人種問題や愛,芸術などを描いた,『アメリカの影』から『ラヴ・ストリームス』にいたる映画をとおして私に,フィロソフィーとは何かということを教えてくれました。私は先生に,カサヴェテスの映画がいかに素晴らしいかということを伝えたかったのですが,残念ながらそのときの私にはそれを伝えられるだけの十分な英語力がなく,とても悔しい思いをしました。日本ではなかなかいなかった,自分が好きなことを語れる相手がまさに目の前にいるというのに,言葉が違うがために話すことができないというのは,何とももどかしい気分でした。
 それから8年後,私は英文学科の助手になりました。私が助手の仕事をさせていただいた4年間に,数多くの高校生から進学相談を受けました。私はそれらの学生たちに決まって,「君は英文学科に来て何がしたいの?」と聞きます。すると彼らの多くは,「英語が話せるようになりたい」とか,「将来英語を使って仕事をしたい」などと答えます。そこで私が,「英語を使ってどんなことを話したいの?」と聞くと,彼らは返事に窮し,「英語を使ってどんな仕事がしたいの?」と聞くと,「まだ決まっていない」と答えます。中には自分がそれを使って何をしたいのかもわからずにTOEICに関心を持ち,高得点を目指している学生もいます。確かにTOEICのような,いわゆる実用的な資格英語も,就きたい仕事次第では重要なものです。しかし,そのような学生たちと話しながら,私はこのように考えます。英語は日本語と同様に言葉なのだから,基本的に自分の思っていることや感じていることを相手に伝えるための手段であり,英語を使うことよりも前に,まず自分が何を思うのか,何をしたいのか,相手に何を伝えたいのか,といったことがあるべきだと思います。そしてさらには,英語を外国語とする私たち日本人にとって,英語を使うことは,日本語から英語に翻訳することによって,普段使っている日本語を使うこと以上に,言葉そのものについて考える機会となり,自分が思っていることや伝えたいことを,より明確に認識できる手段となるのだと思います。
 12年前に私はトロントで,ステファン先生を前にして,自分の思っていることや言いたいことを伝えられないもどかしさを痛感しました。その後,多少英語力が向上した私は,さらに勉強を続けるために大学院に進みました。大学院入学以来,私の指導教授であり恩師である當麻一太郎先生は,私を19世紀アメリカのロマン派文学の世界へと導いてくださいました。私はホーソーン,ポー,エマソンといった偉大なアメリカ作家たちの作品を読み,大きな影響を受けました。卓越した言葉の才能を持ったこれらの作家たちもまた,英語という言葉を巧みに用いて,自らの思想を芸術的に表現したのだと思います。授業では,それらの文学作品を読んで感じたことや考えたことを,あるときは日本語で,あるときは英語で表現してきました。そしてこれからも,英語・英文学をとおして何かを感じ,考え,それらのことを人に伝えてゆきたいと思います。
 私はもうすぐ助手としての任期を終え,この4月から非常勤講師として,英語教育の仕事に専念します。英語を学ぶ者であると同時に英語を教える者として私は今,このように思います。雨ニモマケズ,風ニモマケズ,実用的ナ英語ヲ重視シテ文学ヲ実用的デナイモノトシテ軽視スル風潮ニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ,英語ノ授業ヲトオシテ学生ガ自分ヲ見ツメ,物事ヲ深ク考エ,自分ガ言イタイコトヲ表現デキルヨウニスル。サウイウ英語教師ニワタシハナリタイ。
(平成18年3月)







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