日本大学英文学会  

日本大学英文学会通信84号(2005.10)


ご挨拶
― 英文学科創設80周年を迎えて

日本大学英文学会会長 原 公章

 

 今年も秋の深まりとともに,年次大会の季節が近づいてまいりました。すでにご承知のように,今年の大会は,日本大学英文学科の前身である日本大学英語科が,1925年に芸術学部に創設されて,満80周年を迎える記念の大会となります。会員の皆様には,ぜひこの機会に大会にお運びくださるよう,お願いいたします。
 私自身幸いなことに,英文学科創設50周年と70周年の記念の行事を経験いたしました。記念論文集について言えば,1975年の50周年の折には,故安田哲夫学科代表(当時は名称が「主任」から一時「代表」に変わりました)兼会長のもとに,472ページの堂々たる『英文学科創設五十周年記念論文集』が発行され,大和資雄先生,古谷専三先生,阪田勝三先生,羽柴正市先生,原田茂夫先生,内多毅先生など,かつての英文学科を支えたそうそうたる先生方が寄稿されました。巻末の「回想記」には大和先生に加え,山本文之助先生もなつかしい思い出を語られました。また70周年の1995年には,352ページの上製版『英文学科創設七十周年記念論文集』が発行され,当時の学科主任の関谷武史先生,元学科代表の藤井繁先生を始めとして,現在も英文学科の内外で活躍中の多くの方々が寄稿されております。「回想記」には阪田先生と澤田城子さんのお二人が力作を寄せられています。それぞれの記念論文集が,本英文学科の歴史を無言のうちに語っていますが,『五十周年』ではお元気であった何人かの先生がすでに鬼籍に入られていて,さすがに時の流れを感じざるをえません。なお,文理学部百周年を記念した学内誌『学叢』第47・48号合併号(1989)に,元英文学科主任の小竹一男先生が,英文学科のそれまでの歴史をくわしくお書きになっていますので,機会あればぜひご覧ください。また小竹先生には本年の大会で,「英文学科の思い出」を語っていただけることになっています。
 従来,英文学科主任は英文学会会長を兼務するのが大和先生の時代からの伝統でしたが,その仕事がともに激務であるため,関谷主任の時代から会長職が分離されて,新倉龍一先生が会長を勤められました。しかし残念ながら新倉先生は1994年12月にお亡くなりになり,主任の関谷先生に当時副会長であった私が協力して,70周年記念大会を立ち上げた経緯があります。あれからまたたくまに10年たち,今年2005年,新主任の松山幹秀先生のもとで創設80周年を迎えることになったこと,やはり感無量と言わざるをえません。英文学科も世代交代により,新たな段階に入ったと思われるからです。とりわけ5月に日本大学文理学部で開催された第77回日本英文学会全国大会が,英文学科全スタッフ,とりわけ若い方々の協力で大成功のうちに終了したことは,本英文学科80周年の記念に花を添えることとなりました。その上,本英文学科を60年にわたって支えてこられた元学科主任中島邦男先生が今年春の叙勲で瑞宝中綬章を授与され,その盛大なお祝いの会が7月2日に開かれました。これも80周年記念にふさわしい出来事でした。
 さて,この10年に限ってみても,国の内外はもちろん,大学とそれを取り巻く環境が激変したことは,皆様も感じていられることと思います。第一に,ここ10年ほどに始まった少子化の影響が大学に及び始めたことです。それと同時にバブル経済崩壊後の長引く不況により,大学も生き残りのために,社会と密接に結びついたいわゆる「産学協同体制」をとらざるを得なくなりました(紛争時代を思い出すとこれはまさに隔世の感があります)。ご承知のように国立大学も再編・改変を余儀なくされております。本英文学科も次々と新カリキュラムを打ち出して,変わりゆく社会への対応に追われてきました。この間,ケント大学,ハワイ大学との交流や海外語学研修の定着,さらにオープン・キャンパスによる学外宣伝や高校生向けの体験授業など,50周年の時にだれが予想したでしょうか?一般英語の授業も訳読中心から,聞きとり話すことのできる能力の開発にますます比重が置かれ,英語による情報伝達能力が最重要視されてきたことは,ご承知の通りです。過去10年以上,文理学部全学科の「英語1」の必修授業はネィティヴ・スピーカーが担当しておりますが,これはこのような動向の顕著な現れです。また,インターネットや携帯電話が社会常識となり,これらの通信形態が私たちの生活や発想を大きく変えてしまいました。これもまた大学変貌の大きな要因でしょう。「十年一昔」とはよく言ったものだと思います。
 ところで,このような激変の時代をくぐり抜けつつある本英文学科で,大和・古谷先生の時代から変わらないものもあると私は思います。それは「日本大学英文学科」という特有の雰囲気です。何より,本英文学会の機関誌が戦争中と大学紛争中を除いて,年一回,第53巻に至るまで連綿と発行されてきた事実があります。年次大会も同様です。さらに月例会の研究発表も紛争終了後の1970年から現在に至るまで,35年以上続いていますが,これは国内の大学の中でも特筆すべき活動ではないでしょうか。何より英文学科では大和先生の時代から,テキスト重視の実証的な研究方法と,学生諸君のために厳しい中にも懇切で行き届いた英語教育・大学教育が行われてきたことが,「特有の雰囲気」の最たるものだと思います。大学とは,学生がよりよい自分の将来を見出し,それに向かって前進するための機会と動機を与える場所でもありますが,それと同時に,若い時代にこの大学の「雰囲気」に触れることこそ,個々の人生にとって貴重な経験だと,私は思います。
 「土地の霊(genius loci)」と言えば,フォースターの小説などをすぐに連想しますが,実は大学にこそこの「土地の霊」がやどると考えた人に,イギリス19世紀の思想家,ジョン・ヘンリー・ニューマンとマシュー・アーノルドがおります。私はこのことを,南山大学名誉教授である荻野昌利先生が今年2月に出された『歴史を<読む>―ヴィクトリア朝の思想と文化―』(英宝社)という本から学びました。この本の第六講と第七講には,ニューマンとアーノルドがオックスフォード大学時代にいかにその精神を形成したかが語られています。二人はともに大学を批判しつつも,その「土地の霊」に触れた懐かしい思い出が,その人格の根底を形作ったと言います。私は本英文学科をオックスフォード大学と比較するなどというおこがましいことは全く考えてはいませんが,本英文学科80年の歴史から,やはり独特の「土地の霊」が漂ってくるのを感じざるをえません。これをさらに英文学科創設百周年に向かっていかに手渡していくかが,また私たちの課題だと思います。



英文学科主任挨拶
― 後期を迎えて ―

日本大学文理学部英文学科主任 松山 幹秀

 

 会員の皆様にはご健勝にてお過ごしのことと拝察いたします。
 英文学科も9月20日の「後期ガイダンス」を皮切りに21日の水曜日から後期の授業が始まりました。長い休みを挟んで心身ともにやや弛緩した状態が続いたのもわずかに一両日ほど,教員・スタッフともに新たな決意をもって後期を順調に滑りだしました。
 さて,英文学科のスタッフに新たな異動がありましたのでご報告いたします。4年間副手を務めてくださった山下恵美さんが8月末日をもって退職され,代わって10月1日から今春英文学科を卒業された木下佳美さんが副手として着任されました。山下さんには教員・スタッフを代表しまして感佩措く能わず,厚く拝謝いたします。なお,山下さんは年来の希望を達成なさるべく新たな道に邁進されることになっています。
 次に,前号の学会通信発行以降の学科関連行事について申し述べますと,7月23日(土),24日(日)の両日に本年度のオープンキャンパスが開催されました。企画の目玉の一つである模擬授業では,塚本聡先生が「Star Warsの言語学」と題し,また野呂有子先生が「Harry Potterと紋章学」と題して授業をなさいました。新図書館3階のメディアラボ3・4(座席数112のコンピュータ室)の機能を最大限に活用して行われた模擬授業には多数の高校生や保護者の出席があり,ときには立見で教室が溢れるほどでした。さらに3号館の317教室において英米文学の作家と作品の紹介,英語の発音矯正体験コーナー,学科・留学ならびに検定英語の相談コーナー,ネイティブ教員との談話コーナー,教員の著書の展示,イギリス語学研修のビデオ上映など盛り沢山の学科企画を実施しました。いずれも来場した高校生には好評でしたが,やはりと申すべきか,留学制度や英語の実学教育への関心・志向の高さが目立ったように感じました。
 恒例となった英国ケント大学での語学研修は,予定通り7月24日から8月23日までの日程で行われ,参加した28名の学生たちはそれぞれに大きな成果を挙げて無事に帰国いたしました。今回は文字通り「無事に」という感慨が一入で,ご存知のように7月7日にロンドンで地下鉄とバスを狙った同時爆破テロが起き,さらに追討ちをかけるように出発直前の7月21日にも7日のテロを模倣した同時爆破テロが発生するという,これまでに例のない状況の中での語学研修となったからでした。学生の安危が懸念される状況下で果たして語学研修が実施できるのかどうか,直前まで学部当局と協議を重ねる日々が続きました。研修の実施を決めた後は,今年度の引率を担当された吉良文孝先生とスティーブン・ハーディング先生が当地にあってその都度適切な判断をしてくださり,終わってみれば小事すら立ち至ることなく研修が終了したのは随喜の極みでした。
 巷間喧伝されているとおり2007年度には大学全入時代が到来します。英文学科としても「入口」(募集対策・入試制度ほか),「中枢部」(カリキュラム・授業・研修ほか),「出口」(就職・進学実績ほか)で叡智を結集した対応・対策が必須の状況となってきたことを実感します。オープンキャンパスやケント大学語学研修もそうした学科の将来を見据えた全体構想のなかで,より実効性のあるものにするにはどうすべきか,今後一層の議論の積み上げが喫緊の要となってくるものと思います。
 今夏は語学研修の引率で渡英されたお二人以外にも海外渡航した英文学科教員・スタッフが多く,その数八人に上りましたが,かく言う私も久しぶりに米国に10日ばかり出かけてきました。目的の一つは30年前に学んだカリフォルニア大学バークレー校と19年前にアメリカ言語学会夏季大会が開催された折,2ヶ月近く滞在したことのあるスタンフォード大学の言語学科を訪ねることにありました。ともに米国,いや世界を代表する研究大学(research university)で,言語学の分野でも斯界をリードしてきた大学ですが,Kay,Fillmore,Traugottという学科の顔とも言うべき学者が名誉教授として一線を退き,研究の布陣としても新たな段階を迎えているという印象をもちました。アメリカ行きのもう一つの目的は,―― 毎度のことながら ―― 車を飛ばして,できるだけ小さな町のモーテルに泊まり,観光客ではなく旅人の眼差しをもってアメリカ各地を見て回ることでした。アメリカというとニューヨーク,ロス・アンジェルス,シカゴといった大都市のイメージが強いかもしれませんが,アメリカ商務省国勢調査局が毎年発行するStatistical Abstract of the United Statesに拠るとアメリカ国民の半分は10万人未満の市や町に居住しています。地理的にもアメリカの大部分は大いなる田舎なのです。今回レンタカーを飛ばして走り回った距離は2000キロ弱でしたが,それでも西部の5つの州を見て回ることができました。ちなみに,二年に一度の割合でアメリカに行ってた3,40代の頃はその都度3000キロ以上の行程を走破していましたし,20代後半には東部・南部・中部・西部を30日かけて9000キロにも及ぶ距離を車で走ったこともあります。体力の衰えを感じつつも,やはりアメリカは車で見て回るに限るというのが実感です。
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 ところで,私もこの3月までは,我が愛猫と戯れながら,藤沢周平の作品を読むこと(特に江戸の市井物),歌姫中島みゆきの歌を聴くこと,そして時には空海の云う十住心とソシュールの記号論的関係論の繋がりなどを他愛もなく夢想することで安穏かつ悠揚たる日々を過ごしていました。ところが4月から慣れない職責に就いたことを契機に,生来思想浅薄にして高邁な思惟など不向きな人間ながらも,あれやこれや埒もない思考を廻らす機会が多くなってきました。
 まずは,英文学科のレーゾンデートルとも関わることですが,日本人が英米文学や英語学の研究を行うことの意義と目標についての凡庸なる思料。
 晩年の中野好夫先生は『英語青年』の「反古ぶくろ」と題した連載エッセーの一つで「何故の日本回帰か?」(1982年1月号)という文を属しておられます。少し長くなりますが引用させていただきます。「若いころに西欧文学,あるいはまた西欧文化の研究に入信した学徒諸君が,中年以後,さては老年近くになり,にわかに(少なくとも外見からすればだ)日本文学ないし日本文化の探求へと傾斜していく例は,決して珍しくない。……いや,何を隠そう,わたし自身が多分にその一人だからである。何故か。……わたし個人についていえば理由はまことに簡単,かりにも研究などと銘打つには,遠い西欧のことなどとうてい隔靴掻痒の感を免れぬ。もっと端的にいえば,むしろやりきれぬ思いさえするのである。」同じ思いに駆られたのは西欧文学者ばかりではなく,もともとは西洋哲学者であった梅原猛氏も「齢三十歳をすぎた頃から一つの悩みにとらわれ始めた。それは西洋のことを一生懸命に勉強していても,われわれが果たして西洋のことがよくわかるのかという悩みであった。」と書いておられます。つまり,中野先生同様,西洋研究は隔靴掻痒でもどかしく,本当に理解するというところには至りつかない,という切実な悩みを吐露されていて,結局は大きな思想的転向を経験され,金字塔ともいうべき梅原日本学を打ち立てられて現在に至っています。
 そして夏目漱石。漱石を『広辞苑』で引いてみるとまず「英文学者・小説家」となっています。無論漱石が一高教授兼東京帝国大学文学講師を務めた英文学者であったことは周知の事実であって,かつて,akinという語の例文としてどの英和辞典にも載っていたLove is akin to pity.は「英文学者」漱石がThomas Southerneという17世紀英国作家の劇作の中に見つけた一文を『三四郎』のなかで引用したことに由来します。しかし漱石は優れた「漢詩人」でもあり,森.外ほどではなかったにせよ漢籍の素養もずば抜けていた人でした。漱石が英国留学後に上梓した有名な『文學論』(1907)の序にも,「余は少時好んで漢籍を学びたり。」とあります。これに続けて漱石は以下のように記しています。「之(=漢籍)を学ぶ事短きにも関らず,文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし,斯の如きものならば生涯を挙げて之を学ぶも,あながち悔ゆることなかるべしと。……学ぶに餘暇なしとは云わず。学んで徹せざるを恨みとするのみ。卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたる如き不安の念あり。」――『文學論』が出版されたのは漱石四十歳のときですが,最後の一文など,中野好夫,梅原猛両氏と多少とも共通する感懐を抱いていたように思われるのはとても興味深いところです。
 ちなみに,以下は私が大学2年のときに漱石の漢詩文の中から勝手に編集した「私家版の漱石漢詩文」の一部です。

   天資陋劣にして疏懶を加えて風となす 
   齷齪として紅塵の裡に没して 
   風流韻事は蕩然として一掃さる
   才子群中拙を守り 小人囲裡独り頑を持す
   大愚至り難く 志成り難し
   真蹤寂寞杳として尋ね難く
   虚懐を抱かんと欲して古今を歩む

 もとより漱石が天資陋劣のはずもなく,漱石にとって「紅塵の裡」とは英文学の研究と教授,「風流韻事」とは.文は秦漢,詩は盛唐.と云われる左国史漢に親しむことであり,風流韻事の世界(=白雲の郷)の中にこそ魂の落ち着き場所を求めていたことは,晩年の漱石が大愚良寛に傾倒したことでも窺い知れます。
 西欧文学や西欧哲学を究めたといってよい碩学たち――と言うよりも日本の知性そのものと言ってよい人たち――が鬱然とした諦念に立ち至っているのは甚だ興味深いことです。そもそも英米文学および英語学の研究とは何なんでしょうか。前者は英語圏における文学的創造の営為と,その結晶である作品の分析と批評を,後者は言語の構造・機能に関わる仕組みを英語という個別言語の分析を通して理論的・実証的に解明することを根本としていると考えられます。そのように定義した上で,日本人が英米文学や英語学の研究を行うことにどのような意味があり,またどんな貢献ができるかについてですが,もとより私のような凡夫に思案などありようはずもなく,ただ漠然と想起するに,一つには日本文学(や日本語学)の学識と識見をもって「かの学問」に相対化を促す位相を提示すること,また一つには金鉱脈につながりうるテーマを鋭い嗅覚でかぎつけて深く掘り下げ,斯界の学問的貢献に繋がるオリジナルな成果を英語で発表していくことなどが挙げられるでしょうか。あるいはまた,本通信第73号(2000年7月)で原公章先生が「さようなら,文学?」でお書きになっているような,文学的信念に根ざした「喜びと教育」の二つながらの実現でしょうか。つまり,優れた英米文学を熟読賞翫することで感受性を磨き,想像力や共感の力を拡大し,絶えず自己の人間的完成を目指す「精神の涵養」を主眼とした教養教育にこそ,その存在意義を見出そうという立場です。自己を賭した,文学研究者からの「凄烈な弁明」とも言えるものですが,首都大や立教大,学習院大など日本の有力大学から次々と英文学科の看板が消えていくやに見える現状にあって,この問題が決して看過できない重大さを孕んでいることだけは間違いないものと確言できます。
 序でながらここで一つだけ付言させてもらいますと,『史記』から題材を得た小説を数多く書いている作家宮城谷昌光氏は『史記』の全文を長い時間をかけて筆写したそうです。眼で読んでいるだけでは通り過ぎてしまうものも筆写をすれば,一行がもつ濃淡や息吹きのようなものが手をとおして感受できます。一行ずつの深い交信という点で確かに筆写に勝るものはないように思えます。漢字(墨書)のほうがアルファベット(印字)よりも文字に封じ込められた霊力が強いとはいえ,筆写による作品への接近法は英米文学研究を行っている人にも何がしか裨益するところがあるのではないかという気がします。

 ここで中野好夫,梅原猛,夏目漱石といった巨星とわが身を引き較べるのは僭越の謗りすらも越えた仕儀ではありますが,私も最近,中国や日本の古典のほうに大きく回帰していく自分を強く感じることがあります。この夏,駒田信二の名訳『水滸伝』(120回本)が「ちくま文庫」として復刊され,たまたま書店でその第一巻を手にしたことをきっかけに,『三国志』(陳達の正史と羅貫中の演義),『史記』,『三教指帰』,『十住心論』にまで読むものの範囲が拡がり,中国戦国時代の名将楽毅の名文に接したり,空海が書き残したものに,無論理解など遠く及ばないながらも少しだけ親しむという得がたい読書体験をすることができました。買い求めた本はその数,三桁を越え,うち数冊はアメリカにも携行いたしました。(アリゾナのInterstate 40号線を時速120キロで走りながら中島みゆきを聞き,ホテルやモーテルの机やベッドの上で『楽毅論』(夏侯玄),『空海の風景』そして藤沢周平作品を読むのもまたなかなか乙なものでした。)
 閑話休題。過日高橋利明先生から吉本隆明に中島みゆき論(『際限のない詩魂』所収)があることを教えいただきました。曰く「その姿,音声の質,歌詞,メロディの渾然とした世界に触れたときの魅力は,比類がない」「わたしたちは彼女の産みだす歌コトバを耳で聴き,意味でたどり,メロディによって慰安を感ずることができるのだ」等々,かなりの部分で賛同するのですが,やはり受容のあり方は個人の領域に属する問題だというのが偽らざる感想です。藤沢周平の作品もこのところ澎湃たる人気を誇りますが,何よりも人生の哀歓や人情の機微といった情感の世界にその魅力があります。風景,季節感・時刻感の克明な描写,そしてある種の烈しい懐かしさ,作者の詩魂が素晴らしさ。特に私の琴線に触れるのは藤沢の描く名も無き主人公たちの「凛とした健気さ」です。藤沢周平の読者は人生の敗北者・挫折者が,司馬遼太郎の読者は成功者やエリートが多く,両者は截然と分かれるといった穿ち過ぎの主張もあるようですが,人間には「本懐」と「哀歓」の両面を相即不離の関係でもっているといったほうが当たっているように思えます。
  かの.明解さん.(山田忠雄)の定義によると【読書】とは「想(ソウ)を思いきり浮世(フセイ)の外に馳せ精神を未知の世界に遊ばせたり人生観を確固不動のものたらしめたりするために,時間の束縛を受けること無く本を読むこと」(『新明解国語辞典第4版』)だそうですが,そのように定義できる読書がこの夏できたのは有り難いことでした。

 そして,最近思いを廻らすことの多くなったもう一つの主題は「人物とは何か」,そして(あまりに茫漠としすぎていますが)「人間という存在は何か」。
 これまでで一番耽読した本は,ともし尋ねられるならば私の場合,『水滸伝』(=水のほとりの物語)と答えることになります。それも中学時代のことで当時は二更,三更は当たり前,それこそ寝食を忘れて読み耽った覚えがあります。『水滸伝』は言うまでもなく中国四大奇書(他に『三国志演義』『西遊記』『金瓶梅』)の一つ,史実一割未満,虚構九割の,天険の要地「梁山泊」に集う108人の「江湖の好漢」(豪傑)の活劇物語です。女性で『水滸伝』や『三国志』に惑溺するほど嵌まり込む人が殆んどいないところを見ると(井波律子氏や岡崎由美早大教授などは例外と言えましょう),これは男子に特有な,英雄とか人物に対する烈しい憧れによるものだったのかも知れません。
 漢籍を拠り所に人間の類型を判じようとするのは奈良朝以前からの日本の伝統ですが,私自身もその伝統に則ってじっくりこの夏『水滸伝』『三国志』を読み返し,さらには『史記』も少しばかり読みかじってみました。その結果気づいたのは,指導者としてトップにあった(はずの)宋江(『水滸伝』),高祖劉邦(『史記漢本紀』),劉備玄徳(『三国志』)が実はかなり凡庸な人間であったということです。ただこの三人に共通しているのは,礼,忠,義,信,恕といった徳に広く篤い「仁」を備えた人物であり,これは項羽や「乱世の奸雄」曹操にはやや欠落していた資質と言えます。ここに「トップの人物たる要件」に関する中国人の基本的な考えが表れているようで感興をそそるものがあります。
 ちなみに『三国志』後半のクライマックスは諸葛亮(孔明)と司馬懿(仲達)との駆け引きにありますが,正史にもでてくる,涙なくして読めないと言われる『(前)出師表』の次の一節は現代においても上に立つ者が心すべき要諦を示しているように思います。
  
   宜しく妄りに自ら菲薄なりとし,喩えを引き義を失いて,以って忠諌の路を塞ぐべからざるなり

 ところで,涙なくして読めないという点では『史記列伝』第二十の主人公である楽毅が燕の恵王にあてた返書も,名にし負う涙を誘う名文です。自分にかけられた嫌疑に対し能う限りの信義をもって応えた楽毅という武将は,「まず隗よりはじめよ」の郭隗の,まさにその推挽で燕の昭王に重用された中国戦国時代(前280年頃活躍)の名将で,のちに漢の高祖(劉邦)によって一躍脚光を浴び,諸葛孔明や書聖王羲之が敬慕してやまなかった人物です。王羲之が348年に書した「楽毅論」を披読すると「人が見事に生きるということはどういうことか」を深奥で考えさせられる人物といってよいと思います。兎にも角にも『史記』や『三国志』は「人物として慕われる要素は何か」「生まれもった人間性を現実の人間社会の中でどう活かすか」を考える際の,大いなるヒントが詰まった古典であるのは確かだと思います。
 『史記』を著した司馬遷,その太史公司馬遷に遼(はるか)に及ばない,というところから筆名をつけた司馬遼太郎も「人物とは何か」を追究つづけた作家ですが,その司馬遼太郎が最も思い入れを込めた作品は『空海の風景』だったとのことです。(令夫人談)
 今では梅原猛氏の専売特許ながら,最初に空海を「空と海のような人」(そして最澄を「最も澄んだ人」)と云ったのは梅棹忠夫氏だったと記憶しますが,「空海」と「最澄」という固有名は名前という記号がその人となりを顕現している稀有な例と言えるかも知れません。ちなみに空海という名前は遣唐使の資格である留(る)学僧になるにあたって受戒後に空海自らが改名したもので,それまでは教海,如空と称していました。まさに「空の如し,海の如し」です。空海は,もちろん日本の仏教史上の巨人であり,「弘法筆を択ばず」で知られる書の達人,語学(唐語・梵語)の大天才にして,唐長安の文人たちをも驚嘆せしめた稀代の文章家,さらには医学・薬学・土木工学・教育の点でも比類なき業績を残した人です。何よりも1000人以上の中国人の弟子を飛び越えて唐の恵果(密教第七祖)から後継者(第八祖)に伝法灌頂され,密教を日本に伝え,四国遍路など日本人の精神文化に多大な影響を与えた人物です。(陳舜臣氏の小説『曼陀羅の人』は入唐直後から密教を得て日本の土を踏むまでの空海を描いています。)
 空海の天才性については湯川秀樹博士も『天才の世界』の中で「空海は万芸の天才である点で,レオナルド・ダ・ビンチを凌ぐ人物である」「日本の歴史上の人物の中で最大の天才は空海であり,私がもっとも好きな人物の一人である」という趣旨の発言をしておられます。司馬遼太郎が自分の作品の中で最も思い入れが強く,最も好きな作品だと云う『空海の風景』(芸術院恩賜賞受賞)は,1973年に『中央公論』で連載が開始されたときには「『空海』の風景」と,空海が括弧つきでした。この不世出の巨人が到達した境涯(内面)には司馬遼太郎と言えども立ち入ることが出来ず,空海の風景(外面)を素描して起伏を浮かび上がらせることしかしかできない,それを行う中で空海という実体に遇会できることを願うばかり,という意味が込められているのです。
 「最澄は今の世の中にも二,三人はいるであろうが,空海は日本の歴史において二度と現れることのない存在である」と司馬は述べていますが,密教を一人で体系化し終わり,入滅の後には神格化されて弘法大師(お大師様)となった空海と,志半ばにして示寂したものの,その法統を慕って法然・栄西・親鸞・道元・日蓮・一遍といった日本仏教史上の綺羅星たちが入山修行した比叡山延暦寺を創建した最澄。同じ年(804年)に遣唐使として唐に渡った二人ですが,最澄は今で言えば国費派遣の東大総長,かたや空海は私費留学の大学院生ほどの差がありました。そしてこの二人の間には,七歳という年齢差以上に,成仏をめぐっての根本的な仏教観の違いもあります。最澄を正円,空海を二つの焦点もつ,大きな楕円に喩えたのは梅原猛氏ですが,最澄は「願文」や弟子への書状を始めとして,己の喜びや悲しみ・苦しみを赤裸々に漏らした人で,桓武天皇亡き後の後半生は不遇を託ちます。片や,嵯峨天皇の寵幸を受けた後半生の空海はまさに「空のごとし海のごとし」でその実体が杳としてつかめないほどにスケールの大きな業績を残します。
 ともあれ,空海の「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く 死に死に死に死んで死の終りに冥し」は,孔子の「いまだ生を知らず,いはんや死をや」を包摂し,道元の「自らにあらず他にあらず,さきよりあるにあらず,いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり」で唱える「否定の無」のレベルを超え,入定に際し残した「虚空尽き,衆生尽き,涅槃尽きなば,我が願いも尽きん」といった畢竟の言葉ともども平板な統語論や意味論では到底太刀打ちできない凄さがあります。「人間という存在は何か」というテーマを生涯をかけて追い求めた末に辿り着いた言葉の力の成せる所為でしょうか。
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 この夏の読書をとおして現代の物質文明が置き忘れつつある豊穣な精神世界があることに改めて気づかされ,なんだか自分の人間の器量が少しだけ大きくなったような錯覚におちいることができました。余談ついでに個人的な好みを申せば,項羽よりも劉邦,曹操より劉備,諸葛孔明より周瑜,司馬遼太郎より藤沢周平,そして空海よりも最澄が私の生理的感覚には合うということ,さらには,「凛とした健気さ,ひたむきさ」「仁」(=礼にもとづく自己抑制と他者への慈しみ)―これが私という人間にとっては一番高く評価できる人間の美徳だということを再確認したのでした。
 スイスの天才言語学者ソシュールは「文化現象の一切は表象によって二次的に生み出される非自然的な価値,共同幻想の世界で,その表象さえももともとは存在しなかった関係の網の目にすぎない。在るものは,単位を存在せしめる関係だけであり,関係を樹立する人間の視点だけである。」(手稿)と考えた人でした。このソシュールの記号論的関係論は,ヘレニズムの正嫡である西洋近代思想において前提とされている「実体のア・プリオリとロゴスの現前に基づく観念論・実在論」への激烈な批判ですが,興味深いことに,インドの「空」の思想(これは後に数学の零【ゼロ】の発見につながるもので,これを説いた竜樹は一説には真言密教の第三祖竜猛とされ,ちなみにその第八祖が空海),つまり具体性をいっさい止揚して天地の現象を「空」として捉えるインドの知性と通底するものがあります。私自身も「言分け構造(=ランガージュ)を獲得するのと引き換えに身分け構造(=本能図式)が破綻し,その結果人間は栄光と悲惨とを二つながらに背負い込んだ文化・文明を創り上げてきた」とするソシュール=丸山圭三郎流の「文化記号学的人間観」に与する一人で,だからこそ人間における教育の重要性を改めて感じます。曲がり形にも教育に携わる人間として,この夏のもろもろの読書体験を何らかの形で授業の場でも活かせていければと考えている次第です。
 最後に。これから一,二年のうちに英文学科の再編に大きく関わる局面を迎えることになるかもしれません。『水滸伝』に倣って言えば,英文学科という「知と教育の梁山泊」に呉用,公孫勝,武松のような新たな人材を迎え,活気ある学問・教育の場が創生されていくことを願って止みません。



桜と桐と
― 第77回日本英文学会大会を新たな
前進の第一歩として

開催校準備委員代表 野呂 有子

 

 本年5月21日(土),22日(日)に日本大学文理学部において第77回日本英文学会大会が開催されました。開会式の挨拶の中で,丹治愛日本英文学会事務局長は,開催校委員及び英文学科の教職員すべての名前を一人一人読み挙げて開催校に対する敬意を表して下さいました。以下,丹治先生の呼称順に言いますと,野呂を筆頭に,原先生,當麻先生,松山先生,保坂先生,高橋利明先生,吉良先生,塚本先生,飯田先生,閑田先生,助手の堀切さん,前島さん,副手の山下さん,三和さん,青木さん,前田さんです。
 実はこれは異例のことで,全77回の大会中でも初めてのことだったのではないでしょうか。少なくとも,野呂の出席した幾つかの大会では前例を記憶しておりませんし,他の先生方からも同様のご意見を伺っております。それは,とりもなおさず,本学部英文学科が一丸となって,大会準備・運営に取り組んだその成果が評価された結果だと考えております。大会参加者のアンケートを拝見しますと,一番多かったのが「学生さんたちがきびきびと対応してくれるのが非常に好感が持てた」という意見と,「学生と先生方が一体となって大会運営に取り組んでいるのが良く分った」という二つの意見でした。
 日本大学文理学部の英文学科を中心とする学生が全国からおいでになった様々な大学の先生方に高く評価されたということだけで,教師冥利に尽きるというものです。事後の教授会での報告でも,この点を特に強調しましたが,そこにいらした全17学科の先生方全員が喜んで下さいました。
 開催校を引き受けるにあたって,私が事務局にお願いしたことが三つあります。それは,①英文学科の日本人の先生方全員を開催校準備委員とすること(通常は5名の委員を選出するよう要請されます),②お手伝いの学生達全員に保険をかけること,そして,③湯茶の接待は行わず,すべて市販のペットボトルでまかなうことでした。その理由は,①これだけの大規模な大会(二日間で述べ6千人強を動員)の準備・運営に当たっては,学科全員がまとまらなければ到底,成功は無理であると判断したこと,②学生に安心して働いてもらうためには,何か事が起こった際にも保障がしっかりしていること,さらに,③湯茶の準備,運搬,分配等の際,学生が思わぬ怪我などしないように,また異物混入などの事態を避けるためでした。幸い,上記のような評価を得て,学生に1人の怪我人も出ずに大会を終了することができ安堵しております。
 原先生,當麻先生,松山先生のアドバイスを受けて,準備のための会議を何度も開催しました。その中で,事務局から渡された大会準備・運営の手引きがあるのですが,これに従って一項一項を全員で徹底的に確認し,役割分担して事にあたりました。学生に関することは高橋先生,会計・書籍販売等は吉良先生,機器備品等は塚本先生,というように役割分担し,責任の所在を明確にしました。そして重複する部分については責任者同士で相談して解決し,野呂はすべてを掌握するという形を取りました。具体的な個々の局面では,助手・副手の働きが極めて大きかったことも特筆しておかなくてはなりません。
 お手伝い学生の皆さんにも何度も会議に出席していただき,大会全体の形と流れを俯瞰していただく一方で,個々の役割分担についてもつめていただきました。その際にいつも,学生の皆さんにお願いしておいたことは,大会では学生さんたちが日本大学文理学部の顔として,代表として,全国規模のお客様たちのおもてなしをしてください,ということでした。そのためには1人1人が,真のエリート(エリートとはもともと選ばれた人という意味です)としての自覚をもって自律的に判断・行動していただきたい,と繰り返しお願いしましたが,学生の皆さんはこれを良く理解してくださり,期待以上の貢献をしてくださいました。この場を借りて,英文学科を代表して,心よりお礼を申し上げます。本当に有難うございました。
 異例づくめの第77回大会でしたが,それは決して悪い意味ではなく,学生主体の学会運営という新しい学会の有り方を模索し,志向し,ある一定程度まで目的を遂行できたという意味で成功裡に終わったといえましょう。本学部で日本英文学会が開催されたのは,これが二度目になります。一度目は第40回大会で,今は亡き,大和資雄先生が中心になって開催されました。(当時をご存知の先生は原先生と當麻先生のお2人です。)大和先生と言えば,日本を代表する錚々たる研究者のお一人です。福原鱗太郎先生,市河三喜先生,斎藤勇先生と共に,日本における英文学研究の創成期にあって日本英文学会を設立されました。第40回から37年後,全国の大学を一巡りして,英文学会は文理学部に戻ってきたという感じもします。開会式の挨拶の冒頭,私は大和先生が日本英文学会の生みの親のお1人であることに触れ,「大和先生もこの二度目の開催を喜ばれ,会場のどこかで私たちを見守って下さっているような気がします」と申し上げました。
 そのせいか,二日とも天候に恵まれ,百周年記念館の書籍展示・販売場で,書籍組合のご好意によって配付された飲料を片手に,涼風の中,外の芝生で旧友との歓談を楽しむ参加者の姿も多く見られました。それは見ていても,本当に心和む風景でした。展示場で,お1人倒れた参加者の方がありましたが,幸い,学生の見ている前であったこと,書籍組合代表者加藤社長,吉良先生,そして主任の松山先生の速やかな対応とケアのお陰で深刻な事態を避けることができました。(後日,問い合わせたところ,元気で勤務されているとのことでした。)学生たちも,それぞれの持場から,英文学関連学会としては日本で最大規模の学会に参加し,様々な貴重な体験から多くを学ぶことができたことでしょう。それはお金で買うことのできない,目には見えない財産になっているはずです。そうした場と機会を与えられたことを先生方に,そして配剤とも言うべきものに感謝していただきたいと思います。
 閉会式での原先生のスピーチも大変心に残る,感銘深いものだったと伺っております。閉会式の後,日本英文学会会長の高橋和久先生,事務局長,そして事務補佐の扶瀬先生が英文学科にお礼の挨拶に見えました。また,後日,会長と事務局長より丁寧なお礼状もいただきました。こうしたこともすべて異例のことと,聞いております。これも,学生の皆さん,そして副手や助手の皆さん,先生方が心を一つにして,事にあたったその成果が目に見える形を取ったのだと確信しております。本当にご苦労さまでした。そして有難うございました。
 大和資雄先生は東京高等師範学校を卒業されました。その後,ご縁があって日本大学文理学部で教鞭を取ることになりました。師範学校在学中は,学校長であった嘉納治五郎氏(柔道の創始者としても有名)に心酔していたと聞いています。そして師範学校の危急存亡の折に,「桐の葉は木に朽ちんより秋きなば先駆け散らん,名のみなる廃墟を捨てて覚めて立つ,男(おのこ)ぞ我ら」という宣揚歌を作成しました。
 桐は高等師範のシンボル・マークでもありました。ところで文理学部のシンボル・マークは桜です。大和先生はこの桜上水の地を,ご自分の第二の母校と心に定め,英文学研究,日本英文学会の設立と維持・運営,そして学生の教育に心血を注いでこられました。皆さんはどうか,この大和先生の精神と志を受け継いで,英文学(・英語学・英語教育)研究の灯火を引き継ぎ,絶やさず,次代へと引き渡して行かれますように。期待しています。



定年退職に寄せて

日本大学文理学部講師 関谷 武史

 

 平成16年12月最後の教授会で私は次のような定年退職の挨拶をいたしました。教壇歴としては高知大学が16年,日大文理学部が15年で,1年日大での教員歴の方が少ないのですが,大学院生の5年間をこのキャンパスで勉強したこと,それにこれからも非常勤として教壇に立つ機会が与えられることを鑑みますと,日大文理学部が第1の故郷であります。こうして,健康で70才の誕生日を迎える事が出来ましたのは,良き同僚,助手・副手の皆さん,それに良き学生に恵まれた事が第1の原因であったと考えております。特に,大学院の院生達は私の授業に熱心に付き合ってくれました。その中には,日本大学や他大学の専任になった人達が数名おり,非常勤を含めますとその数は10名を下らないと思います。在職中,3度に亘って海外出張を許可していただき,その都度貴重な経験をさせていただきました。その際には,いやそれ以外でも,事務職員の皆様には大変親切に対応していただき,感謝の気持ちでいっぱいです。以上がその場での挨拶の大体の内容でした。私の日大文理学部に対する想いはこれにつきるのですが,紙面を借りて少し補足をさせていただきたく考えます。
 私はよく何故Shakespeareを勉強することになったのですかと言う質問を受けます。そんな時いつも納得のいく返答が出来なくて歯痒い思いをして参りました。振り返って見ますと,私のShakespeareへの関心は徐々に形成されていったものである事がはっきりとしておりますので,その辺を少し説明させていただきます。Shakespeareの作品をまともに読んだのは大学院修士課程1年の時,大和資雄先生にHamletを教えていただいたのが最初でした。大和先生には翌年Richard IIを教えていただきました。授業は研究社の版の市河三喜註をテキストとして用い,一字一句を丁寧に読み進めていくものでした。この授業を通して,Shakespeare作品には,テーマが沢山含まれているように思われ,Macbethで修士論文を書く事にいたしました。修士課程を終え都内の私立の女子高校の専任教諭となりました。その3年目に博士課程に入学しました。この年は担任をしながら大学院で勉強すると言った忙しい,つらい1年でした。次の年から高校の方は非常勤に移行して大学院の授業に専念する事にいたしました。博士課程では,大和資雄先生から A. C. Brad-ley の Shakespearean Tragedy, William Epmson の Seven Types of Ambiguity, E.M.W.TillyardのShakespeare,s His-tory Playsを,R.H.Blyth先生からはMeasure for Mea-sureを教えていただきました。やがてこれらの授業を基にして学会発表をするようになり,日本大学英文学会の研究発表会でSeven Types of Ambiguityを援用したMacbeth論を発表したり,秋田大学で開かれたシェイクスピア学会でMeasure for Measure論を発表したりしました。前者のMacbeth論は,古谷専三先生が誉めて下さり日本大学英文学会会報に掲載されました。これが私の印刷になった最初の論文でした。その後1つ1つ作品を読み進めていくにつれて,Shakespeareの作品がいろいろな問題を突きつけてくるようになりました。その問題を巡ってあれこれ考えることがShake-speare作品に魅かれる理由でもありました。作品が内包している謎に精神分析学を中心とする新しい学問の光を照射して解決を迫って参りました。しかし私が解決したと考えている視点も絶対的なものではなく,1つの考え方であること,いや,所詮は1つの誤読でしかないと考えてもおります。しかし,私のような者にも誤読を許す作品の懐の深さにShakespeareの真髄があると考えております。
 Shakespeare作品の謎と申しましたが,勉強すればするほど謎は深まるばかりであります。例えば,今年学部の4年生対象のクラスでHamletを読んでおりますが,以下のようないろいろな謎が浮んで参ります。Gertrudeは夫の生前中から現夫Claudiusと通じていたのか。前夫殺害に加担していたのか。例の nunnery scene で Hamlet が Ophelia にあんなに辛く当たるのは何故なのか。Hamlet の狂気は佯狂として片付けられるものなのか。最後の場で Gertrude は毒の盛られた杯を飲み干して死んでいきますが,毒の盛られた事を知らなかったがための事故死だったのか。それとも,自分の罪業を悔いてその償いとして自らの生命を絶ったのか。劇中劇に16行程付け足すとHamletは第1の役者に約束しておりますが,どの部分がHamletの付け足し部分だったのか。そもそも劇中劇全体が「The Murder of Gonzago」とは異なるHamletの創作劇だったのか。劇中劇の上演中,Hamletは毒殺者のLucia-nusを弟ではなく王の甥であると説明しているのだが,このことは作品中にいったいどのような意味を生んでいるのか。亡霊が作品の最後を見届けているとしたら,亡霊はどのような感想を持つのだろうか。Opheliaは処女の女性にのみ許される花環がその棺に置かれて埋葬されるのだが,本当に彼女は処女だったのか。作品には主人公Hamletの他に父親の復讐を行う3人の人物,Fortinbras, Laertes, Pyrrhusが登場します。もっとも,PyrrhusはHamletの求めに応じて第1の役者が物語る台詞の中で言及される人物で,正確には作品の登場人物ではありません。しかしそれは別にして,これら3人の父の復讐がHamletの父の復讐とそれぞれどのような照応関係にあるのか。これらの謎に従来の研究者達の考え,それに私自身の考えを示して,学生には学生自身の考えを促して授業を進めております。こんな訳で,沢山の主題がありそうだと考えて始めた私のShakespeare研究は次々と現れる謎に絡まれて解決の糸口も簡単に見つかりそうもないのが現状です。それでも,いや,だからこそShakespeare作品に魅了されていると言うのが現在の私の偽らざる心情です。
 さて,この15年の間に,私の研究室から多くの優秀なShakespearean達が巣立ってそれぞれの場で活躍しております。その事は日大英文学会発行の私の退職記念号に掲載されたShakespeareに関する論文の数と質から推して断言することが出来ると思います。勿論,都合によって記念号に寄稿出来なかった人も幾人かおります。この人達を含めて全員が将来立派なShakespeareanになる可能性を持った人達である事は言う迄もありません。日大英文のShakespeare研究が全国的に高く評価される日が到来する事を期待しつつ拙文を終らせていただきます。



英文学科創設80周年に

日本大学経済学部教授 寺崎 隆行

 

 平成17年度は,英文学科創設80周年にあたる年だそうである。人に譬えると傘寿にあたる。口で80年というのは簡単だが,人の一生がそうであるように,この80年は決して平坦な道のりではなかったはずである。ただ学科をそのように人の一生に譬えられないのは,随時世代が交代し,その時代に即応した,あるいは時代を先取りする形で,教育・研究にその歴史を休むことなく刻んでいる点である。
 今から30年前学科が創設50周年を迎えたとき,私は英文学科の助手をしていた。そしてその年は助手任期の最後の年でもあった。日本大学を根底から揺るがした学園紛争も,多くの痛みを伴いながらようやく落ち着きを見せ始めた頃であった。文理学部全体がそうであったように英文学科も内外から変革を余儀なくされていた。学科が創設50周年を迎えたのは,そのような状況時であった。50年という節目を契機に,新たな英文学科への脱皮を計るねらいがあったかどうかはわからないが,その年は記念行事がさまざまに企画され,実施された。その記念行事のひとつに「英文学会会報」(現在の「英文学論叢」)を「五十周年記念論文集」として発刊するという企画がなされ,私はその編集の一員に加えられた。記録に残る資料とて不十分な中で,「五十年略史」を作成するという,半世紀にわたる学科の歴史を振り返る機会を与えられた。
 1924年(大正13年)学則改正により,法文学部に文学科六専攻が設置され,その中に文学芸術専攻が置かれたが,これをもって英文学科創設とみなされている。この文学芸術専攻が,文学科外国文学芸術専攻と名称が変更されるのが2年後の1926年である。翌27年にこれが英文学専攻と芸術学専攻に分かれることとなる。ちなみに「英文学会会報」第一号が創刊されるのが1933年で,以後四号まで刊行されて,第2次大戦のために休刊されることになる。戦争の拡大に伴い,高等師範部英語科の募集が停止され,専門部文科も募集停止となる。戦後高等師範部英語科が復活 (1947)し,翌年通信教育部に文学部英文学が設置されることとなる。1949年新学制による大学(第一部・二部)設置により,法文学部文学科は独立して文学部となり,英文学専攻は英文学科となった。休刊を余儀なくされていた「英文学会会報」第五号が復刊するのが1950年で,以後名称は変更されることになるが,毎年止むことなく刊行されている。51年には大学院修士課程(英文学専攻)が設置され,58年に現在の文理学部が創設され,61年には大学院博士課程が設置されることになる。
 英文学科にとって20世紀の二つの大きな試練は,世界大戦という外側からの人為的不条理と,日本大学の内側から生じた紛争であった。そしてそれらの試練を学科が乗り越え,今日を築けたのは,教職員や先輩や同胞たちの学問,研究,教育への情熱と,学生・院生たちの真摯な向学心にあったことはいうまでもない。英文学科にとっての21世紀の大きな課題は少子化社会とどう向き合うかにある。多様化する社会のニーズに,学科はカリキュラムの大幅な改定,セメスター制の導入,生涯学習への配慮,オープン・キャンパス,公募による教員採用,入試制度の見直し等,柔軟に対応している。また英文学会も研究会員と同窓会員に分け,研究体制とフラタニティー制度の強化と相互性を計っている。
 会員名簿を見れば明らかであるように,80年の学科歴史は,また数多くの社会の中枢で活躍する人材を育成してきた。私は英文学科研究室を出て30年になる。ただ,研究室を離れても,同じ日本大学内にいて,英文学科の発展を目の当たりにしてきたので,それほど学科への望郷の念に駆られることはなかった。先日大阪へ出張する機会を利用して,何十年か振りに学生時代の友人と一献交わした。お互い還暦を目前にして,時空をこえて学生時代に立ち返れた。学科をこれほど有難いと思えることは久しくなかった。もう他界されたり,現役を引退された恩師たち,先輩,同胞たちが,何ら変わらずに,私たちの中に座を占めているからである。
 80周年は100周年への,また未来永劫への学科のほんの一通過点に過ぎないかもしれない。しかし教職員であれ,OBであれ,現役生であれ,そこと関わったことのある者,また今現に関わっている者にとって,自らの位置を確認する重要な数字であるように思えてならない。



Jane Austen Societyのことなど

日本大学経済学部教授 安部 享子

 

 Jane Austen の人気には不変の感がある。その作品が映画化によって注目され,映像化された作品が読者の持続的な獲得に貢献しているのは間違いないであろう。本国イギリスでは,また,新しいPride and Preju-dice が封切になったそうで,Jane Austen の人気はまだまだ続きそうである。この作家に強く関心をもつ人たちで構成されるJane Austen Society の本部はイギリスにあり,その大会は毎年7月半ば過ぎに開催されている。この時期日本の大学は,夏休み前の多忙なスケジュールに追われて過ごすころで,その大会へ出席されたという関係者の話は,これまで耳に入ってくることがなかった。2000年海外出張の機会に出席できたので,いささか古い話で恐縮ですが,何かの参考になればと印象に残ったことをお伝えしてみます。それというのも,この9月カナダの Halifax での北米大会に参加して,英国からの主要な会員との旧交をあたためたが,どちらの大会のスタイルも変らずに持続されているのが確かめられたからでもある。

 その大会はLondon から約1時間ばかりのAltonという小さな駅で降り,駅からタクシーで20分ばかりいったところにある Chawton House で例年のように開催されていた。大会の会場でまず目に入ってきたのは,設営されたサーカスかと見まがうばかりの大テントである。屋敷の前面右に広がるやや傾斜のついた緑のフィールドに,真っ白に大テントが夏の陽に輝く様子には,なにか手作りの素朴で伸びやかな,人々を寛がせるイギリスの田園の雰囲気があった。大会は作家の子孫である Jane Austen Society の president である Richard Night 氏の宣言で始まり,会計報告等の議事にそって進められたが,日本のこのような学会とは違う雰囲気があった。それは,もと Oxford 大学教授で The Critical Heritage などで知られるchairmanのBrian Southam氏をはじめ,作家に関する著作で知られる学者たちの出席もあったが,加えて作家の子孫の方々やイギリス国内の12ほどある各支部の一般の方々も出席し,和やかな親しい空気が漂っていたからである。フィールドには各支部のコーナーも設置され,News Letter や活動を伝える写真などの展示があり,昼時ともなるとあちこちでピクニック・ランチを楽しむ人の輪があった。そんな中に日本人男性を一人見かけたが,その方は結婚後にお相手が Jane Austen の子孫の一人であると知ったそうである。日本でもし Jane Austen Society をスタートさせることがあれば,ご助力いただけると約束して下さったのであるが,今もってなかなかその運びにはとても至らない。
  大会の初日に続く2日目と3日目は,作家や作品に結びつく場所を子孫の方々と共に訪れた。このツアーは,作家を生んだ英国ならではの魅力ある企画といえた。
 この時の参加で Jane Austen Society は北アメリカやオーストラリアの支部と緊密に連携しており,北米支部は極めて積極的な貢献をしているのがわかった。特に北米の JASNA(Jane Austen Society of North Ameri-ca)の活動は,本国イギリスを上回っているといえた。今も会員はイギリス本国の約2千人を上回る三千人ほどで,全米のほとんどの州に支部がある。寄付を募ったり,ブローチやカレンダーなど Austen goods で得た収益を作家にゆかりのある品々の購入にあてたり,作家の母と姉の眠る教会の修復を支援したりと,年ごとの目標を立ててこれまで着々と遂行してきたその実行力には目を見張るものがあった。

 同年の秋,Boston で JASNA の年次大会があったが,それはビジネス的センスと華やかさに満ちたイギリスの総会とはまったく異なる大会であった。VIP が宿泊する格式のある The Boston Park Plaza Hotel and Towers の幾つかのフロアーが3日間貸切りになり,参加者のほとんどがそのホテルに滞在していた。大会参加は申し込み順で人数制限しており,かなり前からチケットを手配しておかなければならない。3日間は各部屋でさまざまなタイトルで学術的な発表が行われ,各自興味に応じて聴講していた。最後の夜の banguet ではRegency 時代の衣装に身を包んで現れる参加者もいた。 JASNA はその後,余興に Regency Ball を組入れ, English country dance も楽しまれているようである。
 イギリスの AGM(Annual General Meeting)とアメリカのAGM のスタイルの違いに驚いたのであったが,刊行物も News Letter の他にイギリスは Report の形であるが,JASNA は Persuasion のタイトルで学術的なジャーナルを出しており,掲載は competitive とのことであった。
 作家の兄で裕福な親戚の養子となった Edward が相続したのであったが,イギリスの大会会場となる Chawton House は,現在はアメリカ人 Sandy Lerner という 女性の所有になっていて,Jane Austen Society は長期にわたる使用を許されている。一度はゴルフコースにという計画もあったということであるが,20年ほど前 Sandy Lerner 女史がネットで売り出されているのを見つけ,即断即決し,イギリスへ物件を見に来ることもせず,購入したそうである。この大富豪の女性はこの Chawton House を Early Women Writers (1600~1830)の研究の一拠点となる Chawton House Library とする壮大な計画をたて実行に移したのだった。作家がしばしば訪問した家屋敷は,18世紀の haha を含む English landscape も復元され,現在この Library は完成をみており,M.A. の取得が可能になるよう Southampton 大学と提携しているとのことである。文学史に残らなかった初期の女流作家の9000冊ほどの書籍の山には,歴史に残った Fanny Burney, Maria Edgeworth そしてJane Austen などに繋がる,まだ見出されていない無数の鉱脈が埋もれているのではないだろうか。小説の勃興,初期の女性たちの書物には,まだ光があたっていないといえよう。若い方々の挑戦を切に祈る次第である。



「哲学者 Emily Dickinson」との出会い

落合 久江

 

 「詩人Emily Dickinson(1830-1886)」に出会った時,先ず驚いたのは,当時の精神風土として誰もが慣行としたキリスト教教会礼拝出席を「拒否」し,生涯,信仰告白をしなかったことです。彼女は16,7歳の女学校時代から「教会」を絶対視できないで,30歳過ぎ頃からは,眼の治療を除いて,殆ど外出せず,教会にも足を向けなかったのです。当時の生活で血肉にまで浸みついていたであろう「信仰」以上に何が彼女にとって大切だったのでしょうか。
 研究当初,この本質的疑問を解く鍵が彼女特有の「大文字の遣い方」に秘められているのではないだろうかと考えました。
 初めのうちはテーマを決めれば,感想文のようなものはいくつも書くことができました。そしてこれらの積み重ねが最終的に私の疑問に答えてくれるであろうと暖気に考えてもいました。
 しかし,詩作品をいくつ解釈しても,結局は当初の疑問から一歩も出られませんでした。「大文字の意味」がわからずに解釈するのですから,それも又,不明のままでした。
 Dickinsonの文字群が広大で樹木繁茂するジャングルのようでした。「全く先が見えない!」と彼女から離れようとしたことも何度かありました。
 Dickinsonの「思索の結晶」である詩作品は「容易な語句をもって簡潔,美しい」ので一見では難解であることを忘れさせることもあります。又,書簡は「思索の液晶」と言えるもので,時に非常に難解です。「難解」故に彼女から離れようとすればする程「大文字の不思議」が私を呪縛したのです。そして,千載一遇で出会ったDickinsonとの対話をここで止めてよいのか?と自責の念にも駆られました。
 全集(Johnson版)に収められている詩が1775編,書簡は1046通。夥しいこれらの文字の中に忍ばされている彼女の「思想」を見つけるのは古代人が地面に描いたと言われるペルーのナスカ大地の「地上絵」を捉えるようなものです。その地上絵はあまりにも巨大で暫くは何が描かれているか判明しなかったのですが,飛行機が発明されてから,それらを天空から眺めることで「大きな図柄の全景」が明かになったのです。これはある意味で「言葉(文字)の世界」にも当てはめることができます。
 Dickinsonの「言葉の世界」が「大地」であるならばその「思想」は「地上絵」です。彼女の「地上絵」は余りにも多くの文字の中に埋もれているので各詩作品の中では,その全体像を観ることができないのです。無数の文字の中に隠されている「思想とその論理」に気づくには,アリのように絶え間ない労働と鳥のように天空から獲物を捕らえる眼が必要です。実際にはアリが鳥の眼を持つことはできませんが,人間の精神は自在に変化し,瞬時にアリの眼にも鳥の眼にもなることができます。
 Dickinsonの思想の根源を求めて彼女の書簡を改めて読み直し始めたのは大学院修了後でした。書簡の中で彼女特有の「大文字」を使用した語と気になる語句を取り上げConcordanceを作るような作業を続けました。この時,語句の一つを取り上げ「考える」のですが,「隼」に「カタツムリ」が「話を伺うようなもの」で,とんでもなく長い時間が必要でした。「考えている」間は,鍋をいくつも焦がし,風呂釜の空だき,歩行中,車にぶつかりそうになったり,種々,失敗や危ない目に会いました。唯,唯,人畜無害を願い乍ら「カタツムリの一念」で1ミリ,2ミリと進み,漸く,自分の目標に辿り着いた感じです。
 Dickinsonの「地上絵(思想)」全体が目前に表出するまでにおよそ18年,「まとめ」として,研究書の「前書き」と「一般読物」を兼ねた『森の夜明け』,『詳釈エミリ・ディキンスン』,2005年7月に『英訳:森の夜明け(AWAKENING FOREST)』の上梓まで12年が必要でした。私は自分の当初の「素朴な疑問」に一つの解答を得たと確信しています。しかし,彼女の「地上絵」は文字に忍ばされた巨大な“jigsaw puzzle”であり,一片一読では捉え難く,読み手の掌で「雪の結晶」のように消え続けるでしょう。
 Dickinsonは,“My life has been too simple and stern to embarrass any.”(Johnson版 Letters, no.330)と述べていますが,「詩人」を装った非凡で稀有な「哲学者」は“too profound to understand”と言われ続けるのかも知れません。



ストラットフォードでの生活

日本大学経済学部講師 小山 誠子

 

 2004年7月からのBirminghamでの10週間の英語コースを終え,9月から約半年Shakespeareの街Strat-ford-upon-Avonで生活しました。The Shakespeare InstituteはBirmingham大学の附属期間でその名の通りShakespeareanの集まりです。学生の国籍は,(少々意外だったのですが)6割がアメリカ人,1.5割がイギリス人,1.5割がその他のヨーロッパ人(ドイツやスイスなど),そして残りの1割がアジア人(日本人,台湾人と韓国人)でした。The Shakespeare InstituteはStratford街中にあり,Mason Croft という年季の入ったこじんまりした3階建ての建物(教授陣の研究室を含めても部屋数にして15から20程度だと思います)に図書館,そしてイングリッシュ・ガーデン(+サッカーグランド)という風情で,本校Bir-mingham大学のように一般にイメージするキャンパスとは全く異なったものでした。大学院の授業は火,水そして木曜の午前中で,木曜の午後は外部からShakespeareanを招いてのセミナー(約一時間の講演とティーブレイク)そして木曜の夜はShakespeareの同時代の劇作品をワイン片手に輪読する.Play Read-ing.というのが一週間の全体のスケジュールでした。私の場合留学期間が半年でどのコースにも属さないものでしたので,学期の始めに教授陣一人一人と個別に面接してもらい自分でコースデザインし,MA Shake-speare studiesのクラスを2つ取り,あとは論文執筆のために約2週間に一回supervisorからの個人指導を受けることにしました。やはり最初は言葉の問題があり,Shakespeare,s playsのクラスで熱心に展開される議論について行くのは大変でしたが,クラスメートにShakespeare好き同士の共通の話題から積極的に話しかけるようにすることで彼らの英語に慣れ,加えて,つたないながらもプレゼンテーションを必死でこなしたことで何とか存在価値を認められたのか!?徐々に議論にCut into!できるようになりました。週末にはlecture hallを借り切っての様々なパーティが毎週のように行われ,とりわけHalloweenには.Shakespeare,s characters.というお題が出され,苺柄のハンカチを持った貴族や耳から毒薬を流した男!?(どのキャラクターかおわかりですね?)など皆趣向を凝らした仮装で楽しませてくれました。学期に一度学生による演劇もあり,今年の演目はMacbethでした。(アメリカ英語のMacbethには少々違和感がありましたが。)学校外でもInstituteの学生ということでRoyal Shakespeare Theaterの控室に入れてもらったり,割引のチケットを分けてもらえたりとかなり優遇され,日常的に劇場に通うことができました。また,Avon川沿いのThe BooksaleでGower MemorialのShakespeareの銅像を眺めながらクリスマスは本を売るアルバイトをしたおかげでStratfordの街の人々,特に自分と同世代のイギリス人女性とも触れ合うことができました。クリスマスにはShakespeareの眠るThe Holy Trinity Churchのサービスに参加する幸運にも恵まれました。Stratfordに暮らし,Shakespeareを愛する多くの人に出会うことのできたこの半年はまさに夢のような日々で,こうやって振り返ると現実ではなかったような気さえしてきます。このような機会を与えてくださった日本大学及び先生方,Birmingham大学(特に留学生担当のHil-aryさんとInstituteのスタッフ)とStratfordの皆さん,全ての方に心より感謝致します。



副手着任のご挨拶

日本大学文理学部副手 木下 佳美

 

 このたび10月1日から,英文学科研究室の副手として勤務することになりました。ほんの8ヶ月前までは,自分も本校の学生でしたが,今や,その学生のサポート,そして先生方のお手伝いをさせて頂く環境に身を投じております。そして,新たに社会人として,勉強の毎日です。
 再度大学へ戻り,改めて,ここにはたくさんの人生が詰まっているなぁと感じてなりません。勉学から始まり,サークル活動,アルバイト,旅行など,学生の描く大学生活は十人十色だと思います。そして,自分の経験を踏まえ,大学,すなわち「学校」というものに凄みを感じることは,経験することは1人1人違うのに,4年間を振り返る時,自他ともに共通して,「大学生活は……」という主語で語られることです。皆,四六時中大学にいる訳ではありませんが,そこを軸に生活が回っているのだろうと思います。そして,この実在するベースがあるからこそ,とりまく世界を広げていけるのだと思います。このように考えると,大学という場所はとても貴重な場所であると思います。私は,まさにそこでの仕事に従事しているわけですが,目の前の仕事をただこなすのではなく,先生方や学生達との繋がりを意識し,仕事に臨みたいと思います。些細なことかもしれませんが,相手を思う気持ちが,自分の態度へと繋がり,自分の態度は職場環境を作り出し,間接的にその雰囲気は授業をされる先生方,そして授業を受ける学生達へとも繋がっていくと思うからです。まだまだ未熟者ですが,自分自身も日々学びながら,気持ちの良い英文学科研究室を作り上げていけるよう頑張りたいと思います。







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