日本大学英文学会  

日本大学英文学会通信82号(2004.10)


ご挨拶
─本年度の大会に向けて─

日本大学英文学会会長 原公章

 

 会員の皆さまには,お元気でお過ごしのことと思います。本年も無事に年次大会を開催する時期を迎えております。今年はいろいろな学会や大学行事と重なり,例年より2週間ほど遅い,12月4日の大会開催となることを,まずご了承ください。寒い時期となりますが,本年は関谷武史先生の最終講義も予定されておりますので,ぜひ万障お繰り合わせの上ご参加下さいますよう,お願いいたします。
 さて,学科創設80周年を来年迎える本学会が順調に発展してきたことは,前回のご挨拶で述べた通りですが,本年も内外での会員の活躍が例年に劣らず目立つ年となっております。月例会の研究発表やシンポジウムも毎回充実した内容で,うれしく思います。また,本年も文理学部で英語表現学会,サイコアナリティカル英文学会の全国大会が開催され,ホーソーン協会,ギャスケル協会,G・エリオット協会などの活動も本学部で行われております。さらに来年5月の日本英文学会開催に向けての準備も,順調に進められています。これからが準備の本番となりますので,ご協力をどうぞよろしくお願いいたします。
 振り返りますと,今年の日本の夏は大変な猛暑でした。昨年のヨーロッパの猛暑と考えあわせますと,なにやら地球温暖化の危機がますます危ぶまれます。聞くところによれば,将来,日本の夏は亜熱帯並みとなるとか。緑が失われ空気が汚染されていく日常の中で,地球規模での環境保全を考えざるをえない昨今です。ところが私は,昨年の夏はケント大学英語研修の引率で史上最も暑いイギリスの夏を初体験しましたが,この夏は大学からの海外派遣研究員としてイギリスにおりましたので,日本の猛暑は実感できませんでした。都内で40度を越える暑さを記録した,などという日本からの便りを聞くにつけ,涼しいロンドンにいることを申し訳なく思いました。今年のイギリスの夏は平年並み,暑い日はありましたが,突然の豪雨などで一気に気温が低くなる典型的な夏でした。一般的には朝晩涼しく,日中も木陰ではひんやりする,過ごしやすい夏でした。おかげで日本にいては到底読めない本もかなり読むことができました。また,ウォリック大学でのG・エリオット国際会議に出席したり,ケント大学の語学研修に参加した学生諸君による最後のプレゼンテーションに立ち会うなど,当初の予定も十分こなすことができました。
 さて,ロンドンでの楽しみの一つに,書店巡りがあります。ウォーターストーン,ブラックウェルなどのチェーン店,フォイルズやハチャードと言った老舗書店。バーゲン・ブックを売り物にした値下げ本の店も数多くあります。また町を歩けば,至る所古書店に突き当たり,コンピューター時代の現代にあって,イギリス人の本好きは変わらないことを実感します。とりわけ私の住んだロンドンのブルームズベリー地区には多くの古本屋が散在していて,それらは図書館で疲れたあとの格好の憩いの場となりました。収穫もありました。たとえば,ブリティッシュ・ミュージアムの真ん前にある19世紀英文学専門の古書店ジャーンディスでは,G・H・ルイスの『哲学の伝記的歴史』を85ポンドで手に入れることができました。ところが今回,私にとっての最大の幸運はロンドンではなく,イギリス中部のクロムフォードという田舎町の古書店で生じました。この町はイギリス産業革命発祥の地,アークライトの紡績工場の跡地で有名です。またロレンスが中編小説「処女とジプシー」で描いた町でもあります。国際会議の後,この町に立ち寄り,たまたまこの町にあった古書店で巡り会えたのが,アンドレ・モロワの『プルーストを求めて』の英訳本 The Quest for Proust です。プルーストの評伝として名高いこの本は,かねてからぜひ読みたいと思っていた本で,長らく絶版のこの英訳本をロンドン大学図書館で見つけた時は,350ページすべてをコピーして帰ろうと思っていたところでした。プルーストはジョージ・エリオットの『フロス川の水車小屋』などから深い影響を受けたフランスの小説家,また,ディケンズやラスキンからも大きな影響を受けています。その代表作『失われた時を求めて』は膨大な長編小説で,私はまだそのすべてを読み通してはおりません。モロワの評伝はプルーストの絶好の入門書という評判でしたから,まずこれを読んでプルーストについて学ぼうと思っていたところでした。ですからこんな田舎町の古本屋の本棚の一番下の段に,この本を見つけたときの驚きと喜びは,いわゆる「筆舌に尽しがたい」ものでした。それもたったの6ポンド! 
 ロンドンに戻ってから早速読み始めました。プルーストの生涯をたどりつつ,代表作の主題と手法をわかりやすく解説していくこの本を,胸踊らせながら読み進めましたが,51歳のプルーストが,死の床にあってさえこの本の改訂に手を入れ続けようとした,鬼気迫る最後の場面にはとりわけ心打たれました。実は数年前,「卒業者名簿」の前書きで,私はワーズワスとプルーストを例にして,「豊かな過去は現在を支える」と書いたことがありました。だがこのとき本当はまだプルーストのことは,なまかじりのまま,自分の直感で書いただけでした。けれどモロワのこの本により,これはまさにその通りであったことを知りました。モロワは言います,「現在の中には豊かな過去が埋もれている。」日常絶え間なく流れ続ける時間の中,全てが移り変わり何一つ確実なものが存在しないこの世界で,唯一永遠の存在だと思われるのが,過去の豊かな経験です。「失われた時を求めて」とは,彼に取ってのそのような時間の回復にほかなりません。これは「回想の詩人」ワーズワスにとっても同様ですが,プルーストの場合はワーズワスのような「時の点」ではなく,連続する「記憶」こそ「永遠」への入り口です。プルーストにとって「時は破壊者だが,記憶は保存者(再生者)である」というのが,モロワの解説です。普段,人間関係で悩んだり,仕事に翻弄され続けたりする私たちにとって,根底において生きる支えとなるのが,自分の中の記憶に生き続ける過去のあの「永遠の時間」であることを,プルーストは伝えようとしたのだと思います。確かな過去の再生が,絶え間なく変わり続ける現在の自分を支える,というのが,プルーストの生涯のテーマであったことを,モロワから学びました。
 思えば,イギリスは大きな長い過去の集積の上に成り立つ国,どこを見ても豊かな過去が埋もれています。時代は日進月歩,次々と生じる新たな事態に右往左往しつつも,その豊かな過去が現在なおイギリスを支えていることを,至るところで実感させられました。



英文学科主任挨拶


日本大学文理学部英文学科主任 當麻一太郎

 

9月21日より半期制の後期が始まりました。年度始めの授業開始と同様,活気溢れんばかりの様相を呈しております。会員の皆様もご健勝でご活躍のことと拝察いたします。
 年度始めに学科の様子をお知らせしましたが,その後の出来事をご報告いたします。この夏休みの前後にオープンキャンパスおよび体験授業が行われました。7月24日(土)と25日(日)の両日の「オープンキャンパス2004」では,吉良文孝先生が「ことばの不思議」と題して,閑田朋子先生が「ことばのちから」と題して模擬授業をされました。大勢の高校生で大盛況でした。英文学科研究室(7号館3階)においては,前年にケント大学で行われた語学研修の授業の様子と英米文学に関するビデオが放映され,同時に学科ツアーが催されました。また,昨年の「オープンキャンパス」の企画を大幅に見直し,今年は317教室を使用して,「学科なんでも相談コーナー,留学案内」「展示:ロミオとジュリエット今昔,アメリカ文学テーマ別お薦めの一冊」「体験:あなたは英語を正しく発音できますか?」「各種検定英語(TOEIC,TOEFL,英検)相談コーナー」「紅茶を飲みながら先生と英語で話そう!」などの展示や実演を実施いたしました。音声分析機を利用し,学生の発音とネイティブスピーカーの発音などの違いを見せるといった企画に加え,英文学科スタッフ,それぞれの八面六臂の大活躍で,317教室は常に高校生でいっぱいでした。9月25日(土)にはWilliam D. Patterson先生が「さまざまな英語・世界の英語」と題して午前と午後にわたって体験授業を行いました。大勢の付属の高校生が聴講したと聞いています。
 今年度も7月25日より8月24日までケント大学において語学研修が行われました。今年度の引率担当者はStephen J. Harding先生と私でした。23名(ドイツ文学科2名,社会学科2名,心理学科1名,体育学科1名,物理学科1名,英文学科16名)の学生(男子学生9名,女子学生14名)が参加しました。研修期間中,海外派遣研究員としてロンドンに滞在していた原公章先生が研修生の発表を聞きに来てくださいました。また,ケンブリッジ大学のペンブルック・カレッジで「英語教諭対象のレフレッシャー・コース」研修中の壬生雅彦先生(大垣日大高等学校)や鈴木宏典先生(日大高等学校・中学校)など5人の先生方も訪ねてくださいました。研修生の中には高校時代にお世話になったいう学生たちもいて,先生も学生たちもともに予期していなかった再会に驚いていました。Junior Year Abroad Programme(JYA)の文理学部派遣留学生としてすでにケント大学で学んでいた矢崎さんと平田さんたちにもほぼ毎日会えました。2000年の夏にケント大学において島方洸一文理学部長とRobin Sibson副学長との間でJYA Programmeの覚え書きが交わされて以来,2002年度には菅澤さん(英文学科)と前田さん(心理学科),2003年度には依田君(英文学科),そして2004年度には矢崎さん(英文学科)と平田さん(英文学科)という具合に,3回目のJYA Programmeが終わろうとしています。今年も例年どおり9月30日には1・2年生対象にPamela Crossケント大学国際部長によるJYA Programmeの説明会が開催されました。また,10月3日には,Sibsonケント大学前副学長の後任として2003年に就任されたDavid Melville副学長の表敬訪問があり,島方洸一文理学部長と歓談されました。
今年度の「海外語学研修」では,ケント大学側の教師たちが「イギリス史上の出来事と英語」を授業に組み込みました。学生たちはそれぞれカンタベリー大聖堂へ行き,そこでの出来事を彼らなりに調べ,教室で発表を義務づけられました。この大聖堂でThomas Becket大司教がHenry IIの4人の刺客によって殺害されたことは,この大聖堂を訪れたことがなくても,T.S. EliotのMurder in the Cathedral『大聖堂の殺人』(小津次郎訳,筑摩世界文学大系71)を読んだことのある人なら知っているでしょう。学生たちは,Becketが殺害された大聖堂の祭壇や壁画の写真などを示しながら史実を発表しました。こうした学生たちの発表により,私自身も「ベケットの血」(Becketの血に水で薄めた秘薬の血,奇跡の血のこと。司教たちはBecketの血をアムブラと呼ばれる瓶に入れて巡礼者たちに与えたという)やヴィクトリア&アルバートに展示されている「聖ベケット遺物箱」(Becketの遺骸の一部を納めるために1180年につくられたという)を知ることになりました。
 カンタベリーにはSt. Dunstan’s Churchという旅行者には知られていない小さな教会がありますが,この協会については日本大学英文学会通信74号で関谷武史先生が「Kent大学から市へ向う途中にSt. Dunstan’s Churchがあり,この教会内にThomas Moreの首が葬られております。HenryⅧ王の権威に逆ったとして,Moreは1535年7月6日に処刑され,その首はLondon Bridgeに晒されました。CanterburyのRoper家に嫁いでいた娘のMargaretは父親Moreの首を手に入れ,ここSt. Dunstan’s Church内のRoper家の墓に葬りました。」と記しています。
今年のロンドン見学中,Charles I王が自分のお抱え宮廷画家であったPeter Paul Rubens(1577-1640)に,James I王の治世を神格化して描かせた見事な天井画のあるThe Banqueting House(1698年の火事を免れたWhitehall Palace のひとつ)へ行きました。ここへは昨年の夏,すでにHarding先生とこの天井画を見に行ったのですが,今年は,学生に与えられた「イギリス史上の出来事と英語」という課題との関連もあり再訪することになりました。私自身アメリカの作家Nathaniel Hawthorneの記述の影響もあり,大変興味深い再訪になりました。イギリス王始まって以来,断頭の憂き目に会ったCharles I王が,この建物のどの大窓を通って処刑台に進み出たのかも確認でき,Hawthorneが1837年に子ども向けのPeter Parley’s Universal History『ピーター・パーレイ万国史』で「1649年1月30日,彼らは王を宮殿から処刑台に連れ出した。処刑台は黒い布で覆われ,処刑台の真ん中には断頭台があり,処刑執行人が手に斧を持ち,黒い覆面を被っていた。クロムウェルの,鎧を着けた兵士たちが処刑台を囲んでいた」と記していることもThe English Notebooks『イングリッシュ・ノートブック』では「私たちは,クロムウェル政権の間には地中に埋められていたが,王政回復後に姿を現したチャールズ王騎乗の銅像が立つホワイトホール通りの,(王殺しの高等法院判事たちが処刑された)起点を後にした。アドミラリティとホースガードの建物,そして,後者の建物前に馬に乗った二人の近衛兵を見た。その通りの反対側にはイニゴ・ジョーンズによって建築されたバンケッティング・ハウスが建っている。その建物の大窓からチャールズ王は進み出ると,数分後にその首は,処刑台の上に死の音をたてて落ちた。処刑は厳かに執行され,王は厳かに受け入れた」としるしたことも照らし合わせることができました。Charles I王にまつわる出来事に対する想いは,英国滞在中ずっとNathaniel Hawthorneの脳裏を捉えて離さなかったようである。なぜなら彼は,未完に終わったものの,王党派と議会派の内戦と処刑を背景としてEtherege『エセレッジ』を書いたからである。彼が マンチェスターの美術展で見た「処刑されるときに着ていたと思われるまさにチャールズ王の,刺繍のほどこされたシャツ」と「チャールズ王が処刑台の上で使った神聖な血のしみのある祈祷書」を見ることはできなかった。しかし,それらを見なくても,「王の死を,これまで想像していたどんなものをも遙かに超えた事実のひとつだとして,しみじみと考えていた」Hawthorneの気持ちを綴ったFrancis Bennochの印象記で十分でした。
 今年もバス旅行があり,2年前と同様に 「ヘイスティングズの戦い」で有名なバットルという歴史的な町を訪問しました。この地が,フランスからイギリスに侵攻してきたノルマン人のWilliamⅠ王とHaroldⅡ王が戦った激戦地であったことは,2年前に記しましたが,今回は「ヘイスティングズの戦い」を再現するというイベントがあったために訪問しました。戦いとHarold王の目を一本の矢が射抜いた様子(Nathaniel Hawthorneは『万国史』のなかでは「戦場の真ん中で,一本の矢が鉄の兜を射抜いて彼の頭にあたった」と記していた)のまま再現されるのを見学できました。
 最後になりましたが,本英文学科のArthur Robert Lee先生が2003年度のアメリカン・ブック・アウォードを受賞されました。ミシシッピ大学出版局から2003年に出版された単著,Multicultural American Literature: Comparative Black, Native, Latino/a and Asian American Fictions が受賞の対象です。
 アメリカン・ブック・アウォード(American Book Awards)は,1978年にBefore Columbus Foundation(カリフォルニア州オークランドに1976年に設立された非営利の組織で,現代アメリカの多文化的文学の顕彰と普及に務めている)によって設立された賞で,「アメリカ合衆国において史上初めて,人種,性別,思想信条,民族的出自,出版の規模あるいは予算,更には著書の分野に関してさえいかなる制限も偏見もなく,アメリカ文学の優秀性に敬意を表し,また栄誉を与えるべく,この賞を設立することに決した」とその設立趣意書にあります。そして, “multicultural”(多文化主義)と “diversity” (多様性)とを唯一の選考基準として,毎年優れた小説家,詩人,研究者等が受賞しております。選考委員には,著名なアフリカ系アメリカ人の詩人,Ishmael Reed氏をはじめとして,多くの優秀な作家,大学教授が名を連ねています。歴代の受賞者の中には,Sandra M. Gilbert (2001年,カリフォルニア大学デイビス校教授,フェミニズム文学研究書『屋根裏の狂女』で日本でも有名),Frank Chin(2000年,中国系アメリカ人作家),Robert Creeley(2000年,ビートジェネレーションの詩人),Lawrence Fer-linghetti (1999年,ビートジェネレーションの詩人),Don DeLillo (1998年,現代小説の旗手),Ronald Takaki (1994年,日系アメリカ人作家),John Edgar Wideman (1991年,アフリカ系アメリカ人小説家),Miles Davis (1991年,ジャズトランペッター),Henry L. Gates (1989年,文学批評家),Toni Morrison (1988年,アフリカ系アメリカ人小説家,ノーベル文学賞受賞(1993年))等々の錚々たる名前が連なっております。
 Lee先生の研究では,副題にもある通り,従来アメリカ文学において,傍系とみなされていた,アフリカ系,ネイティヴ・アメリカン,ラテン系,アジア系作家たちの作品と自叙伝を題材として,従来のカルチュラルスタディ的視点から,同時に新たに政治やポップカルチャーの視点からも論じています。このような観点から,いわゆる人種的少数派作家を扱った点で,Lee先生の仕事は現在のところ唯一無二の研究であります。
 このように優れた教員を有することを私たちは大いなる誇りとし,ご報告申し上げます。



振り返ってみると
─最初の10年間─

元日本大学経済学部教授 高橋直

 

 私は今年の3月末をもって日本大学経済学部を退職した。定年までは,2年2カ月残っていた。1990年5月中旬に病にかかり英文学会の方々にも大変ご迷惑をお掛けした。この場を借りてお詫び申し上げたい。
1970年4月文理学部から経済学部への移籍は,私にはかなり突然だった。壬生郁夫先生と私が副手・助手を8,9年したとき,大学院の授業料等を免除するから助手をしながら博士課程を出るように,と言われた。日大紛争が静かになろうとしていた時,翌年度の時間表を見ると,壬生助手と私は「英米文学演習」の時間を持つことになっていた。 3月になって当時の主任教授が私たち二人を呼んで,すまないが,と繰り返しながら,経済学部に行ってくれないか,と言った。他の学科でも同じようなことが起こっていた。3月末文理学部内で専任講師にしてもらい,4月から壬生先生と一緒に経済学部に移籍した。それから文理学部の非常勤講師としてさらに約20年間お世話になった。

 今,日本大学でお世話になったこの44年間を振り返ってみると,1960年から英文学科の副手・助手として過ごした10年間が最も楽しかった時期の一つであった。
 私はJoseph Conradの.Heart of Darkness.の卒業論文を出した後,力不足を痛感していたので,大学院修士課程に進もうかと迷っていた。その時中島邦男先生から,次いで古谷専三先生から副手になっては,と声を掛けられた。同級生清水隆君(現・札幌大学大学院教授)と一緒に副手になった。文理学部の3号館3階の大きな研究室の片隅に清水君と私,壬生副手,嶋崎武彦助手,渡邉敏郎助手,岡崎祥明先生,新倉龍一先生,中島邦男先生,古谷先生が座っていた。この部屋で様々な勉強が行なわれた。
 まず最初,私たち副手は学生用のセミナーを持たされた。学生たちに和文英訳の訓練をさせるため,自分自身が模範文を作るのが大変だったが,それなりに楽しんだと思う。さらに,部屋の全員に,古谷先生からの「宿題」があった。先生は新聞・雑誌や小説の一端を選んできて,次の週には渡邉先生が全員の英訳文をタイプし,印刷して渡す。全員の英訳文を見るときにはある種の緊張感があったし,これが訓練だったと思う。短期間,市川繁次郎先生も仲間に入って来た。市川先生の巧妙な英訳文を見ると,他の人たちの文章より際立っていた。古谷先生は幾つかの英訳文に少々の評を加えた。英訳文の練習がどれくらい続いたか憶えていない。
 ほぼ同時に,私たち副手を含む部屋の全員が,学生向けに英小説を読むセミナーを持たされた。それだけではなく,中島・新倉両先生から副手まで全員が順番に読んで訳を繰り返した。古谷先生が出席して,時々強烈な意見を言う時もあった。私たち副手は,何か意見があったら必ず言うように,と特に言われていた。少し何かがあると,中島先生と渡邉先生がいつも発言していた。当時小説類や文学論類を読んだが,難しかったのは,語法上現在とやや異なっていたS.T.Coleridgeの“Biographia Literaria”であった。これは日大紛争まで続いた。
 ちなみに,古谷先生が文理学部を去った後,たぶん『文藝春秋』の巻頭のグラビアの中で,旧帝大を卒業した各界の重鎮たちが,古谷先生を囲んで「古谷メソッド」の教えに感謝しているのを見たことがある。その読み方はその重鎮たちにはそれ相応の影響を与えていたのではないか,ひょっとすると考え方そのものに影響しているのではないかと思った。先生は敗戦後米駐留軍に日本文学類を英訳するのが仕事だったと聞いた。私はある意味では「古谷メソッド」で,「ものを見る」訓練をされていたのではないかと思った。先生は,精密な読み方を,例えば,短歌や詩から小説や社会そのものへと,何時も広げようとしていたと思う。
 古谷先生が研究室に入ってくると殆ど毎回,新聞・雑誌類の記事や短歌や和歌,英詩や英短文などを持って来て,向かい合わせに座っている中島先生に大きな声で,この件について君はどう思うか,と聞き,次いで岡崎先生に,そして渡邉先生に私たちに聞こえるように質問する。そして,だめだなあ,と言って先生の考えを披瀝したり,疑問のままにしておいたりする。私にとってはこれが研究室での楽しい「授業」であった。文理学部の正規授業の「文芸作品鑑賞」を古谷先生が持つと,少々忙しくなったためか質問はやや少なくなったようだ。
 そんな時期に古谷先生は,私たちに日本文学作品を読ませた。たぶん最初は中島先生のお宅で太宰治の『斜陽』であった。私は小さなメモ用紙に意見を書き込み,出席した。私が大学2年生の時,三鷹駅近くに住んで,太宰の作品『晩年』や『津軽』などを読んで没頭しかけていた。太宰が身投げした場所を今は津軽石で明示している玉川上水に沿って散策したりもした。太宰の作品を読もうというのが嬉しかった。その太宰の作品後,福沢諭吉の『文明論の概略』,森鴎外の『安部一族』や長塚節の『土』など,様々な小説類を読まされた。あの日大紛争で一時中止したが,私たちは経済学部に行っても,壬生先生が先頭になって「読書会」と呼んで年に4,5回読み続けている。かつての英文研究室メンバーたちが中心になって,読み方はやや穏やかになったが,相変わらず楽しんでいる。
 最後に,古谷先生は文理学部を退職後数年して,『.67英文学論集』の発行を提案した。渡邉先生と関谷武史先生が連絡員となり,主に日大と帝京大学との関係者13人のメンバーで,より一層自由に論文を発表し,年1回会合を開くことにした。1967年に第1号を出し,国内全ての英文科あてに発送して読んでもらうことにした。メンバーは20人近くまで増え,18号まで続いた。この『論集』を利用して着々と業績を上げて行ったメンバーたちもいた。私は2年に1本を発表することを原則にしていたので,発表機関を2つ持つことは,かなりの重しになったような気がした。古谷先生の激励には応えることは出来なかった。『’67英文論集』は先生が亡くなって数年するまで続いた。

 振り返ってみると,数えきれないほどの思い出が蘇ってくる。このように英文研究室の副手・助手として多くの人たちに多くのことを教えられた最も楽しかったあの時期が浮かび上がってくる。大和先生や中島先生にも様々な教えを受けた。また,あの10年間に多くの友人たちが研究室に入って来,出て行き,今はそれぞれ成果を上げていると思う。日本大学英文学会会員の方々はより広い視野に立って,大胆かつ繊細で独創的な業績を上げられるよう祈っている。



マンスフィールドの『蝿』と島木健作の『赤蛙』

日本大学商学部教授 佐々木哲朗

 

この7月の通信教育部の夏期スクーリングでご一緒した吉良文孝助教授が「学部時代にKatherine Mans-fieldの “Garden Party” を先生に習いましたのですが」と言われ,「もう20年近く前になるね?実は『蝿』 “The Fly” と島木健作の『赤蛙』を比較してみようと思っていたのだ」と私は言った。この比較を書いたことがなかったので,この際,この話しに乗ってこの比較を簡単に考えて,依頼された責務を果たしたい。
 両作品はともに作家の最後の作品になったものの中に入っていることは興味ぶかい。
 『蝿』 “The Fly” は「1922年の始め,彼女が余命幾ばくもないと悟ったころに書かれたので。よく彼女の「生の告発」だと言われている。しかし,それはむしろ,彼女が生の前進をはっきり認めたものなのである。二人の老人,引退した実務家と現役の社長が「六年前」に戦死した後者の息子の思い出を綿々と語り合う。」やがて前者の老人が帰ってから,後者の社長は(一匹の蝿が口の広いインク壺の中に落ちて,死にもの狂いではい出ようとしているのに気がつく。インク壺の内側は濡れて滑り,蝿は,のぼっては落ち,またもがき泳いでいた。社長は蝿をペンでインクからひっぱり出して,一枚の吸取り紙の上に振り落としてやる。蝿は まわりににじみ出た,どす黒いしみの上にじっと横になっていた。やがて,前脚を動かし,しっかりふんばって,びしょ濡れの体を引き起こし,羽からインクを洗い落とすと,上に下に脚は羽をこすりつづけた。蝿は爪先で立つように,一方の羽を,それからもう一方の羽をひろげた。それから猫のように顔をぬぐいはじめた。再び生きる用意ができた。やっと生き返ったところで,社長は,ペンにインクにひたし,巨大な滴を落とす。しかし,蝿はまた身をきれいにする。「このちびは,なかなか元気だ」と社長は心の中でつぶやく,蝿の勇気に心から讃嘆した。「こういうふうに何でもぶっつかって行かなければだめだ,これこそ本当の精神だ絶望してはならない」と社長は思う。社長はまたそのきれいになった蝿にもう一度黒い滴を堂々と落とす。(今度は濡れた蝿は,横たわったまま動かなかった)この社長は残酷にさえ思える。これは作者の「生の告発」といえよう。しかしそれ以上に,死せるものは去って行き,生きるものは自分自身で生きるのだということを認めている。
 一方 『赤蛙』は島木健作の42年の生涯の年の1945年の作品で,自分自身が修善寺に病気療養の為に行った時に遭遇した話である。『赤蛙』は静かな自然に呑まれる小動物の悲壮な最期を作者の魂の風景として感じることができ,単に自然の神秘を見たのではなく心の奥底で作者自身の短い生涯の象徴と感じていたといわれる。(赤蛙は一生懸命に泳いで向こう岸に渡ろうとしている。流れは早く,その流れに逆らうように泳いで行く,まんなか頃の水勢の一番強いらしい所まで行くと,見る見る押し流されてしまった,流された身振りをしたかたとおもうと視野から消えてしまった。思いがけないところにぽっかりと浮いては姿をあらわした。中州の一番の端に取り付いているのだ。一休みしてから,赤蛙は発見した場所までくるとうずくまったのである。五分と立たないうちに再び動きだした。そしてまた失敗して戻って来る。それを六回七回までは数えるがやめる。やがて赤蛙は最後の飛びつきらしいものを石の窪みに向かって試みた。そうしてくるっとひっくりかえると黄色い腹を上にしたまま 何の抵抗らしいものも示さずに,むしろ静かにすーと消えるようにあおむけで,渦巻きの中に呑みこまれて行った。私は翌日その地を去った。ただあの赤蛙の印象だけを記憶の底にとどめながら。)
 不可解な格闘を演じたあげく,精魂尽きて波間に没し去った赤蛙の運命は滑稽というより悲劇的なものに思える。蝿や赤蛙のような小動物にも,生命への執念の原動力を求め,力の限り戦い,最後には運命に従順である姿がある。それは静寂でさえある。蝿は社長の人為的行為により生命を絶たれ,赤蛙は自然の摂理の中での自然への消滅で自然の神秘に合致する。似たような作品が短い生涯を終えた二人の作家が生涯を終える間際に書いたことは不思議である。また それも東洋と西洋と離れた土地で,小動物の身にゆだねて描かれいることは,生命への執着,宿命の神秘を思わずにはいられない。



「学舎(まなびや)を思う」

日本大学国際関係学部長 佐藤三武朗



 
最近になって,学舎を想うことが多くなった。もちろん,学舎とは日本大学文理学部英文学科のことである。どうして今さら「学舎」なんだと考えてみたら,過去を懐かしむようになっている自分に気づいた。おそらく,齢六十という人生の大きな節目を迎え,「回帰現象」という一種の精神作用に左右されるようになったためらしい。
 十八の春に帰る術なし。不可能なればこそ,余計に恩師や学舎を想う気持ちが募ってくる。目を閉じると,当時の学舎がよみがえる。先生方の顔まで浮かんでくる。懐かしさのあまり,涙さえにじんでくる。こうなったらお仕舞いである。懐かしい友人が今は研究室で威張っている,頑張っていると知って,昔は独りよがりの男だったぞ。勉強はよくしたが,酒を飲んだり,羽目をはずすことも多かったぞ,などと叫んでみたくなる。
 友人が懐かしい。いくつになっても,恩師は有り難い。
 どの先生も教育に燃えていた。お世辞抜きに,学生の指導に真剣であった。どうして,あんなに立派であったのだろうなどと考えると,今の自分が恥ずかしくなる。
 はるか遠く,在りし日の自分を想うと,今の自分を「何とかしたい」という気持ちに激しく駆られる。学舎を想う心の背景には,自分を見つめ直すという古風な考え方があるようだ。
原点に帰ろう。これは足下を見つめ直そうということである。どこか小説の主人公を思わせる発想であるが,自分を見つめ直すことが人生には必要である。今がその時ではないかと考える。
 今,私は大学で比較文学の授業を担当している。これは私のアイデンティティとなっている。比較文学ほど面白い学問はないと思っているが,その原点が学舎で受けた教育にあることは紛れもない事実である。
 比較文学という学問は,異なる国の文学作品を扱う。例えば,シェイクスピアが日本文学にどう影響を与えたかを研究する学問と考えていい。その際,研究方法として,比較研究と対比研究とがある。比較研究とは,藤村や漱石がシェイクスピアを読み,どう影響を受け,それを作品にどのように反映させているかを研究する。明治の文学者の多くは西洋文学の影響を受けているから,研究素材には事欠かない。対比研究とは,影響関係がなくても,二国間の文学作品のテーマや人物,思想やモチーフ等を対照しつつ,文学作品に見る普遍性や独自性を研究する。異文化交流が盛んとなり,異文化間の差異や相違が問題にされる昨今,比較文学の研究はより興味深く,いろいろな大学で比較文学科や講座を設置するようになった。 文理学部で教えて頂いた恩師のお陰で,私は比較文学の研究に入ることができた。恩師からシェイクスピアの研究について手ほどきを受けていたから,日本文学との比較研究に入りやすかったのである。
 比較研究の際,シェイクスピアの作品についての読みをしっかりとしたものにしなければ,見当違いの研究となってしまう危険がある。私の場合,島崎藤村に関心があった。藤村がその生涯を通してシェイクスピアから計り知れない影響を受けていたなどということは想像すらしなかった。調べ出すと,シェイクスピアとの影響関係を研究せずに,藤村の作品の読解は不可能であることが分かった。藤村の文学への関わりはシェイクスピアに開始したと言って良いのである。テーマ,モチーフ,人物造形,プロット,作品構成等,数えたら限りがない。
 私は藤村研究にのめり込んでしまった。今の私があるのは恩師のお陰である。恩師のことを懐かしみながら,人生の節目を迎えた今,私は恩師から学んだ英文学の基礎に帰りたい。そして再び,新たな出発を期したい。
 学舎は,光源である。学舎は懐かしむばかりでなく,自らの在り方を深く省みる厳粛な場所である。



天命にこたえて

日本大学薬学部教授 金子利雄


 14年間勤めさせていただいた佐野短期大学英米語学科を退職し,本年4月より,日本大学薬学部へ赴任して,はや5ヶ月が経ちました。地理的には,栃木県から千葉県へ移動しただけのことですが,短期大学から4年制大学へ,また,人文科学から自然科学への転身は,一種の「カルチャーショック」と似たような違和感をおぼえます。今まで培った経験,常識が通用しないことが多々あるからです。
 日本大学英文学科を卒業し,様々な学部,大学で教鞭をとられている立派な先輩方が多くおられますが,日本大学薬学部で教鞭をとるのは私が初めてということになります。そこで,この紙面をお借りして,差し障りのない程度に,薬学部のご紹介をさせていただき,何かの参考にしていただけたらと思います。
 薬学部は理工学部に隣接していることからお分かりのとおり,理工学部の薬学科が1988年に独立して学部に昇格したものです。したがって,日本大学14学部の中では最小規模且つ最新の学部といえます。現在の定員は240名ですが,平成18年度には,国の方針により,全ての薬学系大学は医学部,歯学部と同様,6年制に移行することが決まっております。したがって,今年中に新カリキュラムを完成させるべく,全学あげて取り組んでいるところです。平成17年には全入時代が到来することは分かっています。そんな中,より多くの優秀な学生を確保するための方策が望まれるわけです。
 学部内は各研究室に分かれており,私が所属する部署は,一般教育の英語研究室です。研究室といえば,文理学部英文学研究室のような集団を連想なさるかもしれませんが,薬学部の英語専任教員は1名のみです。つまり,私が英語研究室の第三代主ということになるわけです。「一人だから気楽でいいじゃない」という方もおりますが,薬学部の英語教育は私に全責任があるわけですので,責任重大です。
 皆さんは,「薬学部のための英語教育を考えよ」と言われたら,どうしますか。恐らく,すぐには答えが浮かばないことでしょう。今の私は,そんな立場におかれております。早期に教育目標と方針を立て,結果を出さねばならないわけです。自然科学の世界では,答えは一つしかありません。正しいか,間違っているかです。
 就任早々,薬学部生には驚かされました。一人の女子学生が,外の階段で煙草を吸っておりました。こんな光景はどこにでもありますが,その学生は煙草を捨てようと灰皿へ向かって階段を下りかけた時,私の目の前で足を滑らせ傾れ落ちてしまいました。そんな状況下,普通の学生は何と言うでしょうか。「あーっつ,痛い!」でしょう。ところが,この学生は起き上がるなり,「先生に灰が飛びませんでしたか」,です。これが薬学部生なのです。キャンパス内は,控えめながらも気持ちのいい挨拶の声で満ち溢れています。学生は,薬剤師国家試験に向けて,真剣に取り組んでおります。というより,最初から,勉学の習慣ができている学生の集団と言ったほうが妥当かもしれません。
 薬学部には,講義の始めと終わりを知らせるチャイムがありません。各自が自己責任において,行動をとっております。さらに,教員は,出勤と帰宅する際に,タイムカードを押さなければなりません。当初,管理されているようで抵抗がありましたが,慣れてしまえば何と言うことはありません。先程,自然科学の世界には答えが一つしかないと述べたとおり,タイムカードは,「誰が何時に来て,何時に帰ったか」を正確に記録する道具でしかないのです。それ以上のことはありません。
 また,教員には研究日がありません。正確に言えば,他学部にあるような研究日,という概念がありません。薬学の専門教員は,実験器具を使って研究しております。したがって,研究をするためには大学に出てこなければならないわけです。人文・社会科学系が意味する「研究日」とは全く性質が異なっております。「研究日を下さい」とお願いしても,「研究をなさりたいのでしたら,どうぞ遠慮なさらず研究室でおやりください」となるわけです。薬学専門教員は,大変勤勉です。夜中の12時まで残って研究をしておる者もおります。それでいて,朝は6時には誰かしら出勤しております。通常,私は6時に家を出て,7時42分にタイムカードを押しますが,悔しいですが,薬学専門教員の熱心さには脱帽です。このようにして5ヶ月が過ぎた今となっては,私の中でも,「研究日」という言葉が死語となってしまいました。
 薬学と英語とがどう結びつくのか分からず前期が終わってしまいましたが,この夏休みの海外研修で明確になりました。同じ引率者として同行してくださった専門科目担当の先生方とお話できたことが幸いでした。一人は薬学博士,もう一人は医学博士です。自然科学の研究では,世界の最先端を行く研究が求められております。世界の研究動向を把握し,世界に向けて研究成果を発信するためには,英語が出来なければ致命的なのだそうです。事実,薬学専門教員は,閑を見ては海外の学会へ出かけ,研究発表をしております。アメリカ,カナダ,ドイツ,ルーマニア等々,非常に精力的です。英語研究者で,このようなことをなさっている方はおられるのでしょうか。文学,語学に関する研究を海外の学会で発表するというのをあまり聞きません。勿論,私を含めて。
 薬学部の研究業績評価基準には,「著名な学会誌に英語で論文を載せて何点」というのがあります。私は恥ずかしながら,いつの間にか英語で論文を書くことをやめ,和文になってしまいました。薬学部の常識では,「英語専攻は英語で,ドイツ語専攻はドイツ語で論文を書くのが当たり前」なのです。「そう言われてみればそうだな」と思うのは私だけでしょうか。事実,引率を同行したお二人とも,大変立派な英語を流暢に話しておりました。そして,学部生には,「英語で情報を収集するための英語力,英語で情報を発信するための表現力」を育成していくことが大切なのだということを教えられました。「英語ができるようになりたければ英文科」という考えは,もはやステレオタイプなのかもしれません。それほど,英語は国際語になっているということでしょう。
 まとまりのない話で恐縮ですが,これが薬学部の一面です。薬学部は,真面目な学生と,大変勤勉で優秀な教員からなる学部です。私は,このような違った価値観を持った分野,学部があることを知り得たこと,そこで働ける機会を持てたことを,「薬学部のためにや・・くだてよ」「草を刈って楽学部にせよ」という天命と受けとめ,一人で頑張っていく所存です。どうか今後とも,皆さん,宜しくお願い申し上げます。
 縁結びの神様へ感謝を込めて。



バークレイの生活

龍星閣代表 澤田城子


 カリフォルニア州立大学バークレイ校で,久々の学生生活をすごしたのは,もう四半世紀以上も前になる。天候も生活そのものも本当に美しく気持よく,何とも心豊かな日々を持った。ふりかえれば,その日々に自分が居たことは紛れもないのに,何か夢のように,まぶしいばら色の日々だったように思える。
 バークレイ校の大学院に在学中のギリシヤ人の友クレリからの夏期大学への誘いと案内に従って,7月初め東京を発った。サンフランシスコまで9時間,何回かおいしい食事とお茶が出て,すこぶる快適。たった一人という不安もなく腹がすわったまま,これからの日々を思って,期待と喜びで胸一杯だった。
 やがてサンフランシスコ上空にさしかかり,美しい風景が眼下に現われた。広い広い果のない大地の広がりが私を圧倒した。第一にぴんときたのは,「この国を相手に戦ったのか,ああこんな豊かな国を相手に!」と。近づく美しいサンフランシスコの町を見下ろして愕然としていた。これが,あの当時小国民の一人として鍛えられた私の,アメリカに対する最初の印象だった。じっと息もつかなかった。
 深い思いのまま飛行機を下り,検査室に入った。一斉に手荷物が開けられ,その途端に室内には異様な匂いが充ちた。せんべい,スルメ,梅干のたぐいの入り交じった何とも言えぬ日本の匂いで,乗客の多くが日本人だったことを物語っていた。かつてパリについた時,さわやかな気持の良い香りが漂って,ああフランスだと思い,ドイツではさっぱりと石けん臭くて国民性の潔癖さを感じたものだ。検査官は若い女性で,目的・滞在地などをたずね,バークレイと知ると「おお,アイハウスね,いい所よ。どうぞ楽しい勉強を」と嬉しそうに言い,手もつけなかった。
 到着ロビーのドアを出たのは私が最初だった。迎え人の最前列にいたクレリが「おお,ジョウコ,ここよ」と叫んだ。叫ばれなくともギリシャ風の顔立ちと長身は群を抜いている。側らに日本人の男性がいた。「彼,中央大学の教授,自動車の免許持っているの」と。ありがたかった。何の苦労もなく,教授の運転にまかせて,車中から美しい町を楽しみ,有名なベイブリッヂをわたり,バークレイに入った。広大なキャンパス,学舎のたたずまいが心にしみた。
 坂の突きあたりに,これからの私の暮すインターナショナル・ハウス(アイハウス)がそびえていた。クレリの指図やらで手続きは簡単に済んだ。食事券,入室カード,ポストや自室の鍵をうけとり,さっそくG30の自室へむかう。建物の正面の両翼につき出た部分の一室だった。ベッドに机,書棚,洗面トイレ,トランクルームなどの10畳を越す広さだった。古い蛇腹の形のスチームが備っていた。夜は寒いというので,さっそくリネン室へ毛布を借出しに出かけた。
 とうとう,このアメリカの地に,たった一人で解き放された,全くの自由だという喜びがわいてわいて消えなかった。涼やかで明るく清潔なこの町で学びながら暮すのだと思うと,嬉しさに打ちふるえた。思えば家族を案ずることもなく仕事も一区切りで,安心してやってきたのであったが。
 誰もが皆アイハウスと親しげに呼ぶこの寮には800人ほどの学生,訪問者が全世界からやってきて学んでいる。ロックフェラー家の贈物であることを玄関口の説明で知った。
 食事の時間にクレリが連れに来てくれた。何とも熱気のあふれる広い食堂だった。食券を渡して入ると,あらゆる食物が迫ってくる。セリアルはオートミール,コーンフレーク,飲み物はコーヒー,紅茶,ジュース,チョコレート,ココア,ミルク,卵は,スクランブル,目玉焼,ゆで卵,肉はハム,ベーコン,ソーセージ,野菜は何種類あったろう。果物はオレンジ,リンゴ,スイカ,グレープフルーツ。アイスクリーム,ソーダなど,どれをどれだけ取ってもいいのだ。トースターは簾状のものがパンをひっかけたままぐるぐる巻き上がっていく。バター,チーズ,ジャムが並ぶ。そして,昼食をここでとれない人のためのお弁当コーナーがあり,そこでサンドイッチ,果物,卵,飲物を紙袋につめていけるようになっていた。食費は宿泊とも一週間65ドルだった。当時1ドルは303円だった。
 大きなショックをうけた。日本の大学の食堂はどうであろう。その差の大きさに私は日本の貧しさを感じた。
 教務課へ出かけ,出席する美術学科の科目を選び,びっしりと毎日を埋めた。ある時間帯に出席したいものが二つ重なり,迷ったが,二科目提出した。先生の英語と,その内容に適応できないかもしれないから,いずれ決めると伝えた。事務員はこれまでそういう例はないからと拒んでいたが,私の説明にうなずき納得してくれた。そして「あなた本当に日本人なの?」と聞いた。「ヤア」と言うと,「日本人は大人しいのよ(quiet),あなたは違うから」と私の目を見つめていた。
 手続きがすみ,教科書販売所で,必要な本を買った。平積みにされた科目毎の書籍がフロアを占める広い広い部屋で分厚い絨毯を敷きつめた床に,他の学生たちと同じくあぐらをかいて坐り,書籍を選んだ。定められた1冊は美しい図版がふんだんに入って960頁もあった。
 学用品の袋と,お昼の弁当であるバッグランチをかかえ,この厚い本をぶらさげ,広いキャンパスを美術科の建物を訪ねて歩いた。時間が少し遅れていて授業は始まっていた。いい塩梅にスライドの説明中で,室内は暗かった。そっとドアを閉め前の方へ行こうと階段教室のステップを一歩一歩降りはじめた時だった。パッとスイッチが押され,一面煌々となった。そして「どなたですか,何の用事ですか」と世界美術史の教授であるK女史の鋭い声が私にむけられ,百人近い学生の目がこちらを向いた。
 「遅れてすみません。日本からきたばかりの受講生です」と答えると,「東京からですか,ようこそ,いい学びの時を持って下さい」と今度は実に暖かい声になってほほえみ,スイッチを切って,暗闇の中で何事もなかったように授業は続けられた。楽しい授業だった。次回は何頁から何頁までと50頁近い量を指図して終った。
 もっさり立上がった私に,「美術館をめぐって下さい。色々教えますからね」と好意的な言葉をくれた。これが,アメリカでの私の初めての大学生活の第1日目であった。
 昼休みになり,学生はそれぞれに散らばり,私は涼しげな木陰の芝生に腰を下ろし,さっそくさっき選んできたバッグランチを開いた。一人で味を楽しんでいると,ひょこひょことリスが木の枝づたいにやってきて,ピコピコと可愛い目をしばたたいた。パンをなげると,どこから来たのか二・三匹が一緒になって,両手にパンを取るとさっと消えていった。空気は澄みわたり,空は果てしなく青い。
 午後のアメリカ美術史は担当がその名もDr.フランケンシュタインで,驚いたのは彼が入室するなり受講生は一斉に立上り敬意を表するのだ。そして授業が終ると又全員うやうやしく立上り,拍手までして見送るのだった。有名人なのだという。
 クレリにDr.フランケンシュタインが先生なんだと言うと,「ヒェー,ジョウコ,喉に気をつけてよ」と笑った。ある時Dr.が休講という板書があった。その代り夕刻8時に見えられるからと。その告知が,つりあげ式の黒板に書かれたままだったのを,K女史の授業の時,彼女がひょいと黒板をくりあげると,いきなりそこにめくり出され,K女史は「オー」ととび上がった。誰かのいたずら書きが加えられていた。「そうさ,夜しかこないよ」,「正しく夜さ」と。
 現代アメリカ美術は,明かるいM女史で,彼女がジャスパー・ジョーンズと,いかにも憧れをこめて発音するのが,今も耳に残っている。時々テストがあった。簡単な答を書いたり,選択方式のテストはクイズであり,文章で答えるのがエグザムである。彼女の採点は答案用紙にジャスパー・ジョーンズの作品星条旗のシールを貼るやり方であった。現代アメリカ美術が,この国で見ると眞に生き生きと美しく躍動しているのを,やがて美術館めぐりをした時つくづく感じた。
 太陽の明るさ,建物の造り,空間の広さ,伝統にとらわれぬ心の自由などが,一見イタズラのような作品を美しく好ましいものにしてしまうのである。日本で見たリキテンシュタインが,この土地ではマッチしているのだ。
 R先生はアメリカ美術史を講じたが,200年の歴史の中で,創生時代のインディアンの酋長の肖像や彼らの生活を描き続けたカトランに時間をさき,印象深くひきこまれた。
 毎日が夢のように流れた。こんな充実した学生生活が得られようとは思ってもいなかった。クレリに言わせれば,秋になるとすっかりアカデミックでゴチゴチだとのことだった。
 クレリは私の一人行動に気をつけていて,夜寝る前には「ジョウコ居る?おやすみ」と電話があった。この近くで事件があったという。ようやく英語に馴んだフランスの女子学生が公衆電話のボックスに入った所,黒人が殺されて倒れていた。彼女は驚きと恐れのあまり,すっかり英語を忘れてフランス語でわめき叫び,帰国したのだそうだ。
 朝食は各々授業を抱えているから,何となく忙しく席を立つが,夕食は別だ。料理もステーキやローストビーフ,チキンと揃う上,馴じみの顔を見つけてはお盆を持って寄り集まりテーブルにつく。何とも国際的ににぎやかで陽気になる。トーストにいちごジャムをぬり,山盛りにカテージチーズをのせた皿を持ったクレリがにやりとして通りすぎていった。「ジョウコ,また大東亜をやっているの」と。
 その時,私の周りには,ベトナム,中国,インド,フィリピン,マニラ,カンボジアの面々がぐるりと連っているのに気付いた。白人がいないよ,本当だ,ヤレヤレと思っているとオスローのロニイが,帰国の挨拶に寄って坐った。大東亜の面々が私の周りにやってくるのは一つ訳があった。東京から私の父が1日おきに朝刊紙を送ってよこしていたので,何かニュースはないかと聞きたかったのだ。特にベトナム関係学生は深刻だった。まさにアメリカは撤退に追いこまれていたのだ。
 夜になると本当にかなりの寒さになり,アイハウスの暖房がキンキンカンカンと古い音をたてて全館に蒸気を送り出す。暖房近くにいすを寄せ,夕食で食べのこしたオレンジの皮をむくと,部屋中に芳醇な香りが満ちた。何という何気ない豊かさだろう。予習をしながら,心が弾んで,幸せの時とはこんなささやかさかもしれないと思った。
 アイハウスは色々な催しがあり,掲示板にニュースが出る。ある時,サリナスでのロデオ大会に20人というのがあって,さっそく申込みに行った。受けつけの女性は私が列に加わるのを見ると,「その人を優先します。アメリカ人はいつでも行けるから」と特別扱いした。「OK」とアメリカ人は列をあけてくれた。それで,バッグランチをかかえ,アイハウスのバスに乗せられて出かけた。サリナスはかのジェームス・ディーンが事故死した所である。やがて旗がゆれるロデオの会場についた。映画で見知っているが,ロデオとは実に荒々しく,すさまじい馬と人の闘いだ。印象深かったのは,ペアで牛を倒すという演目であった。親子の一組があった。馬上の娘はあばれ飛びはねる牛の角にさっと投げ縄を投げ,牛の動きが一瞬止まって更にあばれ出すと,その牛の脚めがけて父親の縄が飛び,牛はばたりと倒れた。すかさず親子は馬を下りぐるぐると牛をしばり,牛は捕えられた。その時の観客席の喜びと声援のどよめきはものすごく,どこの国も人情は変らないのだとつくづく思って帰りのバスに乗った。
 授業のない日はバスに乗って40分,サンフランまで一人ででかけた。美術館,図書館,古書店をめぐった。バッグランチを持たず,ビルのドアマンにおいしい店をきいて食べたりした。「あすこのハムステーキはすごいぜ。気をつけて行きな,ミス」といわれた所はどこも本当においしかった。古本屋のリストは神田の一誠堂からもらっていたので,一軒ずつ訪ね歩いた。大通りに店を構えてるのもあるが,立派なビルの中にまるでホテルの一室のような所に革装の書物が並べられ,お茶をもてなされたりした。そして表通りをぞろぞろと団体が歩いているのを見ては,「今日はなんて外国人の多いこと」などと自分がアメリカにいることを忘れるようになっていた。
 バークレイに着いた時,道に大きな泰山木が並び,馥郁たる香りを放っていた。大好きな花で,いつもくんくんかいで,散るのを名残惜しんでいたが,一ヶ月たっても一向に変わらない。「一年中咲いているのよ」と言われた。そう言えば大学のむこうにローズガーデンがあって,いつもすばらしい花を咲きこぼしていた。これもいつ行っても変りなく,「気候のせいで一年中咲いているよ」と言われて少々興が失せてしまった。道ばたに咲き続ける紫君子蘭(アガパンサス)も一向に色も姿も変わらぬままではないか。
 ある夕,日本大学国文学科の鈴木知太郎教授と子息,杉山先生ともう一人の四人が訪ねて下さった。私がアイハウスにいると知らされたと言うので,さっそく食堂にご案内して,その盛んな様子を見ていただき,五人で食事をした。献立の多さ,料金の安さに驚かれ,学生たちの旺勢な食欲に目を見はり,ついでに私の食べっぷりにも驚かれた。私はバークレイに着いた時より,洋服がきつくなっていたのである。
 心身ともに充実したバークレイの日々が流れていった。遂に別れの日がやってきた。私の生涯でのアルトハイデルベルヒだった。
 親しくしたアイハウスの人々に挨拶し,サンフランの空港から,シカゴ,ボストン,ニューヨーク,フィラデルフィア,ワシントン,ラスベガス,ロスアンゼルス,メキシコ,ハワイへの,1ヶ月の新しい旅に,夢の続きを追って旅立った。
 中大教授は,呉々も危険に会わぬようにと言い,クレリはお金が足りなくなったら,すぐに電話をよこすようにと言ってくれた。
 何の不都合にも会わず,幸せに満ちたアメリカ巡りを終り,羽田に帰国した時,言いようもない充実感が満ちていた。元気な父と弟が手をあげて出迎える姿があったのである。


 

イギリスケント大学留学の勧め

日本大学文理学部3年生 矢崎 夏子


 イギリスケント大学のJunior Year Abroad (JYA)は,三年次にケント大学で一年間勉強するプログラムです。カリキュラムは,4月から9月まで本授業に必要なスキルを学ぶ特別なコースを受け,9月から翌年3月まで大学の授業を一般の生徒と共に受けるというものです。取得した単位は日本での単位になるので4年間で卒業でき,授業料も全額支給されます。
 私がこのコースに応募した理由は,海外で勉強し,英語力を伸ばしたかったからです。応募した時点ではケントで何を勉強したいかも分かりませんでした。ただ大きなチャンスを逃してはいけないという気持ちでした。ケントで勉強をするという目標ができてからは,勉強に対する意識も変わり,ケントで勉強したいことも固まってきました。何の目的を持たずに授業を受けていた私にとって,大きな変化でした。
 JYAのプログラムは,色々な面でサポートしてくれるので,負担が少ないと思います。また,他の国からの留学生がとても多いので,様々な文化に触れることができます。今まで聞いたことのない国の友達ができることもあり,日本文化を再認識することにもつながります。そのため,日本という独特な国を客観的に見ることができ,より広い視野を持つことができます。そしてヨーロッパの学生はとても勉強熱心で,それに触発されます。勉学の面や,それ以外の面でも,貴重な体験をすることができるプログラムです。



海外研修を終えて
~イギリスで過ごした最高の1ヶ月~

日本大学文理学部3年生 渋谷幸代


 私は今年の夏休みに,當麻先生とハーディング先生の引率の下,文理学部の海外語学研修に1ヶ月参加し,イギリスのケント大学のサマープログラムを受けてきました。出発の約3ヶ月前から,昼休みに説明会や授業が設けられていたので,イギリスに関しての基礎知識や滞在するカンタベリーについて事前に学ぶことができ,海外に行ったことのなかった私でも,安心して出発することができました。
 日本からイギリスまでは,飛行機で片道約11時間。機内では,映画を観たり,機内食を食べたり,『地球の歩き方』を読んだり,眠ったりと,気ままに過ごし,肩や腰,腕などが疲れてきた頃,ようやくヒースロー空港に到着しました。そこからバスに乗り,ケント大学へ。大きな窓を通して見える景色は,森や畑,農場,そして可愛らしい家々などで,イギリス滞在への期待感はさらに高まっていきました。
 大学に着き,私たちが1ヶ月生活していく寮を見た途端,思わず感嘆の声を上げてしまいました。そこはレンガ造りの素敵な建物が連なるように建ち並んでおり,芝生に覆われた広い中庭には,手入れの行き届いたバラが満開に咲き誇っていて,まるでファンタジーの世界に足を踏み込んだかのようでした。大学内は驚くほど広く,様々な校舎や施設がありましたが,芝生や木々があらゆる箇所に生えていて,自然とのふれあいを大事にしているように感じられました。昼間は頭上で鳥たちの鳴き声が響き渡り,木の上をリスが駆け回る。夜になると,野ウサギが警戒しながらも姿を現しました。
 授業は月曜から金曜までで,毎週木曜は,それぞれの課題について調べた事をグループごとにまとめ,英語によるプレゼンテーションを行いました。土曜は,ロンドン,ケンブリッジ,ブライトンといった観光名所をみんなで訪れました。日曜は自由なので,私は友達と一緒に,イギリスで最も美しい町と言われるライや,海峡で有名なドーバー,そして小さい頃から憧れていたロンドンへ行きました。
 ロンドンには,外国の国家元首が英国を訪れた際に招かれる,エリザベス二世の公邸の一つであるバッキンガム宮殿や,ビッグ・ベンの名で世界的に有名な時計塔のある国会議事堂,600年以上の間,イギリス皇帝の戴冠式が執り行われているウェストミンスター寺院,世界で最も素晴らしいルネッサンス様式の建物の一つとされるセントポール大聖堂,そして数々の煌びやかな宝石類やため息の出るほど豪華な王冠が守られていると同時に,血生臭い歴史も多いロンドン塔など,今までに見たことのないほど壮麗な建物が数多くあり,何度訪れても人々を飽きさせない,魅力的な街でした。最終の土曜の夜は,ピカデリーにある劇場でミュージカル『レ・ミゼラブル』を鑑賞し,心に直に伝わってくる生の芸術を味わう事ができました。
 ケント大学では,私たちの他にも様々な国からの留学生を受け入れていて,その中のイタリア人と知り合い,一緒にスパゲティ・パーティーを開いたりして,交流を深める事もできました。イタリア語と日本語。全く違った言葉を母語として育った人々が,英語という一つの言語を用いてお互いの意志を伝え合うことのできる素晴らしさを実感しました。
 私はこの研修を通して,日本とイギリスの文化の違いを自分の目で見て知ると共に,英語を勉強する事の大切さを理解する事ができました。歴史ある素晴らしい国,イギリス。私はもっともっとこの国について学び,そしていつかまた訪れてみたいと思います。長いようで短い1ヶ月間でしたが,毎日がとても充実していて楽しく,一生の思い出となる価値ある経験をすることができました。



学部在学生による新しい「学会通信」の刊行と原稿募集についてのお知らせ

日本大学英文学会会長 原公章


日本大学英文学会は,研究会員と同窓会員からなることは,すでにご承知だと思います。このたび当学会では,学部在籍中の学生諸君による,新たな「学会通信」を刊行することにいたしました。「通信」の編集委員会は,学部4年生の福田真美子さんを中心に,何人かの学生諸君にお願いしておりますが,初年度である今年は,学会から英文学会会長の私と,常任委員の閑田朋子先生が,そのお手伝いをする予定です。
かつて,英文学科には「英文科の窓」という名前の学生中心の冊子が発行されたことがありました。しかし大学紛争でとぎれたまま,30年以上もの年月が流れてしまいました。そこで,過日の英文学会常任委員会で,同窓会員である学部在学中の学生諸君を主体とした新たな「通信」の発行を話し合い,来年2005年3月上旬をめどに,刊行することにいたしました。そこで,以下のように英文学科学生諸君の原稿を募集いたします。

1.応募資格      日本大学文理学部英文学科在籍中の学生

2.投稿原稿      800字から1200字で,ワープロ横書き日本語・英語いずれでも可能

3.内  容       学生生活・日常生活などに関するエッセイ
             英米文学・語学などに関するエッセイ
             読書感想文や本の紹介など
             創作(短編・詩・短歌・俳句など)
             その他,編集委員会で認めたもの

4.投稿締め切り   2005年1月16日
             提出先は英文学科研究室

5.採否の決定    編集委員会による
             採用が決まった場合はフロッピー・ディスクを提出すること

6.問い合わせ先   英文学科研究室
                          TEL: 03-5317-9709



関谷武史先生退職記念論文集 刊行について

英文学会会長 原公章
 

 本学科教授関谷武史先生は、来年1月に満70歳のご定年を迎えられます。そこで先生の退職を記念し、来春発行の『英文学論叢』第53巻を、「関谷武史先生退職記念号」としたいと思います。これについては、すでに常任委員会・運営委員会の承認も得ております。つきましては、先生の教えを受けた方々はもちろん、文学・語学問わず、多くの会員の皆様の論文投稿をお待ちいたします。締め切りは2005年1月10日です。なお、投稿された論文は、例年どおり2人の査読者による査読を経て採否を決定いたしますが、「記念論文集」という性質上、できる限り多くの論文を採用する方針です。
 また、来年2005年は、本英文学科創設80周年を迎えます。70周年の際には、大変立派な記念論文集を刊行できましたが、80周年にもそれに劣らぬ記念論文集をと考えております。会員皆様には、このこともぜひお含みおき頂きたいと思います。

 




 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







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