日本大学英文学会  

日本大学英文学会通信81号(2004.6)


ご挨拶
─新たなサイクルに向けて─

日本大学英文学会会長 原公章

 

昨年11月の総会で,過去9年間本学会会長を務められてきた関谷武史先生の後を受け,私が新しい英文学会会長に推挙されました。私には大変荷が重すぎると危ぶまれますが,これまでの英文学会の着実な歩みをそらさぬよう,精一杯努力いたす所存です。どうぞ,皆様のご協力を,よろしくお願いいたします。

省みれば,英文学科創設70周年記念大会を199511月に行ったことが,つい先日のように思い出されます。この当時,英文学科では,会長の新倉先生が突然お亡くなりになり,また,すでに阪田先生はご定年で学科を去られ,阿部先生もお亡くなりになり,全体に沈滞ムードが漂っておりました。そこでこの沈んだ気分を何とか盛り上げねばと,70周年記念大会を盛大に開きましょうと提案されたのが,関谷先生でした。先生のご発案により,野島秀勝先生にご講演を依頼し,大先輩の澤田城子さんに「想い出」のお話をお願いすることになりました。こうして記憶に残る大会が行われたのは,ひとえに関谷先生のご尽力のおかげでした。さらに立派な『70周年記念論文集』も刊行され,この70周年記念大会を契機に,再び英文学科に活気が戻ってきたのは,皆様のご承知の通りです。

新倉先生の後,会長職を引き受けられた関谷先生は,英文学会を「学問の場」として発展させることに,何よりご努力されました。院生たちの学外の研究発表を奨励すると同時に,月例会の充実と『英文学論叢』のレベル向上を,学会活動の中心に置かれました。総会などでの会長挨拶には,必ず本学会会員の学問的な業績に言及され,私たちは先生のお話から,学問することの意味を常に再認識させられました。また,本『学会通信』の「会長挨拶」では,先生のご専門のシェイクスピアについてほとんど毎号言及され,常に最新の学問研究に私たちの目を向けて下さいました。さらに,研究会員と同窓会員の制度を設けることで,学部学生にも学会への積極的参加を促したことも先生の大きな功績だったと思います。関谷先生を中心に学会が現在のように発展してきたことを,私は心から感謝し,今後とも引き続き,先生のご指導・ご助言をあおぐ所存です。

関谷先生の求心力には私は遠く及びませんが,これまでの歴代会長の衣鉢を受けて,私も学会は「学問の場」であることを,第一に継承していくつもりです。幸い,常任委員,運営委員の諸先生は,学会のバックボーンとなる強力な方々ばかりです。まずは各会員,各委員のご協力のもと,従来の基本方針を踏まえてさらに,前進していこうと決意しております。

皆様にはご承知の通り,来年5月には1968年以来,37年ぶりに,文理学部で日本英文学会が開かれます。日本英文学会評議員である野呂先生始め,学科の全教員,それに院生・学部学生有志の協力のもとで,何とか英文学会を成功させたいと思っております。同時に,2005年は英文学科創設80周年を迎えることになります。昨年の大会懇親会の席上でご挨拶いたしましたが,英文学科創設100周年を盛大に迎えるための布石として,2005年は本英文学会にとっても重要な年となると思います。いや,重要なのは何も記念の大会がある年に限りません。日常の地道な活動こそ,学会活動の基本です。幸い,本学会会員の近年のめざましい学問的・教育的活躍,院生たちの学外での盛んな活躍,また,月例会,『英文学論叢』の充実ぶりなど,新年度を迎えて明るい材料が出そろっております。英文学会の新たなサイクルに向けて,私たちは心も新たに出発したいと思います。



ご挨拶
─英文学科の近況─

日本大学文理学部英文学科主任 當麻一太郎

 

昨年のこの時期に,「改訂カリキュラムの完成年度を迎えて」と題して4年生対象の新しい科目の紹介をさせていただきました。それから瞬く間に1年が過ぎ,改訂カリキュラムを終えたばかりの131名の学生諸君が,クルージングでの謝恩会という想い出を私たちに残して英文学科を去りました。数々の総合教育科目および「実用英語検定」,「TOEIC」,「TOEFL],「通訳英語」などの実践・資格英語の1つまたは複数を,それから様々な選択専門科目を修得した後に,ピラミッド形をした頂点の専門科目に到達・終了した学生諸君が,それぞれの職場において私たちの意図した改訂の目標を活用・実証されることを願ってやみません。英文学科一同,皆さんのご活躍を心から願っております。

本年度の英文学科には,163名の新1年生が誕生いたしました。昨年同様に42日から8日までガイダンス期間が設けられ,この期間中にTOEICの説明とIP試験が行われました。421日には,「海外語学研修」と「3年次留学プログラム」に関してKent大学(UKC)のMrs Nancy Gaffieldによる説明会も行われました。在学生諸君および教職員の皆様のご協力で大きな問題も起こることなくこの期間を終えることができました。ここにご報告とお礼を申し上げます。

この度,副手の移動がありました。副手として4年に亘って務めてくださった沼尻明子さんが退職し,後任として英文学科新卒の三和千種さんが英文学科の副手になりました。沼尻明子さんには学科のスタッフだけではなくすべての学生諸君を代表してお礼申し上げます。

本年度,『日本大学文理学部全17学科共同制作自主教材英語テキスト(補助教材)』Let's Talk about Our Fuculties & Our Interestsが刊行されました。この冊子は,16学科および総合文化のご協力を得たことによって,基礎教育科目外国語・英語の幹事学科である英文学科の願いが叶った成果です。この場をお借りして,ご協力をいただいた各学科および総合文化の先生方に,また編集責任者の野呂有子先生,編集委員のアーサー・ロバート・リー先生,スティヴン・J・ハーディング先生,高橋利明先生,吉良文孝先生,塚本聡先生に感謝申し上げます。以下,本冊子の「まえがき」の全文を掲載させていただき,英文学科の近況報告とさせていただきます。

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本冊子,日本大学文理学部全17学科共同製作自主教材英語テキスト(補助教材)Letʼs Talk about Our Faculties & Our Interests は,平成15年度,「FD活動・授業改善活動に対する補助金」に応募し採択され,研究成果の一環として編集されたものである。

補助金を受けた理由は,第一に,平成14年度語学教育センター準備委員会において,「日本大学文理学部における外国語教育の現状と課題をまとめ,外国語教育科目の配置・内容等について,短期および中期的に改善すべき方向を探る」という議題が提出されたことがあげられる。

第二に,高等学校段階での学習指導要領改訂を踏まえて,新指導要領に基づいた英語教育を受けてきた学生の教育歴に準拠したカリキュラム構築のため,高等学校段階での指導内容と,大学段階での必要学習内容の明確化を推進する必要に迫られたことがあげられる。

第三に,最重要の課題として,グローバライゼイションの促進が急務とされる社会状況下で,社会の要請に応じた,大学における英語語学教育カリキュラムの構築および,その中での大学生の英語運用能力の向上が要求されている現状がある。

これらを受けて,基礎教育科目外国語・英語の幹事学科である英文学科としては,カリキュラム完成年度を迎えるにあたり,英語カリキュラムの実体把握および基礎教育科目としての英語18の内容充実を図ることを英文学科の学科会議において確認し,その具体的な方策について討議を経て模索し続けてきた。

その結果として,以下のことを実行に移すことが決定された。

 

   日本大学文理学部の英語教育の質向上と拡充をはかる。

   英語学習の到達目標の明確化により,学生が自己の英語運用能力向上のために英語学習に取り組む自律的学習態度の涵養を促進する。

   日本大学文理学部における基礎教育科目外国語・英語18の授業内容拡充,及び,広く学生の英語運用能力の向上を図るために,文理学部全17学科共同制作英語自主教材(補助教材)を作成する。

その第一の目的は,日本大学文理学部全17学科の科目名を英語で提示することにより,学生が自分の所属する学科の専門科目について英語で考える基点を与えることにある。

第二の目的は,日本大学文理学部学生として必要とされる英語語彙一覧の具体的かつ段階的提示により学生が自律的に日本大学文理学部生として必要な教養としての英語運用能力を獲得する動機付けを図る事にある。

第三の目的は,具体的な専門領域に関する英語リスト及び英語原稿をモデルとして提示する事により,全17学科の学生が,ある一定の到達目標を定めて授業に参加するという学生の能動的学習態度の涵養を促進する事にある。

本冊子,Letʼs Talk about Our Faculties & Our Inter­estsは非売品とし,著作権は日本大学文理学部に存するものとする。これは本冊子作成が全17学科の協力体制のもとでのみ可能となったがゆえである。

なお,本冊子は第一部と第二部から成る。

第一部は,日本大学文理学部学生の一般的教養として最低限度必要と考えられる英語基本語彙1000語の語彙リストである。

第二部は,以下の三項目から成る。

 

 1 17学科各学科の概要の簡単な英語の紹介文

 2 17学科各学科の科目名と英語による表示

 3 17学科各学科の基本英語語彙リスト200から300程度の表示

3)の,文理学部全17学科各学科の基本英語語彙リストに関しては,すべての学科からの賛同と協力を得て,多忙にも拘わらず,快く,当該学科の特殊性と独自性を生かした形での基本英語語彙リストをご提供いただくことが可能となった。市販のテキストとは異なり,リスト作成教師が,教え子を目の前にして作成した,まさに手作りの,丹精込めた語彙リストである。

今後は,本冊子(試作品第一号)をたたき台として,17学科各学科および総合文化からのご意見・ご教示等をいただきながら,より良い共同制作テキストを目指して一層の精進を続けていくことが基礎教育外国語・英語幹事学科としての英文学科の使命であると考えられる。

それは,そのまま,国際化時代を迎えた21世紀の日本を代表する大学の一つである日本大学の,さらにその中核を担う文理学部による,国際共通語としての英語を基調とした語学教育の一端を担う作業であると考えられる。

本学部の全17学科各学科に所属する学生たちが,本テキストを参考にしながら,自分の所属学科および研究分野について,互いに英語で語り合い,さらに,他国の学生たち,他文化を持ち,他言語を母国語とする学生たちと英語で語り合う作業を通して,Free, Ideal, Academic Community ―― 自由なる理想の学問研究の共同体 ―― を構築していく中で,日本大学文理学部がその中枢を担うことが本プロジェクトの最終課題であり最終目標である。

 

最後に,本プロジェクトにご協力くださった,全17学科の方々,そしてその他のすべての方々にこの場を借りて心からお礼を申し上げる。

 

     20043月吉日

       日本大学文理学部全17学科共同製作

       自主教材英語テキスト(補助教材)

                Letʼs Talk about Our Faculties & Our Interests

編集責任者 野呂有子



言語と文化

日本大学文理学部英文学科教授 鎌形清喜

 

英国大使館勤務時代,ICU大学院時代,英国政府給費留学生を含めた5度の英国留学を通して,英国人を始め世界各国からの人達と接触してみて,強く感じた事は,マスコミ等の発達により,各国の人々が同じような行動様式に近づいているという事です。私は,こう述べる事によって,全ての国の人々が,全て同じ行動の型にはまっているのだということではなく,行動の型の大部分は,人類に共通したものではないかということです。ただここで,充分心しておかなければならない事があります。それは,それぞれの国の民族は,その国固有の宗教なり,文化様式を持ち,その底には固有の世界観を持っているということです。この辺の充分な認識と研究が,我々日本人が国際舞台で活躍する時に,強く望まれるわけです。特に他の国の人々の思考パターンを理解し,それらへの洞察をもつことは,我々が認める以上に困難なものであり,事態は我々が考えているほど甘いものではないのです。

例えば,英国では,discussion という事が社会の重要な要素を占めています。まざまざと freedom of speech を感じます。彼等からみると,会話を楽しむ事の出来ない人,常に yes-man 的存在の人は,あまり重くみられないようです。会話を楽しむ事が出来,きちんと自分の意見を持ち,はっきりとそれを表明出来得る人,Yes YesNo No ときちんと言える人でなければならないのです。この辺には,西洋の二者択一的な物の考え方がうかがえるわけですし,東洋的思考との相違を感ずる事が出来ます。そしてこれは又,深く文化の問題ともかかわりあいをもってくるように思われます。文化のいろいろな部分が全部言語に投影するわけです。彼等にしてみれば, “Silence is golden” ではないのです。おじおじせず言うべき事はきちんと言う事が非常に重要なのだ。ところが日本人的あるいは東洋的感覚でゆくと,どうしても曖昧になりがちな場合が多い。Yes とも No ともつかない返事が返ってくる。

しかし,よく考えてみると,客観的世界あるいは種々の事柄に関して,全て二者択一的に categorize する事は,いろいろ危険性も出てくるし,そうそう割り切れるものではない面もある。同じ Yes の中にも,数多くの段階があり,No にごく近い Yes もあろう。又,逆に,同じ No でも,Yes に非常に近い No もあろう。二値的な目盛りにあてはめるかわりに,ゼロから100パーセントの間の無限数的な値が存在するという事である。科学者の使う不定値的な考え方である。中国では,Yes No かという質問はあまり意味をなさないと言われている。彼等の関心事は what ではなく,how だからだと言う。つまり中国人は排中律的な範疇を問題にするのではなく,非排中律的な範疇に重きをおくという説である。

西洋の中間色を認めない二者択一的な考え方に対し,東洋の世界認識方法は,曖昧なようだけれども,ある面では,二者択一的に割り切ってしまう考え方より,危険性がないし,妥当な客観的世界の切り方とも言えるかも知れない。ただここで問題なのは,西洋的な物の考え方が優っているとか,いや東洋的思考が良いとかの問題ではない。文化階梯は存在しないのです。上下関係で文化を判断してはならないのです。このような相違が存在するという事の充分な認識が必要なのです。

日本人が国際人として活躍する時に,日本人的感覚で物事を考えてゆくと,考え方が甘くなったり,延いては日本人の人格を疑われる可能性も出てくる。だからといって,全て考え方を西洋人のようにせよといったところで,そう簡単に思考パターンを変えることはできない。だから,この辺のところは,国弘正雄教授の主張の如く,おのがじしの多様性(diversity)を生かしながら,しかも,相互の意思疎通を可能にしてゆかねばならないだろう。ただこの相互の意思疎通をかなりの深い所で可能にする為には,日本人としてはどうしても西洋の人達の物の考え方を充分認識し,異なる文化をもつ人との重なり合いの部分を広げてゆかねばならない。

このような面の充分な考慮なくして,それ相当の言語など話せるものではない。言語それ自体人間文化の一体系であると考えられるからです。国弘正雄教授は,この点に関して,言語とは所詮は文化なのであり,背後にある文化全体の理解なしに言語のみの橋わたしは不可能なのだと考える。この言には,深く共鳴するところがある。従って国際的交流においては,どうしても,他の国の人達の客観的世界の切り方に精通していなければならない。

このように,各言語の背景にある文化や物の考え方,又,底に流れている思考,感情が言語と密接な関係にあり,言語そのものの表現法に大きな影響を及ぼしているわけで,文化を背景にしない言語はないという認識から出発しないと,口先だけの communication に終る危険性が多分に出てくると思われる。この意味で,外国で種々の culture shock を体験し,絶えず新たに物事のありさまを考え直していく事には,非常に大きな意味があるのだと思います。そして,ついには,日本,日本人というものの再認識にもつながってくると考えられるからです。このように,異質な文化にわが身をさらすことの意義は,自分の文化の体系がどのように機能するかについて,知見を広めることにあるのです。

言語と文化の問題に関連して,考慮しなければならないもう一つの事は,kinesics proxemics を含む paralanguage の問題であろう。Communication におけるこの知覚されない側面について,我々はもっと研究する必要があるし,語学教育にとっても必ず触れなければならない問題である。時間や空間の扱い方ひとつとっても,各民族により相違があると Hall は著書 “The Silent Language” でとりあげ,その認識の重要性について解いている。又,これらの paralanguage が言語のみの communication と質,量の点でどのように違うのか。こういう点も今後もっと解明されなければならない事であろう。



大学時代から今日に至る雑感

聖徳大学英米文化学科教授 深沢俊雄

 

将来は中学校か高等学校の教師になるつもりで,昭和38年に文理学部の英文科に入学した。

私の学生時代には,大和資雄先生が英文科の学科主任をされていた。当時は,文学の分野では大和資雄先生が,語学の分野では石橋幸太郎先生が学会等の場で大活躍をされていた。そのご活躍の様子を研究社の英語月刊誌である「英語青年」や「英語教育」等の雑誌で拝読しながら,日本大学の英文科に入学したことに誇りを感じたものでした。

しかしながら,大学の12年の間は図書館で英文学以外の書物を読んでのんびりと過ごしていた。3年生になる頃から,就職や卒業論文のことが気がかりになり,学業に真剣に取り組まなければと思うようになった。その頃,「英語青年」だったか「英語教育」だったのかを今ははっきり覚えていないが,ジョン・スタインベックに関する記事を読み,当時はまだそれほど多くの人が卒論のテーマとして取り上げていない作家のように思えて,卒論に『怒りのぶどう』をテーマにしようと決意した。

石一郎氏の翻訳を新潮社版で読みながら,内容量が多くて大変だなくらいに思っていたのだが,いざ原書を手にして読んでみると,それどころかスラングが多くて閉口した。当時は,自分自身にとってスラング辞典に関する知識もほとんど無く,大分悩まされた。途中,何度か他の作家の作品に変えてみようかとも考えたが,何とか『怒りのぶどう』についての卒論を完成し,就職も郷里山梨の高等学校教諭に決まった。しかし,大学院への進学も諦めきれずに,県の教育委員会に大学院への進学を理由に丁重にお断りした。

大学院では,大和先生,石橋先生,古谷専三先生,原田茂夫先生,鈴木幸康先生に教えを受け,修士論文は語学を選び,原田先生に論文指導をしていただいた。学部では文学を,大学院では語学を論文のテーマにしたが,大学院終了後は,学部時代に論文テーマに取り上げたジョン・スタインベックに戻り,現在も研究を続けている。

大学院終了後は,岡田實先生のお世話で大学院時代から非常勤講師をしていた日大鶴ケ丘高等学校で専任教諭となり,3年ほど勤めた。その後,難波利夫先生の紹介で東京立正女子短期大学英米語学科に在職したのち,聖徳大学で学部の英米文化学科創設時に,藤井繁先生に推薦していただき,現在聖徳大学で大先輩の藤井先生とご一緒に勤務し,「アメリカ文学史」,「アメリカの歴史」,「アメリカ文化」等の科目を担当しながら,スタインベック研究ならびにアメリカ文学とアメリカ文化の研究をしている。

現在,私がこのように教職の道に携わっていられるのは,学生時代に素晴らしい恩師の先生方に教えを受け,学生時代のみならず卒業してからも,素晴らしい大先輩の先生方との出会いとご指導に恵まれたからである。一期一会の言葉のように,これからも多くの人との出会いを大切にしていきたいと思っている。



回想の詩

平成十五年度大学院博士前期課程終了 村上祥太郎

対話をしよう

二つの人生の十字路において

いま別れたらもう二度と

会えないかもしれないのだから

ハーフィズ(14世紀 ペルシャの詩人)

忘れられない人たちがいる。人生の交差点において,僅かな時間にしか会えなかった人たち。回想を呼び起こす場所。それは確かに,この長い人生においては,瞬き程の一瞬なのかもしれない。然るに,その一瞬が,未だに僕をこんなにも支えてくれ,励ましてくれる炎となっているのだ。

大学四年次,そして大学院の二年間,僕の両親は仕事の関係でアメリカ・ヴァージニア州に住んでおり,僕は一年の内の数ヶ月を彼の地で過ごす,という幸運に恵まれた。ここではヴァージニアでの,言葉に置き換えられそうもない思い出を,それでもどうにか記してみたいと思う。

ヴァージニアに住む,全ての友人に敬意を表して。

 

まずは,通った語学学校について書いてみたいと思う。

語学学校はアメリカそのものの縮図だと言える。人種,宗教から,服装,香水までがまるで異なる人たちに会い,それぞれの母国語訛りの英語で会話を楽しんだ時,此処アメリカが移民の国であることを再確認させられた。我々日本人が,英会話に対し,尻込みをしてしまう理由のひとつに,発音の悪さ,もっと深めて言うと,Japanese-Englishに対する恥ずかしさが潜んでいるように思われる。然るに,英会話学校では,そのようなことを気にしている人は,誰ひとりとしていなかった。イラン人はペルシャ語訛りの英語を話し,イタリア人はイタリア語訛りの英語を話す。ベトナム人はベトナム語訛りの英語を話し,我々日本人は日本語訛りの英語を話す。その中で,アメリカ人やイギリス人が話す英語もある,という考えが人々の意識の根底にあるようなのだ。それで受け入れられる空気があった。もはや,「きれいな英語」ないしは「美しい英語」という意識がなくなりつつあり,英語は「言葉」という域を脱し,「道具」として認識されている事実を目の当たりにした。我々はもっと,日本語訛りの英語に自信を持ってもいい。

会話を楽しむために用意された授業も,実に楽しいものであった。「自国の学校と,アメリカの学校と,大きく異なる点は何か。」から「若者はどうして,あんなに車の速度を上げて運転したがるのか。」まで,非常に興味の湧く話題を提供してくれた。

英会話の上達について述べる時,今ではもうすっかり常套句になりつつある「積極性」という,この陳腐な言葉を挙げることは,もう止めにしたい。この語学留学中に,生活をしていく為に,何が何でも英語を自分の物にしなければならない,と意気込む人たち出会った。貧しさが故に,いつも同じ服を着て授業に参加している初老の女性。仕事と生活,英語の勉強に追われ,いつも目を充血させたまま授業に臨んでいた男性。

(英語を話すことが出来たら,どんなに素敵なことだろう。)

という考えが,如何に生温いか ―― つまり,人間の器量とは,生活や物事の豪奢などを競うのでなく,日々の心意気や切所での駆け引きで決まるもの,ということをこの時,痛感した。

 

また,休日には,ヴァージニア在住の友達JeffErika(このふたりには,どれだけ言葉を尽くしてお礼を述べても,とても言い足りない)は,親切にも僕に多くのヴァージニアを見せてくれた。Coors Lightを飲みながらのビリヤード。モーターショウ。自然博物館。動物園。ネイティブ・アメリカンのお祭り(Pow Wow)。―― 彼らとは,ハーフィズの詩とは無縁で居られたら,と切に願う。

回想とは大概そういうものであるのかもしれないのだが,時間が経つに従って,ますます心に響く言葉というものがある。僕が口にした英文を,Jeffが,

「ヴァージニアでは,こういう言い方をするのさ。」

と教えてくれることがあった。僕はその度毎に,彼らが言葉に対して如何に敬意を払っているか,そして,言葉の背後に潜む歴史や文化をどれほど大切にしているかを思い知らされた。消化し切れていない外来語をむやみやたらと使いたがる我々は,言葉に対する責任,敬意をもっと持ってもいいのではなかろうか。

第三代アメリカ大統領として辣腕を揮い,独立宣言を起草したことでも有名なThomas Jefferson。この稀有なる大統領の邸宅が残るMonticello。何処までも続く石畳に歴史の重みを見い出した古都・Richmond。入植初期の雰囲気を漂わせるJames Town。植民地時代の気概をそのまま再現したWilliams Burg。土砂降りのTide Ballpark(新庄や小宮山も在籍したNorfolk Tidesの球場)。奢れる人も久しからず ―― 激戦の跡が残るYork TownNorfolk, Virginia Beach, Olive Garden” ….

人にはただの単語の羅列に過ぎないとしか思われない言葉も,僕にはとても大切な意味を伴って,僕の心に蘇ってくる。この感情を適切な言葉で表現しようと試みても,それを表すだけの言葉が足りないほどだ。

 

遠くヴァージニアで灯った胸の炎は,その後絶やすこともなく,未だに燃え盛っている。

2002年のW杯時に,東京都では,東京にやって来るたくさんの外国人に対応すべく,観光ボランティアを募ったのだが,不肖ながらこの僕も,仲間に入れさせて頂ける光栄に浴した。僕がヴァージニアで感じた幸せを,彼らもまた,此処東京で感じてくれたら ―― ヴァージニアの回想は,英語と仏語の学習を僕に続けさせている。

 

僕の机の上,一番目に付く場所に飾られている写真を眺めたり,当時,夢中になって聴いていた“The Christmas Song”を耳にすると,僕の心は今でも遥か遠くヴァージニアへと飛び去り,未だに彼の地を旅しているような感覚に捉われる。湖に囲まれ,様々な緑を楽しませてくれた,あの美しいヴァージニアの光景だ。



決して妥協せず・・・

日本大学三島高等学校・中学校講師(専任扱) 関根浩子

 

『平成15102日』,私の夢が実現した日。その日,私は人生を変える通知を受け取った。『日本大学三島高等学校・中学校』での採用通知だった。

「日本大学付属高校教員採用適性検査」今回が3度目の挑戦だった。それまでに,2度最終面接に残りながらも,なかなかチャンスを掴むことができなかった。大学院生の頃から非常勤講師を勤める機会に恵まれ,悩みながらも本気で取り組み,自分なりに努力をしてきたつもりだった。だが,学校長との面接で2度も落ちるということは,「自分は教師に向いていないのではないか」「教育現場で必要とされていないのではないか」「教師として自分に足りないものは何なのか」毎日不安でいっぱいだった。今回は3度目の挑戦。今回ダメだったら,教師をきっぱり辞めるべきなのではないかと考えていた。学校長との面接で3回も落ちるということは,「きっと自分は教師としてふさわしくない。そんな自分が教壇に立っていては,生徒に申し訳ない。」とも思った。また,『やりたい』と『できる』は全く別のものなのだということも感じた。先の見えない非常勤生活。頭の中では「教師を辞めるべきではないか」と考えながらも,「この仕事をずっと続け,いつか理想の先生になりたい。いつか誰かの心の恩師になることができたら。」と毎日苦しんでいた。

振り返ってみると,大学卒業後の私の人生は決して平穏なものではなかった。大学4年次,一般企業への就職活動もしていたが,「教師以外はやりたくない。自分にはできない。」と,両親への相談もなく途中で全ての活動を辞め,大学院を受験した。当時,両親からは「なぜ,自らいばらの道を選ぶのか」とこっぴどく怒られたが,あの時の自分の決断はやはり間違っていなかったと思う。大学院に入って少しすると,非常勤として働き始め,また塾で中学生に英語を教え始めた。大学院修了後,一人の人間・教師としてそれまでにない試練に直面したが,周囲の人々に助けられ,何とか乗り越えることができたと思う。そして,たくさんの人々に支えられ現在に至っている。大学院でお世話になった関谷先生,原先生,小野寺先生,また,多くの友人との出会いが,私の人生の宝物になっていることは間違いない。

「努力は必ず報われる」この言葉に疑問を抱きながらも,「自分が理想とする先生に少しでも近付きたい」という思いでこれまで歩んできた。不器用ながらも,ここぞという時には自分の人生に決して妥協しなかったつもりである。人生の岐路に立った時,自分で考え,いつも自分の気持ちに正直に生きてきた。自分で選んだ道であれば,それが遠回りであったとしても,また輝かしい光がすぐにみえない道であっても,決して後悔はしない。いや,少なくとも,他人に選んでもらった安全な道を行くより,後悔は少ないはずである。私のこの生き方が,両親に必要以上の心配を掛けてきたことは否定できない。「少しでも楽な道を歩んでほしい」というのが親の心情であることは分かっている。寛大にも,私に自分の人生を自分で選ぶことを教えてくれ,常に温かく見守ってくれる両親には,本当に感謝している。

取り留めのないことを書き連ねてしまったが,今,私は非常に充実した生活を送っている。自分の気持ちに正直に生き,やっと専任教員になることができた。日本大学三島高等学校・中学校で毎日生徒と共に,懸命に生きている。休みは全くないが,それでも仕事が楽しいと思う。私が学生のみなさんに伝えられることがあるとすれば,『やりたいことがあるのならば,諦めずに頑張ってほしい』ということだけである。いつ報われるか分からないが,後悔しないように頑張れるだけ頑張ってほしい。そして,自分の夢を追い求めてほしいと思う。最後に,私が報われたように,頑張った人は何らかの形で報われることを祈っている。



新しい地で生活をはじめて

大垣日本大学高等学校常勤講師 壬生雅彦

 

私は,岐阜県に引っ越しました。

この春から大垣日本大学高等学校で英語教師として勤めています。生まれてこのかた東京から出て一人暮しなどしたことがないし,ましてやそんな事を考えた事もありませんでした。あえて言うならオーストラリアでのホームステイや,そこでの放浪の旅くらいです。親元から離れた事がないと言えば,マザコンやらシスコンなどと揶揄されそうだが,そうではなく…出来なかったのです。中学校までは公立,高校から大学院までは櫻丘高校,文理学部でした。実家から離れるとなると家賃と生活費がかさんでしまい好きな本や服を買えず,美味しい物を食べられなくなる,更には自動車を所有できなくなると考えたのです。本,服,食事,自動車これらどれを取っても,実は全て英文学科の先生方から学んだことです。6年間で一体何を学んだのだろうか,と自問自答したことは一度もありません。私は全てを通して言語学,文学,英語教育学を習得ならぬ「体得」しました。どれをとっても生活に密着したものなのでとても親しみやすく,分かりやすいのです。「体得」してしまうと,どうしても人間には「こだわり」を持ち始め時には「頑固者」と言われる事もありますが,それはそれでいいのです。言い方を変えれば「プライド」を持っているのです。私はそれでいいのだと思います。先生方のお陰で学生時代から色々な事にプライドを持てました。

私は,初年度から1年生の担任を任されることになりました。これは身に余る光栄であり,とても嬉しいです。半面,私で勤まるのかと今でも不安がいっぱいです。331日に辞令を交付されてから428日まで一心不乱に走り続け,やっと休みが429日にありました。その間,入学式,新旧歓送迎会,新入生宿泊研修など色々な行事が目白押しで目が回りそうでした。私にとって初めての事ばかりなので何事にも気張って生活をしていました。生活のリズムを作り直して軌道に乗せるのはとても大変な事で,やっと慣れてきた頃にGWになってしまい残念な気持ちと嬉しい気持ちでした。1ヶ月走りつづけた後の東京での友人達との美食は最高で,色々な事を語らい5月は周囲に気を配りながら走れそうな気がしました。友人の力は素晴らしいです。

先日,友人との会話の中で考えさせられたことがあり,その後様々な本にあたったところ日本語は主語の欠落が多く,英語は主語が欠落しづらいことを再認識しました。例えば,日本語で「車を運転する。」と言うが,英語では一般的に “I drive a car.” です。相容れない言語を比較するのはとても心苦しいが試みます。

 

  「車を運転する。」… ① は日本語としては主語が欠落しています。

  しかし英語に直してみると以下のようになります。

  I drive a car.” … ①ʼ

  ①ʼの主語を外みます。

  (この場合「省略」と「外す」は区別する)

  drive a car.” … ②

  「車を運転しなさい。」… ②ʼ

 

ここでは ① と ①ʼを比較してみると,①(日本語)では主語を置かなくても人称の制約も無く意味をなすが,英語は主語を置かないと命令文になり主語の人称が自ずと ② のように2人称に決まってくるのです。日本人が英作文する時にはおそらく① → ①ʼ,②ʼ→ ② にできるだろう。しかし,① → ①ʼが出来なくても学習者のerrorの対象にはならないと思います。

 

ある文献にはこう書かれています。

『日本語はある状況を,自動詞中心の「何かがそこにある・自然にそうなる」という,存在や状態変化の文として表現する。一方,英語は同じ状況を,「誰が何かをする」という意味の,他動詞を挟んだSVO構文で示す。つまり人間の行為を積極的に表現する傾向が強い事を指摘した。』

金谷武弘(2004)『英語にも主語はなかった』講談社

 

以上の事象を証明するのに ①,② を用いました。

日大櫻丘高校で英語を教えていたころから動詞(自動詞と他動詞)を中心に授業を展開していましたが,これはとても基礎的な考え方であるが故に身に付けなくてはならないことなので力を入れて授業しています。実は,このメソッドは我が英文学科の大先輩にあたる故「古谷専三」先生の『古谷メソッド』を間接的に私の父親から教わったものです。私自身が高校生時分に教わり始めたこのメソッド,とても難解であり苦悩する日々が続き学部生の1年生の時にやっとわかり始めました。このきっかけを与えてくださったのは,私の卒論と修論の指導教官である田室邦彦先生をはじめとする英文学科の先生方です。現在の高校生にこのメソッドを教えるのはとても骨が折れますが,根気よく教えています。

 

最近,水の違う土地での生活にやっと慣れてきました。岐阜県は「木曽三川」と呼ばれる木曽川,長良川,揖斐川がありあます。これらの恩恵で水はとてもおいしいです。近所には湧水があり,週末ともなると遠方から18リットルポリタンクを両手に持った人々でにぎわいます。先日その水を一杯飲んでみたところとても美味しく驚嘆しました。水道水も東京とは全く異なり,シャワーや風呂をあがっても皮膚が荒れなくなりました。こちらの水はとても美味しく軟らかいのです。先日,岐阜県のとある山中に粗大ゴミの不法投棄が報じられましたが,こんな事があると美しい水源が失われてしまうのかと不安で仕様がありません。

不安と言えば,自分のホームルームを初めとする高校生の言葉です。コミュニケーション能力をねらった現在の外国語教育は適切な方向に進んでいるのかどうか疑問を投げかけたくなります。書けなくても良いが喋られれば良い,こんな風潮が蔓延しそうです。正しくコミュニケーションをとるのには,自分のボキャブラリーと正しい語法が必要です。言葉は生きているので,常日頃から新聞,雑誌,本などを読むことが求められ,そこから正しい言語の運用を心がけることが大切です。間違った言語運用を正す動機付けを考えるのに様々な本を読む日々を送っています。

言語運用を考えると英語教師という職についているので,classroom Englishを心がけています。無理無く言える部分は英語で,難しい部分は日本語を目指しているのだがなかなか難しいようです。東京の地元にはアメリカンスクールがあり,彼らの使う言語はまさにこのパターンです。日本語と英語を混ぜて使う,とても違和感の無い言語です。普通では違和感を感じるでしょうが,不思議と感じません。これが,原点なのだと確信してclassroom Englishを発展させようと思っています。



サマージョブを通して

日本大学文理学部4年 水嶋美穂

 

大学3年の夏,私はアメリカでサマージョブを体験しました。サマージョブというのは,主にヨーロッパ系の学生の間でよく知られていて,いわゆるワーキングホリデーの学生版といったところです。日本ではここ数年前に認められ,まだまだ日本人学生に知られていないのが現状です。私もある大学の掲示板でそれを始めて知り,やってみる事に決めたのでした。

とはいえ,異国でのアルバイトをしようと決心はしたものの,多くの問題がありました。それは,ビザの申請,住居探し,アメリカ政府へ働くためのソーシャルセキュリティナンバーの申請,そしてなんと言っても一番大変だったのが受入先探しを日本からせねばなりませんでした。参考にした文献や手続きに使う文献も細かな専門英語で書かれています。私もこれには大変苦労しましたが,おかげで英語に触れる機会が増え,より英語が好きになりました。また受け入れ先探しの際は,TELFAXE-MAILを使ってアプローチを続けたため,積極性とかなりの度胸もつきました。そんなこんなで数ヵ月後,念願の仕事先を見つける事ができました。

私が働く兼住むことになったところはコネチカット州のハートフォードにあるホステルでした。ここでの私の仕事はというと,電話予約の受付やベットメイキング,クリーナーなど殆ど全てのことをさせてもらえました。日本と違って様々な持ち場をすぐにその場でさせてくれる点に始めは大変驚きの連続でした。しかし高1から様々なアルバイトをしていることもあり,どんな仕事も慣れと度胸でクリアしていくことができました。

しかし,時に本当に大変な仕事もありました。というのは,とても大きくて重たい草刈機の操作や,背丈の高い木々の裁断なんかは,背伸びしても届かない私にとって大変なものだったからです。現に今となっては笑える話ですが,私の刈った芝生はガタガタであちこち長さが違かったり,チェーンソーで切った木々の天辺も斜め切りになっていたりと,とても見栄えの悪いものでした。そんな時いつも助けてくれたのが,お客さんでもあり,友達でもあるチェコ人のアレスとアメリカ人のキャロル,台湾人のメイヤでした。彼らとは休日も一緒にどっかへ出かけたり,遊びに行ったりしました。

生活面ではホステルで生活していたのもあり,様々なアメリカ人や各国の人々にもあって話をする機会がたくさんありました。異文化を理解する事は本当に難しかったですが,多くのことを学ぶ事ができました。中でも宗教を熱く語る別の台湾人の話や世界を飛び回っているイタリア人ジャーナリストの話,これから留学生となるフランス人の女の子の話などは,私には思いもつかないような世界ばかりでした。

1ヶ月と20日間ハートフォードのホステルで仕事をした後,残りの10日間はサマージョブのもう一つの特権である旅行を楽しみました。仕事期間中も午後と毎週土曜日が休みで,いつも23つ先の町まではよく遊びにいっていましたが,アメリカでの長距離の旅は未だ経験したことがありませんでした。私は残った期間,ボストン,ニューヨーク,ミスティック,ナイアガラフォールズ,フィラデルフィア,ワシントンDCなどたくさんの大都市や田舎町を訪れました。中でも私の一番心に残る町はミスティックとナイアガラフォールズでした。ミスティックはまるで映画に出てくるような空気の澄んだ港町で,大自然とおしゃれな住宅のある田舎町でした。店は56時に閉まってしまう程,のどかな町ですが本当に平和な町でした。海辺に写る白鳥やボート,真っ赤で色鮮やかな夕焼けの色は,見る者全てにため息をつかせる程きれいなものでした。またカナダのナイアガラの滝も本当に見事で,数百メートル離れた先からも水しぶきが風に乗って浴びられる程すごいものでした。

この2ヶ月間,本当に数多くの経験をすることができました。中でも様々な人々との触れ合いは,私に多くの衝撃を与えただけでなく,もう一度自分というものを振り返る機会を与えてくれたのです。私がサマージョブを通し感じた事は,異文化を理解することは難しいようで,実は簡単な事ではないかということです。なぜなら私にとって,その国を知ろう,学ぼうという意識自体が,コミュニケーションを円滑にさせる重要な役割だと思うからです。



Buy one get one free!!!
~もう一回行きたいな~

日本大学文理学部4年 依田悠介

 

蒸し暑い春の日差しの中で,気がつくと,そこはすでに東京だった。

一年間は自分にとって長くも短くもあった。自分の人生の中で明らかに異色の光彩を放っていることは,間違いようの無い事実なのである。ここで言える事は只一つなのかもしれない。それは「十人十色の留学があるのだろう」ということだ。今回は多くの中から一つのケース,依田悠介と言う人間の準備を含めた留学ということを話すことができるだけ話したいと思う。

 

事の始めはまずJunior Year Abroadを知るところから始まる。そのときの自分は今から見てもまだまだで,どこから湧いてくるわけでもない,理由のない過信をしていた。自分は出来るし,JYAとしてUniversi­ty of Kent に行けると心のどこかでは思っていた。しかしこれがなかなかうまくいかなかった。実際に受験英語によって武装された当時の自分には,TOEFLは高い高い壁であった。英語が聞けない。どうしても分からない。それが当時からの悩みであった。ところが幸運にも恵まれ何とかJYAの切符を手に入れた。

 

Britainは何もかもが日本と違った。そんなことは当然なのだけれども,そのときはとみにそう感じた。海外旅行もしたことの無い自分が今そのとき留学生として異国の地を踏みしめている。孤独だった。キャンパスに向かうとなお一層その孤独は増す。Britainに着いたのが丁度Easter vacationの真っ只中。Sunday and Saturdayですら働かないBritishがそんな時期に働くはずが無いことは後から考えれば当然だが,そのときはそんなことは知るはずも無かった。数日後,何も準備していないのにもかかわらず,容赦なく全ての店は閉まっていた。ダウンタウン(実際,名前はCity centreなのだが,UKCの学生達のなかにはそう呼ぶものも居る。というのもCanterburyの町はとても小さくCentreと言うほど大きくないというのが彼らの言い分だ)に行ったところで人はほとんど歩いていない,全ての店は閉まっていることを経験した。

British文化を感じた日であった。

数日後,語学の授業(5 weeks intensive course)が始まったのだが,そこではnative speaker達とのcommu­nicationなど,どう生活していくかに関するものが主体で,Academicな内容は少なかったと思う。しかしそんな中で,自分は結局自信におぼれていた。(いる。かもしれない。) 日本の大学では普通の学生達はある程度の点数を取れること,そして授業に積極的444に参加する必要が無いことを知っている。というのは日本の授業はLecture形式で,Seminar形式の授業は本当に少ないからである。事実そう予想していたが,実際は喋ること聞くことが中心であった。そのときに本当に自分自身の能力を疑った。喋れない,聞けない,そして書けなかった。戻ってくるEssayはみな50点を割り,自分は自信を本当に失っていた。(実際はBritish Univer­sity60点以上を取るのは非常に難しいのである。)

厳しさを実感した時だった。

 

何とか切り抜けて,夏休み3週間。その間にたくさんの国を回ることに決めていた。その間に行った場所或いは国は,Scotland, Lake District (ENGLAND), Liver­pool (ENGLAND), Italy, Spain, Holland, Greeceを見て回った。慣れない英語を使いEurope各国を見て回った。この旅行中も決して無事に旅行できたわけではない。まず初めのつまずきはLondon Gatwick AirportからEdinburgh に行く予定だった日,当然check inの時間に間に合うように寮を出た。通常1時間余りで着くので余裕を持って2時間をみた。(ここで解説しなくてはならない。Europeには数々のCheap Airlinesが在って彼らを利用すれば1P~(2円。つまりLondon Stansted Barcelonaまで2円ということも可能)の破格でflightを提供している。が彼らのサービスは皆無で,万が一に客が遅れても待ってくれることはない。)しかしこれがBritish rail service(誰もがunreliableだと言う。特に以前Canterbury-London ServiceをしていたConnexはひどかった)。ちゃんとその日も遅れてくれたのである。しかも遅れてしまっているのに当然のごとく何の代替のserviceも無。その辺りは,Britishはもう慣れているようで何も感じていないようだ。結局途中の駅からTaxiに乗り換え,¥50余りの余計な出費をし,空港まで行くことになった。しかもその10日余り後,GenoaからBarcelona に移動する際に,飛行機の予約を間違えてしまい,あわててBookingし直さなければならなかった。そのときの飛行機代はGenoaからLondonまでならば約100pounds。しかしGenoaからBarcelonaまでは300pounds以上。お金は無いが後の旅行行程を考えると…などと考え結局行くことに決めた。

しかしこの旅での経験はとても大きなものだったと思う。

そして帰ってきてからのEAP courseEnglish for Academic Purpose)のとき,自分でも自分の英語そして社会性が大きく伸びたと思う。そこでは毎日が充実していた。新しい友達も出来た。彼らはみんな英語が自分より出来た。しかし一生懸命伝えようと思うことによってかもしれないが,自分の言いたいことは相手にも伝わったし,自分の英語も伸びていった。そして二週間に一回の1500wordsessay。初めの頃は1500wordsと聞くと腰が引けていたが,後半3本目辺りから,planningも上手に出来るようになり気合も加わり,1晩で書く技術が身に着いた。そしてエッセイを提出した週の週末,金,土,日にはDrinking Partyが待っていた。9時半過ぎまで太陽が輝いている,異常気象の空の下みんなでBBQをしたり,浴びるほどのビールを飲んだり,誕生パーティでビールを飲んだり語学研修でUKCに来た学生にStephenを加えて死ぬほどビールを飲んだり(140!!),Arabicの友人が持ってきたシーシャ(水タバコ,ナルギリともいう)をまわし吸いながら世界について語ったりと,今でももう一度したいと思うような毎日だった。

9月になり大学のAcademic Yearが始まると,本当に勉強で忙しくなった。9月,10月のうちは夏のように遊んでいた。Night ClubにいったりPubに行ったりした。なんといってもTermが始まると活気が違う。これまでの10倍以上の学生がCampusにいる。そしてみんな7時ごろになるとPubに繰り出す。Britainのいいところはなんといっても大学内にPubがあるところであろう。しかもほかに比べて安い(1pt2quid程)。そしてPubでひとしきり飲むと,どこからともなく例の挨拶が交わされる。それはʻHey Man, Venue tonight?ʼ ʻSure Man !ʼ といった具合である。このVenueというのは大学内にあるNight Clubであるが,Pub Clubがみんなの決まりのパターンなのである。自身も,数えるほどだが,彼らとともに行ったことがある。そこではみんな,そろそろ秋だというのに寒そうなバニーガールやナースの姿で踊り狂っている。そこで,たくさんのPUB Englishを学んだ。そして本物の学生の姿がそこにはあった。そこにはアジア圏の学生は少なかった。やはり文化の違いなのだろう。

 

去年の一年間,半年,夏が過ぎるまでは本当に長かった。自分の英語,そして生活力がその間に身についたと思う。今一年を振り返って言えること。それは充実した,そしてかけがえのない時間をすごせたということだと思う。いろいろなことがあった。Britainという国,そしてEuropeという地域もたくさん見えた。例えば宅配PizzaPizza Free DayBuy one get one free(二枚も食えねぇ~どうしろと…)や,勤務中にパトカーをケバブ屋に横付けしてケバブをほおばるPoliceman,閉店時間の10分前にはシャッターを閉めるRegistry officeUnfriendly甚だしい),賞味期限を半年以上過ぎたものが並んだりしているSupermarket,その名もʻNETTOʼ,“I canʼt” と言ったらなんと言っても出来ないし,やろうとしないところ(例え目の前にある品物でも売ろうとしない)。良く飲み,良く暴れ,良く遊び,良く学ぶ学生。そして大の隣国France嫌い。時にはfriendlyで,またどんな時でも自分のペースを守りきる人々。初めはそういうところが日本と違っていてなじめなかったが,今はそれがいいところだと思えてくる。そんな国で,学びたいだけ学べた自分はとても幸せだったと胸を張って今言える。

 

そんな充実感とともに今東京の地に立っている自分がいた。



退任の挨拶
─ On Your Mark ─

元日本大学文理学部副手 沼尻明子

 

どんな大事なことも どんな馬鹿げたことも

 どんな素敵なことも どんな皮肉なことも

 今日のいま このためと言える きっと言える

 (CHAGE & ASKATHE TIME』より)

 

ちょうど4年前,副手として就任した際に引用した歌詞です。あれから4年経った今も,この歌詞に励まされています。この他にも,私の心の支えとなった歌詞がたくさんあります。そこで,これらをいくつかピックアップしながら,副手としての4年間を振り返っていきたいと思います。

この度,平成163月末日を持ちまして,副手の任期が終了しました。会員の皆様を始め,これまでお世話になりました皆様に,この場を借りまして,厚く御礼申し上げます。

無事に任期を終えるまでには,長い道のりがありました。就任して2年目の秋(平成139月)までに,私と一緒に働いてきた3人が(うち2人は任期途中で)退職してしまったからです。つまり,就任してわずか1年半で,副手4人の中で一番上の立場に立ってしまったのです。当時の私は,引き継いだ仕事のことで精一杯でした。そのため,先輩として的確な指導ができず,一人で悩みを抱え込む日々が続きました。いつも,この困難な状況から逃げ出すことしか考えていませんでした。そんな中,以下の歌詞に出合いました。

 

 ここは途中だ 景色は変わる

 ここは途中だ 旅の何処かだ

 ひとつだけ多くても ひとつ何か足りなくても

 終わるもんじゃない

 (CHAGE & ASKA『ロケットの樹の下で』より)

 

 悪いことばかり考えていると

 心はひとつの 色で塗られてく

 いつも どれかひとつを どこかひとつを

 くぐり抜けて来ただろう not at all

 そこに立って そのとき わかることばかりさ

 それが自分と思えたら 軽くなる 歩ける

 (CHAGE & ASKAnot at all』より)

この2つが,副手を4年間続けられた原動力となりました。その当時の自分と重なる部分がたくさんありました。これらを通じて「分からないから仕方ない」のではなく,「いつかは分かるさ」っていう前向きな気持ちを持ち続けようと決心しました。

ここで,私が副手として4年間,どんな仕事をしてきたか,簡単に紹介します。①学生との関わり…提出物の受付,相談に乗るなど。②先生方との関わり…雑用など。③学会…出納帳の記入,研究発表会の案内作成など。④その他…学科内会議の資料・議事録作成,学生に配布する資料作成(例:ガイダンス,卒論)など。まだまだここでは紹介しきれないぐらい,数多くの仕事を経験しました。①は,ほとんどの人達がイメージしているものでしょう。しかし現実は,学生の目からは見えないものばかりで,それが②~④に表されている通りです。ここに示したように,副手の仕事は,一言では説明しにくいものです。

就任前,私と入れ替わりで退職した先輩副手から,次のようなアドバイスをいただきました。「副手として研究室にいる間に,自分はこの仕事をやったと言えるものを残していって下さい。」私は自信を持って,こう言えます。「この意志を貫き通した。」と。4年間で,2つの学会(日本大学英文学会,日本ナサニエル・ホーソーン協会)に従事してきたからです。

まずは“日本大学英文学会”です。月毎に会計を締める作業に最も苦労しましたが,英文学科の諸先生方を始め,会員の皆様に支えられ,この仕事を通じて,微力ながらも日本大学英文学会に貢献できたと実感しています。

もう一つの学会は“日本ナサニエル・ホーソーン協会”です。事務局員を2年半,勤めさせていただきました。中でも一番の思い出は,平成145月(就任3年目)に,生まれて初めて学会出張を経験したことです。第21回全国大会が札幌大学で開催され,2日間にわたり,受付及び大会運営に関わる種々の職務を遂行しました。ここでもお金を管理することの厳しさを痛感しました。

日本ナサニエル・ホーソーン協会では,外部とのつながりがいかに重要であるかを教わりました。日本大学英文学会同様,あらゆる知識を吸収できる,貴重な日々でした。時には責任のある仕事も任され,プレッシャーを感じることもありましたが,當麻先生の厚い信頼の下,無事に事務局の仕事をやり遂げることができました。副手4年間で,学会の仕事を2つも経験できたことは,私の人生の誇りです。

平成9年(1997年)夏,私が学部2年の時,海外語学研修の引率をして下さったのが,當麻先生とハーディング先生でした。この研修に参加し,約1ヶ月間ケント大学で過ごしたことがきっかけで,當麻先生には公私にわたり,現在も大変お世話になっています。仕事をしていく上で,辛い時期もたくさんありましたが,當麻先生をはじめ,諸先生方に見守られ,充実した4年間を送ることができました。

私が副手として4年間,勤めることができたのは,先生方ばかりではなく,学生(学部生・大学院生)の存在も大きいです。この4年間,関わってきた学生は数え切れないぐらいです。仕事をしている際は,どんなに親しい学生に対しても,常に威厳を持って接してきました。時々,事務室に来る学生達とお話することで,自然と彼らに背中を押されている自分に何度も気づかされました。これまで影ながら見守ってくれた人達に,感謝の気持ちを込めて,私の大好きなこの歌詞を捧げます。

 

 何が真実か わからない時がある

 夢にのり込んで 傷ついて知ること

 誰も知らない 涙の跡 

 抱きしめそこねた 恋や夢や

 思い上がりと 笑われても  

 譲れないものがある プライド

 (CHAGE & ASKAPRIDE』より)

 

辛い時,悲しい時,或いは挫折感を味わった時に,私を何度も勇気づけてくれました。私自身,これといって大きな目標がないまま,現在に至っているような気がします。夢の実現に向けて,努力した時期もありましたが,夢と現実との距離に戸惑うばかりでした。でもこの歌詞を詠むたびに,新たな自分に出会うのです。この先,どんな状況に置かれても,自分の信念だけは貫き通したいものです。

ここで掲げた4つの歌詞は,私の一生涯を支えていくものとなるでしょう。

最後に,もう一節引用して,締め括ります。

 

 On Your Mark いつも走りだせば

 流行の風邪にやられた

 On Your Mark 僕らがそれでも止めないのは

 夢の斜面見上げて 行けそうな気がするから

 On Your Mark いつも走りだせば

 流行の風邪にやられた

 On Your Mark 僕らがこれを無くせないのは

 夢の心臓めがけて 僕らと呼び合うため

 (CHAGE & ASKAOn Your Mark』より)

 

On Your Mark  Get set  GO



新任の挨拶
─はじめまして─

日本大学文理学部副手 三和千種

 

私は,この四月から英文学研究室で勤務しています。三月までは学生として通っていた大学で,今度は副手として働くことにとても責任を感じています。

同時に,今まで以上にたくさんの方々との出会いがあることを考えると大変喜ばしく思います。というのも,私は学生時代,本当にたくさんの方と出会うことで,自分を大きく成長させることができました。先生方,研究室の方,職員の方,そして友人など,全ての人との出会いは私にとってかけがえのない財産となっています。

私の人生の目標の一つに「常にいい顔でいる」があります。人の顔には,その人のもつ感情や生きがいが反映されると言われます。様々な人と出会い,様々な価値観に触れそこから何か学び吸収し自分自身を成長させることでいつまでも「いい顔」でいたいです。

至らぬ点が多いと思いますが,元気と笑顔を絶やさずに,いつもフレシュな気持ちで英文学科の更なる繁栄に努めたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。


 

 




 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







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