日本大学英文学会  

日本大学英文学会通信80号(2003.10)


ご挨拶

日本大学英文学会会長 関谷 武史

 

今年の夏は冷夏でしたが9月に入って猛暑の日が続いています。学会員の皆様,お元気でお過ごしの事と拝察いたします。
 英文学会通信第
79号で,昨年英文学演習の時間に4年生と読んだ『オセロ』について書かせていただきましたが,今回も4年生と勉強しております『アントニーとクレオパトラ』について,私見を述べさせていただきます。
 元々,ローマの歴史家にとってクレオパトラはジュリアス・シーザーとマーク・アントニーを堕落させた女性であり,アントニーは酒とクレオパトラの色香に溺れて国家的義務を蔑ろにした男性でした。中世に至ってもダンテは『神曲』の中でクレオパトラを地獄の第
2の谷に置いており,モンテーニュも『随想録』の中で,アントニーを性の快楽の故に自分を駄目にした男として描いている。シェイクスピアの作品創造に直接,影響を与えたプルタークも『英雄伝』の中で,倫理的視点に立って,アントニーとクレオパトラの両者を否定的に捉えている。シェイクスピアの作品においても,両者に対する否定的視点は明らかである。ローマ対エジプトの2項対立を軸に展開していくプロットにおいて,前者が価値あるもの,後者が価値なきものとされ,ローマの将軍アントニーがエジプトの女王クレオパトラに誘惑されて自己崩壊していく様が描かれている。作品に注意すると,アントニーの転落はクレオパトラの魔性と彼女の両性具有性にあった事が分かる。クレオパトラはアントニーにとって,今迄会ったことのない魔性的魅力を具えた女性であると同時に,「身体は弱い女だが男の勇気を持って戦いに挑む」と言っているように両性具有的存在であった。これもまたアントニーにとって始めての女性であり,彼女に魅かれる要因でもあった。こう見てくると,この作品はローマの歴史家達の視点,それを継承したプルタークの視点の枠組の中で創造されたという事になる。
 しかし実際にはわれわれは
2人の愛の強烈さと,彼らの来世での再生と再会への強い意志に胸打たれる。その事を感ずるのはアントニーの死とクレオパトラの死の場面においてである。クレオパトラが自分の名を呼びながら自害したという報せを受けたアントニーは,来世での再会を期待して,剣の上に身を投げて死のうとする。それに失敗してき苦しんでいる時に,実はクレオパトラが生きている事実が報告される。クレオパトラの元に運ばれた,傷ついたアントニーをクレオパトラは,ピエタさながらに抱いて最後の接吻をする。アントニーはクレオパトラの腕の中で息を引き取る。この場面に続いてクレオパトラの一人芝居と言っても過言ではない2つの場から成る5幕がある。クレオパトラがアントニーの死後程なくしてあの世へ旅立つ形で作品が終了したとしても,形の上ではまとまった仕上がりとなった筈である。アリストテレスの言う憐れみの感情とそれによるカタルシスをわれわれが味わうことも可能である。しかし,シェイクスピアがアントニーの死の場の後に2場を設けている事は,偏えにクレオパトラの死の場面を通して,愛の力が政治の世界に優った事,更には,愛の力が死を越えて2人の再生の契機となった事実を示そうとしたからである。
 ところで,
J.クリステヴァは『女の時間』の中で,女性の時間性の線的時間とは無縁の円環的特質が母性再生神話を古代より生み出して来たと述べている。シェイクスピアも母性再生神話との関連においてクレオパトラを造形しているように思われる。何故ならばシェイクスピアはエジプトに伝わる再生神話,『イシスとオシリス』を作品に取り入れているからである。これは,月の女神イシスが身体をバラバラにされてあちこちに放置された夫の太陽神オシリスの身体を集めて再生させるという内容の神話である。『アントニーとクレオパトラ』の中でクレオパトラは,イシスと自らを呼び,他からもそう呼ばれている。また,クレオパトラはアントニーを太陽と呼び,アントニーはクレオパトラを月と呼んでいる。さて,クレオパトラが死の手段として用いた蛇は,神話においては月と同一視されている。満ちたり,欠けたりしながら生成変化していく月と脱皮して変形していく蛇は共に再生のシンボルとされている。クレオパトラは月と呼ばれていた,と同時に,「ナイルの蛇」とも呼ばれている。とすればクレオパトラ自身再生のシンボルであったのだが,彼女がアントニーの名を呼びながら自分の腕に当てた蛇はアントニーの再生を象徴している。このように見てくると,この作品はクレオパトラのアントニーに対する愛の強烈さと,愛の超越性と永遠性がクレオパトラの死の場面において描かれている。ところで,この場面で気になる事がある。それはシェイクスピアが作品の創作に当って参考にしたプルタークやその他では,クレオパトラを咬む蛇は1匹であるに反して,シェイクスピア作品では2匹の蛇が彼女を咬んでいる事。その中の1匹は前述したように,彼女の腕を咬んでいるがもう1匹は彼女の胸を咬んでいる事。その蛇を彼女が my baby と呼んでいる事である。これらの事実は,彼女が,この蛇を,かつて自分の乳を吸った子供達と重ね合わせていることを示しているように思われる。死に臨んだ今,彼女は,自分の亡き後,ジュリアス・シーザーやアントニーとの間に設けた子供達が葬られるのを覚悟して,彼らの死後の再生と彼らとの再会を蛇に託したように思われる。クレオパトラの死を通してわれわれは彼女のアントニーへの愛と子供達への愛の永遠性に心打たれ,真のカタルシスを経験することになる。
 さて,日本大学英文学会も,永遠に存続していく事は間違いありませんが,この
10月を以って,役員も交代し,111日より新しい陣容の下に出発する運びです。学会員の皆さんも最近優れた業績をものにされています。元日本大学経済学部教授渡邉敏郎氏は研究社の『新和英大辞典第5版』に編者の1人としてその名を列ねました。同辞典の編集には原公章教授が重要なメンバーとして参加しております。原公章教授は1995年に研究社から出版された,『新編英和活用大辞典』に編集代表故市川繁治郎元早稲田大学教授を支える最も重要なメンバーとして名を列ねました事は記憶に新しいところです。日本大学英文学科の卒業生の中から重要な辞典の編者が輩出した事は,記念すべき事柄と思います。近年大学院を卒業して間もない,あるいは大学院在学の若い研究者達の学会発表が目立ちます。これまた,日本大学英文学会の将来を占う事として慶賀すべき事と考えます。
 恒例の年次大会は
1122日(土)に開催されます。研究発表の後,懇親会が開かれる事になっております。学会員の皆様方の御参加を期待します。

 

 

ご 挨 拶 

日本大学文理学部英文学科主任 當麻 一太郎

 

 922日より後学期が始まりました。半期制になって以来,年度始めの授業開始と同様に研究室は活気に溢れんばかりの様相を呈しております。会員の皆様もご健勝でご活躍のことと拝察いたします。
 年度始めに学科の様子をご報告しましたが,その後の出来事をご報告いたします。まず,
67日,鶴ヶ丘高等学校の生徒対象に閑田朋子先生が「英文学の社会背景を探る」と題して模擬授業をされました。また,この夏休みの前後にオープンキャンパスおよび体験授業が行われました。726日と27日の両日のオープンキャンパスでは,野呂有子先生は「Harry Potterの小窓から:イギリスの文化と文学」と題して,塚本聡先生は“English at work”と題して模擬授業をされました。母親または父親と共に大勢の高校生が押しかけ教室に入れないほどの大盛況でした。一方,英文学科研究室(7号館3階)において,ケント大学で行われた語学研修の授業の様子などを撮ったビデオの放映,最近出版されたばかりの原公章先生の『新和英大辞典第5版』(研究社),吉良文孝先生の『ウィズダム英和辞典』(三省堂),野呂有子先生の『イングランド国民のための第一弁護論および第二弁護論』を加え,本学科の教員による著書の展示および「よろず進学相談」などを行いました。いずれのコーナーも高校生で溢れ,とくに「よろず進学相談」コーナーは人気があり,待っている高校生を学科の図書室や研究室に案内しながら相談を受ける状況でした。920日には,吉良文孝先生が「ことばの不思議」と題して,閑田朋子先生が「英米文学と映画」と題して,午前と午後にそれぞれ50分ずつ体験授業を行いました。午前の部では200名の高校生が聴講したと聞いています。これらの行事に携わってくださった先生と助手および副手の方々にお礼申し上げます。
 今年度も
727日より826日までケント大学において語学研修が行われました。今年度の担当者は原公章先生とスティーブン・ハーディング先生でした。今年度は37名という大勢の学生が参加しました。偶然に私もロンドンに居ましたので,2度ケント大学へ訪問しました。語学研修生たちの数人がキャンパスでJunior Year Abroad ProgrammeJYA)の派遣留学生の依田悠介君(ハワイ大学には亀谷純君が留学しました)と共に楽しそうに英語で話し合っている様子などから「語学研修」は大きな成果をあげていると感じました。昨年同様にマンネリ化を避けるためにミュージカル観劇を加えたそうですが,教員を含め39名の団体が同時に観劇できるようにあちこちの劇場を奔走された原先生に感謝いたします。終幕近くで壇上の役者とフロアの他の観客と一体となって歌い踊る私たちの学生の姿を見て,今年度の語学研修も成功裡に終わったと思いました。この機会が参加した学生諸君の将来にプラスの影響が及ぶことを願うと同時に,担当されたお二人の先生に感謝申し上げます。
 最後になりますが,助手および副手のご苦労によって,研究室図書室の整理が完了いたしました。会員のみなさまのご来室をお待ち申し上げます。今年度の
NU祭の統一テーマは「<絆(KIZUNA2003>みんな,ひとつになる」とのこと,私たちも研究室および日本大学英文学会を通じてますます堅く「ひとつになる」ことを願っております。

 

 

一つの人生の転機(古谷先生との巡り合い)

日本大学経済学部非常勤講師 壬生 郁夫

 

私の古谷先生との巡り合いを語る時,日本大学入学以前の事を述べることが必要である。
 私は昭和
7年(1932年)124日に山梨県の甲府駅から78分のところにある小さなお寺に生まれた。しかし私の戸籍上の生年月日は121日になっている。母から聞いた説明によると,出生届を少しでも早い日付で出すことで,20歳になると受けなければならなかった徴兵検査の時に,少しでも有利になるということでそうしたらしい。私の推測では(私の推測の範囲以上のことがあったかもしれないが)ほとんど影響はないのではないかと思うが,親としては子供を徴兵にとられることの可能性をほんのわずかでも小さくしたかったのであろう。
 小学校
3年の12月に大東亜戦争(第2次世界大戦)が始まり,旧制中学1年の7月に甲府はB29による大空襲に遭い,校舎は焼け,8月に戦争は終わったが,夏休み以後は焼け跡の片付けの毎日であり,3月までにバラック校舎が建ち,2年生の4月からまがりなりにも授業が始まった。1年生の時には授業はほとんどなかったことになるが,その後5年の間に(途中で新制高校に変わったので同じ学校に6年間いた)その埋め合わせはまったくなかった。
 終戦直後の,中学
2年からの英語の授業を今思い出してみても,5年間に私が英語を教わった先生で,英語を専門にした先生はほんのわずかであったようである。働き盛りの男性は皆戦争に行ってしまったのだから,英語だけでなく,どの科目も正規の資格を持った先生は少なかったのだと思う。高校になってからクラスに妙に英語ができる人がいて,完了形だとか,仮定法だとか言って先生が困っていたことがあった。私自身は,文法の時間もあったが,進行形くらいは分かったが,文法事項そのものをほとんど理解することもなく,試験の時は暗記だけですり抜けてきた。要するに,英語そのものをほとんど分からないまま高校を終わってしまったのである。
 私は中学,高校の時はバスケットボールばかりしていて,国体にも出場したが,家の経済状態も大学受験できるようなものではなかった。高校卒業後,国家公務員になった(電気通信省で今の
NTTの前身)。甲府で3年半ほど勤務したところで東京へ転勤した。転勤希望の理由として,親に,東京へ行って勤めながらどこか大学に入って勉強したいと言った手前,昼間勤務し,夜は御茶ノ水のニコライ堂へ通って英語の勉強をした。その頃独身寮に住んでいたが,同室の一人が,勤めながら日本大学の哲学科で勉強していて,その彼にたまたまある英語の参考書を見せてもらった。ニコライ堂で英語を教わっていても,前途遼遠という感じだったが,この参考書を見て,オーバーに言えば,衝撃を受けた。これなら英語がわかるようになりそうだと。その本の著者は日本大学の古谷専三先生だった。さっそく神保町へ行って入手した。
 勤めているのだから,どこか法学部を受験しようかと,ばくぜんと考えていたが,その本を見て,日本大学の英文学科に入ればこの先生に教えてもらえるかもしれないと思い,受験をきめた。それまで受験勉強などしたこともない者が半年足らずの勉強であったが,英語の問題に,ニコライ堂で勉強したのと似ている問題が出た。たぶんそれで点数が取れたのだと思っている。高校の同級生が大学を卒業する
22歳で日本大学英文学科二部の学生になった。
 今の法学部の校舎が,当時法文学部で,そこで入学式があり,そのあと二部英文学科のガイダンスがあった。同級生は
15人位だった。年輩の,いかつい顔をした人が一人で部屋へきて,プリント1枚も配らず話し始めた。50年近く以前のことだから内容は覚えていないが,熱気が伝わってくる話し方だったことは思い出せる。これが当時の入学ガイダンスだった。この先生が,授業が始まってから分かったのだが,古谷専三先生だった。
 幸運にも
1年生の必修英語の1つの担当の先生が古谷先生だった。ここでの先生との出会いが私のその後の進路に大きく影響したと思う。まず1年間先生の「英語の徹底的研究(基礎編)」を繰り返し読みながら辞書ばかり引いていた。1年生の一般英語のテキストがG.エリオットの抜粋であった。今読んでも難解だろうと思う。でも,1時間に5行位しか進まないこともあったが,先生はそれを分からせてくれた。この1年間に先生の「ものの考え方」が少し分かり始めた。G.エリオットの作品の内容から発展していく(脱線していく)文学的な話,時局に関係した話など,先生の分析的な考え方に共鳴した学生は多かった。
 2
年生からは専門科目も入ってきて選択出来たので,卒業するまで4年間毎年先生の授業を受けることができた。先生は正規の科目以外に,プリントをたくさん作って卒論指導をされた。私は2年生か3年生の時,R.H.ブライス先生からD.H.ロレンスの講義を受けた。すべて英語なので,ほとんど分からなかったが,その中からロレンスの面白さがなんとなく感じ取れ,卒論に「チャタレイ夫人の恋人」を選んだ。翻訳本と照らし合わせながら辞書を引いて原書を読んだ。先生から受けた卒論指導が大きく役立ったことが思い出される。
 当時,卒論の面接試問は
2人の先生からあった。1人が古谷先生だった。たしかその時だったと思うが,面接のあとで先生から,大学院に進んで勉強するように勧められた。しかし私は大学院が何であるかまったく知らなかったし,昼間は電信電話公社に勤めて生計を立てていたのでそのことを話したら,そんなことはなんとかなるものだということだった。後になって大学院に入学が決まってからと思うが,中島邦男先生から,副手として(無給)毎日研究室に来て,大学院の勉強をしながら学生の指導もするように言われた。何がなんだか分からないままそんな生活が始まり,両親,兄弟に強く反対されたが,勤めはやめ,付属高校の非常勤講師や家庭教師をしたりしてなんとか生計を立てた。当時研究室には渡邉敏郎先生が助手でいて,いろいろ教わりながら副手としての仕事もなんとか果たすことができた。古谷先生はほとんど毎日研究室に見えて授業の準備をしたり,本を読んだりしながら時々我々に英文解釈や日本語の短歌の解釈などいろいろの問題を出して指導して下さった。大学院での授業はもちろん,研究室で先生から出される質問には特に緊張し,それらが私の英文解釈や文学研究の土台となり,満足のいく修士論文を書くことができたと思っている。
 学部で
4年間,修士課程で2年間先生の授業を受けることができた。その後助手になり,有給になり,薄給ながら共稼ぎで結婚することもでき,親・兄弟を安心させることができた。そのあと何年かして大学院に博士課程(今の後期課程)ができ,助手をしながらその課程に入学し,また3年間古谷先生の指導を受けることができた。そして博士課程最後の年に,いわゆる日本大学紛争が起こった。その頃には,先生は日本大学を定年退職されて,非常勤講師になられていたので,研究室には専用の机はなかったので以前のようには話すことはできなかったが,ある時,大学当局は怪しからんのでなんとか理事たちを止めさせるべきだというようなことを話したことがあったが,先生に,社会の仕組みのようなものを分っていないと叱られ,注意されたことを覚えている。この紛争についても書きたいことはたくさんあるが,また書く機会があるかもしれない。
 校舎のバリケード封鎖などいろいろな経過を経て,紛争が収束しつつあった頃,助手は全員首になると言う噂が流れた。そして実際,国文学科,社会学科の助手が数人首を切られた。理由はまったく分らなかった。私は幸いにも一緒に助手をしていた高橋直助手と共に経済学部へ転出した。経済学部の好意によるものだったらしい。
 経済学部に移ってからも,
1967年(昭和42年)に古谷先生の提唱によって作られた,古谷先生の門弟13人で発足した「,67英文学会」で先生とのつながりは保たれた。先生に論文の書き方を教わり,「,67英文学論集」にも論文を書くことを半ば義務づけられたお蔭で研究業績も十分にあり,先生の生存中に助教授,教授へと昇格することができた。11回出していた「,67英文学論集」は17号を古谷先生の卒寿記年号として先生の長寿を祝ったが,その後先生は体調を崩され18号で終わっている。先生は今見晴らしのよい高尾霊園で眠っておられる。
 私は昨年
1130日に日本大学を定年退職し,現在は非常勤講師として週24コマ経済学部で教えている。私は,100パーセントの学生が,英語が分るようになりたいと思っている,英語を分るようにならなくてもよいと思っている学生は1人もいない,といつも思いながら教室で学生に相対している。75歳まで健康を保って英語を学生に教え込んでいこう,もしその気力がなくなったらその時は,いつでもやめようと思っている。

 

 

『新和英大辞典第5版』の出版について

 日本大学文理学部英文学科教授 原 公章

 

 本年7月,研究社より『新和英大辞典第5版』が出版された。編者の一人は,元経済学部教授の渡邉敏郎先生である。渡邉先生はかつて本英文学科の助手・専任講師としても勤務され,現在の英文学科の礎を作られたお一人でもある。改訂の仕事は,『新編英和活用大辞典』が出版された1995年の翌年から始まったので,本年で足かけ8年になる。
 研究社『新和英大辞典』といえば,日本における和英辞典の発達を示す,長く大きな歴史を持つ辞書である。「まえがき」にあるように,武信由太郎,勝俣銓吉郎,増田綱,などのそうそうたる編者を過去にもち,
1974年の第4版では,本学にも関係の深い故市川繁治郎,羽柴正市の両先生を中心に改訂の仕事がなされた。渡邉先生は,このときの改訂で,最終校正を担当されたお一人でもあった。
 さて,今回の
27年ぶりの改訂は,前述の『新編英和活用大辞典』に関わったメンバーを中心に,新たな英米人と,日本語担当の専門家を加えた,総勢20人以上の協力で改訂作業がなされた。その手順については,「まえがき」に書かれている通りだが,ごく簡単に触れておくと,まず,旧版の全ての用例を検討して,かなりの語彙の削除・入れ替えを行い,時代とともに変わっていく言葉の使い方を点検した。新たな文例・語例の数を大幅に増やしたことも特徴である。また時代とともに使われるようになった新しい語彙(「追加語彙」と名付けた)を加え,さらに,人名,地名,作品名,略語などの固有名詞も大幅に増加し,本編に繰り込むことなどが主たる作業であった。
 作業の手順は,まず,日本語担当者がすべての語彙・用例を点検して訂正・加筆を行ったあとで,次に日本人執筆者がその日本語を英語になりやすいよう原稿を整えて,また,可能な場合は想定される英語なども書き添えて,英米人執筆者に送った。日本語に堪能なこれらの英米人執筆者がその日本語を英訳したあと,再度,日本人編集者がその日本語と英語を比較検討し,誤訳の指摘や不足した部分をコメントし,再度原稿の見直しを英米人執筆者にお願いする,という手順を繰り返した。こうして,日英米三者の協力から,すべての用例ができあがっているという点が,この辞書と,従来の日本人執筆者中心の和英辞典との最大の違いであろう。
 原稿のやりとりはすべてフロッピー・ディスク上で行い,執筆も各種資料を参考にしつつ,パソコン上で行った。もし紙の上でのやりとりだけだと,これだけの分量を
8年間でこなすことは,とうていできなかっただろう。時代の進展を感じざるを得なかった。
 辞書の出版には,出版社側の編集がもっとも重要である。研究社からは,『新編英和活用大辞典』の編集に加わった有能なスタッフに加え,他の辞書の編集を終えた優秀な編集者も新たに加わった。最終段階では,研究社全社をあげて,この辞書にかかりきったという。それゆえ,この辞書を手にすれば,活字,装丁,レイアウト,図版,など,他のいかなる辞書にも劣らない充実した内容となっていることがおわかり頂けると思う。この社内編集作業の一人に,本学英文学科出身の小倉宏子さん(
97年度卒)も加わり,地道ながら,重要な仕事をされたことも付け加えておきたい。
 私自身,この辞書の改訂に関係できたことは,目の回るような日々ではあったが,反面,大変幸福であった。何より,再度「言葉の前で謙虚になる」という原点に戻れたことが,私には二度目となる辞書編集・執筆の大きな収穫だったと思う。

 

京の夏

日本大学松戸歯学部教授 片山 博

 

 祇園祭と大文字の送り火は,京の夏を彩る二大風物詩である。京都周辺の居住者ならいざ知らず,関東在住のわが身にあっては,同じ年にこの二大行事を楽しむのは贅沢と言うものであろう。今年の夏は,冥土の土産に花を添えるつもりで,贅沢をした。
 七月十七日に行われる山鉾巡行でお馴染みの祇園祭は,七月一日の吉符入(祭礼の決定と神事の打合わせ)から二十九日の奉告祭までの
1ヶ月にわたる祭りである。二日の籖取り(山鉾の順番を籖で定める),九日の鉾立,十日の神輿洗い,十一日の稚児社参,十三日の曳き山立,十四日の曳き始め(町内巡り)へと続く。十五日の芸能奉納の日に京都入りし,十六日の宵山には,わが仮寓のある菊水鉾町周辺の鉾や山を見て回り,会所に飾られている前掛や胴掛などの装飾品を観賞した。夕暮れになると堤燈に火が入り,コンチキチンの鉦に合わせて笛・太鼓が奏でる祇園囃子が耳に心地よく,風情も一入である。十七日の山鉾巡行当日は,先頭に位置する長刀鉾に続いて籖取りで決まった順番どおりに整列する為,町々の小路から山鉾が四条通へと次々に姿を現す。烏丸を出発して四条通を東行し,四条河原町で大観衆の声援を受けて辻まわしが行われる。河原町通を北行して御池通に至り,御池通を西行して御池新町で山鉾はそれぞれの町内へと帰る。クライマックスの山鉾巡行の後,二十四日の還幸祭(神輿がお旅所から神社に帰る)と二十八日の神輿洗いを経て,二十九日の奉告祭で祇園祭は幕を閉じる。仕事半ばの老生は,宵山と山鉾巡行見物に満足して,再び日常の生活に戻った。
 晴れ晴れしい気持ちになった老生は,試験監督・採点・成績評価という一連の日常業務,特に最後の成績評価において,学生諸君に対して優しい心遣いを示すことが出来たようだ。仕事に一区切りを付けて,八月六日に再び京都入りした。八月九日には京の葬送の地である六道珍皇寺に,“迎え鐘”を憧いて先祖代々の霊,“お精霊さん”を迎えに行った。お盆の間この世で過ごした死者の霊魂は,矢田寺の“送り鐘”と大文字五山の送り火に送られて,再びあの世へと帰って行く。八月十六日の大文字送り火の当日は,幸い今年は雨にもならず,例年になく涼しい夜の八時,左京区の大文字山に「大」が点った。約五分の間隔を置いて,反時計回りに,松ヶ崎西山・東山に「妙・法」(点る順序は法・妙の順)が,船山に「舟形」が,北区の左大文字山に「大」が,そして最後に曼荼羅山に「鳥居形」が,次々にともっていく。京都に縁ができて三十余年になるが,五山の送り火を全て見たのは,わずか数回に過ぎない。一昨年は三条大橋から左正面に「大」を望み,点燈から消え行くまで眺めていたが,今年は高野橋から「妙・法」を眺めながら,先祖の霊を見送ることにした。大勢の人出があるにもかかわらず,賑わいはない。人々はそれぞれ心の中で,お盆の間身近に感じていた,今は亡き愛する人々との想い出を,偲んでいるに違いない。
 今年は余程の幸運に恵まれたのか,二百四十三年振りに御開帳となった,清水寺奥の院御本尊「秘仏」三面千手観音菩薩と結縁の機会を得た。思えば,来年の五月には目出度く定年を迎える歳となった。京都に引退して,何度京の四季を愛でることができるであろうか。


「三崎英米文学研究会」から思うこと 

 日本大学経済学部教授 寺崎 隆行

 

 手記とか記録といった類のものを残すのが苦手な私のことで,「三崎英米文学研究会」がいつ発足したかという正確な記憶はない。私が英文学科の助手から経済学部に籍を移したころだから,もう256年になるだろうか。たまたま通信教育部の昼間スクーリングでH.ジェイムズとN.ホーソーンの短編を読むクラスを担当する機会があった。確かジェイムズは「こよなき友ら」,ホーソーンは「あざ」であったと思う。勿論私の授業にではなく,自らが作品を読んで感動を覚えたのではあるが,クラスの数名の方(いずれも社会人の方)が授業終了後にみえて,アメリカ文学をさらに読みたいが読書会のようなもので時間が取れないかと申し出を受けた。月例で第3木曜日の午前中ということにして,ペンギン版「アメリカ短編集」(現在では岩波文庫訳書で読める)をまず読み解くことから開始した。W.アーヴィングからJ.アップダイクまでの21名の作家の手になるこの短編集を読むのに2年半を費やした。8月を除く年11回の例会で,当初45名で読み出した会も,読破するころには10名位にまで増えていた。
 以後
20数年あのアンソロジーで出会った作家たちの長編小説,また参会者が希望する作家たちの作品を読み続けている。メンバーは発足当時から少しずつ変わってはいるものの,多くの方が継続しており,毎回10名前後のアメリカ文学「読解」愛好者が集い,議論し合っている。特にH.ジェイムズの『鳩の翼』やW.フォークナーの『ゴー・ダウン・モーゼーズ』の難解な文体を読み解くのに四苦八苦したものから,C.マッカラーズの『心は寂しき狩人』の聾唖者シンガーの声なき唄声や,T.モリソンの『スーラ』の寓意に富んだ民族の叫び等強く印象に残る作品も少なくない。目下,会では『スーラ』の章立てが,W.フォークナーの『響きと怒り』の章立てと酷似している点に着眼し,モダニズムとポスト・モダニズムの小説技法という観点からこの『響きと怒り』を再読している。
 少子化が大学を取り巻く環境を大きく変えている。国際化・情報化教育と併せて社会人教育が取り沙汰され,現在は生涯学習が叫ばれる時代である。確かに「三崎英米文学研究会」は今流行の資格試験のためだとか,学会組織に加盟し研究業績を積み上げるためというような会ではない。参会者一人一人が真摯に作品と向き合い,作家の想像力と創造力の産物である作品の琴線に触れる喜びを味わう会である。だからこそ
20数年も欠くことなく継続し,次なる作家・作品との出会いを求めてさらに明日に繋がっていく会であるように思われる。私自身この会を通して,まさに生涯学習をさせてもらっている。
 日大英文学科には確かに「読書会」なるものが伝統的にあった。私個人が在学中にあるいは卒業後も加えていただいた「読書会」を思い出すままにあげれば,中島邦男先生には英文法を,岡崎祥明先生にはスウィフトを,渡辺敏郎先生にはジェイムズを,市川繁治郎先生にはスタインベックを,新倉龍一先生にはフォークナーを,鈴木幸康先生には
E.M.フォースターを,阪田勝三先生にはF.O.マッシーセンを,壬生郁夫先生と高橋直先生にはD.ダイチェスの文学批評をといった具合である。私自身課外の「読書会」で多くの先生方の指導をうけた。今「三崎英米文学研究会」のことを書きながら,「詩とは静寂の中で回想される感動である」というワーズワスを,「耳に聞こえるメロディーは美しい,聞こえないメロディーはもっと美しい」というキーツを,「仮初めから永遠を生きる」というソロー等と重ねて諸先生方との「読書会」を回想し,未だに自分の中に当時の精神性が確として息づいているのに気づく。
 そしてそのような英文学科の伝統は若い先生方にも引き継がれ,「語学」「文学」「コミュニケーション」等ジャンルの壁を凌駕して,数多くの「研究会」「読書会」が活動していると聞いている。「三崎英米文学研究会」の場合もそうだが,対象を通して,
H. ジェイムズ流にいえば「自分の自分との関係」での生涯学習の持続を願ってやまない。

 

My Fair Lady15th ICPhS 

日本大学経済学部助教授 中村 光宏

 

 音声学というと,Audrey Hepburnが主演した映画『My Fair Lady』(1964年・米)やその登場人物のひとりであるProfessor Higginsを思い浮かべる方が多いだろう。確かに,Audrey扮するElizaが話す英語はCockneyで,長母音化する二重母音・声門閉鎖音の挿入・声門摩擦音の削除や独特な音調などを,Prof. Higginsが‘高級な発音’である標準英語(RP)の発音に矯正する場面は,非常に音声学的である。けれども,映画のタイトルがとても音声学的であることに気がつく方は意外と少ないのではないだろうか。
 London
にはMayfairという西にHyde Park,南にGreen Parkをひかえる地区がある。Elizaはこの閑静な住宅街のご婦人になることを夢見ていたに違いない。でも,薄汚い格好でCovent Gardenをうろつきながら,花を売って暮らすElizaは,MayfairをどうしてもMy Fairとしか発音できなかったのだ。この発音習慣では,二重母音の第1要素の構音が比較的開口度の広い位置から始まるので,音質に変化が生ずるのである。Londonを訪れたことのある人なら,Baker StreetBiker Streetと聞こえたり,todayto dieと聞こえたりするのに気付かれただろう。現在のRP,それも比較的若い世代のRPにはElizaの発音特徴が散見(散聞?)され,それらをCockneyficationと特徴付ける音声学者もいる。この特徴付けは純粋に音声学的な意味であるが,きっとProf. HigginsElizaには知られたくないと思っているだろう。
 今年の夏(
83日から9日),第15回をむかえるInternational Congress of Phonetic SciencesICPhS)がBarcelonaで開催された。ICPhS4年毎に開催される音声科学の国際学会である。「音声科学」と言っても研究対象とする分野は広く,細分化されていて,主なものを挙げると,音声学(一般・特定言語),音韻論,音声・音韻獲得(第1,第2言語),音声工学(音声合成・認識),音声産出(母音・子音の調音),音声知覚,韻律,音調などである。ちなみに,「Spatiotemporal Effects of Vowel Devoicing on Gestural Coordination: an EPG study」という私の口頭発表は音声産出の母音・二重母音の調音というセッションで行われた。今回は招待講演,シンポジウム,口頭発表,ポスター発表を合計して859の発表があり(前回は合計642),回を重ねるごとに規模が大きくなり,音声科学の領域の広さや研究活動の活発さが感じられる。
 夏の
Barcelonaは暑かった。様々な報道でご存知の方も多いと思われるが,今年はヨーロッパ全土が熱波の影響で例年よりも平均気温が510℃高かった。真っ青な空はすがすがしいけれども,強い陽射しを受けた身体は,ちょっとやそっとではいつもの体温には戻らない。これにはまいった。陽射しが強いというのはコンガリwell-doneの日焼けをするということでもあって,ICPhSのパーティのスピーチでも「国際的な音声学者は日焼けしている」という冗談がでたほどである。ヨーロッパでは,車や部屋に冷房設備がないことの方が多いので,具合が悪くなった人も相当いたが,今年のBeaujolais Nouveauの出来が例年になく良いだろうというニュースを聞いて,まんざらでもないと思っている人も結構いるらしい。
 4
年前のICPhSSan Franciscoで開催された。その当時,私はUniversity College Londonの大学院生だった。生成される調音動作(のパタン)が音声知覚の対象であるという仮説にもとづき,音声産出機構の制御に関する話し手(聞き手)の知識を探るために,実験的手法でデータを収集していた。実験・追試・再実験という試行錯誤を繰り返している過程で,興味深い発見があったので,発表の申し込みをした。小さな発見だったのかもしれないが,これまで私が抱いていた音声言語に対する見方を大きく変えた発見だった。そして,San Franciscoでの口頭発表の直後,建設的な質問や提案をしてくれた研究者もいれば,自ら行った実験結果を話してくれた研究者もいて,実験の結果や方向性に確信がもてるようになった。
 University College London
Department of Phonetics and Linguisticsの言語研究はLondon学派と称され,ひとつの流れをなしていることはよく知られている。特に,音声の研究は,1866年のA.M.Bell博士の講義に始まり,D.Jones博士(1907年),A.C.Gimson博士(1971年),そしてJ.C.Wells先生(1985年)と継承され,実践的・技術的な研究方法がその特徴である。2001年にUniversity of LondonからPhDの称号を受けた私の論文の指導教官は,J.C.Wells先生とM.Ashby先生で,ふたりの先生は音声言語をめぐる疑問を解いていく楽しみを様々な形で教えてくれた。先に挙げたBarcelonaICPhSでは,Wells先生のセッションと私のセッションとが同じ時間帯で行われた。セッション終了後,Wells先生がいたずらっぽい目をしながら「How,s your presentation?」と言ったが,それが「楽しめたか?」という意味だとわかっているので,「興味深い質問があった」と応えた。
 『
My Fair Lady』(G.B.Shawの『Pygmalion』)のProf. Higginsのモデルが誰かというのには,ふたつの説がある。ひとりはHenry Sweetで,もうひとりはUCLDaniel Jonesである。時代的なことや音声分析機器の種類などから,Jonesがモデルであるという説の方が有力らしい。Wells先生もこの議論に参加していて,Londonでロングランを記録したミュージカル『My Fair Lady』のパンフレットに,簡潔なエッセイを寄稿している。このミュージカルでも,Prof.Higginsをはじめ出演者が実践している音声学には,目をみはるものがある。その上演が今年の830日をもって一端打ち切られるということなので, 秋のけはいが少し感じられる頃,UCLで開催される学会で研究発表する時の楽しみをひとつなくしてしまったのが残念でならない。
 分析技術の開発と関連する研究分野の発展に伴い,音声言語への接近法は多様化してきた。
Prof.Higginsの演技で実践されるように,音声学は非常に実践的な面をもつ。その一方で,ICPhSの多くの報告に象徴されるように,認知科学や認知心理学に基礎をおく接近法によっても様々な研究が進んでいる。音声言語の分析をもとにすると,私達ヒトはどのように特徴付けられるのだろうか? このような視点から研究を続けたいと思っている。

 

 

近況報告 

日本大学通信教育部専任講師 猪野 恵也

 

本年度五月一日付で,日大通信教育部専任講師となりました。皆様どうぞよろしくお願いします。以前,通信教育部の仕事は,レポートの添削しかやったことがありませんでした。まだわからないことばかりで,戸惑うこともしばしばですが,真野一雄先生をはじめとして,教職員の方々から助けてもらい,何とか仕事をこなしています。スクーリングの授業を初めて担当したのですが,一番驚いたのは,学生のみなさん(学生様ではない)の勉強熱心さです。言うまでもなく,学生といっても,通信の場合,様々な方が入学します。社会人の方,他大学を中退した方,定年退職してもう一度勉強したい方など,抱える事情は様々です。しかし,勉強していくという気持をかなり強く持っています。最初の授業の時,このような気持に飲まれてしまいそうで,務めを何とか果たすのに精一杯でした。みなさんの気持を受けとめて授業をしていくことは,かなりつらいことであり,役不足であることを痛感しています。未熟さを隠すことはできないので,やはり,普段から,どんな具合に英語とつきあっているのか,どんな具合に英文を読んでいるのか,正直にさらけだしていくしかなさそうです。夏期スクーリング中に集夏祭が行われ,色々な学生と話すことができました。祭を盛り上げようとする学生の姿を見て,仕事を早く覚えて,もっと通信のことを知らなければならないと感じました。
 去年一年間,某大学院の某先生の演習に出席させて頂きました。以前,原公章先生に御紹介の手紙を書いて頂いたのですが,改めて手紙を書いて頼み込みました。私は地方の私大の出身です。地方にいると他大学の授業に出ることはなかなか難しく,孤独な勉強になりがちです。卒論を書くために,夜の閉館時間まで大学の図書館に居て,一人で黙々と本を読んでいた時のことをまだ覚えています。素晴らしい先生が身近にいらっしゃるのだから,せっかくの機会を逃したくありません。御返事を頂けなかったので,当日押しかけて行き,何とか承諾を得ました。前期はイェイツ等によるアイルランドの劇を毎週一作品ずつ,後期は小説を二週間で一冊ずつ取り上げ,学生の発表をもとに議論していきます。大変有り難いことに,私も発表をやらせて頂きました。ちなみに,初回の授業で「大学院で月二回発表すると死ぬと言われています」と先生にしっかりと釘をさされました。的外れな発言をして,随分恥をかきましたが,ジョイス以外はほとんど読んだことがなかったので,アイルランド文学に対する目が広がりました。先生や院生達の勉強の仕方もしっかり観察して(盗んで
?)来ました。
 この演習がきっかけで,目下のところ,アイルランドの作家による作品を読んでいます。とりわけ,
Somerville and Ross, George Moore, James Plunkettの作品に出会えたことは,私にとって収穫でした。ジョイスの作品を論じていく方向は大まかにいえば二つあると私には思われます。一つはモダニズムの観点から,もう一つはアイルランド文学として捉えてみることです。ずっとではありませんが,私は後者の立場に立つことにしました。とりあえず,各作家の各作品を読み,資料を少しずつ集めて何か分かることがあればいいと考えています。ただし,大上段に構えることはやめて,ひとつひとつの言葉に着目し,ささやかな読書体験を大切にし,意義のある読みをしたいと思っているのですがなかなかうまくいっていません。
 今年の三月中旬に念願のアイルランドを旅行し,ダブリンとゴールウェイを見てまわりました。お決まりの観光コースを辿っただけです。ダブリンでは自動車が走りまわり,道路工事であちこちから騒音が聞こえ,乾いた排気ガスで空気が悪く,たまにパトカーのサイレンが鳴っています。目抜き通りであるオコンネル通りを外れて,人気のない通りを歩くと昼間でも少し怖いです。開発が進んでいて,ダブリンは,確実に都市化の波が押し寄せているという印象を受けました。グレシャムホテルのエントランスの近くにあるダニエル・オコンネル像がかすんで見えます。ゴールウェイでは,バスでコネマラを一日かけてまわりました。運転手がガイドを兼ねてくれます。説明も大変わかりやすく,楽しい時間を過ごすことができました。ツアーが終わって運転手に礼を言った後,これからパブで一杯やるんだろうなと勝手に想像して,こんな仕事をして一生を過ごすのもシンプルで悪くないなどと考え込んでしまいました。
 結果として,悪くない旅行でしたが,思いがけず,衣食住で苦労してしまったので,お金がないと例えば留学生はやっぱり大変だろうと思っています。また,当たり前かもしれませんが,アイルランドへ行っても,ただそこの生活があるだけでした
(名前を忘れましたが,確か日本のある作家も同じことを言っていた記憶があります)。帰国の前日にダブリンの公園であるセントスティーヴンズグリーンに寄って,写真を取りました。激しい雨がちょうどやんで,すっきりと晴れていました。入口では大道芸人が何やら漫談をしていて,みんな楽しげな様子。公園の芝生で,談笑したり,遊んでいる子供や大人がたくさんいたので,何気なく撮ってみると,この旅行でお気に入りの写真の被写体となってくれました。少しは旅上手になったのでまた行くことにします。

 

 

南の島で 

日本大学大学院博士前期課程2年 青木 啓子

 

「青木さん,受けてみたら?」

こんな言葉で始まった日々だった。それまで私は,漠然と海外留学への憧れを胸に抱いているだけの学生だった。
 今でも涙が溢れ出そうになる。大切な大切な日々。本当に一歩前に踏み出してみて良かったと,今,心から思う。
 ハワイ大学体験記の執筆のお話を頂いた時,二つ返事でお受けしてしまった。だがいざ書こうと机に向かっても,一向に進まない。整理が付かない。これは大変なことを引き受けてしまったものだ,と後悔してみても始まらない。整理がつかないからといって書かないわけにもいかないので,私自身が体験したことを文字にしていきたいと思う。そしてこれらが,これから留学を,と考えている方々へ多少の参考になれば幸いである。
 まず,選考テストを受けるにあたって,
TOEFLを受ける必要があった。それまで一度も受けていなかった自分を恨みもしたが,そんなことを言っている時間は無かった。故に何件かの書店をまわり,手に入れ得る限りのTOEFL参考書を購入した。2日か3日の勉強の後に第一回目のCBTComputer Based Test)を受験。しかし結果は点数不足。しかし,例え3日前にテストを受けても,月が替われば受験可能であるので(カレンダー上の1ヶ月に1回受験可能),その3日後に2回目を受験。その結果が選考日当日になんとか間に合った。今回は基準点数をクリアした。こうして,文理学部派遣留学生としてハワイ大学への留学のチケットを手に入れることが出来たのだ。
 嵐のように忙しい日々が始まった。こんなに急に留学することになるとは想像だにしていなかった為,留学準備に奔走することになったのだ。銀行の残高証明書の用意,寮の手配,チケットの手配,海外傷害保険の加入やドルの用意など。ビザも出発日の
3日前にやっと下りた。そして未だ見ぬ地へと1年前の818日,飛び立った。
 ハワイは素晴らしい土地である。
1年中同じような服装で過ごせるし,治安も大変良い。日中は燦燦と輝く太陽と心地よい北風。洗濯物もすぐに乾く。冬は雨季に当たって,多少雨が多くなるが,日本の梅雨ほどではない。年間通して美しい南国の花々が咲き誇り,愛らしい鳥達もすぐ近くでおしゃべりしている。ハワイ大学キャンパス内も緑で溢れていて,時間になると自動的に水撒き機が芝に水を与える。ダイアモンドヘッドも望め,自然の美しさに息を呑む。日本庭園もあり,毎夜のようにそこで1人,月を見ながら物思い耽ったものだ。
 私は学校の寮に住んでいたので,キャンパス内にある寮からは教室も図書館も近く,大変便利だった。部屋を出て教室まで徒歩
2分。多少無理して勉強し夜更かしをしてしまっても,クラスの合間に寮に戻り仮眠をとることも可能であった。
 ルームメイトはハワイアンで,大学のあるオアフ島に実家があったが,車で
30分かかる,ということで寮生活をしていた。週末は実家に戻ったので,その時だけはプライベートタイムを満喫することができた。やはり年中他人と一緒に生活,は息の詰まるものである。身をもって体感した。
 英語力の関係もあり,予習やテスト勉強などが予想以上に大変だったので,ほとんど週末も寮に篭りっきりの生活をしていたが,時々友人に誘われて行った,ビーチやショッピングセンターは良い息抜きになった。どこまでも
              続く青い空に青い海。目に焼きついて離れない。 
 ゆっくり経っていく時間,気のいい人々。ハワイでは,日本で
11秒の時間に追われていた自分を遠い目で見ることが出来た。The Busは“Hawaiian Time”,でいつも遅れ気味にやってくる。そんなことも気にならなくなっていた自分がいた。
 歩いてどこまででも行った。日本でバイクや車に慣れていた自分の不健康さを思った。食事の後,寮の裏手にある階段の上に座って,ワイキキのイルミネーションを眺めながら友と何時間も語り合った。時間の経つのを忘れて。無料美容院を予約制で開いて,ハワイでは中々スタイリッシュに切ってもらえない男性陣の髪の毛を切ったりもした。楽しかった。
 初めの一歩を踏み出す時は不安である。どう出していいのか分からなかったりもするし,出した所で倒されるかもしれない。しかし,その一歩から得られるパワーなり経験なりは,一生の宝になる。かけがえのない自分の一部になる。核になっていく。私自身,一歩踏み出してはみたが,何度挫けそうになったか知れない。授業の選択からして分からなかったし,履修してはみたものの,テスト,課題の量に押し潰されそうになった。何度も。逃げたくなった。でも逃げられなかった。逃げたくない自分がいた。学部留学がやっと許される程度の英語力で,本場の院の授業を,本場の院生に混ざって受けたのだから,今振り返ってみても無謀だったというより他の言葉が見つからない。だが,やり遂げたのだ。疾風怒涛の日々だった。助けてくれる仲間と出会った。今でもかけがえの無い仲間。そういう,正規留学を果たして,努力して頑張っている仲間にいい刺激を沢山受けた。力をもらった。
 何から始めていいか,手をつけていいか分からずに,ただ漠然と“~したいなぁ。”と思っているだけでは前に進まない。遠いように見えて手に届かないように見える太陽にも,一歩一歩であったら近づくことが出来る。人はそういう力を備えて生まれてきていると思う。人に聞いてもいい。本を買って調べてもいい。“したい”と思う度合いの“強さ”が力をくれる。何でも強く願い,“出来る”と信じることで,人は色々な道へのチケットを手にいれることができるのではないか。

 1
年間の留学を経て,私はこれから歩んでいく道への自信のようなものを得た。努力次第でどのようにも転がることができる。そんな,言葉には表わし難い素晴らしい機会を与えて下さった方々に感謝したい。南の島での“素敵”なトキを,私は決して忘れることはないであろう。

 

 

イギリスでの研修を終えて 

日本大学文理学部英文学科3年 佐圓 茉莉子

 

私はこの夏休み,ケント大学での海外語学研修に参加し,約1ヶ月間イギリス南東部に位置するカンタベリーという町に滞在しました。宿泊先は,ケント大学の寮です。決して長い期間ではありませんが,この研修によって英語力が以前より上達したと思います。この研修に参加してよかったと思っています。
 ケント大学のあるカンタベリーの町は,大聖堂の所在地で,観光地にあたり,のんびりした町なので安心して過ごすことができました。イギリス人観光客や他国からの観光客も多いようでした。ロンドンまでは,電車で
1時間30分,バスではおよそ2時間なので,日帰りロンドン観光も楽しめました。
 授業では間違ってもいいから積極的に発言し,質問するように言われたので,英語でいろいろなトピックについて会話をしました。そのほか,英作文を作る時に気をつけるべき点なども教わりました。この研修で一番よかったと思うのは
Pronunciation(発音)の授業でした。日本にいるとついあいまいになってしまうものなので,たいへん良かったと思います。この効果が高かったのか,会話や聞き取りが慣れたような気がしました。また,ケント大学では,この期間中イタリアなど,さまざまな国からの研修生が英語を勉強しに来ていて,インターナショナルな雰囲気を感じました。
 宿泊先の寮には,きれいな一人部屋と洗面台がありました。寮の庭には芝生が広がっていて,到着した
7月下旬には,バラの花がちょうどピークでとても美しかったです。部屋の窓から野うさぎやりすが見えることもしばしばあり,最初のころは驚きました。
 食事は,朝はパンかシリアルを選んで,その他卵料理,フルーツ,飲み物などを自由に選べる,典型的なイングリッシュ・ブレックファーストでした。昼食,夕食もおいしかったです。
 イギリスの気候は,日本出発前には,涼しいと聞いていたのですが,今年は例年にない猛暑だったらしく最高気温が
38℃の日もありました。しかし,湿度が低いせいでそれほど汗はかかなかったように思います。それから,現地に着いて思ったのは,イギリスの空は日本の空とは少し違い,雲の感じが立体的なことです。夏にイギリスに来て良かったと思うことの一つに日が長く,夜の89時まで明るいということがあげられます。
 この研修では英語力の向上はもちろん,イギリスの文化や伝統について見たり聞いたりでき,充実した夏を過ごせたと思っています。イギリス観光も満喫できました。ロンドンへは何度か出かけましたが,一番良かった場所は,バッキンガム宮殿でした。バッキンガム宮殿の中に入って美しい調度品や絵画,シャンデリア,部屋の装飾は圧巻でした。また,博物館や美術館めぐりも楽しめました。ナショナル・ギャラリーが特に良かったと思います。
 それから,リーズ城という所へも行きました。このお城はとても広い敷地の中にあって,一日ゆっくり散歩できるような場所でした。イギリス観光地に共通して言えることですが,歴史を感じる建物や町並みをみることができました。他にも興味深い場所はたくさんありました。 
 また,カンタベリーでは,シェイクスピアの『十二夜』をセント・オーガスティン・アビーで見ることができ,はじめてのシェイクスピア劇の楽しさに触れました。最後の土曜日ロンドンでは,ミュージカル『ジョウゼフと夢のコート』も見ることができました。
 私は,約
1ヶ月間をカンタベリーの町で過ごし,この研修のおかげでいろいろなイギリスの生活環境や文化に触れるチャンスを得ました。そして,スピーキングはまだまだですが,日本帰国後はさらに自分の英語力の向上にむけてがんばりたいと思っています。

 

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