日本大学英文学会  

日本大学英文学会通信79号(2003.6)


ご 挨 拶

日本大学英文学会会長 関谷 武史

会員の皆様お元気にてお過ごしの事と拝察いたします。櫻の花の満開の中での入学式,オリエンテーションも終り,学部の学生も大学院の院生も49日より,新しい生活を開始いたしました。
 新入生の皆さんには種々お話ししたい事がありますが,昨年,4年生対象の英文学演習の時間に読んだシェイクスピアの『オセロー』を参考に,人種的偏見が如何に他人を傷つけるものであるかについて考えてみたいと思います。ご承知のように主人公オセローは黒い肌をしたムーア人です。ところが,この劇の長い批評史において,オセローが黒人である事はつい最近に至る迄否定されて参りました。作品が創作された17世紀の終りに,批評家T・ライマーは「黒い肌のムーア人がトランペット吹き以上の職に就くことなどあり得ない。自堕落な女性以外と結婚することもあり得ない。」と述べました。19世紀の詩人兼批評家,ST・コールリッジは「オセローは褐色の肌で演ぜられるべきである。また美しいヴェニスの女性が黒人と恋に落ちることなど到底考えられない。」と述べました。20世紀の代表的なシェイクスピア学者のAC・ブラッドレーも「オセローは黒い肌ではなく褐色の肌で演じられた方がよい。そうでもしない限り観客は吐き気を催してしまうだろう。」と述べております。シェイクスピア時代の英国における黒人の数は多くありませんでしたが,一定数の黒人が存在し,その数も増大する傾向にあった事は事実のようであります。エリザベス㈵世女王はこうした事態を憂いて1601年黒人入国禁止令を出しております。これはエリザベス㈵世女王を始め,当時の英国人が黒い肌に対して,強い反感を抱いていたからであったと思われます。そして,シェイクスピアも黒い肌が当時の観客の心に喚起したであろう性的嫌悪感を意識していたように思われます。『ヴェニスの商人』のポーシャはモロッコの王子と彼と同じ顔をした者は,求婚者のリストから排除したいと述べております。『あらし』のナポリ王は宮廷人達が彼の娘をアフリカ人に嫁がせることに反対したにも拘らず,チュニス王と娘とを結婚させた廉で批判されています。ハムレットは母の欲望を‘to batten on this moor’と語っております。この台詞の‘batten’は「がつがつと貪り食う」という意味で‘moor’は「沼」という意味ですが,「ムーア人」の意味も含まれています。小田島訳ですと「この泥沼に餌をあさるとは」となっておりますが,「「ムーア人」に餌をあさるとは」の意味にも取れることになります。
 シェイクスピアが『オセロー』を創作した時代から,黒人に対する政治的・社会的立場は確かに是正されてきていますが,心理的意味での偏見はそれ程変化していないのが実状のようです。黒人の心理学者F・ファノンは聞き取り調査の結果,黒人に対して白人がボクサー・野蛮・動物・悪魔・ペニスを連想した事実を挙げております。この事からすれば,残念な事には,現在の白人の黒人に対する反応は『オセロー』の登場人物達のオセローに対する反応と同じであると言わざるを得ません。この事は,シェイクスピアが人種的偏見の心理に通じていた事の証拠ではありますが,それはさて措いて悲しい事と言わざるを得ません。
 作品『オセロー』の理解にとって決定的に重要な事は,オセローがヴェニス社会の人種的偏見に苦しめられていたことのみにあるのではありません。実は当時の黒人観が彼の心の奥底に入り込んで心の一部となっていた事こそが重要であります。イアーゴがオセローに影響を及ばした,最大の理由は,オセローの心に巣くっている黒人劣等観を彼の心から引き出してそれに名前を与え,実体として目の前に差し出した事にあったように思われます。この事は偏見が如何に他人を傷つけ,その人自らを自らの手で崩壊させてしまうと言った恐ろしい力をも持っているという事実を示しているように思われます。
 以上『オセロー』に即して人種的偏見の恐ろしさをお話ししましたが,人間社会には様々な偏見,例えば,女性に対する,男性に対する,大人に対する,若者に対する等々の偏見が充満しております。これらの偏見に惑わされない,真の認識力を身につける一つの方法として,学問をする事が挙げられると思います。新入生の皆さんが大学生活を通してこの真の認識力を培って偏見に左右されない,しっかりした自己を形成していく事を願って止みません。

 

改訂カリキュラムの完成年度を迎えて

日本大学文理学部英文学科主任 當麻 一太郎

42日から8日までガイダンス期間が設けられ、この期間中にTOEICの説明と模擬試験が行われました。また,「海外語学研修」と「3年次留学プログラム」に関してKent大学(UKC)のMrs Nancy Gaffieldによる説明会も行われました。今年度は,改訂カリキュラムの完成年度ということもあって混乱が予想されましたが,学生および教職員の皆様のご協力でこの期間を終えることができました。ここにご報告とお礼を申し上げます。
 3年前のカリキュラム改訂に辿り着くまでの経緯を思い起こしますと,改訂までに長い時間がかかったように思います。1995年の夏より「海外語学研修」が実施され,1999年には1年生に開講するすべての「英語I」の担当教師がnative speakerになりました。また,2000年にはTOEICの模擬試験が開始されました。その年の夏には,Kent大学において島方洸一学部長とRobin Sibson副学長との間でJunior Year Abroad ProgrammeJYA)の覚書が交わされ,2002年に菅澤さん(英文学科)と前田さん(心理学科)が留学しました。いま,当学部の学生は国際言語としての英語の重要性を肌に感じながら英語の学習をしている,と確信しています。これらの貴重な機会の提供には,たんに流動の時代に対応できる国際人養成に留まらず,英文学科で英語を学習している学生としての意識を高め,専門分野の知識欲を誘おうとする目標がありました。
 上記の準備と実現を経て,改訂カリキュラムの完成年度を迎え,4年生対象に「エリザベス朝文学演習」,「ヴィクトリア朝文学演習」,「現代イギリス文学演習」,「19世紀アメリカ文学演習」,「現代アメリカ文学演習」,「マルティ・カルチュラル文学演習」,「意味論演習」,「統語論演習」の8科目が開講されました。4年生はそれぞれ,既存の「イギリス文学特殊講義」,「アメリカ文学特殊講義」,「英語学特殊講義」の中から1科目,8科目から2科目を選択しました。1年次に数々の綜合教育科目および「実用英語検定」,「TOEIC」,「TOEFL」,「通訳英語」などの実践・資格英語を一つまたは複数学んできた学生が,今年度からピラミッド型をした頂点の専門科目に挑戦しているのです。現在進行中の改訂カリキュラムについての総合的な点検は目下の課題となっていますが,私たちが意図した改訂の目標が叶うことを願ってやみません。
 昨年度の「海外語学研修」のこと,マンネリ化を避けるため『オペラ座の怪人』の観劇と歴史的町の訪問を加えてみました。観劇の雰囲気やイギリス人の観劇前の習慣を知ったり,「ヘースティングズの戦い」で有名なバトルという歴史的町を目で見,指で触れ,肌で感じて欲しかったからです。この地が,フランスからイギリスに侵攻してきたノルマン人のウィリアムI世とハロルドが戦った激戦地であったことは,イギリス人なら誰でも知っているでしょう。また,「ヘースティングズの戦い」があった1066年は,ウェストミンスター・アビーで初めて国王の戴冠式が行われた年であり,イギリス王室の歴史の始まりの記念すべき年であることもよく知られています。バトルの町にはバトル・アビーと言われる聖堂があり,これはウィリアムによって戦場となったまさにその場所に築かれました。バトル・アビーは廃墟のまま残され,戦いで敗れたハロルドの墓もあります。ゲート・ハウスの門の天井には,戦いに敗れ苦痛に満ちたハロルドの顔と戦いに勝利し笑みを浮かべるウィリアムの顔の,明暗を顕わしたレリーフがあります。これは,ほとんどの旅行者が見逃してしまう希有なレリーフでしょう。ここにはイギリスでもっとも大きな絵画の一つと言われた有名な絵もあります。それは,アボッツ・ハウスの大広間の壁一面を占めていた「ウィリアムとハロルドの戦い」の絵画です。横27フィート,縦17フィートの絵画は,1620年にFrank W. Wilkinという画家によって描かれ,1862年まで大広間に飾られていたのですが,140年も前に行方不明になってしまいました。かつて,あるアメリカの作家が記した1856年付けの日記を読み,私も「ヘースティングズの戦い」の絵を鑑賞したいと思ってバトルを訪れましたが,行方不明とのこと,絵の行方について何一つ情報を得ることができませんでした。何度も訪れていただけにあきらめきっていました。しかし,いったん行方不明になっていたその絵が,私たちの訪れた2日前の88日に大広間の壁に戻っていたのです。我が目を疑いました。この大きな絵のない大広間は,それまで閑散としていて,主のいない屋敷にも似ていたのですが,アメリカの作家が記した荘厳な映像が蘇ったようでした。
 この絵が再び壁に掛けられるまでの経緯については,イングリッシュ・ヘリティジ(イングランドの遺跡・歴史的建造物の保護管理のため1984年に設立された特殊法人)が,1939年にヘースティングズ美術館で発見されたこと,湿気等であまりにも傷んでいたため修復するのに8万ポンドの費用を投じたこと,1999年にウィリアムの顔を修復することから始め2002年の88日に修復が終わったことなどを縷々記していました。また,絵の前には,私たちが比較できるように並べられた修復前の傷んだ絵の写真と修復後の絵の写真,それに加えて修復するスタッフの様子を写した写真などが展示されていたのです。「海外語学研修」に参加した学生諸君は,イギリスの歴史に興味をもったようですが,こうした小さな経験の積み重ねを通してカリキュラム改訂の目標に少しでも近づいて欲しいと願わずにはいられません。
 今年度も,教員の研究活動は活発です。本学部において日本ナサニエル・ホーソーン協会第22回全国大会が523日と24日に開催されます。また,日本ジョージ・エリオット協会第7回全国大会が1129日に開催されます。さらには,これまでの日本大学英文学会の月例会と日本ナサニエル・ホーソーン協会東京支部月例会に加えて,新生言語文化研究会例会が68日,914日,1214日,平成16314日に開催されます。また,これまで英文学科には日本大学英文学会と日本ナサニエル・ホーソーン協会の事務局が置かれていましたが,11月には日本ジョージ・エリオット協会の事務局が加わります。英文学科の学部生,院生,教員の研究活動は,原公章先生(副会長)と閑田朋子先生(会計)のご尽力でますます活発になることでしょう。学生と教員が一つの家族となった英文学科のさらなる発展を願って,私の挨拶といたします。


安田哲夫先生を偲ぶ

日本大学名誉教授・客員教授 川島 彪秀

 元日本大学文理学部英文学科教授,元日本大学英文学会の会長,安田哲夫先生が昨年829日に80才で御逝去遊ばされてから8カ月余りになります。「百花開き群鳥和す」陽春の今日,この頃,はじめて先生の温顔に接した36年前を思い出しながら先生を偲びたいと思います。
 安田哲夫先生は1922年(大正11年)82日に東京の神田でお生れになりました。中野の野方第5小学校,都立第一商業学校から東京外国語学校(現東京外国語大学)へ御進学になり,1943年(昭和18年)に御卒業,約1カ月後に旧日本海軍の予備学生として兵役に服されました。
 敗戦直後の1945年(昭和20年)から1946年までシンガポールで通訳として,英国海軍との間の渉外の仕事に当られた後,同年(1946年)に復員されました。復員された先生は母校の東京外国語大学の講師として教鞭をおとりになり,1951年(昭和26年)にガリオア米国留学生としてオハイオ州立大学で御修学になりました。
 米国から帰国された先生は1954年(昭和29年)4月に日本大学文理学部(当時の世田谷教養部)の専任講師として御着任になりました。1957年(昭和32年)助教授に御就任,続いて1970年(昭和45年)に教授に御就任になって1992年(平成4年)に定年のため御退職になるまで38年間の長きにわたって,文理学部英文学科の専任として勤務されました。
 専任をはなれられた先生はさらに5年間,75才まで講師として学生の指導に当られました。また,兼任講師として長らく東京外国語大学や山脇学園短期大学でも教鞭をおとりになりました。
 先生の御専門の領域は時事英語,英語学,英語教授法,そして英語科教育法などで,主としてこれらの学科目を中心に御担当になって,学生達の指導に当られる一方,多くの著書,研究論文,そして学会での口頭発表などの業績を残しておられます。これらの先生の教育,研究を中心として,先生は日本大学,日本大学文理学部,そして英文学科の発展と英語教育に多大な貢献をなさると同時に広く日本の英語教育界にも大きく貢献されました。
 先生の文理学部御在職中の貢献は大きくつぎの5つに分けることが出来ると思います。すなわち(1)日本大学(本部)への貢献,(2)日本大学文理学部および英文学科への貢献,(3)学会活動と学会への貢献,(4)社会における活動と貢献,そして(5)研究業績などであります。
 日本大学(本部)では日本大学教育制度研究所兼任所員として長年活躍なさったほか,入学試験問題研究委員会委員や日本大学英文案内編集委員などをなさって貢献されました。
 日本大学文理学部では英文学科の主任(当時の学科代表)を19734月から19753月までと19784月から19803月までの通算4年間勤められたほか,L.L.委員会(語学教育委員会)委員長,就職指導委員会委員,入学試験問題検討委員会委員,入学試験問題編集委員,人文科学研究所紀要編集委員,人文科学研究所運営小委員会委員,そしてコンピューター委員会委員などを歴任して,文理学部の発展に貢献されました。
 日本大学紛争中の1968年(昭和43年)に発足した英文学科内のカリキュラム委員会の委員としても長年にわたって学科内のカリキュラムの改訂のために中島邦男先生(現日本大学名誉教授)や故新倉龍一先生などと一緒になって,夜遅くまで大変な御努力と御尽力をなさいました。
 学会活動と学会への貢献としては日本大学英文学会の会長(1973年〜1975年・1978年〜1980年),同英文学会常任運営委員として活躍されたのをはじめとして,(社) 日本時事英語学会の理事,関東支部長,副会長,そして会長を歴任されました。さらに大学英語教育学会評議員,東京外国語大学英語教授法研究会幹事などもなさって,各々の学会の発展に大きく貢献されました。
 社会における活動と貢献としてはNHKの大学講座(ラジオ第2放送)の講師として時事英語(19721月〜3月・19731月〜3月)を御担当になったのをはじめとして,(財)語学教育研究所評議員,日本英語検定協会の評議員などもなさって活躍されました。
 先生はまた,英語教育調査のために大学から米国,中国,韓国,そして台湾などへ御出張になり,これらの調査結果を英語教育に関する著書や研究論文にまとめられております。
 先生が文理学部御在職中に積みあげられた研究業績は時事英語,英語教授法,英語科教育法に関するものが主たるものでありますが,著書(単著)10冊,著書(共著)2冊のほか,英語教授法辞典(三省堂)に一部御執筆,時事英語講座(研究社)に一部御執筆になっており,研究論文18編,学会での口頭発表も可成りの数におよんでいます。さらに1958年(昭和33年)に南雲堂から出版なさった「現代標準英文法」と「現代英作文」の2冊も忘れることの出来ない先生の著作であります。
 先生は将棋,釣り,俳句,麻雀,パチンコなど実に幅広い多くの御趣味をお持ちでした。なかでも1966年(昭和41年)から俳誌「麦兆」にお入りになって磨かれたという先生の俳句はその深みを極めておられました。
 先生が古稀の記念に出版なさった句集「合歓の花」は所収句数622があり,先生がその時までにお作りになった句数は恐らく2000句を超しているに違いないということでありました。その後どれだけの句を作られたかわかりませんが,恐らく相当の句数を加えられたことでしょう。
 安田先生のこの句集「合歓の花」のなかに金子恵泉先生の「句集出版に寄せて」と題するお言葉があって「安田さんの句材は自然・人事両面におよんでいるのは当然ではあるが,比較的人事句が多く,秀句も人事句に多い。句風は平明で余韻余情に富み,読む人の心に染み入る句である。用語用字に注意を拂っている点が特徴である。」と述べておられますが,安田先生がいかに俳句の高いレベルの方でいらっしゃったかがよくわかります。
 1968年(昭和43年)の春のある週末に先生が英文学科の先生方に声をかけられて,多くの英文学科の先生方と一緒に東京湾に鯊釣りに連れていって貰った事がありました。先生の釣りの腕前も相当のものでした。聞けば,先生は釣り同好会の会長を勤めておられた方でもあったのです。この日の釣りは大漁で,先生方全員で釣りあげた鯊を船のうえで天婦羅にして舌鼓をうち,それでもなお,可成りの数の鯊が残り,その鯊を生きたまま先生方めいめい家へ持ち帰った楽しい想い出があります。
 安田先生の文理学部御在職中の熱心な御指導のなかに先生が展開なさった先生の英語教育への哲理は先生の影響を受けた多くの弟子達によって,必ずや長く生き続けることでしょう。
 さらに,先生がこよなく愛された日本大学文理学部,文理学部英文学科,そして日本大学英文学会,そのなかにあって,先生と出会い,御指導を受けた多くの教え子達や先生の御薫陶を得た多くの人達はみんな先生を人生の師,あるいは人生の先輩として,先生を身近に感じ,いつまでも忘れることはないでありましょう。
 安田哲夫先生の御冥福を心からお祈りしながら先生を偲びたいと思います。(2003425日記す)

 

上品で,しなやかな恩師故安田哲夫教授へ

 日本大学文理学部講師 池田 和子(紅玉)

安田哲夫先生への追悼文をこんなに早い時期に書くことになってしまうとは,思いもよらないことでした。ご退職後は闘病生活を送っていらしたにもかかわらず,安田先生らしい,穏やかで平和な日々を過ごしていらしたとお聞きしております。昨夏の告別式での御遺影も,そのような生活を映し出すかのように,とても静かで,暖かい微笑を私たちに投げかけてくださっていました。酷暑の中での告別式にもかかわらず,とても爽やかな風が吹き続けたのも,他人を思いやる先生の,御生前の生き方を示しているようでもありました。
 私が学生としてお世話になったのは,1977年に修士課程を修了するまでの6年間でしたが,クラス編成の関係で,一度もお授業を受ける光栄に預かったことはありませんでした。それなのに,卒業後25年以上経った今でも,安田先生の存在が私の中でとても大きいのは次のような理由にあるようです。在学中に先生が学科主任として英文学科をもり立てるべく尽力されていらしたのを目の当たりにしていたこと,私がアメリカ留学を終えて帰国した際に,就職先を必死で探して下さったこと,そして何よりも安田先生の愛娘の小島淑子さん(現在文理学部講師)が同期の学友であったためだと思います。
 同じく同期の杉本桂子さん,高城えり子さん,山崎厚子さん,そして淑子さんたちと一緒に,当時は本館の4階にあった英文学科研究室で,場もわきまえずに大声でおしゃべりをしたり,笑ったりしていたときに安田先生が通りかかられると,先生はいつもにこやかに,しかし少々冷やかすような口調で「おっ,騒がしいと思ったら,やっぱり君たち『かしまし娘』だったのか。相変わらず元気だなー。」と言われるのでした。そして少し行ってから必ず振り返られ,「淑子をよろしくね。」と付け加えられので,その度に私たちは「任せておいてください。この美女軍団が淑子さんをお守りしますので。」と間髪をいれずに応えていたことを思い出します。本当に親子仲の良いのは羨ましいほどで,安田先生が淑子さんに対してお詠みになられた俳句も沢山,沢山残っているそうです。
 淑子さんと弟君の理解と手厚い看護のもと,安田先生は病院ではなく,ご希望通り在宅のまま死を迎えられたそうです。亡くなられた朝もお気に入りの椅子で英字新聞を読まれていらしたそうで,日本における一流の時事英語研究者・教育者の最期としては,何とも安田先生らしく,素晴らしいものであったと思います。上品でしなやかな先生のお姿はもう見られませんが,本棚に並ぶ先生の御著書が,これから先もずっと私を励まし続けてくれる気が致します。安田哲夫先生,お世話になりました。そして沢山の思い出をありがとうございました。

 


安田哲夫先生の思い出

日本大学文理学部講師 杉本 桂子

その年は暑い夏だった。が,遠くに台風が来ていたのだろうか,831日,安田哲夫先生の葬儀の日は,先生のマンションの周りに植わっている木々の濃い緑の葉の中を,風が流れるように舞っていた。私達安田先生の教え子(池田和子,高城えり子,山上登美子《敬称略》)は,葬儀の受付のお手伝いをするべく,失礼・失敗のないように緊張していた。
 私が先生に初めてお会いしたのは,かれこれ
30年前,大学2年の英語音声学の授業でだった。仕立ての良い背広を品良く着こなした先生が壇上に現われ,安田と申します(当時「シャボン玉ホリデー」というテレビ番組で活躍していたクレージーキャッツのメンバーの一人と同じ名だったので田舎の山奥から出てきた私はびっくりした)とおっしゃった。先生の教え方はわかり易く,私は発音に興味を持ち,毎回熱心に練習した。翌年時事英語の授業を受け,その後,時事英語のゼミでは高城えり子さんと私だけが生徒だった。丁寧に教えて頂いたお蔭で私達は大学の時から英字新聞を読む習慣がついた。大学の時はあくまで先生と生徒でありそれ以上の域を出ることはなかったが,大学院に入ってから,先生のお嬢さん小島淑子さんとしたしくさせていただいたことから,先生とも親しくお話しする機会が増えた。普段のフォーマルな話し方が,ちょっとした弾みで江戸っ子のべらんめー調に変異するのを発見し,親しみを感じたし,先生は俳句の本をお出しになるくらい物事の観察が鋭く,それがユーモアの溢れた毒舌という形で迸り出てくることもあった。その時の先生の目は,お茶目ないたずらっ子のそれであった。そういう気さくな先生に触れるうちに図々しい私は遠慮のない口をきくようになった。私達大学院の仲間は淑子さんの結婚式に招待された。この時私は初めて先生の美しい奥様にお会いした。その事を後日先生に,「先生は,面食いですね」というような表現で述べたところ,「君は下品な物の言い方をするなあ」と毒舌で返していらしたけれど,目は笑っておられた。78年前,新緑の美しいある五月の日,淑子さん,高城さん,私の三人で下高井戸の何処かで昼食を摂る約束をしていた。突如先生が,私達に美味しいうなぎをご馳走したいとおっしゃり,ご好意に甘えることにした。その後,隣の駅まで,散歩をした。道路には,黄色や桃色の花が咲き誇り,夢の中を歩いているようだった。途中のある公園の中を突っ切って行く時,ふと大木の下で立ち止まり,先生は,俳句を一句詠んで,こういう表現でどうかね,と私達にコメントを求めてきた。先生の俳句の腕前は素人の域を遥かに超えた,一種の渋みを持ったものであったが,私が素人っぽい意見を述べるとなるほどなあと素直に感心しておられた。私達大学時代からの気兼ねのない同級生同士は,冗談を言って,わっははと笑ったり,戯れ合いながら目的地へ向かって進んで行った。しかし,これが先生との最後の思い出になった。
 昨年7月に大学院の仲間で先生にお会いする段取りをつけて頂いたが,突然先生の病状が思わしくなくなり,再会は中止になった。先生は亡くなる前に御家族の方々に,最後は必ず合図してから往くと約束しておられたらしい。そしてその言葉通り,椅子にすわってブザーを押し,そのまま静かに黄泉の国へと入っていかれたという。粋を愛した先生らしいアティテュードだった。
 先生の人生は奥様や淑子さんを含め美しいものにいっぱい囲まれていた。無論単純に美しいものだけに囲まれた人生などありえない。先生御自身何度も癌の手術を克服されて苦闘の人生の時間をもっておられた筈である。美を愛でるのはリアリティーというよりは一種のポリシーのようなものだったのではなかろうか。先生の永遠の旅立ちの際に奏でられていたブラームスの交響曲第3番もひどく美しかった。

 

日本大学明誠高校に勤務して

 平成14年度卒業 油野 雅子

 英文学科を卒業して早いものでもう一ヶ月が過ぎました。私は,4月より日大明誠高校で英語の教員として新生活をスタートしました。学生から社会人になるのは生活のリズムに大きな変化があり,この一ヶ月はまずその生活に慣れる日々でした。
 私の勤務する日大明誠高校は,八王子から少し山梨方面に行ったところにある,自然に囲まれた学校です。明誠高校の生徒達はとても素直で明るく,挨拶がしっかりとできる生徒達であり,毎日学校に行って生徒達に会うことができるのが本当に楽しみな日々です。
 授業は主に3年生と1年生を受け持っています。教育実習の経験を生かしながら,生徒に分かりやすく教えるよう心がけています。最近では生徒の反応も見ながら授業をする余裕も少しずつですが出てきました。授業中にも生徒達の質問の中には私自身がはっとさせられる質問が多く,私自身が生徒に教わるといった毎日です。そして,生徒達と接していると,勉強以外に,人生を語れる教師を求めているのだなぁと感じます。
 思い出してみると,一年前のちょうど今頃,就職活動と並行して教員採用試験の勉強をしていました。実は,私は自分が教員を目指すこと自体に疑問を持っていました。たった20年間ぐらいの人生で,生徒に何が教えられるのだろうか,自分自身の価値観を押し付けることになってしまうのではないかという不安がありました。そのため,企業の就職活動も続けていました。しかし,企業の就職活動を続けるうちに,客観的に教職を眺められるようになり,自分が本当に信念を持って向き合っていける仕事として,教員を目指そうと思えるようになりました。私にとっては,この企業の就職活動によって多くの企業を知り,たくさんの人に出会えたことが,遠回りのように見えて,教員になることができた大きな理由になっていたと思います。
 また,4年間所属していた日本大学管弦楽団の存在は私の大学生活において,本当にかけがえのない存在となっていました。私は,4年間のほとんどの時間をこのオーケストラの活動で楽しみました。オール日大のオーケストラでたくさんの人と出会うことができ,オーケストラの皆で一つの曲を創り上げる過程で学んだことや,心から味わった感動は,現在の私の原点であり,これからもこの経験が私の励みとなっていくと思います。
 そしてなにより,日大の英文学科で勉強し,多くの先生方に文学を通して相手を理解することや,自分に深みを与えることを教えていただきました。特に自分の本当に好きな小説JaneEyreを卒業論文に書くことができたことは,私にとって本当に嬉しいことであり,原書を読めば読むほどたくさんの発見があり,それを自分の言葉で語れるようにしていく論文は楽しいものでありました。論文が書き終わった提出日の朝,日本大学の英文学科で勉強できた4年間を本当に嬉しく思ったものでありました。
 英文科,オーケストラ,就職活動,学生委員の活動など,全ての出会いが自分に大きな影響を与えてくれて,自分自身で大学4年間を通じてその出会いを大切にできるように成長していくことができたように思います。日本大学で過ごせた4年間の日々に本当に心から感謝しています。
 これからも,この4年間の日々の充実感をつなげていけるように,生徒達やたくさんの出来事との出会いを大事にしていきたいと思います。そして,生徒の内に秘めた可能性を引き出すことができる教師になることを目指して,これからも,日大明誠高校で,英語を教えていくことを楽しんでいきたいと思います。

 

 「自分探し」 

平成14年度卒業 斎藤 和也

 原稿を依頼された時,何を書こうか迷いました。そこで,一般的ではありますが,大学に入るに至ってから,みなさんの将来に関わる就職に至るまでを,自分の実体験から述べてみようと思います。
 なぜ,大学に行くのか。考え方は人それぞれだと思います。私は,自分探しのために大学に行くと考えています。そのうえで,その時に興味のある英語をもう少しやってみよう,という思いで英文学科に入学を決めました。もちろん,勉強に専念したいと思っている人もいるでしょう。しかし,大学は勉強するだけの場ではなく,サークル活動に参加したり,たくさんの人と出会えたりする所でもあります。また,自分の時間を見つけアルバイトもいろいろ出来ます。私は,大学の勉強を最優先に考え,サークル活動,アルバイト,その他にも夏休みには語学研修に参加したりなど,実に様々な体験をしてきました。
 今,大学生活を振り返ってみると,1年次ではいろいろとアルバイトを経験しました。高校時代は,部活に励んでいて,アルバイトをする余裕はありませんでした。大学に入学してからアルバイトを始め,働いて初めて得るお金は格別なものでした。2年次では英語の勉強に浸ってみました。やはり,英文学科に所属している以上,それなりの英語力というものを試してみたいと思い,先に述べた語学研修はこの時期に行きました。自分の英語がしっかり通じるか試す意味でもいい勉強になりました。また,一言に英語の勉強といっても,自分が勉強するだけではないと思います。私は,英語を教えることも自分自身の勉強であると考え,英語を教えることにも挑戦してみました。後々,この試みが自分の職業選択に大きな影響を与えてくれました。3年次ではサークル活動に重点をおきました。ここでも,登山やキャンプなど今まであまりやった事がない体験を数多くしてきました。そして,4年次では(正確には3年次の後半からですが)最大のイベントである就職について散々悩みました。学年ごとに,いろいろな分野に視野を広げることで,自分自身の職業の適性を模索してきました。飲み会などで,時々自分はどういう人間なのか友達に聞いてみたりもしました。意外と本音で語ってくれますよ。私は,その結論として,“教師”という職業に就きたいと強く思うようになり,大学3年の9月頃から本格的に勉強を始めました。少子化傾向にあり,近年は採用増加と言われていながらも,中・高の採用はまだまだ厳しいのが現実です。しかし,大学主催の採用試験講座を利用したり,自分から教師になるための行動をしたりしてきました。
 今思うことは,興味のあることにチャレンジするのは当たり前のことで,私は興味のないことや関心のなかったことにも,ちょっとした気持ちだけ持って取り組んでみると,新たな発見があるということです。そして,そのことを実感した4年間でもありました。私は,一生の仕事として“教師”を選択しましたが,大学に入る前は“教師”の仕事に就くとは考えていませんでした。しかし,4年間で何か励みになるものとして,教員免許を取得してみようと思いました。正直,初めは軽い気持ちで教職課程を履修しましたが,家庭教師や塾のアルバイトを通して,人に勉強を教える仕事に興味をおぼえるようになりました。実際に教師になるためには,免許状を取得することは大前提のうえで,当たり前ですが,採用試験に合格しなくてはなりません。また,企業への活動をどうするかなど,たくさんの人に相談し悩みました。誰もが就職については悩むと思います。実際,小さい頃から就きたい職業があるという人はなかなかいないと思います。もちろん,そういう小さい頃からの夢がある人はとてもすばらしいことで,その夢に向けて頑張って欲しいです。しかし,そういう夢や思いが見当たらない人は,残された時間を使って,少しでもいいなと思ったら,実行する勇気を持って欲しいと思います。私も,なかなか実行する勇気がなく,行動するのに時間がかかりました。
 今,自分の夢が実現でき,本当にうれしく思います。これからが本当のスタートラインです。生徒たちと共に成長していける教師を目指します。みなさんも大学で様々なことを体験して,自分探しに役立ててください。

                                  I hope your dreams come true.

 

ドーセット放浪記

博士後期課程3年 杉本 宏昭

20027月後半から20033月まで,日本大学海外派遣奨学生として,英国ケント大学に留学させていただきました。留学にあたり,私は英国滞在期間を3期に分け計画しました。まず,私の研究する作家であるThomas Hardyの出身地Dorchesterでの生活,そしてケント大学での研究,最後にロンドンの美術館めぐり。この中でも,とりわけ思い出深いのが,何といっても,610日から718日まで滞在したDorchesterでの生活です。「放浪記」とタイトルに打ちましたが,実際は,Hardyが小説中に描いた町,村,都市を訪れ,写真を撮り,資料を集めるという作業でした。
 Dorchester滞在を計画したものの,およそ40日もの間,泊めてもらえるBBはあるのか?この滞在先を探すという第一歩で,実際,躓きました。本をあさり,インターネットを見続け,e-mail20件近く送りました。しかし返信はわずか3件。しかもどれもその時期は予約が入っているとのこと。困り果てた挙句,初めての国際電話。英語が通じるかドキドキしながらかけました。しかし,どこにかけても予約あり。いい加減にイヤになり,ここが最後と思い,かけましが,結果は同じ。だが,電話を切ろうとした時,宿の女将さんがシワガレ声で,「この番号に電話してごらん」と,ある番号を教えてくれました。頼みの綱はその番号だけ。縋る思いで電話しました。答えに「空いてますよ」と聞いた時,涙が出そうになりました。しかし,このあとの経験を考えると,このくらいは,まだまだ序の口。以下,日記を紐解いてみたいと思います。
 611日。曇り。Dorchesterの町探検。英語が通じない! わからない! 何せ速い! 仕方なく笑ってごまかし,すべて‘Yes’で済ます。
 613日。曇り。Hardyの生家へ買ったばかりの自転車で。地図だと近いが,自転車で30分。しかも丘の連続で,なかなか進まない。やっとのこと到着。もうヘロヘロ。そうだった。忘れていた。帰りも自転車こがなきゃならなかったんだ。
 616日。霧,雨,晴れ。Prestonという町へ写真を撮りに行く。しかし辺りは霧。ほとんど見えず。30分ほどはしったところで突然の土砂降り。ずぶ濡れ,ドロドロになる。どうしようもなく,宿に帰る。女将さんに「風邪引いたらどうするの!!」と怒られる。雨が止み,再度Prestonへ。しかし,今まで最大級の上り坂。およそ3マイルは上った。こんな時,自転車はかえってお荷物。そして,信じられないほどの急な下り坂。しかもこの道帰ってこねば。夕暮れ。「俺はここで,なんで肉体を酷使しなければならないのか?」
 617日。晴れ。昨日の疲れでバテたため,電車でWeymouthへ。「ここまで来たんだから,Portlandへ行かないなんて」。そう思ったのが運の尽き。しかも,無意識的に歩きで行った。長かった。Weymouthから2時間。初めてのPortland。やり遂げたという達成感。「どうするか?バスか,歩いて戻るか …… せっかくだし …… 歩くか!。」また2時間歩いてWeymouth駅へ戻る。
 618日。快晴。今日は自転車でPortlandへ。急な丘を越えてしまえば,後はWeymouthまで下りの道。「Portlandを制覇するぞ。」まずは50度もあろうかという上り坂。山の頂上にたどり着き,南へ向かう。最南端の灯台へ。いつも思う,「行きはいい。何で帰りがあるんだろう。」Hardyが立ち寄ったパブで休憩。店の人に,「このパブは有名だ。」と伝えると,「そうなのか?!」とびっくりされ,そのまま話し込む。かなりお尻が痛い。どう考えても自転車乗りすぎだ。
 623日。晴れ。“TessのコースNo.1Tessの家族が家を追い出され,野宿したBereRegisの教会へ。しかし忘れていた。今日は日曜日。着いたとたんにミサの時間。ここまで来て教会にも入れず,外側からの写真だけ。何てことだ。また来なければ。
 626日。“TessのコースNo.2”マーロット村へ。今日は覚悟が必要だ。マーロットまで片道35キロ! 途中Flintcomb-Ashを探す。ここは,地図,パンフレット,本と,それぞれがそれぞれの位置を示す空想上の場所。地図の場所が近いので行く。目的地は丘の上。徒歩で行く。牛がいる。生垣の隙間から牛の「ハァー,ハァー」という音。気にせず進む。生垣が切れた場所で,牛20頭くらいにじっと見られる。刺激しないように進む。生垣の隙間からの音,さらに聞こえる。生垣が切れた。もう進めない。すでに牛に囲まれてしまった。でかい。動けない。後ろの生垣に隙間を見つけ,そこから脱出。おかげで,茨で腕は傷だらけ。
 71日。曇り。Dorset County Libraryで調べごと。考えてみれば,僕のことを知っている人は,ここには誰もいない。日本人もいない。アジア人はこの前2人見た。日本語ももちろん通じない。なんて快適なんだ!!
 74日。晴れ。Tessが寝た石を見に行く。電車でSalisbury駅へ。その後,自転車でStonehengeへ。今日は花粉が物凄い! しかも,駅からStonehengeまでの道はうねりが凄い。Tessが寝たと思われる石を発見。しかし囲いがあるため,遠くから写真を取る。
 710日。晴れ。今日は,TessAngelの両親に会いに行った道をたどる。Dorchesterからだと,その道に突き当たるまで2時間かかる。その間,すごい丘を3つ越える。そこで左に曲がり,Tessの道をたどる。もしこの道を本当にTessが通ったなら,彼女は相当にたくましくなければ到底無理! きつい。ほんとにきつい。
 717日。晴れ。Dorchesterでの最後の自由。もう一度Hardyが建てた家MaxGateへ行く。お客はその時僕一人。説明してくれたのは,MaxGateに住んでいるおじさん。Hardyを研究していると話すと,Hardyが座ったというソファーに座らせてくれた。
 718日。晴れ。ケント大学のあるCanterburyに向けて出発。また来れるという安心感,もう二度と来れないかもという不安。でも,意外と落ち着いていた。思い起こして誇れるもの。「こんなことをやったやつは俺のほかに誰もいないだろう」。でも,なんてばかばかしくて,なんて有益で,なんてすばらしい経験だったことか。14:25分,CanterburyWest駅に着く。新しい生活だ。
 ここに書ききれないものがたくさんあります。もちろんケント大学での研究,ロンドンでの美術館めぐりも,すばらしい経験でした。ですが,Dorchesterで一人になり,そこで,まがりなりにも生活をし,そこから得たものが,後の生活の素になっています。もしこれが観光できていたならば,表面しか見えず,「きれいなところ」と言って,終わっていたことでしょう。もし,これを読まれた皆さんがDorchesterに行かれる機会がありましたら,ぜひ滞在することをお勧めいたします。1日観光すれば十分な,何もない小さな町です。ですが,何もないからこそ,人間が魅力的に感じるところです。

 


《研究室だより》


平成14年度行事


◆文理学部英語弁論大会(文理学部主催)
 
 11
16日(土)に3号館325教室において開催されました。
 結果は次の通りです。

  1位 小川 香織(英文3年)
  
2位 廣澤 和子(英文3年)
  
3位 土屋 峻彦(英文2年)

◆大学院特別講義

   76日(土)23限,125日(土)23限に大学院生のための特別講義が開催されました。講師は小池 生夫先生(明海大学教授)です。講義題目は「日本の英語教育政策:過去,現在,将来」でした。


◆卒業式

   325日(火)午前1000分より日本武道館に於いて卒業式が行われました。同日午後1230分より本学部3号館325教室におきまして学位記の伝達式が行われました。本年度は学部卒業者143名,大学院博士前期課程修了者9名です。また,学部生の学部長賞は松祐介くん,優等賞は亦部美希さん,今井真吾くん,何倩儀さんの3名でした。同日午後6時よりヒルトン東京において謝恩会が催されました。

◆平成14年度大学院学位論文・卒業論文

  大学院生・学部生により提出された論文項目及び内訳は次の通りです。

平成14年度大学院修士論文

【英文学】

 板倉 亨      A reflexive examination of critique in Hamlet

 志田美佳        Aspects of the evil in David Copperfield
                         
What the absence of the mother means

 廣瀬真人        The Scarlet Letter Author and Hester

 松山博樹        Interior Monologue and Free Indirect Style in Ulysses

【英語学】

 荒谷菜穂        Language Transition in Hong Kong
                         
About English and Cantonese and Putonghua

 一條祐哉       The Motivation to Use the Content Clause with and without that

 加納祥二       A Study of Present Perfect
                          The difference between present perfect and simple past tense

久井田直之     Modal Auxiliary Verbs CAN and COULD

 

平成14年度 学部卒業論文

《内訳人数一覧》

【英文学】(74)          【米文学】(40

Austen, Jane9Carroll, Lewis1     Dickens, Charles9    Doyle, Arthur Conan1
Eliot, George4   Hardy, Thomas1   Joyce, James6    Rowling, J. K.3
Shakespeare, William27    Stevenson, Robert Lewis1    Swift, Jonathan1  Wilde, Oscar2)  
Fitzgerald, Francis Scott
2    Hawthorne, Nathaniel20)   Hemingway, Ernest3 
James, Henry
1)    Melville, Herman2     Miller, Arthur1     Montgomery, Lucy Maud1
Morrison, Toni1)   Plath, Sylvia1     Poe, Edgar Allan2    Salinger, J. D.1
Thoreau, Henry David1)  Twain, Mark1     Williams, Tennessee1    Wright, Richard2

【英語学】(19

【音声学・コミュニケーション】(
7

【英語教育】(
5


平成15度行事


◆入学式・開講式

  
4
8日(火)に日本武道館に於いて入学式が挙行され,同日午後230分より文理学部開講式が行わ れました。英文学科の入学者数は次の通りです。

  学部入学者   178名  大学院前期課程入学者    7名  大学院後期課程入学者    5

◆本年度在籍者数

  学  部  2年生 190名   3年生 151名   4年生 172
  大学院博士前期課程 
15名   後期課程      9

◆大学院特別講義のお知らせ

平成15年度第1回大学院特別講義を下記の通り行います。

[講 師]中野 春夫先生(学習院大学教授)

日 時:73日(木)        3 限:John Rastell, Four Elementsと「北西航路」神話

                                  4 限:The Tempestと食人幻想

日 時:925日(木)      3 限:King Learと悪魔祓い

                                  4 限:Macbethと魔女の生成

 

◆この度(平成1556日)松永達雄氏(昭和27年,日本大学法文学部(当時)英文学科卒業)から蔵書のご寄贈を賜りました。ここに記して,感謝の意を表します。ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 







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