日本大学英文学会  

日本大学英文学会通信78号(2002.10)


ご挨拶

日本大学英文学会会長 関谷 武史

 

 今年の夏はドイツや中国等で大洪水があり,地球規模の気象上の変化が心配されております。地球の温暖化との関係が取り沙汰されておりますが,折しもヨハネスブルクでは環境・開発サミットが開かれております。各国が自国のエゴを捨てて真の解決に向って進んで欲しいものです。
 私は今年の夏は7月12日に成田を発ち8月9日に帰国する迄の1ヶ月間をロンドンとストラットフォードで過しました。ロンドンに滞在中ユーロスターでパリを訪問しました。フランス文学関係の日本人の中で,私は森有正,辻邦生,菅野昭正の三人を最も尊敬しております。森有正は日頃愛読して止まない『遥かなノートル・ダム』を始めとするエッセイの故に,辻邦生は一時期妻の実家の隣人で,私自身,貴重な本をお借りしたという個人的な理由もありますが,優れた歴史小説の故に,菅野昭正は私に衝撃的な読後感を与えた名著『ステファヌ・マラルメ』の故である。二ヶ月間,この書にどっぷりと漬かった20年程前の夏休みが懐かしく想い出されます。この3人のエッセイを読んでおりますと,パリのリュクサンブール公園への言及が目立ちます。私はパリの地下鉄オデオン駅から坂を上ってオデオン劇場の脇を抜けてリュクサンブール公園へと歩を進めました。街の賑やかさが突然広い空間に漂う静かさへと変化している事に驚きました。楡,菩提樹,プラタナス,マロニエ,リラの木が整然と立ち並んでいるリュクサンブール公園をある種の感懐を持って歩きました。モンパルナスへと向う途中モンパルナス墓地がありました。入口から直ぐの所にサルトルがボーヴォワールと共に眠っていました。ロカンタンの絶望に共鳴して『嘔吐』を読んだ事,十分な理解が得られぬまま『存在と無』を読んだ事等が甦って参りました。その近くにボードレールが眠っておりました。自分の苦悩や絶望に向って,まるで愛する者に打ち明け話しをするように優しく語り掛けている,『悪の華』に収められているいくつかの詩がいや詩だけでなく,まるでポーその人に一体化してしまったような印象を持った「E・A・ポー」論が頭を横切って参りました。墓から少し離れた場所に頬杖をついて黙想するボードレール像がありました。このボードレール像を見ておりましたら,6才で父親を失って人なみはずれた母親っ子だったボードレールが翌年母親の再婚で小学校の寄宿舎に入れられた事に彼の孤独と悪への傾斜の原因を探ったサルトルの「ボードレール」論が想い出されて参りました。
 ロンドンとストラットフォードでいくつかのシェイクスピア劇を観劇いたしました。その中でも,ロンドンのシェイクスピアグローブ座で観劇出来た事は大変楽しい事でした。この劇場はかってシェイクスピアのグローブ座があったとされる,テムズ川南岸のサザック地区バンクサイドに,1997年に建設されました。可能なかぎり原グローブ座と同じ形にという事で,円形,茅葺き,青天井,3層の桟敷席,劇場中央まで張り出した方形の舞台,舞台を覆う屋根,屋根を支える二本の柱,舞台を取り囲む立ち見席から成っております。ここで観たのは『夏の夜の夢』でした。シーシュースとオーベロン,ヒポリタとティターニアが1人2役で演じられていました。ヒポリタもアマゾンの女王としてシーシュースと戦いながら,結果としてはシーシュースによって征服されてしまったという事が作品の始まる前の事実として存在するという事を鑑みる時,男性の支配に対する女性の抵抗と最終的には男性中心の社会の中に彼女達が組み込まれていくという作品の並列的テーマが際立つ形で演出されているように思われました。一方この劇で強調されていたのは職人仲間,取り分けボトムでした。ボトムには社会の秩序を解体するエネルギーが漲っておりました。

 

                I have had a more rare vision: I have had 
        a dream, past the wit of man to say what
                dream it was.                          

                                                                    (IV. i. 209-11)

 

             俺は誠にもって不思議な夢を見たもんだ。俺の
            見た夢がどんなだったかは,人間の知恵じゃ説
            明出来なかろう。

 

  これはボトムが眠りから覚めて口にする台詞ですが,通常の社会秩序や政治構造の向う側に真に理想の社会形態が存在する事,それをたった今自分が見てきた事を暗示しているように思われました。この劇が社会の不満分子を最終的には呑み込んでしまっている側面と同時に,不満分子によって社会の秩序が解体の危機にさらされもするといった側面をも表現しているように思われました。このような二重の印象を持って劇場を後にしたのですが,元々シェイクスピアの作品が二重の解釈を誘うものであるとすれば,この劇の上演はシェイクスピア作品の本質に沿ったものであるようにも思われました。
 ロンドンからストラットフォードへ移動した翌日バンクロフト公園からトリニティー教会に向う途中ダーティ・ダックと呼ばれるパブの前を通りました。看板にはダーティ・ダックの絵が描かれておりましたが,帰りに見たその店の看板にはブラック・スワンの絵が描かれておりました。一つの看板が異なった2つの絵から成っているという事は,奇しくもシェイクスピア作品の二重性を表現しているようでいて,大変興味深く見入ったものでした。
 ロンドンに滞在中念願だったフロイト博物館訪問を果たしました。地下鉄フィンチリー・ロードの駅前から標識があって,それに従って博物館は簡単に見つける事が出来ました。丘の上の静かな住宅地の一角,メイヤーズフィールド・ガーデンズ二十番地に博物館はありました。ギリシア皇太子妃マリー・ボナパルトの援助の下,ナチの手を逃れ,ウィーンからフロイト一家が移り住んだ家である。フロイトがここにやって来たのは1938年9月27日,上顎癌で死去したのが1939年9月23日だったので,フロイト自身はわずか1年間住んだだけでした。フロイトの死後末娘のアンナ・フロイトがここで精神分析医として治療に当り,彼女の死後博物館として運営されて今日に至っております。玄関から直ぐの居間の壁に日本人として唯一フロイトの下で勉強した古沢平作が贈った富士山の絵が掛っておりました。また,ダリの描いたフロイトの肖像画も掛っておりました。彼の研究室には大きな机がありその上に彼が愛用した眼鏡が置かれていました。そこには患者が横たわるための長椅子があり,その横にフロイトが坐った椅子がありました。机の上と,本棚と本棚との間に置かれているガラスの陳列棚には古代ギリシアの遺物,古代エジプトの護符,象牙のブッダの胸像等が所狭しと置かれていました。書斎には沢山の本が並んでいましたが,ゲーテの全集,英語版シェイクスピア全集,シュレーゲル=ティーク訳のドイツ語版シェイクスピア全集が目に止りました。壁にはエディプス・コンプレックスを連想させるエディプスとスヒィンクスの複製画,それにフロイトが分析を試みたW・イエンゼンの幻想小説『グラディーヴァ』に登場するグラディーヴァその人のレリーフが掛っていました。またその横にダ・ビンチの「洗礼者ヨハネと聖アンナのいる聖母子」の複製画が掛っておりました。フロイトはこの画の聖母とその母アンナが同じ年令の女性として描かれている事に注目し,それがダ・ビンチの実母と継母であると断定し,二人の笑顔が限りない愛と不幸を予告する威しの表情であると分析しました。そしてモナ・リザの微笑みとの関連性を論じました。二階のヴィデオ室でフロイトの生涯が放映されておりました。BBCで放送した彼の生の演説を聞く事も出来ました。博物館見学の後バスでゴールダーズ・グリーンに出,フロイトが永遠の眠りについている墓地にも詣でました。墓地から帰る途中,私はフロイトの影響力について考えさせられました。V・ウルフの小説,A・ヒッチコックの映画,シュールリアリズムの絵画等はフロイトなくしては生れなかったのではなかろうかと道々考えました。
 私は英語で書かれた批評書の中では,W・エンプソンの『曖昧の七つの型』を最も高く評価しております。この書の中に見られる対象作品に対する精細な読みの姿勢はフロイトの読みと相通ずるものがあるとかねがね考えております。エンプソン自身,この書の序論の中で,読みの方法については直接言及しておりませんが,フロイトの強い影響を素直に認めております。実は私が博士後期に在学中,今は亡き大和資雄先生がテキストとしてこれを教室で使用されました。これを下敷にして,私は,日本大学の英文学会大会で『マクベス』論を発表しました。その場にいらした古谷専三先生が褒めて下さり英文学会会報に掲載するよう推めて下さいました。これが私の最初に活字になった論文でした。今想えば大和資雄先生も古谷専三先生も先ずテキストを精読する事を最も大切にされた師でした。そして,この伝統は現在の日本大学英文学科の主流を成して将来へと継承されていくものと確信しております。
 さて,今年も年次大会が11月23日にここ桜上水で開かれる事になりました。研究発表,特別講演の後,恒例の懇親会が開かれる事になっております。一人でも多くの会員の方々の出席をお待ちしております。



ご挨拶 ─ 実りの秋を迎えて ─

日本大学文理学部英文学科主任 原  公章

   
 9月24日より後学期が始まりました。おかげさまで,英文学科の学生・教職員一同,元気で授業を再開しております。会員のみなさまも,お元気で実りの秋をお迎えのことと思います。

 さて,このたびは,英文学科専任教員それぞれのアカデミックな活動状況をお伝えして,現在の英文学科の学問的な面での近況報告をさせていただこうと思います。
 英文学科の専門は大きく,文学系と語学系に分かれますが,私が文学を専門としているため,まず前者から始めることをお許しください。
 英文学会会長で大学院専攻主任の関谷武史先生は,昨年『シェイクスピア ─ 心の深層を読む』という,先生4冊目の専門書を旺史社より,出版されました。これは,日本のシェイクスピア学において,精神分析的なアプローチの第一人者であられる関谷先生が,近年のご研究を集められたもので,シェイクスピアの「深層」が先生の読みの光を当てられて,スリリングに探られていきます。この本は先生所属のサイコアナリティカル英文学会はじめ,各方面から高い評価を得ております。先生は大学院で何年も続けてシェイクスピア作品と同時に,近年の批評理論をテキストにされており,他の専攻,他の大学院からも聴講したいという方々が見えております。
 A・ロバート・リー先生は,春と夏には,アメリカ,イギリスを始め,フランス,スペインなどの各大学に招かれて,集中講義・特別講義をされるという,アメリカ文学・多文化研究の国際的な研究者です。これまでに多くの著書を出されたほか,エブリマンをはじめとする著名な出版社から,メルビルなどのテキストを校訂・編集されました。TLSでは先生による書評も何度か掲載されました。つまり,本英文学科の存在を全世界に知らしめているのが,リー先生です。現在は日系2世の文学や,アメリカ南部のマイノリティの文学をアメリカ文化全体と照らし合わせたご研究を進めておられます。
 當麻一太郎先生は,日本ホーソーン協会の副会長・理事であり,かつ,学会の運営員を務められております。ホーソーン協会の事務局が本英文学科に置かれているのも,ひとえに先生の存在によるものです。これまでに多くのホーソーン研究を発表されている先生は,ホーソーンの伝記的研究の方面では,日本の第一人者といえましょう。後進のための指導も大変心がこもっていて,先生の影響で多くの人がホーソーン研究に向かっています。
 本年より専任教員となられたミルトンご専門の野呂有子先生は,その関連の研究書,翻訳書をはじめ,数多くのご業績で知られています。つまり,わが国の代表的ミルトン研究者のお一人です。6月にはアメリカで行われたミルトン国際学会に出席され,日本を代表して,見事な研究発表をされました。先生はC・S・ルイスなどにもご関心が深く,優れた『ナルニア国』論があります。現在は,ミルトンのラテン語による論文の翻訳に従事されております。
 高橋利明先生は,昨年一年間のカンザス大学での研究を終えて,この4月から再び公務に復帰されました。専門は當麻先生と同じくホーソーンですが,近年,メルビルにも目を向けられ,優れたメルビル論を発表されています。先生は本英文学科のアメリカ文学研究の将来を担う研究者です。この11月の英文学会大会で特別講演をお願いするハベガー教授は,高橋先生がカンザスでご指導を受けた方で,先生の力添えでこの講演が実現いたしました。先生は,當麻先生とともに,ホーソーン協会の中心メンバーでもあります。
 閑田朋子先生は,この4月から専任になられたばかりですが,すでにケンブリッジ大学やアメリカでの「19世紀文学研究会」の研究発表,日本ジョージ・エリオット協会,ギャスケル協会,ディケンズ・フェローシップでの研究発表など,学外での大変な活躍ぶりが目を引きます。専門は19世紀イギリスの「社会問題小説」で,作品の背景をなす当時の労働運動やジャーナリズムと,文学作品との関連などを精査して,これまでの日本の小説研究に見られない分野を切り拓こうとしています。優れたギャスケル論が『英語青年』に掲載され,多くの人の注目を浴びました。これからの活躍がますます楽しみです。
 最後に私ですが,諸先生の後塵を拝しているだけで,とりたててご報告することもないのですが,昨年よりジョージ・エリオット協会の理事・編集委員の末席を汚しており,大学院時代の古谷専三先生のご指導を思い出しつつ,何とか,エリオット研究を続けているといったところです。とはいえ,昨年のエリオット協会のシンポジウム「『サイラス・マーナー』の諸相」に参加できたことは,大変よい勉強の機会となりました。
 次に語学関係に移りますと,まず鎌形清喜先生は,本学科の英語音声学を一手に受け持たれており,その長年の音声学研究はこれまでも,高い評価を受けております。最新の英文論文が9月発行の『人文科学研究所紀要』に掲載されておりますが,それは,先生独自の音声言語の科学的研究という特色を遺憾なく発揮したものです。先生は異文化間コミュニケーションにも,関心を寄せられております。
 本年4月に教授に昇格されたウィリアム・D・パタソン先生は,応用言語学,文学研究,さらに英語教育をも視野に入れた多くの研究を発表され,日本の英語教育に多大な貢献を与えておられます。とりわけ,実際の授業から生まれた英作文論は現場の教員には多くの示唆に富んでいますし,ナボコフ文学を材料にした新鮮な観点からのいくつかの論文は,文学論と言語論の融合をめざしていて,文学研究を志すものにとっても大変有益です。
 野呂先生と同時に4月より専任教授としてお迎えした松山幹秀先生は,雑誌『アエラ』で現代の日本の言語学者50人の一人に選ばれた先生です。先生はそこで日本の大学英語教員を代表されて,日本の大学での「英語教育」の現状を報告されました。先生のご専門は,英語学,英文法,言語理論で,これまでに多くの論文,著書,翻訳書があり,いずれも最先端を行く研究として注目されております。本学でのますますのご活躍が期待されます。
 スティーブン・J・ハーディング先生も,パタソン先生と同じく応用言語学がご専門で,これまで学会誌に多くの論文を掲載されております。とりわけ,日常使われる英語にひそむ,日本人には見えない英語の微妙さ・面白さを気づかせてくれます。ちなみに,先生はケント大学での海外語学研修はじめ,学科と海外の大学とのコンタクトにはなくてはならない存在となっております。
 吉良文孝先生は,日本英語語法学会の中堅の担い手として,また,江川泰一郎先生の英文法研究の衣鉢を受け継ぐ第一人者として,本学を代表されております。『英語青年』に寄せた語法研究,また学会誌での書評,辞書の執筆など,多忙をきわめておられます。本年は,吉良先生の力で,本学で再び英語語法学会が秋に開かれることになっており,先生の学会活動およびその運営においても,多くの方々から期待されております。
 本学の課程博士第一号である塚本聡先生は,英語の歴史的な研究という基礎の上に,現在ではコンピュータを有効に活用する「コーパス言語学」に多大な関心を寄せられており,この分野では日本を代表する若手研究者として学会その他で活躍されています。塚本先生はさらに,この分野の内外の多くの専門家と協力した研究成果を出版するべく,現在努力を重ねられております。
9月の英文学会シンポジウムは塚本先生司会による,コーパス言語学がテーマとなっております。
 助手の水本孝二君(英語学),堀切大史君(ホーソーン研究)も,それぞれの学会に積極的に参加され,優れた研究発表を重ねる努力を続けており,いずれも将来が楽しみです。
 以上が,本学科の学問的活動の現状報告です。専門書の刊行をはじめ,海外での研究発表,国内での学会活動など,かつてなく充実していることがお分かりだと思います。専任教員一同,今後ともますます研究と教育に努力していく所存です。
 最後になりましたが,本学科を支えてこられたお二人の先生,中島邦男先生と河内司先生のご本の出版についてご紹介したいと思います。中島先生は博士論文『マロリー研究』(南雲堂)のあと,このたび長年の研究成果である『シーリー・レター研究』を同じく南雲堂から出版されました。保坂道雄先生,塚本先生など先生の教え子たちが発起人となって,過日盛大な出版記念会が市ヶ谷の私学会館で開かれ,多くの方々が参集されました。
 また,このたび法学部でご定年を迎えた河内先生は,これまで書き続けてこられた『英文学史 ─ 第19世紀の文学とその社会思潮』を冨山房から上梓されました。これは600ページをはるかに上回る長大な本で,手にするものを圧倒します。このご著書もまた,河内先生長年のご研究・ご努力の集大成となっております。
 中島先生,河内先生ともに,私たち英文学科を卒業したものの目指す手本であると同時に,大きな励みでもあります。お二人の先生のますますのご健康とご活躍をお祈りいたします。



オープンキャンパスについて


 7月27日(土),28日(日)の両日,本学部キャンパス全体で「日本大学文理学部オープンキャンパス2002」が開催されました。英文学科の今年のテーマは「Explore the English Department (EED) 英文学科を探索する」でした。学科企画としておふたりの先生が模擬授業をなさいました。塚本聡先生は“English at Work”のタイトルで,LMC教室でコンピュータを駆使した授業をされ,他方,W. D. パターソン先生は“English in Action”のタイトルで普通教室で授業をされました。また新築の7号館3階,英文学研究室では,展示コーナー,パソコン検索コーナー,ビデオコーナー,それに学科案内コーナーが設けられ,いずれも訪れた多くの高校生,ご父母に好評でした。

 

 体験授業について

 

 9月21日(土)文理学部において,付属高校の生徒を対象とした体験授業が行われました。この企画は本年で3回目となります。英文学科からは原公章,高橋利明両先生が講師として参加されました。原先生は「英文学科で学ぶこと」,高橋先生は「アメリカ(文学)と私」というテーマで,それぞれ午前・午後2回の授業をされました。授業参加者は以下のとおりでした:1時限(原先生)73名,2時限(高橋先生)90名,3時限(原先生)71名,4時限(高橋先生)35名。

 


文明の闇の奥に

─ 都立福生高校での模擬授業報告 ─

  原  公章

 

7月16日(火曜)午後1時より,都立福生高校で「英文学」の模擬授業を行いました。以下の報告は,その時の授業の概要です。 

今日はこの教室は冷房が壊れているとのことで,扇風機だけですが,台風も去り,すっかり空も 晴れ上がって,窓から吹き込む風が気持ちいいくらいです。それに今日は,便利さと豊かさに慣れてしまった文明人の行く末について,お話しようと思っているので,却って好都合です。思えば夏は冷房,冬は暖房,駅の階段はエスカレーター,少し歩けばコンビニ,そして何と言ってもパソコンや携帯電話の登場によって,一変した私たちの生活は,もうこれらの数々の文明の利器がないと,生きていけないとさえ思われるほどです。しかしみなさんの中で,パソコンがどう動くか,蛍光灯がどのように光るか,携帯電話でどうして画像が送られるのか,その仕組みを十分知っている人は,まず少ないでしょう。つまり,私たちはボタンを押すことだけは知っていますが,それ以上のことは何も知らない,何もできない,という人が(私も含めて)ほとんどではないでしょうか?一皮むくと,何もできない,無力な姿をさらけだしてしまう文明人,たとえば電気が止まる,大地震が起きる,大災害に家を壊される,飲み水を断たれる,いわゆるライフ・ラインがストップしたりしたら,もっとも無力の状態に陥るのが,文明人かもしれません。
 このような文明人が,西暦802701年にはどんな姿を呈しているかを空想した物語,それがイギリスのSF作家の元祖,H・G・ウェルズの「タイム・マシーン」です。タイム・マシーンに乗って「時間旅行家」が行き着いた先は,まったくひよわな存在と化したエロイと呼ばれる未来人,それにそのエロイを飼育して,何と,自分たちの食料とする地底人モーロックが住む未来世界です。未来の世界は人が人を食うという戦慄の場となっていました。この作品に触発され,同じくイギリスのE・M・フォースターという作家が「機械は止まる」という短編を書きました。これは,地上を核で汚染され,地下生活をしている未来人が,その生活のすべてを制御するコンピュータが止まった時のパニックを描いた作品です。これを読むと先日,日本で生じた「みずほ」銀行のパニックを,つい思い起こしてしまいます。
 このように,欧米には,今のまま文明が進むとどうなるかを主題とする未来小説が,この他にもたくさん書かれています。ロシアの作家ザミャーチンの『われら』は「単一国」となった規格化された未来社会を,チェコの作家チャぺックは『山椒魚戦争』で量の多さだけで世界征服をたくらむ山椒魚の出現を,また,アメリカのブラッドベリーは『華氏451度』で本を読むことを禁止された世界を,また,イギリスのオーウェルは『1984年』で恐怖の独裁国を,それぞれ描きました。つまり,未来小説は,「未来」のことを扱っているのではなく,いずれも現代世界の問題点,今のままの文明を押し進めていくと,最後にはどのような世界が出現するか,を描いています。関心のあるかたは,夏休みなどに,これらの未来小説を読んでみたらどうでしょうか?
 ところで,ちょうど百年前にイギリスのジョゼフ・コンラッドというポーランド出身の小説家が,アフリカのコンゴを舞台に,「文明の前哨地点」(1898)という短編と,『闇の奥』(1899)という中編小説を書きました。この二つの小説は未来小説ではありませんが,上に紹介した小説と,文明の批判という点で,根本的な共通点があります。
 私たちが自分たちの無力を思い知らされるのは,恵まれた生活をしているときではなく,たとえば上で述べたように自然災害に襲われたとき,山や海で遭難したとき,また文明国からまったく遠ざかったところに,一人で置き去りにされたときなどでしょう。それまで当然と思っていた,水,電気,ガスなどもなく,すべて自分一人で生き延びねばならない,ロビンソン・クルーソーのような状況になったとき,文明人は初めて自分の本当の姿を思い知らされます。一杯の水の有り難さを真に知るには,砂漠で迷子になるか,遭難して海を何日間も漂流するかしないとわからないでしょう。同じように,「死ぬ」「生きる」「命」などの言葉の意味を,本当に実感するには,不治の病を宣告されたり,交通事故に遭ったときではないでしょうか?それまでは,どんなに美名な用語を使って文明を賛美し謳歌しても,ただそれは言葉の表面上のあぶくのようなもの,言葉を飾れば飾るほど,その中身は空虚な音しか立てません。コンラッドの二つの小説は,このような文明人のがらんどう(hollow)な姿を,アフリカの灼熱の大自然の中に投げ込こまれた白人を描くことで,浮き彫りにしたものです。
 短編「文明の前哨地点」は,<我が国の植民地拡大>とか,<文明化の神聖なる任務>とか<暗黒の地に光と信仰と商業をもたらす>などという「高尚な言葉」に乗って,コンゴ川の奥地での象牙取引に従う,二人の無能な白人が登場します。彼らは始めのうちこそ,陽気にアフリカ生活を楽しんでいたかのようですが,徐々に,その大自然の力を無意識的に感じ始めます。そして,現地の出張所で働いていた黒人の使用人たちが,突然やってきた好戦的な部族に奴隷として連れ去られたとき,二人の無能ぶりがはっきりと浮かびあがってきます。食べ物もなく,それを自分たちで作ったり調達するすべもない二人は,結局ひとかけらの角砂糖をめぐって,互いに殺し合うことになってしまいます。最後に生き残った一人が,前任者の十字架に首を吊って自殺した直後に,「文明」の象徴である貿易会社の蒸気船が,ようやく到着しますが,自殺者は十字架の前に立つ会社の重役に「あかんべー」とでも言うように,長い舌を突き出して死んでいました。
 他方,『闇の奥』は,マーロウという船長のアフリカでの体験を,帆船ネリー号の上で4人の男たちが聞くという設定で始まります。同じく貿易の仕事でコンゴ川をさかのぼるマーロウは,「文明」の美名の下に,そこで数々の愚行が行われていることを目撃します。やがて,コンゴ川の奥地に「クルツ」という名の謎の白人が,一種の独裁的恐怖支配を原住民に強いていることを知り,マーロウはこのクルツを探す旅に出かける,という筋書きです。フランシス・コッポラ監督のアメリカ映画「地獄の黙示録」は,舞台をベトナムに置き換えたこの小説の映画化です。また,フランスのアンドレ・ジードは,この小説に大いに感心して,50歳をはるか過ぎてから,自分もコンゴに出かけ,その記録『コンゴ紀行』を書きました。 その扉には「ジョゼフ・コンラッドの思い出に」という献辞が書かれています。
 この二つの小説はコンラッドの文明観がよく現れていると同時に,長らく続いてきたヨーロッパ白人の優位主義への批判も見られます。あまりにも過保護にされた私たち,また,耳に心地よい言葉に酔い,自己の無能力に気づこうとしない私たちにとって,これらの小説を読むことは,今私たちが置かれている状況を改めて省みるばかりでなく,これからの私たちの行く末さえも,新しい目で見直させてくれることになるのではないでしょうか?英文学を学ぶ,という意味はこういうことにもあるのではないかと,私は思います。

 



 
研究室の想い出
 ―「一期一会」―

 佐野短期大学特任教授 山本 洋子

   
 今年度から私は佐野短期大学の専任助教授を退職し,特任教授として勤務することになりました。日本大学文理学部の英文研究室と関わりをもってからもう30年近くなろうとしています。この間,文理研究室の諸先生方や多くの友人方からは様々な面でお世話になりながら,今にして思うと私は大変身勝手な,傍若無人な生き方をしてきたように感じます。
  私が文理学部の大学院修士課程に入学したのはまったくの偶発的な事件がきっかけでした。その時,私はもう30代半ばを過ぎていて,結婚をし,子供も手がかからなくなってそろそろ社会との接触を求めて桐朋学園音楽部の高校の非常勤講師をしておりました。この学園は大変ユニークなところで高校でも大学と同様,先生も生徒も時間に縛られることなく自由に登,下校ができ,英語の授業も受験英語に関係なく大学の教養課程の英語教科書と同じものを使用できました。私はここがとても気に入り,専任にしてもらえないかと頼んだところ大学院を出ていないと駄目だと,にべもなく断わられました。そんな事で,日大に入学することになりました。日大を選んだ理由は,私はもともと国文の出身で英語教師の免許状がなかったため,日大の通信学部に学士編入して,大和資雄先生がコールリッヂの「老水夫行」を朗朗と講義なさるのを拝聴していたこと,また卒論の面接で当時あまり取りあげられることのなかったE・M・フォースターの拙論を大変褒めて頂いたことなどから,自宅から一番近くて通学に便利なところというのが主な理由でした。
 私達の頃は,文学を専門とする学生も語学関係の科目が必修でしたので,宮部先生の古代英語,中島先生の中世英語,原田先生の言語学,羽柴先生の音声学などを履修しました。そのお陰で語学にたいする基本的姿勢が身についたと思います。文学関係では同じE・M・フォースターを専門にされた鈴木幸康先生が指導教授となり,とても可愛がって頂きました。私は他の学生より10歳以上年上でしたので生意気なことばかり申して,よく古谷先生に叱られました。また新倉先生にも,皆が畏敬の念を抱いている大和先生に対しても遠慮なく意見を述べたりしていましたので,先生方には不愉快なお思いをさせていたのではないかと今になって反省しております。そんな私を受け止めてくださったのは,当時助手をしていらした寺崎隆行さんと原良子さんで,とくに良子さんとは昔の古い研究室兼先生方の談話室でよくお喋りをしました。阪田先生とは二年になって出会ったことがその後の私の生きかたに大きな影響を与えることになりました。先生は私を受け止めてくださり,また私の不遜な思い上がりを叱責してくださいました。先生の講義は文学の面だけでなく,人生の見方のすべての面で深遠で,鋭く,かつ愛情のこもったものでした。その後博士課程に入学し,終了した後も私は先生が退任されるまで20年以上延々と先生のゼミに参加し,いわゆる阪田教(狂?)の熱心な信者の一人でした。そのお陰でミルトン,シェイクスピア,キーツ,シェリ,ブレイク,エミリ・ディキンソンそしてT・S・エリオット,オーデンにいたる詩や,小説ではフォークナー,ロレンス,H・ジェームズ,G・グリーン,V・ウルフなど多岐にわたるものを学び,文学の神髄に触れることができました。また研究会や喫茶店での語らいを通して,多くの先輩や後輩と親しくなり,非常勤講師の口や,佐野短大の専任の口を世話してくださったり,共著を二冊もださせて頂くことが出来たのも安藤重和さん,佐藤三武朗さんはじめ皆様のお陰と深く感謝しています。また博士課程三年の折,奨学金を頂いてケムブリッヂ大学に留学させて頂いたことも阿部義雄先生はじめ研究室の諸先生方のお計らいと感謝しております。
 佐野短大の勤務はとても楽しいものでした。英語の教師10人中7人が文理学部出身で皆顔見知りの人ばかりでしたので,学科長の小竹先生を中心に学科会議も会議というよりは皆で勝手なことを自由に発言して歓談の場のようでした。また若い美男の先生が4人もいて,女子学生にいつも取り巻かれているような,青春学園ドラマのような雰囲気でした。佐野での最後の良い経験は退職2年前教員対象の海外派遣で,わずか3週間でしたが,25年前文理学部から留学させて頂いた懐かしいケムブリッヂ大学の図書館で読書ざんまいの日々をおくることができたことです。
 今にして思うと大学院に所属していた30代後半から40代前半,そして佐野に勤務していた50代前半が私の人生で最も幸せな時期だったと思います。今考えなければいけないことは,第三の人生をどうして生きていくかです。読書と散歩の日々を過ごせたらどんなに良いかと思いますが,人と出会うのが好きな私がどれだけ孤独に耐えられるのか不安でもあります。それでもなんとかしてより残りの人生一瞬一瞬を味わいながら歩んでいきたいと思います。



  胸に「時」を刻む生き方を
  
 ─ 年少の友に ─

  聖徳大学教授 藤井  繁

 通勤電車に身を預けてすでに半世紀,朝夕の一分一秒の競り合いは,ことによってはその日の生き方を左右します。私の場合,忙しい割に心が「虚ろ」であったり,単調な生活の割に「心忙しい」日を送っているのです。暇も困りますが,忙し過ぎるのも困ります。「忙しいことは救い」とか,「多忙は神」と言って自己暗示をかけ,泣く子を黙らせるようにして自分を励ますのですが,実はそれが「問題」なのです。時間に正確で約束を違えず,人に信頼されるのもよいのですが,それだけでは株の上下に一喜一憂するのと変わらない,小市民的な寂しい人生ではありませんか。何かに夢を抱き,何かに夢中になり,些細なことに感動することなく,乾いた日々を過ごすことになるからです。困ったことに,忙しいことが「充実」していることと思い込み,何かをすることは「無駄には生きてはいない」と納得し,忙しく動き回る習性は,今や救いようもなく根を下ろしてしまっているのです。それもまた「錯覚」にすぎなかったのです。「時間を計る」のは時計ではありません。生きたその中身なのですから,心に残っていない,流れるだけの時間は実は無かったに等しいのです。問題は「量」としての時間ではなく,充実した「質」としてのそれなのです。それは,「心に感じる時間」であり,何かがあって,生きていることが実感できる時間です。30分よりも長い5分があり,5分よりも短い1時間があります。「出会い」という心に残る出来事は,ほんの数秒にすぎない時間であっても,それが一生を左右することがあります。あの一瞬を幾度となく思い返して生きたかったと,今になって悔いています。
 このように,意味ある時間とは,私たちが意識して関わる対象に他なりません。自分から積極的に関わってゆく「関わり」なのです。名作を読んでも,誰もが感動するわけではありません。人によっては素通りする場合もあります。作品が枕もとにやって来て,読者を目覚めさせるとは限りません。風に風鈴が応えるように,反応するのは私たち自身なのです。たとえ同じ教室に机を並べて学んでも,問い掛けることも,心を開いて語ることもなければ,それは,無かったに等しい時間なのです。振り返ると,私の過去にも,そういう時間が余りにも多かったように思えて胸が痛みます。それこそ,どうでもよい生き方であり,人生であったのです。そう言えば,あの『星の王子さま』の著者が,「他人との関わりを絶つとき,ぼくはきみを信用しない。もっとも貴重な宝を危険にさらしているのだから」(『城砦』)と記していたことを思い出します。現代の医学は病気を治し,多少の延命を図ることはできましたが,最後には「必ず死ぬ」ということについては,歴史を通じて一貫して無力でした。今こそ人生が「最後の審判」を待つ時間ではなく,「与える」時間というものを持つ,意味あるものにしたいのです。欲しいものや望んでいることを,一方的に満たしてくれるのを,ひたすら待つのであれば,恐らくそれは,永遠に待ちぼうけで終わるはずです。「憧れ」ることが「罪」となるのはこのときです。今いる場所と時間を,全体重をかけて受け止める姿勢に欠けているからです。現実を直視し,素直に受領したいものです。
 情報化が進んで,日々の生活に余裕ができたとしても,心が目覚め,生き生きと感じながら生きることができないとしたら,その時間はやはり「失われた」も同然です。必要単位を取得するかのように,要点だけを押さえてさらうやり方は,自分自身の情熱も感動もなしに済ますことになり,現実に触れたことにはならないのです。まるで,言葉の不自由に苦しむことなく,世界一周の旅を続けたとしても,それはコ-ヒ-を飲みながら,ビデオなりテレビを見たこととさして変わりはないのです。私に生きることへの情熱なり意欲が稀薄だったのは,恐らく「痛みや苦しみ」を無意識のうちに避けた,あの「逃避の姿勢」のためと反省しています。’PASSION’ の語に,「情熱」だけでなく「受難」の意味もあったことに気付かなかったのです。
 それにしても,現実に関わることなく,そそくさと立ち去るのは,私たちの日々が余りに忙しすぎるためだけではなさそうです。「共に時間を過ごす」ことを,経済優先の夢に溺れて,この国の人々はとうに忘れてしまったのです。社会全体が,寂しさや悲しさ,苦しさを共にすることなく,ひたすら何かを求め,何かに追い立てられているように思えてなりません。
 人類の歴史とは,孤独に気付き,孤独に耐えかねた人間が,何かと共に在ることに憧れ,求め,それを肌で感じたいと願いながら,その遠い距離に悩み,苦しんできた者の物語に他なりません。孤独といい愛といい,「共に在ること」のもう一つの表現です。そう言えば,「インマヌエル」(神,共にいます)という言葉がありますが,それは流浪の旅の果てで,または,黄昏どきの暗がりで,誰もがふと口にする祈りです。そして,そう遠くない先に時間を待たせて,変わらずにせかせか生きている私が,今,いちばん欲しがっているものもまた,この祈りの言葉です。(July  9,  02)



中島邦男先生の出版祝賀会

東海大学教授 新井  洋

  日本大学名誉教授中島邦男先生の Studies in the Language of The Cely Letters(南雲堂)の出版を祝う会が,7月20日午後6時より,アルカディア市ヶ谷で70余名の参加者を迎えて開催された。
 会場入り口横に設けられたテーブルで中島先生が,参集してくる参加者一人一人の名前を著書の見返しに認めて手渡した後,定刻より少々遅れて保坂道雄氏による司会で祝賀会が始まった。まず藤井繁先生が友人としてまた同僚として,中島先生の労をねぎらっての心温まる祝辞に次いで,原公章氏が乾杯の発声をした。
 その後中島先生を囲んで歓談する中,小池一夫氏,安藤栄子氏,杉本桂子氏,西下修示氏,東憲一氏による祝辞が続いた。西下氏は北海道から,東氏は九州から駆けつけ学生時代の中島先生にまつわる想い出をユーモアたっぷりに紹介された。中でも杉本氏の愉快なスピーチと突然飛び出した歌声に会場爆笑となり,和やかな内に会が進み,桑山啓子氏による花束贈呈,中島先生からの謝辞と続き散会となった。
 本年中島先生は77歳の喜寿をお迎えになり,奇しくも二重の慶賀となった。今後ともご健康に留意しつつお元気で活躍されて,10年後米寿をお迎えになるときにまたこのように盛大なお祝いが出来ます事を楽しみにしております。
 Studies in the Language of The Cely Letters(Cely家の人々が書き残した15世紀後半(1472~1488)の書簡集)は前回の博士論文となったStudies in the Language of Sir Thomas Malory(南雲堂)の姉妹編とも言うべき15世紀英語の記述的語法研究である。チョムスキーの変形文法が世に出て以来,言語理論の追求が英語学研究の主流となり,またコンピュータの進歩に伴い,コーパスを使用して膨大な断片的資料を瞬時に収集し,それをまたコンピュータで処理する所謂機械仕掛けの方法が流行しているなかにあって,手作業(かつて中島先生がこのような手作業による資料収集はミッチェル(Bruce Mitchell : Old English Syntax)の後は私が最後になるのかなと,しみじみと話されたことが思い出される)によって収集した資料を記述する実証的研究はすっかり忘れ去られてしまった感すらあります。細江逸記が『動詞叙法の研究』のなかで「言語の実際を離れていたずらに理論を上下するなど,わが言語学の仕事ではない。」と述べておりますが,言語研究,特に古い時代の言語の研究にあっては,テクストを一語一語丁寧に読み,つまり「そのありのままの姿を見て」「そのありのままの姿を」記述するのが言語研究の基本であります。英語学研究を志す若き学徒は上記2書を熟読し言語研究の基本・真髄を身につけてもらいたい。




アメリカとドイツ,
二つの国際学会への参加を通して

日本大学文理学部教授 野呂 有子

  私は17世紀英国の叙事詩人John Miltonの研究をしています。今年は6月と9月にそれぞれアメリカとドイツの国際学会でミルトンについて発表するという機会に恵まれました。そこで,私の体験した海外の国際学会の様子について,また発表内容等について,皆様にご紹介したいと思います。
 まず,6月4日から8日まで,South Carolina大学Beaufort校で開催されたThe Seventh International Milton Symposiumですが,出席者は総勢で150名以上。英米の研究者はもとより,フランス,スイス,ドイツ,ノルウェイ,オーストラリア,南アフリカ,韓国,日本等からミルトン研究者が一堂に会しました。午前9時から午後6時くらいまで,各sessionに分かれて現在のミルトン研究の動向を占う諸論文が発表されました。Sessionは合計で34あり,それぞれに “Created Beings”,”Restoration Culture”,”Paradise Lost”,”Republicanism” などの名称が冠されています。発表者は各sessionとも4名が標準で,発表時間は各々20分,それに質疑応答の時間が5~10分ほどです。使用言語は英語。4つくらいのセッションが同時平行という場合が多く,聞きたい発表が重なることもあり,どちらを優先するかが悩みの種となりました。また,その合間に主導的ミルトン研究者による講演,鼎談等も入ります。学会主催責任者はRoy Flannagan氏でこの方はMilton Quarterly(ミルトン研究の最先端を行く季刊誌)の編集主幹でもあります。
 私は7日の午前の第19 session,“Satan”部門の二番手で発表しました。タイトルは  “The Making of Satan―from Pro Populo Anglicano Defensio to Paradise Lost”です。英文学史上,最大の叙事詩の一つと言われるミルトンの『楽園の喪失』(1667)創作にあたって,彼の散文作品,とくに当時の国際共通語ラテン語でイングランド共和制を弁護するために執筆された『イングランド国民のための第一弁護論』(1651)が極めて大きな影響を与えていることをサタン像の造形という面から論じました。
 私は15年ほどかけて『イングランド国民のための第一弁護論』及び『第二弁護論』を翻訳しました。(恩師新井明氏との共訳で聖学院大学より近刊予定)翻訳過程を通して気付いたのは,ミルトンが論敵達を攻撃する時に使用する比喩やイメージ等が『楽園の喪失』のサタン像の比喩やイメージに大きく重なるという事実でした。(このことについて更に詳細に知りたいという方は,来年1月発行予定の日本大学文理学部『研究紀要』第65号をお読み下さい。)
 Satan”は今,流行りのテーマであるらしく,50名ほどの席は殆ど一杯でした。(主導的研究者たちの鼎談とぶつかって聴衆は僅か5名等というsessionもありましたから,私は幸運でした。)発表の後で何人かの研究者の方々が興奮した面持ちでやってきて,私の発表内容と彼らの発表内容には共通点があるから,是非自分の発表を聞きに来てほしい,とかe-mailで論文を交換したい等と言ってくれました。このように自分の発表に対して反応があることは大変有り難く,また,やりがいを感じることができました。
 この国際学会に参加して幾つもの大きな収穫がありましたが,その一つは,私が深く尊敬する女性研究者のJoan S. Bennettさんにお会いし,お話できたことです。彼女は『第一弁護論』が『楽園の喪失』に果たした役割を「王権神授説」,「民主主義的合議体」等の政治的概念を軸に論じた優れた論文を1977年にPMLAPublications of the Modern Association of America)誌に掲載しておられます。(この論文は20世紀を代表する優れたミルトン研究論文の中にも選ばれています。)まったく別のapproachから私と同じ結論に到達しているわけです。帰国後,ベネットさんから早速ご著書をお送りいただき,私は恐縮すると同時に,その人柄の素晴しさにますます彼女を尊敬するようになりました。
 また,私が監修と訳を行って去年,法政大学出版局より出版した『古代悪魔学 ─ サタンと闘争神話』の著者Neil Forsyth氏とお会いしたことも忘れられぬ思い出です。その他,1991年にCambridge大学出版局から『第一弁護論』の英語訳を出版した,M. Dzelzainis氏と翻訳作業について話し合ったこと,ミルトンがフランス革命に与えた影響をMirabeauを中心に論じたGrenoble大学のC. Tournu氏に会えたこと,韓国で民主化に取組んでいる研究者の方の発表を聞き,意見交換ができたこと,その他多くの外国のミルトン研究者たちと友人になれたことは本当に嬉しいことでした。国際的な場で様々な国の様々な研究者の方々の発表を聞き,意見交換を行ったことによって,ミルトン研究に対する視野が更に広がりました。これからの自分の研究の糧にして行きたいと考えています。
 次ぎに,ドイツのヨハネス・グーテンベルク大学(マインツ)での第三回国際学会は9月2日から7日まで開催されました。ヨハネス・グーテンベルク大学は日本大学文理学部とは海外学術交流提携校の間柄です。毎年,この二校を中心として国際学会を開催しています。第一回目はマインツで,第二回目は日本大学で,と会場を交互にして学術交流を深めてきました。日本からも留学生が二人,哲学科とドイツ文学科からの学生がドイツの学生たちと共に意欲的に聴講していました。学会主催責任者は日本大学側はドイツ文学科の有泉泰男教授と哲学科の笠松幸一教授,ヨハネス・グーテンベルク大学側はKarl Anton Sprengard博士とKonrad Meisig 教授(インド哲学科主任)でした。今回の学会の共通テーマは「共生」でした。出席者は延べ人数で約50名,発表者は20名ほどでした。使用言語は英語とドイツ語で,英語による発表者は7名,他の方々はドイツ語を使用しました。
 各自発表原稿(完成原稿)を30部用意して聴衆に配付し,意思疎通の徹底をはかりました。発表時間はアメリカの学会と同様,各々20分,質疑応答の時間が5~10分ほどでした。これぐらいが国際的にほぼ標準なのでしょう。アメリカでの学会は参加者の殆ど全員がMiltonistという環境でしたが,マインツでは,様々な領域の研究者が共通のテーマに沿って,多様な研究発表を行いました。日本大学側だけを見ても,発表者は,ドイツ文学科の有泉先生,保坂先生,安達先生,ジャコムッツィ先生,イェーガー先生の他に哲学科の藤本先生,笠松先生,助手の高橋さん,教育学科の関川先生,国文学科の粕谷先生,化学科の菅原先生,英文学科の野呂,また法学部の小野先生も参加するなど,学際的な内容となりました。マインツ側の発表で特に私の興味を引いたのは,日本の漫画文化が現代のドイツに与える影響を論じたものと,三島由紀夫に関する発表でした。(内容について詳しく知りたい方は,一年後に発表論文がすべて纏められたものがヨハネス・グーテンベルク大学から出版される予定ですから,出版されたら読んで下さい。)
 私の論文タイトルは“On Milton's Proposal for ‘Communitas Libera’ ─from Pro Populo Anglicano Defensio to Readie and Easie Way to Establish a Free Commonwealth”というものです。『第一弁護論』,『自由共和国樹立の要諦』(1660),『楽園の喪失』を通して現れたミルトンの自由なる共同体構想を現代の我々がどのように生かし再解釈していけるか,その可能性を探った論文です。発表後,フィリッピンから大量の木材を輸入し,フィリッピンの自然環境を破壊している現代の日本の在り方は「共生」・「共同体」という視点からはどう規定されるべきか,また,ミルトンの主張する共同体では男性と女性は完全に対等なのかどうか等の質問をいただきました。日頃考えていたことを基にその場で答えましたが,これらの問題についてはこれからも一層精密化していきたいと思います。
 マインツではアメリカとはまた違った環境の中で,文理学部の他学科の研究者の方々と学際的な見地から意見交換ができ,日本と日本文学及び文化に興味を持つドイツの研究者の方々の多種多様な発表や見解に触れ,視野を深めることができました。また,日本文学・文化に対するドイツの方々の真摯な研究を通して,日本人である自分も,日本文学・文化を客観的な視点から捉える機会に恵まれました。それも日本大学の文理学部に籍を置いているからこそ,こうした機会に恵まれたわけで,改めて自分の置かれた環境に感謝の気持で一杯です。こうした体験の成果を自分の研究と教育活動の場に還元していけるようにと願っています。
 ちなみに来年度の学会は日本大学で,西洋的な二元論的なものの見方そのものを見直すことを共通テーマに据えて10月の体育の日の前後に開催される予定です。興味のある方は是非聴講されたらよいと思います。



向日葵にカンザス思う日暮れかな」

 日本大学文理学部助教授 高橋 利明

 
 つまらない一句をこのエッセイの題としたが,日々の忙しさにまぎれ,あの貴重な日々を忘却の淵に追いやらないためにも,ここにかの地での自分の研究生活の姿を記しておきたい。在外研究のテーマは,「ホーソーンとメルヴィルの文学研究-アメリカ的想像力の根源相をめぐって-」であった。
 平成12年度長期海外派遣研究員として,2001年3月末より2002年3月末まで,米国カンザス州立カンザス大学(The University of Kansas)英文学科に籍をおき,客員研究員として19世紀米国作家Nathaniel HawthorneとHerman Melvilleの文学研究と資料収集に従事した。主たる研究の場所は,大学内最大のWatson Libraryであったが,カンザス大学のある町Lawrence市が,南北戦争前後の米国史を語る上で大変重要な意味を持った土地柄故に,文学研究の視点が自ずと押し広げられることになったことは,渡米前の予想をはるかに越える収穫であった。次に,その概要を述べる。
 まず,指導教授Elizabeth Schultz先生の話から始めたい。先生には一年間家族共々公私にわたりお世話になり,様々な面で適確なアドバイスを頂戴した。そればかりか,その研究及び人生に対するまさに真摯な姿勢から学んだことははかり知れないほどの財産である。先生は,1958年から61年まで日本の梅花女子大学で教鞭をとられ,帰米後ミシガン大学で博士号を取得されカンザス大学に奉職された。そして,その後再度フルブライトで再来日されているほどの親日派で,その達者な日本語と日本文化に対する深い理解には驚かされる。そして,元米国ハーマン・メルヴィル協会の会長でもある先生の一番のご専門は,Moby-Dick(『白鯨』)(1851)で,その作品解釈の洞察の深さはもとより,『白鯨』とその作品によって喚起されてきた「視覚芸術」との関係を永年研究され,今や第一人者となっている。ちょうど2001年の春学期でご定年を迎えられた先生は,院生の論文指導等以外は授業を持たれていないので,直接授業に参加する機会には恵まれなかったが,オフィスにしばしばお尋ねした折や,拙宅への何度かの来訪の折,または先生のご自宅への訪問の折に,研究の進捗状況をお話し,その都度適切なご指導を頂くことができた。
 この一年間の在外研究の分水嶺は,2001年9月11日の米国内の同時多発テロ攻撃にあったと思われる。秋から予定していた米国内の文学的旅行はすべてキャンセルせざるを得ず,地元ローレンスに張り付いた生活を余儀なくされた。しかし,その地に足の着いたスタンスは,落着いて研究生活を送るというかけがえのない時間を生み出した。
 まず,特筆大書したいことは,10月3日に開かれた “a 24-hour marathon reading of Moby-Dick” にシュルツ先生のお誘いで参加できたことである。メルヴィルの『白鯨』出版150周年を祝うイベントとして,カンザス大学内で学生や教員等70名が一人20分間の持ち時間でただひたすら朗読をつづけて読み切るという偉業である。1991年にもメルヴィル没後100年ということで同じイベントを開かれたということであるが,このようなイベントを企画・立案し,淡々と実行してゆくシュルツ先生の行動力には,心から感服した。先生の『白鯨』に対するオマージュの深遠さによって,筆者自身が『白鯨』の面白さを再発見できたことは,望外の喜びである。また,朗読終了後,数名の研究者たちとお互いの『白鯨』論を議論しあって,大変楽しいひと時を持てたことも幸福であった。従って,秋以降の筆者の研究の対象は,『白鯨』に集中することになった。作品自体を虚心に読み込みつつ,「Ahabとは何か?」を探究するために様々な先行研究論文を読み漁る日々が続いた。「作品に対して自分自身を打ち立てる」という文学研究の根本を肝に銘じて,自分にしか書けない『白鯨』論を完成させたい。なお,渡米当初から研究に着手していたホーソーンの『ブライズデイル・ロマンス』論は,「Zenobiaの “passionate love” について」という題名で日本大学英文学会の『英文学論叢』(第50巻)に掲載されている。
 次なる大きな収穫は,10月4日にあの『オリエンタリズム』(1978)で著名なコロンビア大学のEdward W. Said教授の特別講演(カンザス大学の“Humanities Lecture Series”)を聞くことができたことである。演題は,”The Dilemmas of American Humanism” であった。このタイトルはかなり前から決められてあったと思われるが,奇しくも9月11日のテロリスト・アタック直後の講演ということで,そのタイムリーさには驚嘆を禁じ得なかった。「西洋対その他の国々」という構図に収斂してしまう “Humanism” では,真の「人間(文)主義」とは言い得ないのではないか,という彼の主張には心から賛同できた。そして,”Humanism” とは,作られた “a notion” なのであり,大事なことは,”interdependency of human beings” を考え抜くことであるという指摘には強い説得力を感じた。ますますもって,すべての政治的・宗教的イデオロギーを超えた所に存するであろう真の「人権」を探究すべきだと痛感した。
 そして,最後の最大の収穫は,2002年2月7日から10日まで開催された黒人詩人・作家のLangston Hughes(1902-67)の生誕100年を祝う国際シンポジウムに参加できたことである。1902年2月に生まれたラングストン・ヒューズは,1907年から1915年までの幼少年期をカンザス州ローレンス市で過ごしており,その地での人生は彼の人格形成に多大なる影響を与えていることは確かであろう。人間の性格の根本が,小学校高学年あたりから中学校にかけて形作られることに思い至るならば,ヒューズの精神の真髄を探る国際的シンポジウムが当地で開かれたことの意義は極めて深いといえる。(なお,このシンポジウムの企画・運営・発表にも,シュルツ先生は深く関与されていた。)このイベントの総合的なタイトルは, “Let America Be America Again” (ヒューズ自身の詩の題名より)で,招待発表者は,ピューリッツアー賞受賞の黒人女性作家Alice Walker,著名俳優のDanny Glover,ヒューズ研究の第一人者のHarvard大学教授Arnold Rampersad,詩人であり作家のCalifornia大学(バークレー校)教授のIshmael Reedなど極めて多彩な顔ぶれであった。日本からは,佐藤宏子氏(東京女子大学教授)が,”Hughes in Asia and Africa” というシンポジウム・セッションで発表された。いくつかのシンポジウムやイベントに参加できたことは,まさに僥倖と言ってもいいが,やはりシュルツ先生のご発表や日頃先生のお口からお聞きしていたNot Without Laughter(1930)[ヒューズの処女長編小説]との出会いは,最高のものであった。この自伝的小説には,作者のローレンスでの少年時代が鮮やかに描写されていて大変興味深く,子どもから大人に成長していくひとりの黒人の眼が捉えた「普遍的な人生の真実」が描き出されている。渡米前には,正直のところ筆者の頭の中に<黒人文学>の概念は微弱であった。時たま,Alice WalkerのThe Color Purple (1982)を卒業論文の指導でみる程度であったのである。しかし,今,ヒューズのNot Without Laughter や彼のいくつかの詩を読んだ結果,アメリカ文学研究者として,ヒューズ文学も研究の射程に入れるべきであることを実感した。今後は,ホーソーンとメルヴィルの文学を研究の根底におきつつ,アメリカ的想像力の根源相を多角的・複眼的かつ総合的に探究し,分析してゆきたいと思う。このような研究スタンスの重要性については以前から心がけていたものであったが,今回の一年間の在外研究は,自分の将来の研究の行くべき道を明確に定めてくれたと言える。
 最後は感謝の言葉で締め括りたいと思う。まずは,この一年間の在外研究の機会を与えて頂きました日本大学,そして,一年の留守の間,我が英文学科をお守り下さいました諸先生方,研究室スタッフの皆様にこの場をお借りして,心からの御礼を申し上げたい。そしてまた,私につきあって,一年間の留学生活を共にしてくれた妻と,二人の娘たちに最大の感謝を捧げたく思う。


 
たった2週間の大きな体験
 

 英文学科4年 藤井 真理子

 平成14年6月3日,日本大学のみなさんは何をしていましたか?4年生であれば就職活動の最中であったり,その他の学生のかたは文理のキャンパスで学生生活をのんびりと過ごしていましたか?
 わたしは,その朝母校である中学校の体育館の舞台に居ました。
 そうその時,英語の教育自習生として一日目を迎えていました。その体育館に集まるジャージ姿の(この学校では、公式の場以外は制服を着ません)中学生の光景や,校舎,校内放送がとても懐かしくさせました。しかし,私たち(実習生4人)はたくさんの目に見つめられている事に気付いて我にかえり,「そう,私は今日から学生ではなく教師なんだ!!」と思い出しました。
 「おはようございます!!  わたしは,一年生の英語を担当させて頂きます,藤井真理子ともうします。1年4組佐久間先生のクラスで2週間過ごします。教えることになるクラスは1年4,5,6,7組です。よろしくお願いします。」
 こうして,わたしの実習生活はスーツ姿の先生としてスタートしました。
【大好きな1年4組】
 私が,担任となったクラスは1年4組。初めて,教師として「生徒」はどんな子達だろうか?というのが心配なところで,特に最近は学級崩壊なんて言葉もあるからなあと内心緊張していました。
 しかし,「ほらー ♪ 私,満点取ったの!!」とフレンドリーな明るい声が飛んできました。そのとき,ちょうど中間テストが終わって,テストを返されているところで,初めてのテストでよい点を取ってあまりに嬉しかったのか大きく広げて見せてくれました。今でも目に浮かびます。
 この1年4組の生徒たちは,このエピソードからも分かるように元気,元気の賑やかなクラスで一人一人がそれぞれの個性を持って生き生きとしていました。しかし,みんな興味あるものについて容赦なく突っ走って来るのでそのパワーは,凄い!!初めは,その10歳の年の差パワーにたくさんのエネルギーを使ってグッタリ~になってしまいました。
 それも数日経つと,もともと自分自身も元気でいたずらな子供でしたので直ぐに慣れて,負けないパワーを備えました。朝の会,お昼休み,給食の時間,掃除の時間,いつの間にか,このクラスは私の心のオアシスになりました。
【教育実習先の中学校】
 わたしの実習先である中学校は,昔から会議が多く,研究の進んだ教育活動の盛んな学校で,とりわけ英語教育はとても熱心な取り組みをしていました。驚いたことは,中学校一年生の1学期・中間テストの内容が4割のリスニングで占められていることで,教科書を使わずにアルファベットよりも先にフォニックスという音声を元にしたものを教えていました。ですから,生徒たちは2,3年と学年が上がるにつれてとても耳がよくリスニングをし,的確に勿論口答で(時制もしっかりとしたかたちに)答えるという活動が個人差はあれ,身についていました。しかも,2,3年前であれば英語の授業はすべて英語で行う先生がいて生徒もそれについていけるほど力があったと聞き,自分の頃の英語教育との違いを感じていました。
 今年14年度から評価も絶対評価に改正されたことから,絶対評価の研究にも力を入れていました。それも,英語教育と同様大学の先生を交えた定期的研究発表を行っていました。
 具体的に絶対評価は,細かく分かれた票(表現・理解・コミュニケーション・言語表現など)を作り,生徒に見える形で授業中も評価シール(意欲的に参加できているかなど)を渡しそれを生徒たちが自分の表に貼って,自分はどこを出来ているのかを知らせるという物などが見られました。ですから,絶対評価は,かなりのしっかりした基準を教師が持ちながら評価をして行かないと40人近い生徒たちの評価を,特に授業中にしていくのは困難なようでした。(きっと,皆さんにも想像できることでしょう)こんな,現場を目の前にして恐れを抱きつつ,こんなところで実習できることを幸運にも思いました。
【私の実践授業】
 そんな中,実習2日目,とにかく経験を積むことが一番ということで私の授業が始まりました。一生懸命先生の授業を元に,マニュアル本を片手に,作った指導案を頼りにLesson1の授業をしました。教室はとても静かであまり反応がなく,1-7の教室は止まっていました。わたしは,指導案どうりに授業を進めることだけに捕われ,時間が思ったよりも進み焦るばかりでした。指導教官の先生の授業では生徒たちが生き生きと活動し,活気がありました。それに,授業の流れもスムーズでなんと授業というものは難しいのか!!と実感しました。
 それでも,毎日毎日1日3回くらいのペースで授業の時間がやってきて,何とかもがいてこなしていくと,前に立って授業することには慣れて行きました。しかし,一回一回の授業の反省からまだまだ改善点が出てくるので,空き時間はマテリアル(授業内で使う小物)の作り直し,プリントの作り直しや,新たなアイデアから出たゲームで使うプリント作り,新たな授業の流れの作成に精をだした。
 例えば,プリント一つ取っても,単語を書く際には4本線を書かなくてはならないし(これは板書においても同様である),文法説明をするときも,疑問文の概念を分かりやすくするために,単語を書いたマグネットを作って分かりやすい板書配置を考えるなどしました。
 つまり,教師として授業を作るのですが,それは「生徒の目線」で考えて全てを形作っていくと言う作業ばかり。これは,簡単だと思うかもしれませんが大学生になってしまった自分は忘れてしまっていて,はっとさせられることの連続なのです。
 こうして作業していると,あっという間に時間が過ぎてしまって次の授業が始まり,終わると言う具合で毎日パタパタ走り回っていました(実習生の仲間内でよく笑い話にもなっています)。
 しかし,先生の助言もありそのうちにぬいぐるみを使ってのWhat is this?の,ロシアンルーレットを元にしたIs this your~?のプリントゲームでのグループ活動を行ったりと習ったことをすぐに使い・慣れるといった活動的な様々な授業形態を展開できるようになって,活気ある教室になりました。「今日は先生の授業じゃないの?」「うちのクラス先生の授業,少なかったからもっとやって欲しかった。」などと言ってくれた時には,とびきり嬉しくて,もっと頑張ろうとやりがいを感じました。
【恵まれた実習生メンバー】
 そんなやりがいと,忙しさを分かち合う仲間がいつも居ました。
 社会科の実習生の大友さんと,音楽科の実習生の下田さん,技術科の行天君,そして英語科の実習生の私の教科の違う4人。この時実習生として集まったメンバーは,同級生の4人でこれが中学卒業以来の再会でした。
 みなそれぞれ中学の時に活躍していたつわもので,個性豊かなメンバーなので,この2週間心強く,お互い刺激をしあいました。皆,教科も違うのでお互いの授業にも興味があって,研究発表の時には,皆お互いの授業を参観しに行きそして,教員の先生同様研究授業の感想を言い合ったりしました。
【私たちの恩師たち】
 そんな私たちの中学時代の恩師たちが(7~8人)私たちの研究授業には,集まって会いにきてくれました。
 私たちが,教育実習としてこの中学校に来たのもこのスーパー先生たちのおかげでした。その先生たちは,実に楽しい授業をし,新しい試み,今で言う総合教育・地域学習,当に『生きる力』を養える試みをして私たちの今につながる多くのことを作り上げてくれた人たちでした。先生たちは大事に,昔の私たちの文集・通信を持ってきてその試みの一つ一つの思い出を語り,先生達にもこの学年は思い出深く,先生自身も楽しい時だったと話しました。ちゃんと,一人一人のことを覚えていてくれて,私の苦しかったこと,辛かったことも,強がって平気な素振りをしていた時のことも先生には見透かされていました。
【新しい思い
 教育実習で教師として生徒や授業,学校という物を体験して,自分の恩師に再会して中学生の頃の自分はどんなであったか?を考え直しました。
 以前は,生徒としての目線や体験でしか中学生であった自分を省みることはなかったのに,今では恩師の思い出話や教師としての体験から中学生の自分を省みることができました。教師の自分が生徒の自分に語りかけているようで,不思議な気持ちになりました。
【最後に】
 今回の教育実習は,たった2週間であったのに教育のスキル・教育の世界だけではなくて,たくさんの生徒たちとの出会い・同級生との再会・恩師たちとの再会・自分との対話を経験させてくれました。その出会いや体験は当に宝物で,今でも実習生仲間とは定期的に集まったり,生徒とは文通をし,文化祭に顔を出す約束をしたりして交流があります。
 この経験から,これから先どんな事にも逃げないで,様々な経験をしようと思いました。そして今,素敵な教育者になれる様に更なる努力をしてゆこうと夢を膨らませているところです。



留学するということ

英文学科3年 菅澤満美子

 イギリスに来て約5ヶ月が経とうとしています。今までの5ヶ月間を通して,様々なことについて考え,悩み,その度に同じコース,Junior Year Abroad(JYA)にいる友達と話し合ってきました。4月からの計14週間に渡る語学集中の授業も終わりに近づき,JYAの本来の目的とも言える正規の授業開始を前に,留学するということについて話す機会が増えました。そのような中で,「留学の本質とは何なのか」ということを話し合ったことがあります。
 留学することが決まった時,私の中には期待と不安が同時に沸き起こってきました。イギリスで過ごす1年間で何を身に付けられるだろうか,そして1年間で何かを身に付けられるのだろうか。様々な期待と不安を抱きながら,気が付くとイギリスに来てから1週間が過ぎ,1ヶ月が過ぎ,時はどんどん流れていきました。イギリスに来て数ヶ月が経った頃,私は自分が明確な目標に向かっているわけではなく,毎日をただぼんやりと過ごしているということに気が付きました。そして私がしていたことと言えば,英語を使うことから生じる間違いを恐れ,間違うことから落ち込むという状況を避けることでした。そんな時,ある先生がこのような言葉をおっしゃいました。「Try to be imperfect! No pain, no gain.」完全な人はいない。まして留学生なら知らないことはたくさんあるはずだから間違うことは当然だ。間違いを恐れていては前に進めない。
 留学するということは,単に英語力を身につけるための手段であるとか,自分の知識を増やすための機会であるとかということだけではないと思います。留学とは,限られた期間の中で1日1日の大切さに気付いたり,「留学」という体験の先に,こうありたいという自分を見つけ出し,それに少しでも近づこうと努力することで常に自分を見つめ直すことの重要性に気付いたりするような期間なのではないかと思います。そうすることから生じるのは,時として思うようにできなかったという後悔や,自分の力のなさに対して落ち込むことかもしれません。しかし,そのような思いをしっかりと受け止めることで,その後悔や落ち込んだ気持ちが前に踏み出すための一歩となるのではないかと思います。
 2週間後には正規の授業が始まります。ネイティヴ・スピーカーと一緒に受ける講義やセミナーに,ついていけなくなることもあるかもしれません。しかし,間違うことを恐れず失敗する勇気を持って授業に参加し,有意義な日々を過ごしていきたいと考えています。
 



TOEFL対策は文学で
 

英文学科3年 満生  稔

 僕はハワイ大学交換留学生としての資格を得るのに必要,ということで急遽TOEFLを受けることになったのでその受験に際しての準備といえるようなものは時間的にほとんど,1週間程度しかできませんでしたが,その中から役に立ったと思えるもの,役に立たないと思えたものを挙げてみようと思います。
 TOEFLを受けてみてまず最初に感じたのはそのボキャブラリーの多さ,難しさ(少なくとも僕にとっては)でした。リーディングでは「石炭の出来るまで」とか,「ペニシリンの歴史」,「季節に伴う動物の移動の法則」とか,どれも専門用語を多く含んだおそらく大抵の人にとって馴染の無い話題についての文ばかりで,ある程度の専門用語のようなものまで広範囲の単語の知識が必要とされていたようでした。TOEFLの為のボキャブラリー攻略本なども売っているようですが,こうなるとあまり役に立つとは思えません。毎回その話題の内容は違うだろうし,その大体を予測するにしてもあまりにも膨大な量を暗記しなくてはいけなくなると思うし,そうなると第一,面白くありません。
 これは攻略本などに頼らず,コツコツとまんべんなく単語を覚えていくしかないように思われます。僕の場合,たまたま受験の3ヶ月程前から読書をしていたことが大いに役に立ちました。
 英語で書かれた本を読んでいて,わからない単語,用法等があったらそれを英英辞典でひき,その単語のもつ意味をイメージしながらその発音,意味,例文,そしてその本の中の,その単語を調べるに至らしめた文も例文として挙げておきます。それでもイマイチ感じが掴めないときは英和辞典を使ってメモ帳に書き写します。それでもよくわからない時には英和辞典を使ってカンタンな日本語をふっておきます。
(”sizzle” なら「ジュージュー」といった具合)。そして電車の中などで時間を持て余す時にこの自分だけの単語帳を開いてみたりしました。この方法だと単語1つにつき結構な時間がかかってしまいますが,市販の単語帳等を使って自分にとって全く興味のないコトバを闇雲におぼえていくよりも,自分と少しでも関係をもった,自分の通り道でぶつかった単語を徹底的に覚えるこの方法が僕にはあっていたと思います。
 この際非常に重要になってくるのはその本の選択です。いちいち辞書を引くという,そんな面倒くさい事をするのに価するような文章的に信頼のおける,そして面白い本でなくては途中で続けるのが苦痛になってくるからです。そうやって本を選んで,それでもウンザリしたらその本と単語帳はどこかに置いといてさっさと他の本をさがしましょう。そういういいかげんさも必要だと思います。
 僕の場合5冊くらい,ちょっと読んで飽きて,というのを繰り返し,TOEFL受験の3ヶ月前にサリンジャーの『9ストーリーズ』と出会って今に至ります。『9ストーリーズ』は20世紀文学ということで文体もそんなに古くないし,題名の通り9つの短編からなっているので一つの章が終わる度に充実感が味わえたので,それが根気のない僕でも今まで続けられた原因だと思います。ここで『9ストーリーズ』について延々と述べても始まりませんが,とにかくこういう積み重ねの作業はなるべく楽しくやるのが一番だと思うのでそのひと個人にあった本を選べるとやる気も出るし長続きすると思います。
 リスニングの訓練は,なんとはなしに買ったウィリアム・ブレイクのテープつき詩集が役に立ったと思います。それもまず読む範囲を決めて,例のごとく辞書をひいていき,あとはテープを聴いてみたり,バイト中に声に出してブツブツ言ってみたり,その詩を理解しようとしてみました。これは予想外に効果があって,英語の音声のクセ,みたいなものがちょっと理解できたと思います。それにリーディングの際の文章のイメージ化にも役立つと思います。詩の理解に比べるとTOEFLの英文の理解なんて簡単に思えてくる程です(と,デカい口ききながら詩の意味もほとんど理解できてない僕の言うことですが)。ちなみにリスニングの際の音質は非常に悪く,音割れを起こしているので注意が必要です。単に僕の選んだ会場,もしくはセッティングが行けなかったのかも知れませんが。
 ストラクチャーのセクションに関しては,攻略本が有効かもしれません。僕は何もやらなかったのですが終わった後でやっておけば良かった,と思いました。
 あと,コンピュータテストをとる場合,コンピュータに慣れていない人は市販のTOEFL参考書についている模擬体験ソフトを使って慣れておいた方が良いかもしれません。ちなみに僕が受けている時,コンピュータが一度フリーズしました。そういう時はあせらず惑わず,係の人にイチャモンつけましょう。
 受験中一番大事なことは,焦らないでリラックスしている事だと思います。セクションごとに時間が配分されているのですが,僕は時間が余った時は最後の問題を時間ギリギリまで答えないで休んでいたりしました。
 お粗末な説明でしたが,大体こんなことをやっていました。これでもなんとかハワイ大学留学の最低ラインである173点は突破できた訳ですが,僕のやっていた事がベストのTOEFL対策だとは言えません(特にストラクチャーなどは)。こう言ってしまうと元も子もありませんが,その人個人に合っていて長く続けられる学習法がみつかればそれが一番良いと思います。



消えることのない夏
 

英文学科2年 星  恵理

 
 目をつぶるとひとつひとつ,ゆっくり思い出があふれてくる。毎日いろんなことがあったはずなのにすぐに思い出せない。それほど私はイギリスでの生活に自然と慣れていて,勉強のためにわざわざ来たのではなく,観光のために来たのでもなく,普通に住んでいる感じだった。だから写真を見ると,懐かしさより少しむなしさを覚える。友達もこのプログラムで知り合ったばかりなのに,ずっと前からそばにいたみたいだった。イギリスの夜はいつもドラマのようで,涙も見たし,笑い声で包まれた日もあった。星がとてもきれいで,本当に細かな粒までよく見えた。運がよいことに流星を見ることができ,以前日本で騒がれたものよりも,ずっと明るくて,大きくて,感動的だった。芝生に友達と寝転がってみたあの夜は,一生に一度といってもいいほど,貴重で大切な日になった。
 カンタベリの町並みもロンドンの景色も,長年培ってきた歴史と時代の新しさが混ざり合い,私は決して日本では味わえないこの感覚の中で自由と開放感を体全身で感じていた。時には全く日本とは違う習慣,店が5時に閉店してしまうとか,日曜日には開店すらしないとか,バスが来るのがあまりにもルーズであることなどに振り回されたりもしたが,そこもまたイギリスらしいと言えた。気まぐれの雨にも寛大になったと思う。イギリスでのお気に入りは,チョコレートドリンクにマフィン。日本にはないチョコレートフラペチーノ(チョコレートモルトクリーム)求めに何回スターバックスに行ったことか。さすがというべきか,サンドウィッチの種類は日本とは比べ物にならなかった。なかにはマスカットとクリームチーズのものもあったが,食べてみるとこれが不思議といけたのだった。ここでひとつ,これは私の教訓みたいなものだが,イギリスで日本を求めてはいけない。”郷に入っては郷に従え”である。そうすればイギリスにしかない美味しさを味わうことができるだろう。
 映画『ブリジット・ジョーンズの日記』にも登場したピカデリーサーカス,そこで見た“オペラ座の怪人”は見るものすべてを魅了し,わたしもすっかりその劇に引き込まれていた。かなわぬ恋の切なさがいっそう会場をひとつにするのだった。そして魅了されたといえば,バッキンガム宮殿もそのひとつだろう。運良く私達は中に入れることができたのだが,一歩足を踏み入れたとたん厳粛な空気に包まれ,見たこともない宮殿の美しさに,ただただ,ため息をもらすばかりであった。そこには多くの絵画があり,また海外からの贈呈品もあり,日本からは今年開かれた韓国と二カ国共催のワールドカップの記念品が展示されていた。サッカーが好きな私としてはこれは嬉しいことであり,このサッカーが大変普及しているこの国の人々は,どうあの大会を見ていたのだろうか。ロンドンにあるアーセナルのホームスタジオに行ったのだが,民家のど真ん中にあったのがなんとも印象的であった。充実していたこの旅に“後悔”をひとつあげるとするならば,開幕したプレミアリーグの試合を見れなかったことである。
 とにかくすべてが新鮮だった。今まで一度も行ったことがないbarに行ってお酒を飲んでみたり,新しい自分がそこにはいた。先生と世間話をする機会なんてそんなにないだろう。ましてや一緒にお酒を飲むなんて。いろんな話をし,いろんなことを吸収させてもらった。それだけでなく,外国という見知らぬ土地ということもあって,多くの心配をかけたし,大変お世話になったことは確かである。特に私はサッカーを見に行きたいだとか,その他覚えていないほどわがままを言っていたような気がする。それでも先生たちは笑って答えてくれたり,冷静に対処してくれたりして,大変頼りになり,心の支えになってくれたのはいうまでもないだろう。先生といえば,むこうで教えてもらったトムやショーン先生,彼らのこともまた一生忘れることはないだろう。ショーン先生の家で行ったバーベキューパーティでは,お手伝いとしておにぎりやサラダを作ったのだが,炊飯器や梅干のペーストなど,日本のものが多くあったのに驚き,懐かしいとみんなで騒ぎ立てたのも昨日のようである。
 ゲームイヴニング,ミュージックイヴニングと,忘れられない夜はまだまだ続く。二つの班に分かれてそれぞれ歌を歌った。その姿は少し恥ずかしさが混じっていたが,一生懸命さが光っていた。ビートルズのTicket to Ride とLet It Beが心地よく響き渡り,みんなを不思議な空気が包んでいた。歌に対する感動とこの旅も終わりに近づいているということ……
 イギリスにいた頃,当たり前になっていたことが,普段の何気ないことが,こっちでは思い出となってしまうことがひどく切ない。この旅で知り合った友達,先生方,すべての人々,出来事,決して忘れないだろう。一ヶ月という短い間だったが,見知らぬ土地で一緒に過ごしたというのは何よりも大きいものであり,結束というものをより強くしただろう。本当にこのプログラムに参加してよかった。いろんな出会い,もちろん新しい自分への出会いも通して,私はこの夏たいへん成長できたと思っている。



 ◆学院特別講義のお知らせ

 平成14年度第3回大学院特別講義を下記の通り行います。

 日  時:1月25日(土) 2・3限

 講  師:小池 生夫先生(明海大学教授)

 講義題目:日本の英語教育政策:過去,現在,将来

 

 

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