日本大学英文学会  

日本大学英文学会通信77号(2002.6)


ご挨拶 

日本大学英文学会会長 関谷 武史

桜上水の文理学部のキャンパスも,若葉の季節となりました。新入生も順調に大学生活を始めています。会員の皆様もお元気でお過ごしの事と拝察いたします。日本大学英文学会は今年で創設78周年を迎え,御承知の通り,着々と活動を行っております。本学会発行の『英文学論叢』第50巻は小野寺健教授退職記年号として近々発行の予定です。昨年11月17日に催されました本学会の年次大会での先生の最終講義が巻頭論文として掲載されます。また,4月13日に文理学部の人文科学研究所主催で行われました,著名な Charles Dickens の研究者である Kent 大学の Malcolm Andrews 教授の講演も同論叢に掲載されます。恒例の月例会も4月20日(土)に今年度第1回目が開かれました。留学先の Kent大学より帰国したばかりの日本大学経済学部講師前島洋平氏の Liza of Lambeth について,続いて,神奈川県立有馬高等学校教頭岡田善明氏の Milton についての,共に優れた発表があり,活発な質疑応答の後,場所を新しい7号館の英文学科会議室に移して茶話会が開かれました。参加者一同楽しい語らいの中で会を終了いたしました。
 ところで,昨年の英文学会通信第75号の「ご挨拶」でわれわれ教員が学年末に大変な数の答案の採点とリポートや卒業論文の査読に忙殺される事を書きましたところ,卒業生から,「大学の先生も大変ですね」と同情溢れる便りをいただきました。それに対する返事の中で,確かに,われわれは特に,学年末には忙しいけれど,学生の書いたものを読んでいる中で,時折こちらの文学研究の目を開かせてくれるような,極めて独創的な見解に出会う事があると申し上げました。勿論,論旨の展開,説明の手順は十分ではありませんが,日頃私が考えていた視点に修正を迫るものがあり,一服の清涼感を味う事があります。昨年度の卒業論文の中で,私に強い印象を与えたのは大塚敦君の Hamlet 論でした。大塚君は,Hamlet の映画化の歴史を調べ,それぞれの監督達の作品解釈を論じたものでした。取り扱われている映画は5本を超えていましたが,私の注意を魅いたのは,「尼寺の場」(the nunnery scene)についてのLaurence Olivierと Kenneth Branagh の演出方法についての批判的見解でした。「尼寺の場」は,Claudius 王と Polonius 宰相が Ophelia を囮に立てて Hamlet の狂気の原因を探ろうとする場です。Hamlet と Ophelia の会話を盗聴しようして,王と宰相が壁掛けの後ろに身を隠していると、やって来たHamletがOpheliaに向かって激しい言葉を浴びせます。作品中には,Hamlet が何故 Ophelia にこんなに辛く当るのかは示されておりません。それを,両監督共,Hamlet が王と宰相との謀議を事前に察知していたという立場から,Olivier 監督・主演のHamlet は例のOphelia に対する呪詛を,壁掛けに向かって指をさしながら,また Branagh 監督・主演のHamlet は壁掛けに向かってそれを浴びせております。この解釈は,実は,J. Dover Wilson による New Cambridge 版テキスト(1934年)の解釈に多くを負っていて,Hamlet の怒りの原因が論理的に扱われていて,それなりの説得性を持っております。これに対して大塚君は,人間の言動は論理的には説明のつかない,矛盾だらけの,それだけに曖昧なものなのではないかと言った,両監督の解釈に対する批判的見解を提示いたしました。この見解に触れた時,私は虚を衝かれた想いでした。確かに,人間の言動は論理的に整然と説明し得るものではない。時には人間は自分自身にも分からないような振る舞いをしてしまう事がある。そうした人間の実像をこそ Shakespeare は描いたのではなかったか。現に,Shakespeare は Hamlet をして次のように言わせております。

        There are more things in heaven and earth, Horatio,

        Than are dreamt of in your philosophy.

                                                            (l.v. 168-9)

  上の台詞中の philosophy は Shakespeare の時代に著しく台頭してきた学問全体を指していて単に哲学を指しているのではありません。世の中には学問的論理では割り切れぬものが存在する事をこの台詞は示しております。そして,その最たるものの一つとして人間存在そのものをShakespeare は考えていたに違いありません。人間の複雑な姿を複雑なるがままに Shakespeare は描いているという事実を,私は大塚君の見解を切っ掛けに,改めて考えた次第です。
 実は,悲しい事に,大塚敦君は卒業式直前の三月十五日午后七時三十分頃オートバイで東京の下宿先から名古屋の実家に帰省の途中,東名高速の御殿場インター附近で事故のため不帰の人となってしまいました。人生を大急ぎで駆け抜けて天国へと旅立ってしまった大塚君の冥福を祈らずにはいられません。と同時に新入生はもとより学生の皆さんが交通事故に見舞われることのないよう注意して欲しいと考えます。そして,ここ桜上水のキャンパスで充実した学生生活を過す事を願って止みません。


ご挨拶
2002年度を迎えて ─

  日本大学文理学部英文学科主任 原  公章

暖冬のため3月下旬にすでに満開となった桜は,入学式のときにはすっかり葉桜となり,はや,文理学部のキャンパスは色とりどりのつつじの季節を迎えています。また,あわただしい年度初めの諸行事も無事に終わり,ようやく授業も軌道に乗り始めています。皆様にはお元気で,新年度をお迎えのことと思います。
 おかげさまで,桜上水のキャンパス内での3度目の学科移転も,3月中旬には無事に完了したことをご報告いたします。濃い青とライト・グレーのツートーンカラーの快適な空間に囲まれた,新しい事務室・教員室(全個室)とともに,私たち学生・教員にとって例年とはひと味違った,心新たな新学期の出発となりました。
 本年度の学科入学者は,例年150人前後のところ,186人もの新一年生が誕生いたしました。これは,いわゆる「歩留まり」率がきわめて高かったことを意味していて,それだけ英文学科を希望した人たちが多かったことを示しています。これは,多くとも160名を予想してクラスを編成していた私たちには,うれしいとまどいでもありました。その分,学生諸君の期待に応える責任も痛感せざるをえません。一方,大学院の入学者は前期課程7名,後期課程1名で,学部にくらべやや先細りの観がありますが,入学者はいずれもしっかりした研究観をもって専攻を選んでおり,頼もしいかぎりです。
 昨年は,松田先生が6月にお亡くなりになり,9月には小野寺先生がご定年,本年2月には田室先生がご定年で,それぞれ専任職を退かれました。しかし,小野寺先生は引き続き非常勤講師として,週2日お見えになっています。代わって,英文学ではミルトンご専門の野呂有子先生,英語学では言語理論・英文法ご専門の松山幹秀先生がお見えになりました。また,昨年まで助手を務められた閑田朋子さんが,この4月より専任講師に昇格され,その後任には堀切大史さんが着任されました。また,昨年一年間カンザス大学に留学されていた高橋利明先生がこの3月末に元気に帰国され,一年ぶりのフルメンバーのスタートとなりました。さらに,昨年9月に退職された斎藤美雪さんの後任としてお手伝い頂いていた山下恵美さんが,4月より正式に副手として勤務しております。
 このように,新7号館移転に伴い,英文学科の陣容も様変わりし,3年目を迎えた新カリキュラムの順調な進展も伴って,あたかも本年は「新生・英文学科」のような体を呈しております。今の1年生が卒業するときには,英文学科創設80周年を迎えることとなり,私たちはこれまで英文学科を築きあげて下さった諸先生のご努力,また多くの卒業生諸君を送り出した長い歴史を,常に忘れずに,また未来に向けて歩み出したいと思います。
 一年生のガイダンスでは,「大学は準備期間ではない,大学は職業訓練所ではない,大学は強制機関ではない」というような話をしました。大学はもちろん就職のための踏み台ともなりますが,そのため,学生たちは絶えず次の段階に向けた準備機関のような,落ち着かない日々を送りがちです。私は,人生でただ一回のこの貴重な時代に,もっと根本から自分のあり方,世界のあり方を見直し,この世界の優れた人々の存在に目を開く,ということが大学の中心ではないかと,思います。英文学科で,それぞれの学生諸君が,それぞれに自分の成長に向けた学生時代を過ごしてほしいと,心から念願しております。 (2002年4月27日)


亡くなった(辞めた)お世話になった(をかけた)
恩師・同僚・後輩

  日本大学大学院非常勤講師 中島 邦男

私は24年3月卒業しましたが,23年12月から助手(副手は当時なかった)として,次いで専任講師・助教授・教授,そして目下(大学院の)非常勤講師として53年に亘ってわが英文科にお世話になってをりますが,その間お世話になった(をかけた)恩師・同僚・後輩のことを,記憶力減退(消失?)のため,事実に反したり欠けたりすることを前以てお詫びした上で,思ひ起こすまま,書いて責を果たしたいと思ひます。
 恩師の中で一番古い(現在知る人とてないと思はれる)先生は森村 豊師,この先生に会って初めて英語といふものを習ひ覚えるものでなくて,英語そのもの,変化し,場面によって色々な意味を有するものとして研究対象にすること,の他に戦後にして初めて大学に現はれた女子学生を大事(?)にされたこと,1週間の講義を1日に集中させて,最初の1時間が終はると,アッ !  頭痛がする !  と言って学校を去り,帰宅は夜遅くだったりすることを妙に覚えてゐる。大和資雄先生は余りにも有名で記念号や追悼号で多くの教へ子が色んなことを書いてゐるので私事を一つだけ。私が研究発表で黒板に例文を書き,ここ,ここが大事なんだ!と拳の先で黒板をコンコンと叩いたことを,内容の批評をそっちのけにしていたく叱られたことが昨日のことのやうに頭に浮びます。先生には私が40過ぎても教授になっても22,3の学生扱ひされたことを苦々しく思ひ出しつつ喜寿に達した我が身も40,50を過ぎた教へ子に同じことをしてゐないか,と反省すること屢です。古谷専三先生には教室で習ったことはないのですが,研究に対すること,学生に対することばかりでなく人生すべてに関してこの上なく深く親切に指導を受け,今日あるのも(よいことがあるとしてですが)90%は先生のお陰だと思ってゐます。ここで我が後輩・教へ子にして47才の若さで逝ってしまった岡崎祥明君について(追悼号も出ていることだから)一言。誰だって褒められることもあれば悪口を言はれること(私は後者だけですが)もありますが,私の知る限り岡崎君を悪く言ふのを耳にしたことがないのです。本当にいい奴だったなー !  それなのに何であんなに早く !  最後に会ったのは死の10日前病院の床の上だったが,静かに眠っている彼の体(大柄な体躯,柔和な姿)は半分程に小さくなってゐて,ああ,と声も涙も出ない程衝撃を受けたのでした。岡崎君と仲のよかった私と同い年の新倉龍一君もあっと言う間に他界するし,同僚の悪口を学生の前で言ふのは仁義に反するといふことを思ひ起こさせる阿部義雄先生,大和・古谷先生に次ぐ重鎮石橋幸太郎先生,終了のベルが鳴っても中々授業をやめなくて,廊下で長い間待たされた岡田 実さんも私にとっては急死だった。その他わが英文科が大いにお世話になった阪田勝三先生,江川泰一郎先生等については紙幅も尽きたこととて残念ながらここで筆を擱きます。


研究室時代の思い出

 日本大学法学部教授 河内  司

私の小学校時代の性格は,極めて内向的であった。それは3人姉妹の中で育ったからかも知れない。小学校時代は,全く先生とも仲間とも一切口をきかずに帰宅することがしばしばであった。小学6年生の夏,生まれて初めて親元を離れて,静岡県の磐田市で半年を過ごした。この集団疎開中も,寮母さんから,その大人さ(?)故に可愛がられた。終戦 !  焼け出されて,父の実家のある栃木県の足利市へ行き,足利中学校で4か月間を過ごした。
 私の性格を変えたのが,と言っても潜在的な激しい性格が突然私の体内にわき出でたのであったが,野球との出会いであった。中学3年生の時から草野球では常にエースとして君臨した。それ故,以来折に触れて野球を楽しみ,勉強の方は疎かになった。高校3年生に入ると,野球を完全に断ち,猛勉強に入った。しかし希望した大学の入試に失敗する。浪人しても,また野球との付き合いが始まる,と判断した私は,当時私のような落武者に門戸を開ける制度(?)があったわが日本大学の門を叩き,思いもしなかった英文学科に籍を置くことになった。入学したものの学校に馴染めず,親しい友達にも恵まれず,しばしば授業をサボって映画館へ足を向けた。9月下旬の中間試験の成績は当然のことながらメタメタであった。10月から自らを戒めて猛勉強(?)を始めた。後に,教務課の職員から「音声学や他の科目があるのに,ぎりぎりの単位しか取らないのはけしからん」と叱責を受けたのであったが,3年間で必要な単位(教職科目を含めて)の取得を終えた私は,学校へは行かず,4月から毎週4日間は朝から夜遅くまで論文の作成,そして3日間は3本立ての映画鑑賞という日々が9月まで休むことなく続いた。
 Robert Louis Stevensonの小説を3点。批判的な角度とはほど遠い,単なる鑑賞に終始するという論文の下書きは1000枚に及んだ。丸善社発行の大型の大学ノートにダブルスペースで500ページになった。10月の下旬であった。時間があったので,Olivette社のタイプライターを使って自己流で12月には論文を完成させた。
 明くる昭和30年の1月5日から英文雑誌“Preview”社に入社した。私の仕事は,日本文で書かれた諸々の記事を英訳することであった。当然のことながら,私の極めて稚拙な英文はジャーナリズムの英語とはほど遠く,2人のアメリカ人のスタッフが私の英文を雑誌用の英文に打ち直して記事を完成させるのであった。つまり,私の英文を媒材にして日本語が読めない2人が記事にするのであったから,私の存在価値もそこそこのものであった。
 3月の中旬頃であったか,私の大恩人である古谷専三先生から一通の封書が届いた。4年次生の時に全く授業を受けなかった私に対する非難の便りかと,恐る恐る封を切った。便りの内容は,研究室に残る意志があるかないかとの問い合わせの内容であった。両親と相談の末,古谷先生(森村豊先生と大和資雄先生のご意志だそうであったが)からのお誘いを有難くお受けすることになった。
 研究室にお世話になることになった私には,岡崎祥明先輩と渡辺敏郎学兄との出会いがあった。在学中は,よく遅刻をされていた岡崎さんと唯ひたすら勉学に励む渡辺さんの姿が印象的であった。卒業式当日,狭い講堂が満席になり,式場に入れなかった渡辺さんや数名の級友と一緒にある講堂で親しく話す機会に恵まれ,思っていたよりずっと気さくな彼の一面に接することが出来た。この日のことを思い出した私は渡辺さんと仲良く研究室の仕事が出来ると思い,目の前が明るくなった。
 ところが,副手の仕事に入ったものの常に岡崎さんと渡辺さんはもとより,諸先生にまでご迷惑を掛け続けることになった。大学院の授業,“Preview”社での1日と半日の手伝い,家庭教師の仕事,そして副手の仕事では,忙しすぎてご迷惑をお掛けしたのも至極当然であった。秋には,この英文雑誌社を退社した。
 研究室に入って間もなく,主任教授の森村先生が天国へ召された。更に,英文学科は他の文系の学科共々現在の文理学部へ移動することになった。旧本部の3階から文理学部の3号館の3階への引っ越しであった。この時に陣頭指揮を取られたのが三島校舎から森村先生に代わって「語学」の担当者として赴任された中島邦男先生で,他学科の先生方から「中隊長」と呼ばれていた少し怖いが温かさを持ち合わせていた先生であった。
 移転すると間もなく,古谷先生と中島先生の発案で,両先生に加えて新倉龍一先生,岡崎さんと渡辺さん,そして私と,計6名で「英作文」を中心としたゼミが開講された。この無料奉仕の精神は,後に法学部で「河内自主ゼミ」として20年間に亘りおよそ600名の学生を指導する機会を得ることになる。また,研究室では3回程の口頭による研究発表の機会が与えられた。家での数回のリハーサルを経て,限られた時間内でしっかりと発表することも古谷先生や中島先生から仕込まれた。原稿に視線を落とすのは20%,80%は正面を見て,聴衆に向かって論を進めていくという発表姿勢は,後に法学部での研究発表の時に激賛を頂いた。研究室時代に培われた多くの教育者としての在るべき姿を私は護り続けて来た,と思っている。
 研究室では,特に古谷先生からしばしば孔版印刷(所謂ガリ版印刷)を命じられた。新聞紙を何度もひっくり返して,最上の印刷物に仕上げる努力をした。また,先生方に差し上げるお茶も,茶碗をよく暖めてから,茶を注ぐことを心掛けた。しかし,私は与えられた仕事には最善を尽くしたが,自ら進んで仕事を探して,研究室の環境を良くしようという気配りが足りず,特に同僚の渡辺さんにはいつも「すまない」という気持ちをもち続けていた。
 森村先生との思い出は授業中のものに限られ,還暦を祝う会が盛大に開かれたが,それから1年も経たずに黄泉の国へ旅立たれた。新たに主任教授になられた大和先生は,学問に関しても,研究室内での言動に関しても大変厳しかった。学部の2年生の時,「英詩講読」の授業では私が一人,全身から脂汗が吹き出るほど絞られた。研究室内での先生は想像を絶する程の厳しさの持ち主で,数え切れない程の叱責を私にされた先生も,私が法学部へ赴任した途端に優しくなられた。
 ロンドン大学を卒業され,日本の文化を学ぶために来日されたReginald Horace Blyth先生は,東京大学や学習院大学で講義をされ,当時学習院大学構内の官舎でご家族の方々と生活されて居られたので,院生の時の授業は常に目白のご自宅で受けることになった。白髪で堂々とした,やや近づき難い容貌にも似ず極めて穏やかな口調での講義はずっと私の記憶から離れることはなかった。恐れ多くも私の学士論文も修士論文も過分な評価を頂いた。
 古谷専三先生。私の現在が在るのは,先生と「中隊長」こと中島先生無しでは全く考えられない。円い眼鏡の奥の小さい目は常に温かみに溢れていた。所謂「古谷メソッド」には学部の2年生の時に出会い,強烈な衝撃を受けた。42年以上に亘る法学部での私の授業は,徹底した「古谷メソッド」を駆使しての授業であった。従って,この「メソッド」なしの授業は,学生をだましているようで,到底私には考えられない。法学部に赴任する手筈を整えて下さったのも,両先生であった。
 以上の先生方の他にも,岡田実先生や大竹勝先生,更には亡くなられた新倉先生などの諸先生から,正に有形無形の恩恵を賜った。多くの先生方が,42年間で10日程度の休講という逞しい気力を私に与えて下さった。研究室を巣立って42年。多くの恩師が天国へ旅立たれた。先生方との出会い。そして,決別。人生の中に在る悲しい現実を,研究室での数々の思い出を懐かしみつつ,全身で受け止めざるを得ない。
 当然のこととは言え,新しい時代の到来により専門学校化しつつあるそれぞれの学部と同様に,わが法学部でもこの傾向が強まって来た。天国へ召された先生方は高い所からこうした現状をどう見て居られるのであろうか。こんな考えを抱いている私は正に「過去の遺物」として,今年の9月には定年を迎えることになった。                                                                      (平成14年5月)


種蒔き

日本大学経済学部講師 渡邉 敏郎

春休みの一日,物置きの掃除をした。梱包された段ボール箱がいくつか出てきたのであけてみると,今はもう成人して職業に就き,親元を離れている娘や息子の小中学校時代の答案用紙,宿題,作文などだった。ぱらぱらめくってみると所々に担任の先生の言葉が書き込まれてある。「よく調べたね。この次には自分の考えもたくさん書くようにしようね。」「字が上手になった。」「図書室の本でもっと調べてごらん。いろんなおもしろいことがわかるよ。」などと赤インクでこまごまと書きこまれた励ましの言葉を読んでいるうちに,思いがけず涙が出そうになってあわてた。親の知らない所であの出来のわるい我が子たちをこのように励まし導いて下さっていた多くの,おそらくは若い先生方に,おくればせながら心からお礼の言葉を言いたい気持になった。この先生方は,教え子に対して自分が毎日のように赤インクで書いた言葉が,その子たちのその後の成長にどれほどの効果があったか勿論ご存知ないだろう。書いた言葉も,また書いたということ自体も記憶にないかも知れない。私の娘や息子も自分たちの成長を促してくださった先生たちの言葉などとっくに忘れているらしく,すべて自力で育ったような顔をしている。幼いころの先生の言葉がその子の成長にどのようにかかわり,その後の人生のどこで,どのような力を持つことになるのかは誰にもわからない。それはいわば超遅効性の肥料であり,幸いにして芽を出すとしても長い時間のかかる種子なのである。

                                                                    △

この3月,私は日本大学を退職し,専任教員としての生活を終えた。1955年,当時神田三崎町にあった文学部英文学科を卒業し,現在法学部教授となっておられる河内司氏とともに無給の副手となった時から47年間,無数といってよいほどの学生に接してきた。「生涯一捕手」と自らを評したのは阪神の野村前監督だったと思うが,私も自分を振り返って「生涯一教師」の思いがある。この47年間,数えきれない言葉を教室でまき散らしてきたが,聞いた人にそれがどの程度の影響を持ったかと自問すると全く自信がない。その時その時は一生懸命に,種子らしきものや肥料めいたものを撒いているつもりだったのだが,今その効果は残念ながら私の目には全くそのかけらも見えない。

                                                                    △

                 私の好きな短歌に寺山修司氏の一首がある。

                            一粒の向日葵の種まきしのみに 

                               荒野をわれの処女地と呼びき

作者18歳の詠ある。自信に満ちてまっすぐ前を見据える若者のこの昂然たる気概は,口惜しいが今年70歳になる私のものではない。寺山氏をまねて今の自分の思いを下手な三十一文字にまとめるなら,

 

                         ふたたびは見ざむ丘に花のたねを

                                           一握まきて谷をおり来ぬ

となろうか。自分が蒔いて来たのはいつまでたっても芽の出ない粃(しいな)ではなかったろうか,と疑いながらも,すぐその不安を振り払ってまた次の,おそらく二度と訪れることのない丘に種子を蒔きに登ることを毎年飽きることなく繰り返してきた。この徒労感にめげない鈍感さが教師という職業に必要な重要な資質の一つであるとするならば,私にもその末席に連なる資格が僅かながらあろうかというものである。

                            △

この4月からも私は非常勤講師として教壇に立つ。私の娘や息子を教えて下さった先生方には遠く及ばないまでも,まだ筋肉が少しは残っている足を踏みしめて新しい丘に登り,今年も花の種子を一握り蒔いて来ることにしよう。


Goodbye to All That

元日本大学文理学部教授 田室 邦彦

65才になる前日の2月1日に,延長をしないで,退職しました。すでに年賀状には,簡単ではありますが,考えてきたことを記しました。英文学会の年次大会でも理由を明らかにするスピーチを求められて,もっと詳しくお話ししていました。それで十分と考えましたから,教授会も,英文学科の歓送迎会も,純粋に私的に開いてくださった集まりは別にして,公的なものはスピーチだけでなく出席もお断わりしました。勢い余って,院生の修了パーティも,卒業式も,お断りしました。出ると,スピーチが,それも退職の弁が求められそうで,そのことが億劫だったからです。もっとも,院生の修了パーティーが開かれる前日にemailで院生の一人からメッセージを求められ,やむなく,三好達治の詩を送りはしました。

                           〈 川 〉

鶺鴒 ─   川の石のみんなまるいのは,私の尾でたたいたためです。

河鹿 ─   いいえ,私が遠くからころがしてきたためです。

石 ─           俺は昔からまるかったんだ。

「これはこれでいろんな意味にとれるかもしれませんが(例えば,教師の独善へのあてこすり),しかし閑静な渓谷のユーモラスなひとときと受け止めてください」という一文を添えました。かっこの中は少々いやみに聞こえるかもしれませんが,幾分かは私の本意でもありました。後で聞いたところでは,鶺鴒と河鹿は女性が,石は男性が読んでくれたそうです。むしろ詩の本来の趣意にふさわしかったと思います。そういうふうに,およそスピーチなどもう御免被りたいということさえ退職の意図の中の大きな一つでした。私の退職の理由など聞いてもおもしろくもなかろうという気持ちがありました。長年他の人のを聞いてきたおかげで,今では自分のを聞くのにさえ飽きていました。しかし,たまたま試験監督のため出勤した日に,原英文学科主任に追い詰められ,急遽そのためにお集まりいただいた研究室の面々の前で,退職の弁をお話ししました。そういう儀式を逃れてきたことに見られる ─ 儀式とは概して権威付けのものだし,権威など私には関わりのないことと思っていますから ─ いわば在職に否定的な理由と,これからしたいと思っていることについての肯定的な理由をいくつかお話ししました。しかし,拒否もこう頑なになると,拒否されたほうも意地になるということには思い至りませんでした。
 「....喜劇は七幕 七転び 七面鳥にも主体性 ─ けふ日のはやりでかう申す/おれにしたってなんのまだ 料簡もある 覚えもある/とっくの昔その昔 すてた残りの誇りもある....」(駱駝の瘤にまたがって)。こう歌ったのは,学生時代から我が思いを尽くしこうまで浄化してくれるかと,その文字を折に触れてなぞり続けてきた,上にも引いた三好達治でした。早くから決めていた通りこの舞台から退場するにしても,人生のすべてを拒否しているわけでないことは申すまでもないことでしょう。私の偏屈ぶりを知ってくれている向きは,長く縛り付けられてきたこの舞台だけが人生ではないと思い(自らそこにいて長く養っていただいたのだから,そういう言い方は畏れ多いとは思いますが,しかし浮き世の定めで縛り付けられていたという気持ちがあるのも確かです),初めて自分の好きな,観客はお断りですが,舞台を作ろうと思っているのだと思ってくれるでしょう。そのあたりはMacbethの最後のせりふ(Life is but a walking shadow, a poor player That struts and frets his hour upon the stage And then is heard no more...)を好んで,30年前に板に彫って額とし,以後数度の引っ越しにもかかわらず,今に至るまで机の上の壁にかけてあると言えばおわかりいただけるかもしれません。観客はお断りという意味では,これは retirement (retire I. intr.  1. a. To withdraw to or into a place (or way of life) for the sake of seclusion, shelter, or security.[OED]) かもしれません。しかしただ退くわけではないのだから,reorganizationでしょうか。そういえば,これは早々とカナダへ逃れたO'Rourke先生が,研究室での最後の頃,多少しつこい問に,眼鏡越しにじっと見つめてやがてにやりと笑って言ったせりふでした。O'Rourke先生の意味はともかく,私にとっては,いまさらもう凝り固まった自分をreorganizeしようとは思っていないので,これにも少々不満です。
 とにもかくにも,観客はお断りと申し上げた以上,これから何をしようとしているかも言うべきではないのが理屈です。しかしこういう文章を引き受けた以上,少しは設計図をご覧いただくべきかもしれません。同じく偏屈な向きにはよりどころとなるかもしれないということもあります。まずは,文字通りの舞台ですが,いわば無一文で東京へ出てきてさして変わらないままで戻る徳島では,祖父も祖母もとっくにあの世に行き,老いた母だけが昔のままに守っている屋敷に手を入れます。まず,昔は貸してもいましたが今は廃屋になっている離れ,祖父の農具などがしまい込まれている物置,母屋から離れて建ててあった風呂,これにくっついている臼や杵などがしまい込まれている物置を,自分の手で休ませてやろうと思います。そしてDIYあるいはその余地の十分にある仕事部屋を作ります。conservatoryふう?,domeふう?,どうするかまだ決まっていません。家具はできる限り手作りです。平行して,庭を造ります。いろんな石像が建つかもしれません。世界各地で撮ってきた家や庭や民芸の家具や彫刻の写真を整理しながら考えます(今回のアムステルダムでは博物館のアフリカの面や運河の橋の彫刻を,サムイ島では竹のいすやテーブル,雑木で造った四阿を撮りました。)。庭には四季折々の花とherbを植えようと思います。herbはスープの材料です。雨が降れば,あれも読みたいこれも読みたいとしかし貯め込んだままになっている本を,時には存分に放心しながら,読もうと思います。foolsopher's dream!! おっしゃる通りかもしれません。てんとして恥じるところはありませんが。
 しかしその前に,机上がおおよそ片づく頃を見計らい,旅の準備をしました。凧の糸が切れたところで,違う場所からこれからを考えてみようという気もありました。私なりの「卒業旅行」ということもあります。冬休み前から始まった,通信教育部の来年度のスクーリングのテキストの選択とその講義要目,通信教育部の卒論や科目修得試験,学部の卒論や学年末試験,大学院の修士論文,などなどがようやく片づいた2月10日から,最後の残務処理である大学院入試の前日である3月4日までの旅としました。
 選んだ行く先きは,アムステルダムとタイのサムイ島とシンガポールでした。シンガポールは初めてと言うだけの理由でしたが,何度も行っている最初の二つの目的地についての一つの理由は人の目が柔らかいところだということでした(サムイ島では,毎朝,朝食のテーブルにパンを催促に来たblackbirdに似た鳥の目も加えるべきかもしれません。人を横目に見ながら,多少催促がましく鳴きました。)。我らは単一民族,とすぐ目を三角にする大和の国とは違い(シンガポールのホテルのテレビでは,中国語,マレー語,インドネシア語,英語,日本語(NHK)のチャンネルがあり,その他に韓国のテレビ番組が中国語に吹き替えられて盛んに放送されていました),アムステルダムもサムイ島も様々の顔と肌と歩き方が交じり合っていることと関係があるのでしょう,目が合うことは楽しみの一つでした。どちらも,交通規則はないわけはないでしょうが,信号はあってなきがごとしということがその寛容さを象徴しているかもしれません。
 2月16日から3月1日までサムイ島にいました。昼も夜も,ココナッツ林のさやさやと鳴る葉ずれと,遙か彼方の珊瑚礁の波の物憂げな囁きの織りなす楽譜に,昼は鳥が夜はゲッコーが,時折のオタマジャクシを加える浜辺でした。目には騒がしげな白波は300メートルのかなたです。窓辺に引っ張っていったパソコンに納めてあったこれまで読めなかった本をゆっくり辿りながら,おりふしに目を上げて海を眺めました。読むことに飽きると,シュノーケルを付けた亀あるいは痩せたマナティになりました。緩やかに揺れる藻を乱さないよう,亀のように手足をゆるゆる動かして,空の青よりもっと青い小さな魚が,サボテンや,巨人のゴルフボールや,あるいは宇宙人の基地のような珊瑚を出入りする珊瑚礁の世界を俯瞰しました。同じ珊瑚礁の中でも枯れた珊瑚がごろごろしていて,海藻も魚も見えないところもあり,ここを探すのに数日かかりました。海も少し移動するとまるで違う姿を見せます。見事な珊瑚礁であるにもかかわらず,ホテルから500メートル離れ二百メートルの沖合なので誰も来ませんでした。体が冷えるとまた本を読み,午後も進んで潮が引き砂地がほぼ露わになるころは,温泉ほども暖まった,人影の乏しい波の模様の残る透明な砂地の潮だまりで,海が体をわずかに揺するに身をまかせ,数片の透明な雲がたゆたう青い空と遙かな海を眺めました。日本のことは,思い出すことがなくはなかったにしても,遠い昔のことに思えました。新聞を読んでも,世界中のことが報告されているのに日本のことだけは見かけなかったせいもあります。corruptionが当たり前である日本のことだから,ムネオさんくらいでは,耳目を惹かないのでしょう。町へ出るとHondaのバイクが右往左往し(タイの人はバイクのおかげで歩くことを忘れたようです。暑いので仕方がないとも思いますが),滅多に見ないテレビにToshibaなどの広告を見かけはしましたが。夕べには,砂浜をはるばると歩いて,潮が残していった貝を拾いました。中にほんのり白い灯りがともっているような貝や帆を閉じた帆船を思わせるホネガイなどの海の贈りものを拾いながら,昔読んだAnne LindberghのThe Gift from the Seaの一節を思いました。あるいは砂浜をどこまでも歩いて行って,例えばTracy Chapmanの静かに響くレストランで,遙か向こうから見たときからデッキチェアに身動きしないままだったウエイターを促して,ビールを飲み,rice soup(つまりは中華粥にherbが刻み込まれたものですが)をすすりました。彼方に目をやっていると時々遠慮がちに鼻先で膝をそっとつつく犬と粥の鶏肉やスープなど分かち合いながら,夕闇がだいぶ迫ってはきたが,ホテルからは遙かにきてしまったし,もうそろそろ帰った方がいいのだろうけれど,この風景の中にいつまでもいたいとぐずぐずするのも悪くないことでした。ここには犬がやたらにいて,首輪もなく,幼いときに特定の主人を刷り込まれていないようです。犬も人もやたらにfriendlyな島です。子供たちの笑みも心とろかすものでした。わずかに不満があったとすれば,宿泊客の姿を見ることが少ないこのホテルが,それだからでしょうが,広大な敷地の入り口に,aviaryとaquariumとzooを計画していることでしょうか。例えば,昼ご飯のために,近くのココナツ林のレストラン(ちなみに,ビールの小瓶,エビやカニの入っているご存じspicyなスープであるトムヤムクンとライスで,120baht-yen同様単複同形です ─ つまり400円です。)への行き帰りに,虚ろな目のコンドルやオウムなどのcageを過ぎました。格納庫のようなホテルの食堂に虎の檻が併設されていて,親虎2匹は行きつ戻りつし,生後10ヶ月でなりは大きいのにまだミルク瓶に夢中で吸い付く幼い虎が観光客に首を抱えられて写真を撮られていました。心が痛むことでした。珊瑚礁がすぐそばにあるのにどうして水族館に閉じこめるのかと愚かしさを憤ったり,この惑星はその上に住むすべての生き物と共有すべきでないかと肩を怒らせるよりは,囚われから解き放たれた我が身と比べたせいかもしれません。
 旅の最後にシンガポールに立ち寄りました。空港からホテルまでの「シャトルサービス」の運転手のrudeness(これは同乗の中国系の女性の使った言葉でしたが)はいっそ腹も立たなくなるようなもので,かつてアメリカに住み今は香港に住んでいるという上記の女性も,途中から乗り込んできたアフリカ系アメリカ人もこれではアメリカじゃ訴訟だと言ったたぐいのものでしたが,しかしその後の滞在中はどこでも親切にしか出合いませんでした。逆に少しの間にコーカソイド系の人だけでなくモンゴロイド系の人からも道を聞かれたところを見ると,この町に不似合いというわけでもなかったのだろうと思います。それでも,翌日の午前はAsian Civilizations Museumこそじっくり歩きましたが,午後の半ばからはホテルに戻り,15階の張り出し窓のテーブルに,コーヒーメーカー,それも尽きるとミニバーからビールなど運んで,下の川の向こうに広がる高層ビル群に目をやりながら,旅であったすばらしい笑顔など思い浮かべながら,ついにはビルの間に夕日が沈むまでを過ごしました。それでも幸いなことに見下ろした川の向こうは川辺の緑地と低い壊れかかっている倉庫群でしたが,やがてそこも車の姿も見えるのに何の音も聞こえないためにひどく非現実的な高層ビル群の一つになるのだろうと思います。身を動かすのも億劫な疲れは,一つには,久しぶりに靴を履いたためだろうと思います。しかしこの大都会の超近代化に押しつぶされたのだろうとも思います。時たま見かけるかつての屋台が集められ,床もテーブルも少々ぬるぬるしていて叫び声が行き交い,しかししゃがれ声のおばさんが笑顔で旅人の面倒をみてくれるところ ─ そこで昼ご飯を食べましたが ─ そういうところもいつかは一掃されるのかもしれません。東京もいずれこうなるのでしょう。帰りなんいざ...という気持ちはお判りいただけると思います。
 と言っても,またこれから自分のなかのどこかにある中国を知るために中国語なども勉強してとは思っていても,英語と縁を切ろうとしているわけではありません。旅のときはことさら,長い間そのおかげでご飯をいただいてきた英語に,別の意味で改めてお礼を言いたいときでした。ふとした旅愁の(例えば,鄧麗君の「幾多愁」がどこかから聞こえてくるような)折りのYesterday Once Moreや(大容量で多機能のパソコンのおかげで ─ 今回の旅ではホテルの予約や現地情報,emailの送受信,などの頼りもにしました。),身動きのできない飛行機の席でのCDのHarry Potterなどの世界へ,魔法の箒で運んでいってくれたこともあります。でもやっぱり,そのおかげで,束の間であろうと,おそらく会者定離の束の間であるからこそ,気持ちを通わせることができたというためでしょう。世界を三好達治の言葉で捉え直してきたように,これからも英語から何かを取り込み続け,これまでしてきたように,それらを自分の中で時間をかけながら馴れあわせ,熟成させたいと思っています。
 だからまあ,英語の勉強は続けないではいられないし,そしてあいもかわらず三好達治も杖として,足を休めることが少し多くなったとしても,歩き続けていこうと思います。人は歩き続けずにはいられないし,ジョニーウオーカーにご縁はないにしても,Keep walkingというではありませんか。
 思えば,三好達治を初めて知ったのは,「甃のうへ」という詩によってでした。

            あはれ花びらながれ

          をみなごに花びらながれ

          をみなごしめやかに語らひ歩み

.          .............................................

          み寺の甍みどりにうるほひ

          廂々に

          風鐸のすがたしづかなれば

          ひとりなる

   
          わが身の影をあゆまする甃のうへ

三好達治の最初の詩集「春の岬」の一篇であった,この詩は,三好達治の生涯の方向を決める羅針盤のように,孤高の三好達治の歩き続けた生涯を暗示してもいました。
 三好達治とは違ってただ狷介なわたしも,またとぼとぼとではあるにしても,まだまだこの世界を歩き続けようと思います。まだ私の知らないことがいくらでもありそうに思えますから。
 最初に引いた詩は次のように続いて結ばれます。

           .....................................

          今晩星のふるじぶん

          諸君にだけはいっておかう

          やくざな毛布にくるまって

          この人物はまたしても

          世間の奴らが当てにする顰めっつらの掟づら 鉄の格子の間から

          牢屋の窓からふらふらと

          あばよさばよさよならよ

          駱駝の瘤にまたがって抜け出すくらゐの智慧はある

          さて新しい朝がきて 第七幕の幕があく

          さらばまたどこかで会はう..................

          そういうわけで,あばよさばよさよならよ,というわけです。
          (田室先生:PXI05702@nifty.ne.jp)


私の英国経験2001

日本大学経済学部講師 前島 洋平

始まりは衝撃的だった。成田からシンガポールを経由しヒースロウに着くまでに18時間,乗り継ぎの待ち時間を入れるとかれこれ1日が経過していた。生まれついての方向音痴ゆえ,ターミナル内ですでに迷い,地下鉄の切符売り場に着くまでにさらに30分。どうにか切符を買うが,今度はホームの入り口が閉まっていた。係員に尋ねると,ヴィクトリアに行きたいならバスに乗れ,とのこと。しばらくしてから判ったことだが,まだ始発前の時刻だったのだ。払い戻しを頼む気もおこらず,それから3時間後,大学の自室に着くやいなや眠りに落ちた。目覚めると14時間が過ぎていた。夏季英語コースの1日目が始まった。
 こうして私の英国生活が始まったのだが,まずは,勉強の面を簡単に振り返ってみたい。夏季英語コースは8週間。Reading, Listening, Grammar, Writing, Pronunciation, Word Processingのほか,特に勉強になったのがEssayとPresentationの授業であった。どちらも週に1度のクラスだったが,前者ではアカデミックな語彙の選択や論理的でバランスの取れた文章構成を,後者では聴衆をひきつける技法を学んだ。こうした授業を受けたことがなかった私には毎日がとても刺激的だった。
 9月。新学期が始まった。SupervisorのJanet Montefioreは独特の雰囲気の持ち主だったが,彼女の指導は非常に有益で,特に1930年代および40年代についての話には,こちらの目を開かせてくれる所が多かった。また,平素の授業と平行して,院生必修の授業が週に一度あった。前期には,論文の書き方から資料の調べ方にいたるまで,基本的であるがゆえに曖昧なままにしてしまいがちな事柄を確認した。後期には,哲学書を読み,それをどう論文に生かしていくか,を学んだ。非常に高度な内容を扱っていたので,どれほど身になったのか自信はないが,貴重な経験であり,今後に生かしたいと思う。
 次に,生活の面を振り返ってみたい。対人関係にいささか不安を抱いていた私は,日本を発つ前にひとつの決心をした。「誰にでも話し掛けよう」というのがそれだった。いま思えば,この態度が英国での生活を実りあるものにしてくれたと確信している。授業では学生だけでなく先生方ともよく話をした。それによって会話能力が向上しただけでなく,人間同士の信頼関係も築くことができたように思う。また,英文学専攻の友人は数こそ少なかったものの,皆よくできる人たちで,彼らとは夜遅くまで議論をたたかわせることもあり,それは時に明け方まで続くこともあった。このような機会は日本ではまず不可能なことであり,これによって得たものが少なくなかったことも付け加えておかねばならない。
 ところで,英語教育が過渡期を迎えたいま,「英語とは何か?」「英文学とは何か?」に対する答えを,このたびの留学で体感できたように思う。昨年はテロを筆頭としてさまざまな事件が世界中で起こったが,そのたびに,英国でともに学んだ友人たち,インド,トルコ,ヨルダン,ギリシャ,フランス,スペイン,イタリア,ナイジェリア,インドネシア,中国,台湾,香港,タイ出身の彼ら,とは英語を通してお互いの意見をやり取りしたのであり,その善悪は別として,英語は確かに生きた「国際語」だった。研究者であると同時に一人の教育者として,この経験を今後に生かそうと思う。
 最後に,このような貴重な経験をさせていただいたことに改めて感謝したい。また,先生方をはじめ,留学中の私を支えてくださったすべての人にこの場を借りてお礼を申し上げて,私の英国経験としたい。



スナップ写真から湧き出る

想い出と教訓

  平成13年度  大学院博士前期課程修了 壬生 雅彦

先日この原稿依頼を引き受けてから、学部と博士前期課程を合わせた6年間のスナップ写真を整理しアルバムに貼ろうと思いました。しかし、想い出が詰まっている膨大な量の写真を相手にしての仕事は簡単なものではありませんでした。写真を撮るのはほとんどが旅行先であり、そして使い切らずに残ったフィルムを早く使い切るために日々の生活の一コマ一コマを撮ると言う事はよくあることだと思います。旅行中の写真からだけで常にその人のその当時の想い出を語ることも、また反対に日常の平凡なスナップからだけでも不完全です。両方があってこそ想い出が甦るものなのだと思います。自分自身の想い出を甦らせるには自分の頭だけでは不十分であり、想い出をより豊かにするのに、写真に負うところが多いことを最近実感しています。If the memory serves me well,...というフレーズがあります。これは私が学部を卒業して博士前期課程に進学する際の2月から3月にかけてオーストラリアの商業都市として栄えているシドニーの郊外にある語学学校へ短期留学した時に手に入れたモノです。このときまでにシドニーは15回以上訪問しているが、この学校は4度目でした。入学金免除、教員の質の高さ、ロケーションなどを考慮して毎回同じ学校に通ったが、必ず毎回何か新しいモノを手に入れて帰国しそれが私の財産になってきています。むしろ財産になるものを手にするまでは帰国できないと思っていました。1度の短期留学で1つの財産になるものを手に入れることが大切なのだと思います。更に付け加えれば5度目にその学校に再入学したときにはその学校のadvanced classにはいることができたのです。
  
私個人の意見だが時間が無く、長期留学ができない人には以上のような留学スタイルも良いし、一つの方法だと思います。合計すればかなりの期間になるのです。私自身はこの学校に5度通い自信がかなりつきました。
 しかし、これだけ語学留学をすればもちろん苦い思い出もあります。ある授業であるが、周りの生徒の顔ぶれは全てヨーロッパ系で、あるイタリアンとペアワークをしたときのことです。
 あまりにも相手がlazyで作業が全く進まないことがありました。そのまま時間が過ぎその作業が終わり、プレゼンになったときに彼女(スーザン)に、“He didn’t work with me.” と私を指さして言われたのです。唖然としてしまいそのまま授業を放棄して学校を出てしまいました。その瞬間は何も言葉が見つからず何も考える事ができず、ただただ呆然としていました。が、しかし時間が経つにつれて憤慨しはじめたのです。日本人の感情の推移の仕方が私と100%同じではないだろうが、上の様なケースでは同様のことが多いかと思います。私の対処の仕方は間違っていたと後になって気付いたのであるが「後のまつり」でした。ただその場では単に唖然としてしまい何も言い返す力が無かっただけであったのでした。
 このような経験から得た財産は「積極的」でなければならないことが留学やホームステイの成功の必要条件であることが今回写真を見ていて思い出す事ができ、強く再認識できました。

 この3月から4月にかけて学生生活最後のシドニー旅行兼語学研修に行ってきたが、今回も写真を撮り例の如く残ったフィルムを急いで使い切らなければならなくなりました。この残りのフィルムを使い切るということは、なかなか楽しいことです。学校の仲間、飲み仲間、バイト仲間、家族など様々な社会の人たちと、ふとした瞬間に写真を撮り現像が上がってきた時に「あっ、こんなことが....」という一種の感動やホロ苦さを思い出させてくれるのです。このような感覚を十分に言葉に表すのは難しく、それを撮った人にしか分からないものでしょう。だから写真を撮るのを止められないのです。今回の旅ではまず台湾に大学院の友人達と1週間滞在する計画でした。今回は私にとっていわば卒業旅行と言えるものであったが、いつものように細かくは旅行計画を前もって立てず現地についてから読めない中国語のガイドブックや雑誌を購入しあちこちまわりました。そしてこの細かい計画が無かった1週間の旅行で撮った写真は3人で100枚近くでした。3人で現像した写真を見ていると「あれっ、こんな1場面あったっけ? どこ?」ということが度々ありました。この瞬間が楽しいし、想い出を豊かにしてくれるのです。だから写真をとるのだと再認識しました。
 
 学部の4年間と大学院の2年間で9カ国を旅することが出来ました。オーストラリア、台湾、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、イギリス、フランス、アメリカであり、特にこの中で英語圏の国はオーストラリア、シンガポール、イギリス、アメリカです。これらの諸国では全く不自由の無い生活を出来るのだが、その他の国は中国語(台湾)、タイ語(タイ)、マレー語(マレーシア)、インドネシア語(インドネシア)、フランス語(フランス)が公用語であり多々苦労することがあるので、これらの国に旅に出るとなると必ず挨拶と感謝の言葉だけを覚えるのです。実際これらだけでは全く足りないし、またその国の人や文化にふれようとするのだから言葉を知らないとその国民に対して失礼にさえも思えてきました。それに最近はnonverbal languageだけではその国でコミュニケーションをとることはおろか、文化などを満足に知ることも出来ないのだと実感しています。verbal language とnonverbal languageの両方を覚えて使うことは重要です。海外旅行に興味を持ち始めた頃は英語圏にしか行きたくなかったが、もし言葉が通じない国に行くとどんな事を体験そして後になって実感できるのかと思い東南アジアに行こうと思ったのでした。一口には語り尽くせないが、言葉が通じるということは、なんて素晴らしく思え更に快感なのかと実感しました。
 アジアの国々ではnonverbal languageとreligionの違いを実感しました。これらの違いは複雑だが相互に連鎖しているように思えます。この連鎖については詳しく確認してないが宗教が深く関連しているのでしょう。特にマレーシアではイスラム教が国教だが、この宗教は我々日本人に強烈な印象を植え付けているのでしょう。日本は海外の国々に比べて宗教色が薄いのは周知のことです。例えばキリスト教の国々にはイースター(復活祭)があるが日本には仏陀の復活祭は無い他、日本の国教による祝日の設定がありません。先にも挙げましたが、シドニーに旅行をしたときの事だが、ちょうどイースターにぶつかり、その雰囲気を体感することができたのです。街にあるオージーの店はすべてシャッターをおろしていたが、一方で中華街は通常通り営業していたのです。オーストラリア(主にキリスト教が国教)でこれほど宗教の影響を実感したことはありませんでした。まだまだ他にも影響を与えている点は多いと思うがこればかりは体感しないとわからないと思いました。
 英語に携わっているのなら海外(特に英語圏)に旅をしたり、海外に住むということは多くの人の夢、希望だと思います。が、まず行くためにはその国の宗教を知り、ある程度の言葉(verbal and nonverbal language)を身につけるべきであると思います。それが旅行者なり移住者の課題そして義務でなかろうかとここ何年かで実感しています。容易に渡航するのは危険である一方でじっくりと考える人々にとっては楽しいでしょう。
 最近海外で1年に数人の日本人が殺傷されるケースがあるが、このような事は一体どのような原因があって起こったのかをよく考える必要があると思います。もしそれが宗教関連であれば日本人の無知が引き起こした事件とも言えるのではないだろうかと思います。私もさほど用心深くは無いが未だに一度も大きな失敗をおかした事はありません。しかし、いつどこで宗教や言語のトラブルに見舞われるかは分からないので用心して海外旅行を楽しむようにしています。以上のことから宗教は私たちの生活の必要条件であり、言語は十分条件ではないのかと認識しています。

 私は今日6年間で外国語を通して様々な体験をすることができ視野が広がったと実感しています。そして、いかに英語が素晴らしい言語なのかを習得できたことに英文学科と日本大学大学院に感謝しています。

付記

 この原稿を執筆中にかつての同級生でもある、秋元眞弓さんが不慮の事故でお亡くなりになったとの報に接しました。彼女とは大学時代同じクラスであり、平成9年度「夏期語学研修」の折にケント大学で一緒に勉強、スポーツ、お酒を楽しんだ仲間の一人でした。24歳という若さで亡くなられた秋元さんのご冥福をここに申し上げます。 合掌

 


私の在り方

平成10年3月英文学科卒業 篠山 実央

この仕事に就いて丸4年が過ぎました。私は,全日本空輸株式会社東京客室部にて客室乗務員として,主に国内線を月平均70~80時間乗務しております。1日3便又は4便を乗務し,朝早いときは,3時に起床,会社へ行き,又遅いときは夜12時近くに退社します。又ステイといい,日本各地に月10泊程度致します。2泊3日致しますと,多くて,約5000人近いお客様と接している事になります。これを読んでくださっている皆様とも,お会いしているかもしれませんね。皆様はこれから,就職活動をなさり,社会でそれぞれの個性を発揮されることと思います。参考というより,一つの例として,私の就職活動や,今思う働くという事について,少しお話をさせて頂きます。 

 私は,本来この職業一つに絞っていた訳ではなく,旅行会社,アパレルを中心に回っておりました。最初は攻略本を読みあさり,その当時は未だ葉書でしたので,おざなりの書面で,会社説明会参加希望を数十枚書いた記憶があります。SPIもサンザンでした……。面接を受けても,手ごたえゼロ。マニュアルにある,面接官に好かれる!良い人を演じていたのでしょうね。百戦錬磨の面接官には,本当の自分を出せない,自己の無い人間としか写っていなかったのでしょう。今考えると,恥ずかしくも思えます。が,人間慣れるもので,回数を重ねる毎に,SPIの傾向も把握出来,何より,面接が楽しくなってきたのです。そうなったら,こっちのもの!結局5社より内定を頂くことが出来,アパレルの企業に総合職として,働くことになりました。
 その年は,客室乗務員の募集がかなりあった,今から思えば運のいい年で,「特別なりたい!訳ではないけれど,今しか無いチャンスかもしれない……」と思い,航空会社を受験しました。内定も頂き,面接にもかなり慣れ自信もついていたため,第1希望の全日本空輸に内定したのです。振り返り良かった点は,私自身気負いせず,楽しく「私」で居られた事だと思います。
 この職業に就いて本当に良かったと実感します。ある日,電車に乗っていたら,ただ立っているだけなのに,とても素敵な女性がいました。なんで,素敵に見えるのだろう?と疑問に思った位です。人は,様々な人に会って,色んな考え方があることを知り,本を読み,映画を観て,好きな人と楽しく過ごし,友人とお酒を飲んで大騒ぎし,試験前不眠不休で頭に無理やり知識を叩き込み,毎日笑って泣いて,という日々自体がその人の個性や人格を創る上で大事だと思うのです。人にされてイヤだな,とか,嬉しいなとか感じた事を自分の中でろ過して,自分の一部分にしていけば, 魅力となっていくんではないかな,と思います。私が見た,その女性はきっと,多くの人を見て,いい点を吸収し,いらない部分をそぎ落として自分を創り上げているんだろうな,と感じます。
 私は,毎日笑って,色々な事を感じて生活したいな,と考えています。仕事上,様々な方にお会いしますが,私たちの仕事は,笑顔で接し,お客様に出来ることをして差し上げ,少しでもいい気分で過ごして頂ける空間を提供することです。例えば,レストランや洋服屋で,すごーく感じのいい店員さんっていますよね。毎日が勉強で,あっ,こういう事されると嬉しいなと思った事は真似しています。それが,私の個性や人格を変えていきますし,自分を持てる,自信を持てる素だと思うのです。私は,仕事の為,自分の為に,そうしています。むしろ,仕事を利用して,自分を向上させようとしています。
 皆様には,是非,毎日今まで通り,笑って過ごし,外に出て色々な人と会って欲しいです。固定観念ではなく,こういう考えもあるんだ~なるほど!と思う余裕を持てれば,知らないうちに,私の様に,本丸写し,マニュアルだらけの就職活動をせずして,適職に就いて,更にステキな人になれると思います。
 飲んで朝帰ったり,バイトに明け暮れたり,けれど,やるべきこと(単位は落とさないように!)はまじめにやって,是非,楽しい学生生活を送ってくださいね。そうすれば,1番楽しい,自分にあった仕事に就け,それを利用して,自分を向上させることが出来ると思います。


英文学の研究とご縁

日本大学文理学部教授 野呂 有子

私が17世紀イギリスの叙事詩人John Miltonの研究を始めたのは,学部・大学院で担任だった新井明先生の影響でした。先生からはミルトン及び英文学研究の面白さと奥深さを学びました。修士論文では,ミルトンにおける女性性と男性性の統合の問題を究明しようと試みました。勧められて入会した日本ミルトン・センターの大会で,いまは亡き沢井加津子さんと出会いました。私たちはミルトンを生涯研究することを誓い,読書会を結成しました。この会はミルトンの散文訳読を続けて現在に至ります。
 私は子供たちに絵本の読み聞かせをしてきましたが,そんな中でC. S. Lewisの作品と出会いました。ルイスがミルトン学者であったと知り,ルイスの研究も始めました。日本C・S・ルイス協会では日本を代表する翻訳家のお一人中村妙子先生とお近づきになりました。あるとき,先生が一冊の訳書を私の娘に送って下さいました。それは『メイベルおばあちゃんの小さかったころ』という物語で,アメリカでは200万部を越えるロング・セラーになったものでした。
 私は,大学の授業でこの作品を取り上げるとともに,作者Arleta Richardson(1923~)宛てのファン・レターを送ろうと学生たちに提案しました。東京成徳短期大学と埼玉大学の学生たちが書いた手紙に私の手紙を添えました。やがてアリータ・リチャードソンさんから返事がきました。「是非日本を訪れたい,そしてあなたの学生さんたちに会いたい」とありました。それから一年後,アリータさんと学生たちとの心温まるときが持たれました。
 アリータさんの帰国後,意外な話を聞きました。真珠湾攻撃で,婚約者を失ったことからアリータさんは日本に対して良い印象を持っていなかったというのです。学生たちの手紙は,アリータさんの日本に対する感情を修正してくれたのかもしれません。その後,M君という学生は般若真教を写経し,英語で説明を付けてアリータさんに送りました。アリータさんは書を額に入れて,ロサンゼルスのご自宅の玄関正面の壁に飾っているそうです。
 25年間様々なご縁に導かれながら英文学の研究を続けてきました。今またご縁があって,日本大学文理学部英文学科のお仲間に新たに加えていただくことになりました。これからもご縁を大切にしながら英文学の研究を続けていきたいと思います。 



着任のご挨拶

日本大学文理学部教授 松山 幹秀

この4月より文理学部英文学科に着任いたしました。専門は英語学で,特に統語論・意味論を中心に研究しております。すでに4月からは「英文法」「英語学演習」「英語学特殊講義」などの授業を担当させていただいております。
 実は,学部および大学院に昨年度一年間非常勤講師として出講いたしておりましたので,オリエンテーション(東の方位づけ)が必要なほど西も東も分からないというのではありませんが,それでも前任校とはずいぶん勝手が違うところが多く,少なからぬ戸惑いもあり,いい意味での緊張感と新鮮な驚きに満ちた毎日を過ごさせていただいております。
 振り返ってみますと,初めて大学の教壇に立ってから早や20余年の歳月が経過しようとしています。身過ぎ世過ぎで徒に馬齢を重ねてきた側面も否めず,今回縁あって英文学科の一員に加えさせていただいたのを機に,今後は一教員として何が求められているのか,どういう貢献ができるのか,教員としての誠実さとは何か,を改めて自らに問いながら文理学部という新しい知の共同体に参加していきたいと考えております。
 少しだけプロフィールを書かせていただきますと,佐賀県で生を受け,5歳から高校を卒業するまで島根県松江市近郊で育ちました。(この春は母校の高校が選抜高校野球に21世紀枠で出場するという朗報が届きました。)中学時代は柔道と将棋,高校時代は英語にひたすらのめり込んでいました。(一時期,プロ棋士を目指したこともありますが,才能の無さを思い知らされ,大きく方向転換して今日に至っております。)学部生,大学院生,客員研究員としてアメリカの大学で都合5年余の研究生活を送ったこともあります。
 さて,このところの学生の心象風景も時代の変化とともに大きく様変わりしてきている印象をもちます。しかし,物事の本質を掴みたいと希求する気持ちは地下水のように脈々と彼らの中にも流れているはずで,ともすればその地下水の在り処が以前よりも沈下してきている感はありますが,何とかその地下水を汲み上げていけるような授業や指導ができればと願っています。私自身これまで,千野栄一(言語学),丸山圭三郎(文化記号学),安井稔(英語学)といった偉大な先生がたの謦咳に接し,多大な影響を受けてまいりました。これらの先生方にはそれこそ遠く足元にも及びませんが,少しでも学生の皆さんと学問とのよき橋渡し役,触媒的存在となれるよう,研究と教育の両面にわたって鋭意努力していきたいと考えております。どうかよろしくお願いいたします。



ご挨拶

日本大学文理学部専任講師 閑田 朋子

平成12年度・13年度に助手を務め,本年の4月に専任講師に就任いたしました。助手は「助ける手」と書きます。どれだけ会員の皆様のお役に立つ「手」になることができましたかを自分に問います。どんなに注意しても,仕事にはミスが出るこわさを学びました。だからこそ何かが起きた時には慌てずに迅速に対応する必要性を強く感じました。「助ける手」である筈なのに,「助けられる」ことも度々ありました。助けて下さった諸先生方,いたらない点をご寛恕下さいました会員の皆様,そしてあれこれとご高配賜りました皆様にこの場をお借りして深謝いたします。
 私はヴィクトリア朝の社会問題小説とジャーナリズムを専攻しております。研究者として青二才の私が「専攻している」という言葉を使うことにおこがましさを感じますが,昨日よりは今日,今日よりは明日に,少しでも他の方の考えを深く理解できるように,そして私から伝えられることが増えるように,寸暇を惜しんで勉強を続ける所存です。
 いたらない点が多々あることとは存じますが,今後ともご指導ご鞭撻のほどをよろしくお願い申し上げます。



新任のご挨拶

日本大学文理学部助手 堀切 大史

今年3月に博士後期課程を満期退学し,4月1日に助手に着任いたしました。専攻はナサニエル・ホーソーンなど19世紀アメリカのロマン派作家たちの作品です。日本大学英文学会の運営にささやかながら関わることができ,光栄に思います。どうぞよろしくお願いいたします。



英文学研究室に勤務して

日本大学文理学部副手 山下 恵美

この春,卒業して以来,久しぶりに日大通りの桜を見ました。大学1年生の春にあの満開の桜並木を歩いた時とても感動したことを思い出しました。当時は,何もかもが初めてのことだらけでその先の4年間の大学生活に期待でいっぱいでした。そんな私が,今度は学生ではなく副手という立場でこの英文学科に戻ってくるとは思いもしませんでした。社会に出てから3年目でたいした知識も経験もありませんが,学生よりは少し大人の立場で影ながらサポートできたらいいなと思っています。また,私自身も学生の頃に英文学科で多くの友人と出会ったように今度は社会人としてたくさんの先輩方と働き,成長していきたいと思います。桜並木を初めて歩いたあの時のような初々しい気持ちでたくさんのことを吸収し,頑張っていきたいと思います。

 

 


《研究室だより》


平成13年度行事

◆文理学部英語弁論大会(文理学部主催)
  10月27日(土)に3号館323教室において開催されました。結果は次の通りです。
       
  1位 大角  雪(英文3年)
       
  2位 後藤 麻恵(英文4年)
       
  3位 小川 香織(英文2年)

◆大学院特別講義
   10月11日(木)の3・4限,  18日(木)の3・4限に大学院生のための特別講義が開催されました。講師は、      馬場 彰先生(東京外国語大学教授)です。講義題目は「コーパス言語学の回顧と展望」と「生成文法    の枠組みに基づいた歴史統語論と言語類型論」でした。

◆卒業式
   3月25日(月)午前10時00分より日本武道館に於いて卒業式が行われました。同日午後12時30分より本   学部3号館325教室におきまして学位記の伝達式が行われました。本年度は学部卒業者149名、大学院  博士前期課程修了者7名、後期課程満期退学者は3名です。
 
 また、学部生の学部長賞は布施直樹くん、優等賞は松本寛子さん、菅井美希さんの3名でした。同日    午後6時より京王プラザホテルにおいて謝恩会が催されました。

◆平成13年度大学院学位論文・卒業論文

  大学院生・学部生により提出された論文項目及び内訳は次の通りです。

  平成13年度大学院修士論文

【英文学】

植田  薫          A Study of Lady Chatterleyユs Lover

小山 誠子         Shakespeareユs Great Rearrangement in The Winterユs Tale

関根 浩子         A Study of Pride and Prejudice

塩見 洋子         Crisis of Identity and Individuation of Lear in King Lear

【英語学】

田中 忠司          Internal and External of Second Language Acquisition

古澤 徹舟          A STUDY OF LEXICAL SEMANTICS

壬生 雅彦          A STUDY OF INFORMATION PROCESS IN THREE RHETORICAL SKILLS

池谷 友美           Recent Theory of Motivation in Second Language Learning


平成13年度 学部卒業論文

《内訳人数一覧》

【英文学】(86)        【米文学】(23)

Austen, Jane (5)     Alcott, Louisa May (1)    Barrie, James Matthew (1)     Capote, Truman (1)
Brontャe, Charlotte (10)     Carver, Raymond (1)      Brontャe, Emily (3)      Faulkner, William (1)
Carroll, Lewis (1)      Fitzgerald, Francis Scott (1)     Chaucer, Geoffrey (1)     Hawthorne, Nathaniel (13)
Conrad, Joseph (1)     James, Henry (1)     Dickens, Charles (6)      Miller, Henry (2)
Eliot, George (1)     Poe, Edgar Allan (1)      Forster, Edward Morgan (4)    Twain, Mark (1)
Hardy, Thomas (6)      Walker, Alice (1)     Joyce, James (3)      Wright, Richard (1)
Lawrence, David Herbert (9)      Maugham, William Somerset (4)   Shakespeare, William (19)
Shelley, Mary (1)   Thackeray, William Makepeace (1)   Wilde, Oscar (5)
Wells, Herbert George (1)   Woolf, Virginia (2)


【英語学】(22)

【音声学・コミュニケーション】(7)

【英語教育】(13)


平成14年度行事

◆入学式・開講式

4月8日(日)に日本武道館に於いて入学式が挙行され、同日午後2時30分より文理学部開講式が行われました。英文学科の入学者数は次の通りです。

  学部入学者   186名  大学院前期課程入学者   7名  大学院後期課程入学者    1名

◆本年度在籍者数

  学部    2年 157名     3年  154名      4年  174名
    大学院博士 前期課程   18名         後期課程   4名       研究生   2名
 
◆大学院特別講義
   平成14年度第1回,第2回,第3回大学院特別講義を下記の通り行いました。
  日  時   :  5月29日(水) 3・4限
               5月30日(木) 3・4限
  講  師   : T. Walter Herbert先生 (サウスウエスタン大学教授)
  講義題目 : 「Hawthorne and the Dilemmas of Democratic Masculinity」

   日  時    : 6月6日(木) 3・4限
               6月13日(木) 3・4限
  
講  師     :  川本 静子先生(元津田塾大学教授)
   講義題目  :  19世紀イギリス小説における「墜ちた女(Fallen Woman)」の表象をめぐって
  
   日  時     :  7月6日(土) 2・3限
  講  師    :  小池 生夫先生(明海大学教授)
  講義題目  :  日本の英語教育政策:過去、現在、将来

 

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