日本大学英文学会  

日本大学英文学会通信76号(2001.10)


ご挨拶

日本大学英文学会会長 関谷武史

 猛暑続きの夏も、百日紅の花の盛りもいつしか過ぎて、秋へ向う季節となりました。会員の皆様方におかれましては、それぞれ、お仕事に拍車が掛かる頃と拝察致します。
 今回は、残念な事に、最初に、松田徳一郎先生の訃報をお伝えしなければなりません。松田先生は食道癌のため6月10日に東京医科歯科大学病院でお亡くなりになりました。享年67歳でした。6月16日に豊島園会館で執り行われた葬儀では、先生が生前お好きだったシチリアーナ(J.S.バッハ)の曲が流れる中、参列者一人一人が白いカーネーションを献花すると言った形のものでした。日本大学の英文学科の専任教授としての御在職期間は僅か4年3ヶ月でしたが、先生はわれわれに優しい人柄と、ユーモアと何にもまして、学問に対する厳しい姿勢を示して下さいました。今は唯、先生の御冥福と御家族の御多幸を祈るばかりです。
 さて、日本大学英文学会では、来る9月29日(土)に午后1時よりシンポジウム「シェイクスピアの『十四行詩集』(Sonnets )をめぐって」が持たれることになっております。
 講師の飯田啓治朗さんには「詩人と若者との関係について」、堤裕美子さんには「詩人とthe Dark Ladyとの関係について」、元氏久美子さんには「詩人と第4の登場人物でもある「時間」との関係について」お話しいただく事になっております。それぞれ、これ迄の批評家達の見解を整理した上で、自分の意見を開陳していただく事になっております。今回のシンポジウムでは私自身司会の役を勤める関係上、読み直してみて、シェイクスピアの『十四行詩集』が抒情詩に通常見られる退屈さを完全に免れていることを強く感じました。その原因は『十四行詩集』のドラマ性にあるように思われます。御存知のように『十四行詩集』は詩人である私の独り語りから成っておりますが、相手の言った事に対する反論があったり、結句(couplet)では12行迄に述べてきた事に、自ら距離を置いて、分析を加えて、時にはそれを覆すといった形で意見を述べたりしております。この事によって、われわれの頭の中で、複数の登場人物が錯綜し、彼らの織り成す、愛・嫉妬・裏切り等が綯い交ぜになったドラマが展開いたします。しかも、対句(antithesis)とか交錯配列法(chiasmus)とかによる言語表現と複雑多岐なイメージの使用によって、このドラマ性は一層際だったものとされております。154篇からなる『十四行詩集』は1609年に四折本(Quarto)として出版されましたが、シェイクスピアによって書かれたのはこれよりもかなり前だったように思われます。と言いますのは、1598年に出版されたフランシス・ミアズFrancis Meresの『知恵の宝庫』Paladis Tamia: Wits Treasuryの中に次のような『十四行詩集』への言及があるからです。
 「……オヴィディウス(Ovid)の甘美で、機知に富む心は、密のような言葉が甘く流れるシェイクスピアの中に生きている。たとえば彼の『ヴィーナスとアドーニス』
Venus and Adonis や『ルークリース』Lucrece 、それに彼の親友の間で回し読みされている砂糖のようなソネット、そのほかを見るがいい。」
 この文章によって、私が問題にしたいのは『十四行詩集』の創作時期についてではありません。実は、この文章から『十四行詩集』に限らず、シェイクスピアの劇作品も、限られた読者によって回し読みされていたのではないかという事が推測されるのです。そしてシェイクスピアは劇作品の創作に当っても、こうした読み手を最も重要な受容者と想定していたように思われるのです。シェイクスピアの劇作品が『十四行詩集』と共通の特色として分ち持っている、複雑な文体とその中に鏤められた豊かな言葉やイメージが創り出す重層的な意味は舞台を観ただけでは十分な理解を持つ事が出来ないという事実からしても、この推測は間違ってはいないように思われます。その意味において、シェイクスピアの劇作品を深く理解するためには、われわれ自身の身を優れた読み手、優れた演出者の立場において、過去の注釈・解釈をも参考にしながら、作品を十分な時間を掛けて読む事が重要であると考えます。
 さて、来る11月17日(土)には、年次大会が、ここ桜上水のキャンパスで開かれます。今年の大会では、この9月を以って専任教授の職を退かれる小野寺健先生の最終講義が行われます。日本大学の英文学科にとって、先生の専任教授職からの引退は大きな損失である事は言を俟ちません。しかしながら、先生には今迄通り大学院、学部の授業を担当していただく事になっております。今後共、われわれ後輩に研究・教育の両面で、御助言下さいますようお願いすると同時に、これからも、お身体に留意されて、優れた研究書・翻訳書をものされます事を祈念致します。
 年次大会は、研究発表・最終講義の後で、懇親会が開かれる事になっております。多くの会員の皆様の御参加を心より期待しております。


弔辞・松田徳一郎先生のご霊前に

英文学科主任 原公章

 まさか先生のご霊前で弔辞を読むことになろうとは、夢にも思っておりませんでした。今もまだ先生が研究棟五階のご自分の研究室から、ふとお顔を出されるような気がしてなりません。四月にお元気に校務に復帰され、この分なら今年からまた、先生よりいろいろご指導を頂けると思っていた矢先でした。本当に残念です。先生と交わした最後の会話は五月第三週の木曜日に、学科内の人事についての仕事をお願いしたことでしたが、その時先生は少し困ったようなお顔で、にっこりほほえまれました。今にして思えば、先生はこの時すでに旅立ちの近いことを予感されていたのかもしれません。ご入院の報を聞いたのが翌週の木曜日でした。それから届いた突然の訃報に、今もとまどうばかりです。
 それにしても実に先生らしい、あじさいの季節の静かな旅立ちであったと、思わないわけにいきません。思えば先生は、いつも静かにほほえんでおられました。ときに「えへへ」と笑われることもありました。ご自宅から新しい自家用車を運転されて初めて出勤された時、「先生、いいお車ですね」と言ったときも、「えへへ、そうですか」とほほえまれました。しかし先生は、ふだんめったにご自分のことはおっしゃらず、いつも静かに私達の話に聞き入られておられました。
 私が先生と初めて親しくお話できたのは、先生が日本大学の専任教授となられた1997年春の学科旅行で真鶴に行ったときでした。この方があの有名な研究社の『リーダーズ英和』辞典の松田先生か、と胸が高鳴る思いでした。しかし、先生は控えめで、物静かでしかも一言一言に重みがありました。先生を私達の学科にお迎え出来たことを、心から有り難く、うれしく思いました。それから、学部、学科の旅行のたびごとに、私は先生と同行させていただいたり、また同室にさせていただいたりしました。旅行のときの先生はハンチング帽をかぶられ、とてもダンディに変身されました。もっとも記憶に残っているのが、1998年春の佐渡島への学科旅行です。先生のご出身は、山形県の「あてらざわ」 ですが、「左沢」と書いて「あてらざわ」と読むのは、全国難読駅名の五本の指に入ります、とちょっと自慢げにおっしゃったりしました。ふだん、ご自分のお話はほとんどなさらなかった先生ですが、インディアナ大学留学時代のことや、外語大日本語課程で留学生のお世話をされたお話をうかがったのが、この旅のときでした。しかし、私が先生にもっともうかがいたかったのが、やはり『リーダーズ英和』のことでした。中型辞典では日本最大の語彙数を誇り、『リーダーズ・プラス』と合わせて、空前絶後と言われるこの辞書の成立については、かねて研究者の岡田常務はじめ、多くの方々より、いろいろと聞いておりました。四十代そこそこの若さで、この辞書の編集代表となられた松田先生が、どんなに優れた英語学者で、かつ、辞書編集者としてどんなに大きな忍耐力、持続力、包容力を兼ね備えておられたか、「それは驚くばかりだ」と岡田さんは語っておられました。先生のキャパシティの大きさは、『リーダーズ英和』のキャパシティの大きさにほかなりません。私はぜひ先生から、この辞書誕生の経過などをうかがいたいと、その機会をうかがっていました。そして佐渡島からの帰りのジェットフォイルと列車内で、ようやくその機会が訪れました。このとき先生は淡々と、辞書作りにはまず、しっかりした出版社のしっかりした編集者がいることが不可欠で、それから後は、人と人との協力が一番であるとおっしゃられました。このときまた、辞書完成の途上で亡くなられたお二人の先生についても、お話してくださいました。『リーダーズ』初版のまえがきには、この先生方への松田先生の哀悼の言葉がさりげなく記されていますが、その言葉の背後には先生の万感の思いが込められていることを知りました。
 『リーダーズ』第2版が1999年4月に出版される前後、先生は学内の入試を始め、さまざまなお仕事もこなされており、大変な激務であったと想像されました。しかし先生はご自分のお仕事の多忙を一切こぼされることなく、いつも淡々と静かにお仕事に打ち込まれているご様子でした。第2版の発売後、先生が体調を再び崩され、ご入院と回復を繰り返されていた頃、私は先生に「辞書のお仕事がお体に触ったのでは」と尋ねたことがありました。すると先生はきっぱりと、「いや、それは全く関係ありません」と断言されました。先生はこのように、ご自分のお仕事に全力を傾けられる一方で、その仕事について、また、同僚やその他の人について、まったく愚痴や批評をこぼしたことがありませんでした。私が松田先生からもっとも学んだことは、もちろん英語学者としての先生のご業績は当然のこととして、このような先生の人間としての生き方でした。
 今日、先生とお別れのときが、ついに来ました。しかし、私は『リーダーズ英和』を引く度ごとに、先生と再会できます。私はこれまでのように、これからも、毎日この辞書を手にするでしょう。そして、今度は先生のように重い、内容のぎっしりつまった、しかし静かなこの辞書が、松田先生の思い出と重なり合い、これまで以上に、ますます大切な存在となるだろうと、思います。先生、どうぞ、やすらかにお休みください。そして私がいつか先生のおそばに行ったときは、どうか、私を今度は天国版の『リーダーズ』編集のスタッフの一員に加えてください。その日に備えて私もこの世で今少し、一生懸命がんばります。それまで、さようなら。松田先生。

                                  2001年6月16日  原 公章


定年を迎えて

文理学部教授 小野寺 健

 1931年9月19日生まれなので、この秋で定年ということになった。研究所教授として迎えていただいたのは平成8年、1996年だから6年間お世話になったことになる。その前に3年間、非常勤講師として伺っていたから、短いつもりでいたけれどもいつのまにか9年たったわけで、かなりの数の方々とご縁ができた。
 初めのころに大学院で接した方たちは、今では立派な研究者に成長して、様々な部署で教鞭をとっておられる。そういう方たちにお目にかかるたびに、嬉しくなると同時に、こちらも歳をとるはずだと思う。
 この6年間は非常に楽しかった。思いがけず招いてくださった先生方には終始親切にしていただいたし、院生の人たちとも親しくなって、毎週の授業が楽しみだった。それ以上に意外―と言っては語弊があるが―だったのは、学部の授業、それもイギリス文学史のような大人数の授業でも、聴講態度がよく、当てられて「できません」と言うような人が、まったくと言っていいほどいなかったことが、私の思い出を幸せにしている。
 それに、お世辞でなく、男子学生にハンサムな人が多く、かつ礼儀正しいのにも印象的だった。卒論のグループなどはハンサム揃いなのが自慢だったが、こういうことを言うのもセクハラになるのだろうか。これが心残りと言ってもいい点で、一体に先生と学生の間がいささか他人行儀になってしまったのがさびしく、学生諸君ともっと親しくなりたかったという思いはある。
 しかし幸せな6年を送らせていただいたおかげで、年来の懸案だったフォースター論も定年を目前にして『E. M. フォースターの姿勢』という一冊にまとめることができた。この点も感謝している。
 最大の痛恨事は、ご一緒に着任した松田徳一郎先生が、私より2年お若いのに、御闘病の甲斐もなくお亡くなりになったことである。比類なき『リーダーズ英和辞典』の編集者としての先生を私は誇りとし尊敬していただけに無念の極みだった。心から御冥福をお祈り申し上げる。
 秋で定年になっても、授業に関するかぎり今年度一杯は勤務形態はまったく変わらないので、残る時間を大切にしたいと思う。
 退任に際して、皆さまからいただいた過分のご厚意にあらためてお礼を申し上げる。


私が受けてきた音声言語教育の思い出

日大名誉教授 川島 彪秀

 私の専門の研究領域は①音声学、音声科学、音声言語病理学、臨床音声学などを含むフォネティック(スピーチ)・サイエンシズ、②パブリック・コミュニケーション、インターパーソナル・コミュニケーション、ディベート、オーラル・インタープリテーション、異文化(間)コミュニケーション、リトリカル(スピーチ)・クリティシズムなどを含むスピーチ・コミュニケーション、③ドラマ、そして④言語学、一般言語学、応用言語学などである。これらの私の専門の研究に直接、間接につながっている私が受けてきた音声(言語)教育を中心とする思い出について述べたい。
 私は長崎県の島原半島の南端(雲仙のふもと)島原の乱で知られる原城のある町、南有馬で生まれた。そして隣町の北有馬で育ち、北有馬小学校、県立島原中学校(旧制)、そして県立島原高等学校(新制)で小、中、高の教育を受けた。県立島原中学校、県立島原高等学校時代は母が勉強のために買ってくれた島原市の鉄砲町の古丁の水源地のある家で過ごした。
 島原半島で当時話されていた言語(方言)は極めてバライアティのあるもので、島原市内で話されている言語、市内より南部の町村で話されている言語、そして市内より北部の町村で話されている言語というように話されている言語(方言)は大きく三つの方言の地域に分れていた。さらに、島原市内には武家(士族)の人々が話す言語があって、これらの言語も鉄砲町地区のそれと田屋敷地区のそれと二つのタイプの言語が存在していた。従って、私はこれらのバライアティに富んだ方言が話される言語環境の中で生れ、育ち、そして教育を受けたのである。
 こういう言語環境のなかにあった私に対して、当時公立小学校の教諭の職にあった私の母(シヅノ)は標準語を獲得させるための教育をすべく、私が小学校へ入学する年の早春、わざわざ東京へ発注して私に買い与えてくれたものがあった。それは当時としても珍しい尋常科用「小学国語読本」の巻1から巻12(1年―6年)までの放送劇団の児童達によって吹込まれたSP版の貴重な朗読のレコードとポータブルの蓄音機(レコード・プレイアー)であった。
 私は母の指導のもとにこれらのレコードを何回となく繰り返して聴取することによって、標準語の正しい発音、アクセント、音調とリズム、音声変化などをはじめとして、表現力あふれる朗読法なるものを小学校へ入学する前に自分のものとしてしまっていた。従って私の朗読の学習は小学校の1年から6年までを通じて、これらのレコードによるものであった。小学校時代に先生にいわれるままに、模範朗読をすることが出来たのは当然のことであった。私の母のこの教育レコードを通じての国語の朗読の教育訓練は後の私のオーラル・インタープリテーションをはじめとするスピーチ・サイエンシズ、スピーチ・コミュニケーション領域の研究へとつながる素養となって大きく実っている良き思い出の一つである。
 私の母がこれらの朗読のレコードと一緒に買ってくれたものに童謡のレコードとともに尋常小学唄歌第1学年から第6学年もあったが、これも朗読教育と一緒に母が私にやってくれた音感教育であったようである。私がボーイズ・ソプラノの持主として歌の得意な少年であったのも母の音感教育におうところが大きかったように思う。
 私の母が家庭で行ってくれた音声教育にストリーテリング[Storytelling]がある。母のこのストリーテリングは私の幼少のころから小学校時代までを通して、殆んど毎晩就寝前にしてくれたが私と一つ違いの弟(康秀=現在米国テキサス大学教授)にとって極めて楽しいものであった。これらのストリーは神話、伝説、童話、民話、冒険談、伝記、そして実話など非常に多種多様のものであった。
 親戚に結婚式が行われるときには母は私に対して、常にスピーチをやるよう教育し、原稿を用意させ、その原稿をよく読んで暗記して行うMemorized Methodでやるのが常であった。このスピーチの経験は私のパブリック・コミュニケーション研究につながる素養となっている思い出の一つである。
 小学校時代は6年間の各学年の殆んどに主役を演じるドラマの経験をさせてもらったけれどもこのドラマの経験は後の私のドラマ研究の素養となっているに違いない思い出である。
 また、小学校の1、2年生の担任八木八千子先生、3年生の担任八木艶子先生、4、5年の担任澤谷栄蔵先生、そして6年生の担任上田良介先生などがクラスでして下さったストリーテリング、朗読によるお話などの聴取も極めて楽しいものであった。
 私が小学校時代に受けたもう一つの音声教育は北有馬の「願心寺」という浄土宗の寺院の近藤顕隆住職によって開校された日曜学校においてであった。この日曜学校は近藤顕隆住職が当時の北有馬小学校の校長、八木高次郎先生との話合いのもとに1938年(昭和13年)の春開校されたのであった。この日曜学校の授業内容は殆んどが音声言語教育に関するものであった。すなわち、
 ①仏教の教典の暗記による朗読、②お話(朗読による)の聴取、③ストリー・テリングによるお話の聴取、④紙芝居、⑤お話の朗読、そして⑥ドラマなどであった。さらに独唱、合唱による歌の時間も含まれていた。そして、定期的にパブリック・パフォーマンスとして催されるドラマのプレゼンテーション、スピーチ大会、朗読大会などが行われたが、私は熱心にこれらの活動に参加したのであった。この日曜学校の音声言語教育は極めてユニークで、当時の子供達に与えたものは実に大きいものがあった。
 従って、①幼少の頃から小学校時代までの母から聞いたストリーテリング、②母から受けた教育レコードを用いての朗読の教育訓練、③母の指導のもとに行ったスピーチの経験、④小学校時代にクラスで受けたストリーテリング、朗読によるお話の聴取とプレゼンテーション、ドラマの経験、そして、日曜学校におけるユニークでバライアティに富んだ音声教育はその全部が基本的な素養となって、私の専門の研究領域に実っている私の楽しい思い出である。
 1943年(昭和18年)の春、県立島原中学校に入学して以来、1949年(昭和24年)の春、県立島原高等学校を卒業するまで一貫して私が受けた音声言語教育は国語の朗読であり、漢文の朗読であり、英語の朗読であり、さらにこれらの暗記によって行う(いわゆるデクラメーションによって行う)朗読であった。
 特に、国語、漢文の音声教育、発表言語教育は広島高師の御出身の豊増大吉郎先生のダイナミックでしかも知的な意味、適切な感情的な意味、そして、美的な意味がみなぎったものであった。これらの豊増先生の音声教育、朗読教育、発表言語教育を通じて、私は明晰な発音、適切な音調とリズムなど音声の技巧につながる音声のバライアティの必要性を学んだことは極めて大きな貴重な教えを受けたことになる。
 また、同県立大学、高校での音声英語の面では綜合的な英語教育訓練とともに音読、朗読に著しい影響を与えて下さったのは青学出身の井上武次先生であり、京都大学出身の本田昌弘先生であった。
 大学の学部時代には1883年以来開校され続けてきていたエロキューション教育、演説作文、そして朗読法の伝統を持つ音声英語教育を森下捨巳先生の英語表現法[English Intonation]、豊田実先生の英詩のオーラル・インタープリテーション、藤原喜多二先生の英語音声学、春木猛先生の英語演説法[English Public Speaking]、スピーチ・クリニック[Speech Improvement]、レズリー・クレップス先生(クレップス先生は後にスピーチ・コミュニケーションの研究領域でPh.D.の学位を取得し、オクラホマ大学教授となった人)のOral EnglishとEnglish Discussion and Debateなどの講座を履修して教えを受けたことは私が後にアメリカの大学院でフォネティック(スピーチ)サイエンシズ、スピーチ・コミュニケーション、ドラマ、言語学、応用言語学などの本格的研究、イギリスの大学院でフォネティックス、一般言語学などの本格的研究を行った専門領域すなわち、現在の私の専門の研究領域の基礎をつくってくれたものとして大きく実ってくれている私の貴重なしかも楽しい思い出である。


《オープンキャンパスについて》 

 7月29日(日)に本学部キャンパス全体で「日本大学文理学部オープンキャンパス2001」が開催されました。英文学科からは学科企画として3人の先生が参加されました。原公章先生によって学科案内が研究棟2階で行われました。また模擬授業として塚本聡先生が「English at Work」のタイトルでコンピュータを取り入れた授業をされ、W .D. パターソン先生が「English at Play」のタイトルで授業をなさいました。また学部企画として田室邦彦先生が「英語入試問題解説」をなさいました。

オープン・キャンパス報告

英文学科主任 原  公章

 7月29日(日曜)に、今年度の文理学部オープン・キャンパスが催されました。全学的なプログラムに加え、文理学部各17学科それぞれが、趣向をこらした授業や学科の紹介を行いました。幸い、晴天にも恵まれて、キャンパスは終日多くの来校者でにぎわいました。
 英文学科では、まず、恒例の「学科案内」を研究棟201教室で開きました。海外研修やヨーロッパ旅行、各種資格試験のポスターなどで華やかに飾られた教室には、展示コーナーとして、英文学科の卒業アルバム、『英文学論叢』、「学会通信」などがおかれ、さらに英字新聞や大学教科書などの無料お持ち帰りコーナーも作られ、訪れた高校生やご父母の好評を博しました。また、今回オープン・キャンパス用に作った英文学科専用の「学科紹介パンフレット」を300枚ほど入り口前に置いたのですが、午前・午後ともすべて飛ぶようになくなり、補充に追われどおしでした。しかし、何と言ってももっとも受験生が集まったのは、教室内の4箇所に設置された質問コーナーで、担当した助手・副手のみなさんは、朝から多くの質問者への対応に大わらわとなりました。英文学科への関心の現れの第一は、「英文学科ではいったいどんな授業をしているのか」という質問で、これにはシラバスや学部要覧を駆使して、丁寧に説明している担当者の姿が印象的でした。また、卒業後の進路、就職状況、文理学部の特徴、取得できる資格、英文学科受験の実情などについても、多くの質問がありました。時代を反映してか、海外留学を希望する高校生が増えた印象を持ちました。「英文学科案内」には、午前10時に始まって、午後4時に終わるまで、およそ延べ300人以上の受験生が集まりました。 付き添いのご父母も入れれば、さらにこの数は増えることになります。まずは大盛況という感じで終わりました。
 学科案内と同時進行で、模擬授業も行われました。英文学科ではパターソン先生がEnglish at Play、塚本先生が English at Workというタイトルで授業を行い、それぞれ40人から50人の高校生相手に、英文学科らしい授業を展開しました。塚本先生はLMC教室を使い、コンピューターを駆使した英語コーパスについて、またパターソン先生はその演技力による雰囲気たっぷりのオーラル・コミュニケーションの授業で多くの高校生の関心を集めました。
 学部企画では、入試の英語について、田室先生が1時間、大教室に集まった300人ほどの受験生候補に懇切丁寧な説明をされました。とりわけ、先生が作られた苦心の資料は受験英語の枠を越え、英語そのものの本質的な学習にまで踏み込んだ本格的なもので、集まった人々には、これだけでも大きな収穫ではなかったかと思います。
 広報委員会によれば、当日の入場者は3289名、そのうち英文学科あてに出されたアンケート用紙は317枚でした。まずは大成功のうちに終了しました。中心となって担当してくださった助手・副手のみなさん、本当にありがとうございました。


Open Campus
English at Work

文理学部助教授 塚本 聡

オープンキャンパスのこの時間では、英文科の授業で行われているコンピュータを使用した英語の学習について、コンピュータを利用して実習しながら、コンピュータはどのように利用できるのか、それにより英語の特徴がどのようにわかるのかを体験してもらいます。
 英語に関して、コンピュータを使用するというと、最初に思い浮かぶ用途は、インターネットを利用して、様々の情報(その多くが英語で書かれています)を集めることでしょう。確かに、情報収集という点では、コンピュータは有益です。では、しばらく前に小泉首相がアメリカを訪問し、ブッシュ大統領と会談したことを例に取り上げましょう。これについては、テレビのニュースや新聞などでも取り上げられていますが、インターネットを利用すると、より詳細に事実を知ることができます。ホワイトハウスのインターネット上にホームページがあり、http://www.whitehouse.gov/でアクセスすることができます。Newsの項目をたどっていくと、膨大な量の記者発表を目にすることができます。
 たとえば、6月30日付のニュースには、Joint Statement by President Bush and Prime Minister Koizumi: Partnership for Security and Prosperity と題されたプレスリリースが掲載されています。このようなニュースによって、いち早く、かつ正確な情報を手にすることもできるわけです。ちなみに、このニュースは日本の首相官邸のホームページ(http://www.kantei.go.jp/)にも「安全と繁栄のためのパートナーシップ(仮訳)」として掲載されています。
 ではここで、少し想像をしてみましょう。この小泉首相とブッシュ大統領の共同発表では、どのような単語が多く使われているでしょうか。きっと共同声明なので、BushKoizumiが多いという予測や、worldgovernmentが多いかもしれない、いや、theofなどの語が多いと想像する人もいるでしょう。それでは、ここで、コンピュータの別の面を利用して、この予測を検証してみましょう。コンピュータを利用した言語の研究には、コーパス言語学という分野がありますが、そこでは、このような言語の特徴を計量的に測定し、事実を観察していく学問分野です。そこでは、単語リストやコンコーダンスを利用するということが、頻繁に行われています。KWIC Concordanceというソフトウェアを利用して、共同声明から頻度の多い順に単語リストを作成してみましょう。このソフトウェアは、文理学部の英文科のページからダウンロードすることができます(http://www.chs.nihon-u.ac.jp.eng_dpt/tukamoto/)。このソフトウェアを利用して、367単語の語数を計測すると、数秒にして、単語リストが作成されます。その結果、全語数952語、語彙数語あることがわかり、かつ、最も多用されている10回以上使われているの語は、以下のようであることがわかります。(右端の数字は使用回数。)

   the            91
   and          53
   to            33
   of             27  
   prime       23
   on             22
   minister     20
   for           19
   president   18
   in             17
   a             10
   that          10

 theandの多用については、もっともだと納得できそうですが、BushKoizumiなどがほとんど使われていないことには、驚いた人もいるでしょう。これらの語は、それぞれ(平等に?)3回だけ使われています。それでは、BushKoizumiに代わる表現は何なのか、という別の疑問もわいてくるでしょう。また、global (8)cooperation (7)alliance (5)(かっこ内使用回数)など、共同声明の内容を強く色づけている語が多用されていることがわかります。このように、コンピュータを使用することのより、書き手の意図を客観的なデータによって検証することもできるのです。
 では、もう少し大きなデータを扱ってみましょう。
Henry Jamesという作家がいます。彼の作品の中に、Daisy Miller という小説があります。これを用いて、同じ手順により、どのような傾向の語を使用しているのかを観察してみましょう。この小説は、Project Gutenberghttp://www.promo.net/pg/)というインターネット上のサイトから、自由にダウンロードすることができます。ダウンロードしたものを使用頻度の高い単語から並べると次のようになります。
 この作品では、
2,906種類の単語が使われ、合計21,482語で構成されていることがわかります。10 位までの語は、次の通りです。(文字をすべて小文字にして単語リストを作成しているため、iは奇異に映りますが、人称代名詞Iです。)

   the     834
   to        669
   a         517

   of       469
   she    437
   he      434
   i        431
   and    422
   her     377
   was    329

 今回は、先の共同声明とは異なり、人称代名詞が多用されていることがわかります。これはおそらく、物語であるという性質が大きく作用しているであろうと想像できます。先の例で取り上げた政府機関の発表と、今回用いている小説という異なった種類の文章(レジスター)では、使用されやすい傾向の語が異なることが明らかとなります。さらに、これらの高頻度の語は、ほとんどが前置詞や冠詞、人称代名詞などのいわゆる機能語であることもわかります。単語の種類(品詞)を念頭に置いて、単語リストをさらにみていくと、(上記にはありませんが)youngという単語が138回使われています。これは、他の形容詞に比べて、突出して多く使われています。次に使われている形容詞はlittleで81回、American47回、pretty43回、great38回と続きます。このようなことは、単語リストを作成することにより、より明確に意識することができます。
 ここで当然ながら、なぜこの小説では
youngがこれほどまで多用されているのだろう、との疑問が生じるでしょう。では、つぎに、このyoungという語がどのように使われているのかを、実例を探して検討をしてみましょう。このような場合には、KWICコンコーダンスと呼ばれるものを作ると、語の使用の実態がよくわかります。KWICとはKey Word in Contextの略語で、該当する語を中心に、前後の文脈を含んだ形で作られた索引のようなものです。次がyoungをコンコーダンスとして出力したものです。

said Winterbourne. The young lady meanwhile had  
    prepared to rise. The young lady paused in front
     "Randolph," said the young lady, "what ARE you
     little hard voice. The young lady gave no heed to
        slowly toward the young girl, throwing away his
     perfectly aware, a young man was not at liberty

この例は、全138例のうちのごく一部ですが、the young lady, the young girlとして使われていることがわかります。未知の人物なら、人物を特定するために、修飾語としてyoungという形容詞が使われていることには納得がいきます。しかしながら、ここではそうではありません。theがついていますから、読者は、ここで指されているladyが誰であるのかはよくわかっているわけです。にもかかわらず、執拗なまでにyoungをつけて指しているところをみると、作者の何らかの意図を感じないわけにはいきません。コンピュータが作成したこのようなリストを材料に、普通に読んだのでは気がつかなかったテーマを探し出すことも可能になります。もちろんのことながら、コンピュータは数字のデータまでは出してくれますが、その先を考えることは、人間にしかできないことです。言うまでもないことですが、コンピュータは考えてはくれません。
 次に、身近な例として、単語の意味を、コンピュータを使って確認をしてみましょう。
account forというイディオムがあります。これはかなり一般的なものですから、多くの人が知っていることでしょう。小学館のプログレッシブ英和中辞典には、次のように定義されています。
 [account for A]A(事)の〉(理由・原因を)説明する;Aの〉原因となる
 ~
for the car accident 自動車事故の説明をする
多くの英和辞典でも、同様の定義がなされています。
 では、このイディオムの実際の用例を調べてみましょう。コーパスと呼ばれる実例からサンプリングして集めた生の英語の集まりである一種のデータベースを使ってみましょう。この例では、
FLOBとよばれている1990年代のイギリス英語100万語を収集したコーパスを検索して、このイディオムが実際どのように使われているのかを見てみましょう。100万語と聞くと、どんなに膨大なデータだろうかと思うかもしれませんが、実際には大きなデータとはいえなくなっています。最近では億単位の語数を収録したコーパスが一般的になってきています。以下が100万語からaccount forを検索したものの一部です。このコーパスの中から54例該当するものが見つかりました。この検索自体もほんの30秒程度ですみます。
  Malays account for about 15 per cent of  
  them to account for themselves. I sometimes
        to account for the specificity of
             account for 12-15% of the islands'
      they account for a large percentage of
  how to account for homeless people who
     may account for the appearance of some
      may account for her shortage of partners
  able to account for more than about 100,000
  set and account for their own budgets." But
             account for a significant proportion
     must account for the following properties
   should account for its subgroups.  Perhaps
             account for over 50% of total  health
        can account for the fact that even after 
    R&D accounted for 7.2 per cent of sales
  violence accounted for 5% of the total
  market, accounting for a 23.5% share. They
 検索結果を見てみて、どう思うでしょうか。どのような傾向が見られるでしょうか。ぱっと見て、account forの後ろに数字や比率を表す語が来ている傾向が見られるでしょう。後ろにthe factsなどの語が来ている場合には、まさに「~を説明する」がぴったりでしょうが、比率や数字に関する語が後ろに来ている場合には、「~を説明する」が適切な意味でしょうか。直感的には、今ひとつ納得できません。逆に後ろに来ている語から出発して、「比率を~」をいう意味を考えた場合、それとしっくりするとなると、どのような日本語を想像するでしょうか。おそらく「比率を占める」という日本語を思いつくことでしょう。実際、そのような連語の関係は、日本語話者なら自然な連想だと思います。しかも、この予測が間違っていないことを辞典で確認することができます。
 実例に基づいて編纂された辞典である
Collins Cobuild Dictionaryによると、account forの見出しの1番目に
  If a particular thing accounts for a part or proportion of something, that part or proportion consists of that   thing, or is used or produced by it.
 という定義があげられ、それに該当する
  Computers account for 5% of the country's commercial electricity consumption.
 の例が挙げられている。これはまさに、FLOBコーパスで見たときたくさん出てきたものに相当します。ついで2番目に
  If something accounts for a particular fact or situation, it causes or explains it.  = explain
  Now, the gene they discovered today doesn't account for all those cases.
 というように、「~を説明する」というおなじみの定義があげられています。ここでポイントは、この辞典が実際の例を基にして編集したものであるので、今実際に検索した傾向を反映して、「~を占める」という意味が最初に位置づけられていることです。
 account forの意味を考えるとき、どの意味を知っておいたらよいのでしょうか。もちろん全部を知っていることに越したことはありません。しかし、なかなか理想どおりにはいきません。とすれば、一番よく使われている意味を知っておいた方が、より便利ということになるでしょう。この例の場合、英和辞典に全面的に頼ってしまっていては、一番よく使われる意味を見落としてしまうことになります。ちなみに、『小学館プログレッシブ英和中辞典』では、2番目の語義として、『大修館ジーニアス英和辞典』では5番目の語義として、「(ある部分・割合を)占める」をあげています。このように、辞典や文献に記述してあることに全面的に頼るのではなく、実例に当たると言うことは、大いに意味のあることなのです。
 実は、初版のCollins Cobuild Dictionaryでは、1番目の語義に
  If you account for something that has happened or for something that you have done, you explain how it   happened or why you did it.
  How do you account for the dent in the car?
 
2
番目に
  If something accounts for a particular part or proportion of something, it is what that part or proportion   consists of.
  Computer software accounts for some 70 per cent of our range of products.
 をあげています。つまり、英和辞典と同じ順に定義がなされています。これは大変興味深いことです。この辞典の二つの版の定義の違いから、イギリスでは、account forの使用に関して、変化が起こっているのであろうという予測ができます。以前は、「~を説明する」という意味で一般的に使われていたものが、1990年代頃には、すでに「~を占める」という意味が多くを“占めて”使われるようになったのでしょう。その変化が、実例に基づく編集を行っている辞典では反映されているが、そうではない辞典では、反映されていないと言うことではないでしょう。この例では、この辞典の定義にいち早く反映されましたが、辞典に掲載されるまでには時差があります。すべての例において、語義の変化が迅速に反映されるとは限りません。しかし、コンピュータやコーパスを用いると、その時差を大きく縮め、現実の状況を見ることができるようになるでしょう。仮に、辞典には出ていな語の場合でも、実例を集めたコーパスを利用すれば、実際の意味がどうであるのかを確認することも可能になります。
 コンピュータは、単にインターネットのホームページを見たり、メールをやりとりするだけの道具ではありません。言葉の観察・分析の道具でもあります。このような分析のための道具を使うことによって、今まで見えてこなかった英語の一面も垣間見ることもできるようになります。


Open Campus
July 29, 2001
English at Play

文理学部助教授 William D. Patterson

The title of the course was selected upon hearing that Professor Tsukamoto’s course was entitled “English at Work”. My first reaction was to say that my course was just the opposite since the goal of most of the ESL work seems to be socially oriented rather than academically oriented. Half in jest I suggested ”English at Play” as a counterpoint to the previously mentioned course. Since the other professors seemed to think this was a great pair of courses I let the title ride.
  As much as I was against the title of the course “English at Play” the participants willingly took part in all kinds of challenging ESL work. The textbook from which the sample lessons were taken was Jack Richard’s  Springboard I, which is the first of a two-level topic-based conversation and listening course. The topics I chose to present were Music, Food and Movies (units 2, 7 and 12 in the text). Thus lessons were chosen from the front, middle and end sections of the book. Incidentally this is the text I use in the Freshman English Course for English majors (英語I
 There were two sessions. In the first session there were about 45participants of differing abilities and backgrounds. In the second session there were only about 25participants. I began each class with a self-introduction and a brief introduction to EFL at the College of Humanities and Sciences. This included the emphasis that our college places on giving all first year students the opportunity to learn EFL with a native speaker; the opportunity to travel to study at foreign institutions (Cambridge University in the summer, Elizabethtown, Pennsylvania in the summer and as a one-year program, and also the one-year program at the University of Washington in Pullman); and the chance to communicate in a relaxed manner with teachers from UK, USA, Australia, etc.
 As a warm-up, however I presented the vowels of American English with a quick vowel discrimination exercise. The response to this was interesting. Most students had never seen a vowel chart or had heard the vowel of English presented in such a fashion. I had correctly hoped that this would sharpen the participants’ listening skills for the rest of the demo class. 
 In each class I stressed the importance of giving short (but not one-word) answers. None of the students had trouble with this, which shows the rising level of English performance of today’s high school students. All in all it was a very satisfying experience for the students to experience a college class setting without undue pressure.  I hope that next year’s students will be even more enthusiastic than the ones this year.


"Bleeding, Blooming and Blithe KANSAS"(ローレンス便り  


文理学部助教授 高橋 利明

一年間の在外研究の機会をいただき、今春3月27日にアメリカ合衆国カンザス州ローレンス市に到着して以来、すでに5ヶ月(平成13年8月末、原稿提出時点)経過しました。たいしたことも出来ないまま、月日は容赦なく過ぎていきます。日本出国直前、家族全員が風邪をこじらせ、どうなるものか肝を冷やして以来、今日とにかくアメリカ中西部の小さな大学町の生活になじみ始めるまでにもいろいろなことがありました。
 まず、愛猫・茶々(15歳)の体調不良で犬猫病院へ。その後、次第次第に快復。よくもこの歳でジェットの旅に耐えられたものです。この小さな町に、何軒も犬猫病院があるのには驚きます。英国もペットの地位が高いと聞きますが、アメリカも同様のようです。ただ、自由の国アメリカの場合、人々は自由の強調と引き換えに、深い孤独を抱え込んでいる人が多いのかもしれません。  
 そして、天候の話。ついた当初からひと月ちょっとは、頻繁の雷ゴロゴロとサンダー・ストームに驚嘆しました。そのいかずちの大音響といったら、日本では聞いたことのない音です。それは、何年か前のある外国人の演出家(名前は失念)による『リア王』で、舞台真上の天井から舞台の上に赤ちゃんの頭ほどの石を次々に落下させた時に生ずる腹の底から突き上げてくるような音を想起させました。やはり、西洋の、アメリカのいかずちはスケールがちがいました。そのような時、まだ車を手に入れられなかった我が一家は、一時孤立状態に陥り、買い物等にも困るときがありましたが、つくづくアメリカが車社会であることを痛感しました。この孤立状態に耐えかねた妻は、現地で車の免許を取ることを決心し、取得しました。この孤立感がなければ、おそらく妻は一生車の免許を取得することはなかったでしょう。そして、ひと月半ほどの雷ゴロゴロの後に来たのは、トルネード(トゥイスター)でした。と言っても、実際に襲われたわけではありませんが、一度ローレンスに近い町がそれに急襲され、だいぶ被害が出ました。警報が出るたびに祈るような気持ちでいたものです。『オズの魔法使い』のあの竜巻は、「本当のことだったのだ」と、間抜けた会話を妻と交わしたのもお笑いでした。日本でも台風や地震があり、自然災害はどこにでもあることなので、天地の神の気の向くままに任せるしかないのでしょう。アメリカの大自然に思いをはせる時、ネイティブ・アメリカンの大地と一体化した自然な生き方を幻視したくなります。そこかしこに残っているインディアンの地名は、移民の国アメリカの良心の呵責の表れなのでしょうか。
 続けて天候の話。トルネードの後には、何もないであろうと思いきや、カンザスの夏がやってきました。指導教授のElizabeth Schultz先生の"Kansas can be cruel in the summer."のお言葉の通りに、ただただ暑く、さらに湿度の高い日が続いております。連日40度(摂氏)前後の気温です。しかし、建物の中は、どこも涼しく快適な状態が保たれています。ただ、スーパーマーケットやモールやレストランなどは、冷房が効き過ぎて、寒いくらいです。
 ここまで、カンザスの気候の厳しさばかり書きましたが、もちろんとても快適な時もあるのです。例えば、春先の花々が次々と咲いていくときの様子は、町全体がなんともいえぬ趣きを帯びていました。キャンパスに初めてシュルツ先生をお訪ねした時、キャンパスのご案内をいただき、その折、満開に近いローズ・バッドという花を指差し、自らが1966年にKU(カンザス大学)に奉職した時のこの花との出会いを語っておられました。当地の春の花々は、一気呵成という感じで踵を接して咲いていました。まず到着早々には、黄色い絨毯のように見えるタンポポがそこかしこを覆っていました。と、同時ぐらいに花梨(白色)、そして、ローズ・バッド(濃いピンク色)。その後は、アカシア(白色)、りんご海どう(赤紫色)、次にアイリス(紫色)、というような順で咲き誇っていました。そして、今最盛期を迎えているのは、カンザス州花の向日葵です。また、最初の二ヵ月暮らしたアパートの前のりんご海どうの木には、つがいのロビンが暮らし、さまざまな小鳥たちのさえずりが聞こえてきて心地よいものでした。
 次に、夏の夜空に視点を移しましょう。東京では決して見ることができないような満天の星空を見上げながら、足元の芝生にはホタル(firefly)が垣間見られるという光景は格別なものであります。空気と水がまだまだ澄んでいる証なのでしょう。
 話は変わり、今日8月21日は、当地ローレンスにとってはアメリカ史上でも大変に重い意味をもった記念日であり、「血を流すカンザス(Bleeding Kansas)」の象徴的事件が起きた日であります。日本の終戦記念日は、太平洋戦争の終わった日ですが、アメリカはまだ南北戦争(1861-5)の最中にありました。
 1863年8月21日早朝、ウィリアム・クゥオントゥリル率いるミズーリ州の奴隷制賛成派のゲリラたち約400名は、かなり周到な計画の元にこの町に焼討ちをかけ、約200名の男子を虐殺したのです。これが世に言う、"Quantrill's Raid:The Lawrence Massacre"であります。南北戦争も北側の勝利に傾いた時期の事件でしたが、ローレンスは「自由州の砦(Free State Fortress)」として奴隷制廃止派の信条に殉じたのであります。そもそもローレンスは、1854年にカンザス・ネブラスカ法によってカンザスへの植民が米国議会によって認められた後、その同年の遅くに「反奴隷制マサチューセッツ移民援助協会」(ローレンスの地名はその協会の収入役であったAmos A. Lawrenceに因む)の尽力によって、カンザスの最初の前哨基地として設立されたのであります。東隣のミズーリは屈強な奴隷州であり、州境に近いこの町は常に脅威にさらされる運命にあったのです。もちろん、一方的にやられていたわけではなかったのです。「自由州人」("Free Staters")と総称される反奴隷制のカンザスのパルチザンと「州境の悪党」("Border Ruffians")と総称される奴隷制護持のゲリラは、各所で殺戮を繰り返していたのです。そのような激烈な思想的・政治的・経済的な闘争の中で、もう一人忘れてはならない人がいます。その人の名は、ジョン・ブラウン(どこかの洋酒の名前にありそう)です。彼の名は、1859年のハーパーズ・フェリー(ヴァージニア州)の兵器庫襲撃後に死刑になったことで有名ですが、かなり屈強な奴隷制廃止論者(写真からも十分に察することができる)であったのです。彼の生年が、1800年と知ると米国東北部のセイラムに生まれ育ったN・ホーソーン(1804-64)と引き比べたい気持ちになってきます。まだ新興国であるアメリカで同じ時代の空気を吸っていた若者たちは、どのような気持ちで自らの人生を切り開いていったのでしょうか。当時の奴隷制廃止論者の中でも最も論争の的となっているジョン・ブラウンは、奴隷制に終止符を打つためにカンザスにやってきた「信念の人」であり、ミズーリ側のゲリラ兵に幾度となく攻撃をしかけていたのです。1855-59年の間、彼はカンザスを出たり入ったりしてゲリラ活動を続けていたのです。そしてその活動の中には、カンザスに建てた自分の家を"the Underground Railroad"の拠点として逃亡奴隷を自由にするための手助けも含まれていたのです。アメリカが南北戦争に突入する前の政治・社会状況を考えるうえで、ブラウンの存在はとてつもなく大きいように思われます。ブラウンの最期についてR・W・エマソン(1803-82)は、"[John Brown]if he shall suffer, will make the gallows glorious like the cross."と書き残しています。多くの歴史家が言うように、南北戦争の最初の流血は1850年代の"Bleeding Kansas"から始まっていたのであり、この内戦の悲劇を経てこそアメリカは「自由」の国として繁栄の道を歩み始めたのです。今日の"Blooming Kansas"まで、たかだか150年ではありますが、100歳を超えて生きる人がいることを考えるとさほど昔でもないのかもしれません。先日私たち家族一同は、当時の亡霊たちを求めて"Horse-drawn Trolley Tour: Quantrill's Raid Related Sites"というイベントに参加しました。馬車に乗れることを大いに楽しみにしていたのは二人の娘たちでしたが、結果的に一番楽しんだのは親二人ということになりました。ツアーガイドがついた1時間ほどの行程ですが、解説が大変上手くて楽しかったのがよかったです。
 D・H・ローレンス(1885-1930)が、「アメリカ古典文学研究」(1923)で<地霊>("the spirit of place")について強調する時、我々はアメリカにとっての「自由」の問題を考えざるをえなくなります。世界中にあまた存在する<地霊>の中でも、アメリカのそれは、人間の「自由」を求めたカンザスと「奴隷」を求めたミズーリの狭間に近いローレンスという場所にこそ今でも棲んでいるはずです。巡礼父祖の時代から「自由」という観念にとりつかれてきたアメリカ人にとって、アメリカという土地は人間にかなりの無理を強いる所なのかもしれません。私たち一家の滞米も残すところ半年近くとなりましたが、かつて血を流したこともあったが今や繁栄の最中にあるカンザス・ローレンスにて、「幸福な」("Blithe")日々を送りたいと思います。


発話解釈の難しさ

ランカスター大学大学院言語学科 院生 秋山孝信

こちらで生活を始めた頃は、英語の聞き取りに苦労した。聞き取りに慣れた現在でも、発話の裏に潜んでいる意味が解らず、相手の意図を読み取れないことがある。
 こちらでの友人に、町の図書館で働いているイギリス人がいる。彼女は、日本語検定三級の取得を目指し勉強を続けている。大学の学生課に、日本語のレッスンをしてくれる日本人の求人広告を出し、私が応募して知り合った。レッスンといっても、インフォーマルなものなので、最近は、日本語の勉強から離れたことを話して時間が過ぎてしまうこともある。先日、彼女がこのようなことを言っていた。職場にちょっと意地の悪い同僚がいて、何かと人の足を引っ張る。数日前に交通渋滞に巻き込まれたため、彼女はめずらしく遅刻をしてしまった。不在に気付いた上司が、その同僚に、彼女の出勤の有無を尋ねた。同僚は、‘She hasn’t turned up.’という表現を使って答えた。後でそれを人伝に聞いて、腹を立てているという。しかし、話を聞いたときに、その表現が使われたからと言って、どうして彼女が腹を立てているのかよく解らなかった。
 彼女の説明によると、その文脈における当該の文は、‘
She is often late.’を含意するらしい。(但し、彼女のこの解釈は、他の英語母語話者達の間で若干の揺れがある。)確かに、辞書を引くと、(to) turn upの項目には、Steven turned up late as usual. (LDOCE3); She turned up at my house very late. (Cambridge International Dictionary of Englishといった例文が挙げられている。コーパスを検索すると、(to) turn upは、必ずしも遅刻を含意する文脈で使われるわけではないことは判るのだが、lexicographerの直感で、そういった文脈での使用頻度が高いという判断が下されるのだろう。Collins Cobuild English Dictionaryには、“If you say someone or something turns up, you mean that they arrive, often unexpectedly or after you have been waiting a long time.”という説明が載っている。さらに、「出勤」という、予め時刻が決定された行為に、unexpectedlyを含意する(to) turn upを使うことが失礼に当たるという説明も出来る(G. Leech, 私信 。結局私の勉強不足が原因なのだが、‘She hasn’t turned up.’という発話を聞いて、即座にこういった語用論的意味を解釈するのは、無理であった。
 いわゆる‘listening comprehension’は、言語の音声の聞き取りがその土台となる。しかし、発話の文字通りの意味がわかったところで、話し手の意図することが理解できなければ何にもならない。皮肉を言われているのに、それが皮肉と気付かない場合もあるし、単なる提案と解釈していたものが、実は、もっと強い意味をもっている場合もある。前述の(to) turn upの例は、動詞句そのものに辞書の説明にあるような含意があって、ある状況では不愉快な意味を生むということであるが、こういった語法に関する問題は、辞書を引くことで解決されることが多い。
 しかし、発話解釈の問題は、語法レベルに限られたものではない。日本語が謙遜表現を求め、イギリス英語がunderstatementを好むように、意図の表明には、社会慣習・文化が絡んでくる。とは言え、発話解釈に関わる社会・文化に関する情報を「体系的に」獲得することは難しい。留学して、そういったことを体系的に学べるわけでもない。英語を学ぶものとして、そして将来それを教えることを目指すものとして、大きすぎるとも言える課題である。日本語も含めて、言葉は一生かけて学ぶものだと覚悟しているが、今はこちらで英語一言一言の響きを吟味することに努めようと思う。


イギリス体験記

英文学科2年 内田 大道

自分がこの研修に参加しようと思った理由は多くの人たちが外国,特にイギリスに行くことを薦めてくださった事と,なにより自分が海外に行きたいといつも思っていたからです。そしてイギリスでは多くの方たちが薦めてくれたとおり英語を始めとして貴重な経験を積むことができました。
 ケント大学のキャンパスはとても広くて,自分たちが住んでいた寮のまわりにはバラなどの花が咲いていてウサギとか変な鳥も多くいました。また大学から歩いて30分くらいにあるカンタベリーの街も大聖堂を中心とした古風な街で気持ちの良い場所で,イギリスの気候も涼しく言うまでもなく最高の環境でした。そのイギリスで感じたことは,昼が長いのに5時には大抵の店が閉まる,電車は遅れる,仕事に対して考え方に余裕がある人たちで,バスの運転手は平気でピアス,たまに刺青している人もいました,そしてこの余裕こそイギリスで学んだ物の一つです。
 イギリスでの授業を持ってくれるトニー先生とショーン先生の授業もとても面白く自分では授業という感じではなかったくらいに感じていました。授業の中でおそらく自分たちが一番労力を使ったのが自分たちでイギリス,特にカンタベリーのことを調べてその発表を行うプレゼンテーションだったと思います。表をつくったり英語を暗記したり結構大変でした。しかしその分得た物も大きかったと思います。
 またロンドンやブライトン,リーズ,フランスなどに行き,そこでも多くの経験をしました。イギリスに滞在している間のこういったロンドンの地下鉄,ブライトンのゲイ,リーズ城の歴史,スーパーで買い物をすること,バーでビールを頼むこと,そして大学のバーに行けば必ず吉良先生とハーディング先生がいて話をしてくれること,など全てのことが授業と同じくらい自分たちの経験となり思い出となっています。
 授業をしてくれた二人の先生の授業は本当に面白かったし,バーに連れていってくれたり,家に招待してくれたりしました。この研修がこんなにもよい経験と思い出になったのもこの二人のおかげだと思っています,そして最後の授業はかなり悲しかったのを覚えています。
 この研修で英語が使えるようになったわけではないけれど,多くのイギリスの人と話したことやその他のいろんな事による多少の自信を日本に持ち帰ることができたと思います。


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