日本大学英文学会  
 

月例会報告

 *2013年度

★1月例会(2014年1月25日)

【司 会】 文理学部教授  塚本 聡

【研究発表】

1. 自動詞と共起する完了形の発達
     文理学部講師  秋葉 倫史

2. 風景庭園の詩学―E. A. ポーの「アルンハイムの領地」を読む
     文理学部准教授  堀切 大史

【梗 概】

 1. 自動詞と共起する完了形の発達
                                    文理学部講師  秋葉 倫史

 本発表では、自動詞と結び付く完了構造の変遷について検討する。英語の完了形は、通時的に(1)のような古英語の ‘have + 目的語 + 過去分詞’ 構造を起源とするhave完了形と(2)のような ‘be + 過去分詞’ からなるbe完了形の2つに大別される。

(1) … þa     þa      ge    hiene  gebundenne  hæfdon
  … then  when  you  him    bound      had  
  ‘… then when you had bound him’        (Or 6 37. 296.21, Traugott(1992: 190))
 

(2) oþþæt   vintra     bið   þusend      urnen
     until     winters   is     thousand   run
    ‘until a thousand years have passed’             (Denison(1993: 359))
 

古英語から中英語にかけて自動詞はbe完了形と共起する傾向にあるが、have完了形の発達に伴い、近代英語以降にその役割がhave完了形へと移行されていく。本発表では、第一に、have完了形とbe完了形が自動詞と共起する例の分布を、通時的コーパスを用いて検証することを目的とする。
 また、(3)のような初期のhave完了形と自動詞が共起する構造にも注目する。
 

(3) þær     beteah      Gosfrei     Bainnard   Willelm   of   Ou  þes  cynges  mæg
  there   accused   Geoffrey   Baynard    William   of   Ou  the king’s   kinsman

  þæt     he   heafde  gebeon   on   þes  cynges   swicdome
  that   he   had          been   in    the    king’s     treachery

   ‘There Geoffrey Baynard accused William of Ou, the king’s kinsman, of having been a traitor to the king.’      (ChronE 232.18(1096), Visser(1963-73:§1902))

(3)に見られる構造は、目的語を持たない自動詞と共起するため、‘have + 目的語 + 過去分詞’ の他動詞構造からhave完了形が確立した例と判断される。これらの構造を詳細に分析することで、自動詞と共起する(3)に見られる構造は、目的語を持たない自動詞と共起するため、‘have + 目的語 + 過去分詞’ の他動詞構造からhave完了形が確立した例と判断される。これらの構造を詳細に分析することで、自動詞と共起するhave完了形の特徴を示し、同時に、have完了形の発達要因についても考察を行っていく。

 

 2. 風景庭園の詩学―E. A. ポーの「アルンハイムの領地」を読む
                                  文理学部准教授  堀切 大史

 江戸川乱歩に名作「パノラマ島奇譚」(1927年)を書かせるきっかけとなったエドガー・アラン・ポーの「アルンハイムの領地」(‘The Domain of Arnheim’, 1847年)は、恐怖小説、SF小説、推理小説、海洋冒険小説など様々なジャンルの小説を世に出したポーの作品群において、風景小説(landscape fiction)というジャンルの作品のひとつとして定着している。自然美を超えた人工楽園の構築という、唯美主義と唯物主義の微妙なバランスをテーマにした本作品は、これまでの研究において主に、理想的な世界の探究を描いたポーの美学論として論じられてきた。本発表では18~19世紀の啓蒙主義と博物学の流行という時代背景を視野に入れて作品を読み、結論として「アルンハイムの領地」が、ポーの「詩の原理」(‘The Poetic Principle’, 1850年)や「構成の哲学」(‘The Philosophy of Composition’, 1846年)と並ぶポーの詩論として読めるということを示したい。

 

★11月例会(2013年11月16日)

【司 会】  鈴木 孝(理工学部准教授)

【研究発表】

 1. 推量を表す法助動詞と疑問文
                               小澤 賢司(博士後期課程3年)

 2. トニ・モリソンの描くパラダイスについての考察―Paradiseについて
                                 茂木 健幸(文理学部講師)

【梗概】

 1. 推量を表す法助動詞と疑問文
                               小澤 賢司(博士後期課程3年)

  疑問文における推量を表す法助動詞の容認性には、以下に見るように、説明に窮する点がある。
(1)   a. What is norovirus? How Contagious is it? Can it be fatal? [新聞の見出
             し]                                                   (Scientific American, 2009/3/30)
     b. Can they be on holiday?                                         (Palmer 1990: 62)

(2)   a. Will George be at home now?        (Thomson and Martinet 1980: 199)
     b. Will you (or Are you likely to) be late this evening?  (Close 1981: 128)

(3)   a. Might they be persuaded to change their minds?    (Hewings 2013: 34)
     b. *May you go camping?                                         (Swan 2005: 316)
     c. May we not be making a big mistake?                     (Swan 1995: 324)
         d. What may be the result of the new tax?
                                  (Thomson and Martinet 1986: 131)

(4)   a. Must there be some good reason for the delay?
                                                                               (Quirk et al. 1985: 225n.)
     b. *Must he be at home now?                                 (荒木他 1977: 377)
        c. Mustn’t there be another reason for his behavior?
                                          (Quirk and Greenbaum 1973: 56)
     d. Why must he be at least 60? I’m sure he’s much younger.
                                                 (Declerck 1991: 408)

  Canwillが疑問文で用いられることに問題はない。Mightは疑問文で用いられるが、mayは用いられない。また、不思議なことに、(3c)、(3d)のような否定疑問やwh疑問の環境下では、mayも疑問文で用いられる。そして、mustの容認性には(一見すると)ズレが見られ、また、mustmayと同様、否定疑問文やwh疑問文では、その容認性が増す。本発表では、これらの推量を表す法助動詞の疑問化に関して、主観・客観の立場、ならびに疑問文の種類とその機能から考察を試みる。
 

 2. トニ・モリソンの描くパラダイスについての考察―Paradiseについて
                                 茂木 健幸(文理学部講師)

     Our view of Paradise is so limited: it requires you to think of yourself as the  
     chosen people--chosen by God, that is. Which means that your job is to
     isolate yourself from other people. That's the nature of Paradise: it's really
     defined by who is not there as well as who is.
『パラダイス』(Paradise, 1997)について語ったインタヴューにおいて、トニ・モリスン(Toni Morrison)はキリスト教的なパラダイスの本質をこのように語っている。神に選ばれた者だけの場所であり、「その場所にいない存在」(“who is not there”)を前提とする隔離された場所として、モリソンはパラダイスを見ている。確かに、モリソンのこの指摘を待つまでもなく、あらゆる理想郷とは、その本質において、「その場所にいない存在」の上に成り立つ。そして、「その場所にいない存在」とはつまり排除された存在に他ならない。サタンを始めとする楽園を追われた天使たち、さらにはアダムとイヴというその場所から追い出される存在があってこそ、パラダイスはその理想郷としての姿を保ち得るのである。つまり、パラダイスという場所は、理想でないものを排除するという暴力の上に成り立っていると言える。モリスンが、当初Warと名付ける予定だったこの『パラダイス』という作品にも、そのような排除という暴力を読み取ることができる。本発表では、黒人だけの町Rubyとそこから17マイル離れるthe Conventという作品の二つの中心舞台、そして作品の最後でモリスンが描くパラダイス的な空間を暴力という視座から眺め、モリスンのパラダイスに対する態度を考察する。

 

★10月英語学シンポジウム(2013年10月26日)

【司 会】  佐藤 健児(文理学部講師)

【テーマ】 「テンスとアスペクトへの誘(いざな)い」

 日本語の「お茶が入りましたよ」と「お茶を入れましたよ」とでは聞き手が受けとる印象が微妙に異なるように、文の意味や形式は話し手の気持ち(心的態度)と深く結びついている(Cf. 澤田(2011: v))。そして、このことは、テンス(時制)、アスペクト(相)、モダリティ(法性)、あるいはヴォイス(態)など、動詞にかかわる分野において特に顕著である。例えば、「話し手の視点」という立場から見た場合、次の2つの文はどのように異なるのであろうか。

(1)a. Now where did I put my glasses?
     b. Now where have I put my glasses? (Leech(20043: 43))

Leech(20043: 43)によれば、単純過去形が用いられた(1a)では、話し手の視点は眼鏡をなくした時に置かれており、その時に何があったのかを思い出だそうとしている。一方、現在完了形が用いられた(1b)では、現在の結果に視点が置かれており、「それが今どこにあるのか」が重要であるという。
 さらに、語用論の立場から次の2つの例を比較してみよう(和訳は柏野(1999: 102)から引用)。

(2)a. I’ll go to the post-office this afternoon. Shall I post your letters?
    (今日の午後、郵便局に行って手紙を投函してきましょうか。)
   b. I’ll be going to the post office this afternoon. Shall I post your letters?
    (Declerck(1991: 166))
     (今日の午後、郵便局に行くついでがあるから手紙を投函してきましょうか。)

Declerck(1991: 166)などで論じられているように、単純形が用いられた(2a)は、主語の意志を表している。そのため、聞き手は、話し手が自分のためにわざわざ郵便局へ行くことを申し出ているといった印象を持つかもしれない。一方、未来進行形が用いられた(2b)では、そのような印象を与えることはない。(2b)は「自然の成り行き」で生じる未来の出来事を表しており、「どのみち郵便局へは行くのだから、手紙を出すのは手間のかかることではない」といった意味を伝えることになるからである。

 本シンポジウムでは、英語のテンスとアスペクトに関する理論的、個別的な問題を議論する。上の例が示すように、テンスやアスペクトの選択には、物理的な制約に加え、話し手の心理が色濃く反映されている。本シンポジウムを通して、人が事態の時間的な性質をどのように捉え表現しているのか、また、その背後にはどのような心理が潜んでいるのかを理解し、共有すること、それが本シンポジウムの目的である。


【研究発表・梗概】

 1.「「自然の成り行き」を表すwill be -ing 構文をめぐって
                    ―テンス、アスペクト、モダリティの観点から―」
                                      佐藤 健児(文理学部講師)

 一般に「未来進行形」の名称で呼ばれるwill be -ing 構文には、(1a)のような「通常用法」のほかに、(1b)のような「特別用法」が存在することがよく知られている。
(1)a. At this time tomorrow we’ll be sailing (across) the Caribbean.
    b. I’ll be seeing her tomorrow, so I’ll give her your message.
                                           (江川(19913: 233))

 下線部が示す通り、(1a)と(1b)は、両文とも、未来の状況に言及している。しかし、(1a)が未来の基準時における進行中の動作を表しているのに対し、(1b)は「自然の成り行き」で生じる未来の出来事を表しているという点において、両者には相違が見られる。
 興味深いことに、(1b)に見る「成り行き」表現は日本語においても観察される。

(2)僕は肩をすぼめた。「ここに来ることになるだろうとは思っていたんだ。来なくちゃいけないとも思っていた。でも来る決心がなかなかつかなかったんだ。ずいぶん沢山夢を見た。いるかホテルの夢だよ。しょっちゅうその夢を見てた。でもここに来ようと決心するまでに時間がかかったんだ」(村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』)

 本発表では、「自然の成り行き」を表すwill be -ing 構文について、適宜、日本語との比較対象を織り交ぜながら、その意味論的・語用論的特徴を明らかにしてみたい。
 


 2.「英語の現在完了形はテンスかアスペクトか」 
                                    山岡   洋(桜美林大学教授)

 英語の現在完了形がテンスかアスペクトかの問題は、専門家の間でも様々な意見が提示されてきている。例えば、Comrie(1976)は、他のアスペクトとは異質としながらも、アスペクトの一種として認めている。

(1)More generally, the perfect indicates the continuing present relevance of a past situation. This difference between the perfect and the other aspects has led many linguists to doubt whether the perfect should be considered an aspect at all.(Comrie(1976: 52))

一方、Declerck(2006)は、現在完了形はテンスであると主張している。

(2)...,‘perfect’ is a category pertaining to tense, ...(Declerck(2006: 38))
本発表では、文法的範疇(syntactic categories)と概念的範疇(notional categories)を明確に区別し、完了形という文法的範疇がどのような概念的範疇を表すのかを詳細に検討し、「完了形」という文法用語の誤りを指摘した上で、英語の現在完了形がテンスであることを主張する。
 


 3. 「知覚動詞構文のアスペクト(再訪)」  
                                       吉良 文孝(文理学部教授)

 知覚動詞構文の補文は、(一部を除き)do補文かing補文のいずれかをとり、両者の意味の違いは単純形と進行形の表わす「相」(Aspect)の違いとして説明されてきた。すなわち、「完結」対「非完結」の意味対立である。例えば、次の例において、

(1)a. I saw her {*drown/drowning}, but I rescued her.
                                   (Kirsner and Thompson(1976: 215))
   b. The Company saw its market disappearing, and took immediate steps to develop    
    new products. (Graver(19863: 157))
    c. In this photograph you can see Joan {blinking/*blink}.
                                  (Kirsner and Thompson(1976: 219))

 (1a)では「非完結」を表わすing補文でなければ矛盾をきたす。(1b)でのdo補文(disappear)の使用は、市場(しじょう)が失われるのを指をくわえて待っていたことになろう。(1c)ではing補文のみが許される。静止画像という瞬間にはdo補文(blink)の持つ時間幅が収まりきらないからである。

 本発表では、アスペクトの問題を中心として知覚動詞構文にまつわる興味深い言語事実を観察する。当該構文の全体像を割り当て時間でつまびらかにすることは無理であるが、時間の許す限り、具体例を通してことばの面白さや神秘さを共感し、その魅力を味わいたい。それが本発表の眼目である。
 

★9月アメリカ文学シンポジウム(2013年9月28日)

【司 会】 深沢 俊雄(聖徳大学教授)

【テーマ】 「アメリカ文学作品にみる “humanity”

【研究発表・梗概】

 1. 
ロマンスの磁場 ― “The Snow-Image” “humanity” について

                                                   
高橋 利明(文理学部教授)

 
日本の古典芸能のひとつである文楽を観る時、観客の感動はその芸能自体の高度な虚構性に由来すると言える。同じ演目を歌舞伎で人間が演ずるのとは異なり、人形が人間の替わりを演ずるという一段高い虚構性に我々は感銘を受けるのである。役者はそれぞれの仮面を被るのだが、その内実の肉感を捨象することはできない。それに比して、文楽人形は肉感を削ぎ落とされた無機質な物質ゆえに、人形遣いの想像力はその役どころの虚構性を研ぎ澄ますことが可能なのだ。

   ホーソーンの「雪人形」(“The Snow-Image”)[1851] の語り手は、文楽の人形遣いよろしく彼の想像力を無機質な雪人形の中に吹き込むことによって、芸術家の創作のプロセスとその研ぎ澄まされた虚構空間の美学的な真意を伝えている。そして、この短篇と同時期に書かれたとされる『緋文字』(The Scarlet Letter)[1850]の序文「税関」(“The Custom-House”) の中で、ホーソーンは “snow images” について、「空想が呼び寄せる形象」(“the forms which fancy summons up”) を象徴するものとして言及するのだが、その形象の動き出す舞台こそが、ホーソーンの唱える「ロマンス」の原点である「中立地帯」(“a neutral territory”)であるのだ。本稿では、現実のLindsey一家の屋敷の庭が、Violet Peonyという幼い姉弟の純真無垢な想像力によって「中立地帯」に変容し、雪人形に生命が吹き込まれた瞬間、ロマンスの磁場を持ちえたことの意味について考察する。

 

 2.  そのときアダムとイヴに何が起きたのか
     
― マーク・トウェインが描く‘Humanity’を探る

                                             
鈴木    孝(理工学部准教授)

マーク・トウェイン没後100年にあたる2010年、彼の遺言に従った自伝完全版の第一巻が出版された。その自伝は「日記と歴史の融合」というそれまでに類を見ないような特殊な形式となっており、トウェインはそれを「価値ある特権」を有する形式と語っているが、トウェインによって書かれた、この世で最初の人間であるアダムとイヴの物語もまた、その同じ日記という形式が用いられている。

「アダムの日記」(‘Extracts from Adam’s Diary’) が書かれたのは1893年、「イヴの日記」(‘Eve’s Diary’) はそのおよそ10年後、最愛の妻オリヴィアが亡くなった1904年に構想が練られ、その翌年の1905年に出版された。「アダムの日記」は当初、当時バッファローで開催されたワールド・フェアの土産物として販売された本に収録されたものであり、中に宣伝と思わしきものまでが含まれた、トウェイン本人も ‘It turned my stomach.’ と評するような作品に過ぎなかったことは否めない。しかしながら、のちに、まったく同じ出来事をもう一人の視点で描いた「イヴの日記」が出版されたことにより、それは、トウェインが描くhumanityが如実に現れる重要な作品へと生まれ変わることになる。

最初の人間として創造され、禁断の実を食べて楽園を追われることになるこの二人に、そのとき一体何が起こっていたのか。とりわけ晩年には、『人間とは何か』(What Is Man?) などの作品を通じて人間観という問題に真正面から取り組んできたトウェインは、この二作にどのようなhumanityを描き込もうとしていたのか。本発表では、この「二人」によって書かれた「日記」に注目することで、彼の人間観の一端を探ってみたいと思う。


 3.  『あの夕陽』(1931)―洗濯女ナンシーの周縁で

                           
                佐藤 秀一(佐野短期大学教授)

 この作品は、『エミリーへの薔薇』、『乾燥した九月』と並んでフォークナーの短編を代表する作品の一つで「ヨクナパトーファ群ジェファーソン町」という虚構空間を舞台にして因襲的なアメリカ南部にあって黒人洗濯女の絶望的なまでの苦悩と倨傲にして卑小化した白人社会の倫理的無力感が形象化されている。

  作品のヒロインともいうべき黒人洗濯女ナンシーは、ジーザスという歴とした夫がおりながら白人の男性と関係を結び、誰の子かもわからぬ子を宿してしまう。そしてその事実を、夫に向かって平然と公言する悪女として描かれている。だが、そこには誰にも頼ることのできない悲しい一抹が見出されるのである。彼女は、その事が原因で家出をした夫に、命をつけ狙われているという心理的恐怖の観念に苛まされることになるが、彼女は、そのような状態に堕した一人の被害者ともいうべきものであって、決して彼女自身の生来の気質に起因する問題ではない。寧ろナンシーがストレートに表出されるのではなく、逆の面が表出されることにより彼女を通して異常なまでの人間の悲哀感が作品を貫通していると云えるだろう。ナンシーを通して人間性の問題を描くことによりフォークナーの意図する根源が含蓄されていると考え得る。

  ナンシーが、夫ジーザスに殺されるという恐怖感の度合いが昴揚し、その絶頂にあるとき口に出す“I just a nigger. It ain’t no fault of mine”ということばに焦点を当て、彼女を取り巻く人々と彼女との関係を明らかにし、この言葉に込められたフォークナーの想像力の一端を考察しようとするものである。
 

 4.  スタインベックの『二十日ねずみと人間』におけるhumanity

                                              
深沢 俊雄(聖徳大学教授)

 スタインベックの主要作品が全部で34作品あるうちで、ここで取り上げる『二十日ねずみと人間』(1937)は、第6作目の中編作品です。全体が6章からなり、作品の舞台はスタインベックの故郷サリーナスの農場地帯です。主人公たちは農場を渡り歩いて生活しながらお金を蓄えて、将来は自分たちのささやかな農地を持ち、牛やニワトリや小動物(ウサギなど)を飼育してのびやかに暮らすことを夢見るジョージとレニーの二人です。

 そこでこの作品に登場する主人公たちと彼らを取り巻く周囲の人々の人間模様を通してこの作品にみるhumanity について探ってみたいと思います。

 

★6月例会・特別講演会(2013年6月22日)

 <6月例会>

【司会】 文理学部教授 野呂 有子

【研究発表】 『オセロー』における軍人の表象―主体構築と国家の関係から

文理学部講師 藤木 智子

 本発表では、シェイクスピア (William Shakespeare) の『オセロー』(Othello) における「国家」(“the state”) とオセローの関係に焦点をあて、オセローが主体を構築する際に、国家と密接な関係が肝要である点について考察する。本劇は舞台がベニスからキプロス島へ移動すると、オセローの精神は破滅し、軍人としての主体構築が脆弱となる。そこには国家との関係性が強く影響している点に焦点をあてる。更に、貞潔な妻デズデモーナからの愛情もまた、オセローの軍人としての主体構築には必要不可欠である点も検証する。当時の有能な軍人としての必須条件を、16世紀の書物から引用し、オセローの持つ軍人の表象を論考する。

<特別講演会>

司会】 文理学部教授 野呂 有子

演題】 シェイクスピアと『サー・トマス・モア』――もうひとつのプロット、もうひとつの夢

                東京大学大学院教授 大橋 洋一

 

★5月例会・特別講演会(2013年5月18日)

【司会】 文理学部講師 岡田 善明

【研究発表】

 1. A Masque presented at Ludlow Castle, 1634 における “charity” “chastity” 再考

博士後期課程 2 年 桶田 由衣

 2. thinken vs. semen

文理学部講師 齊藤 雄介

<特別講演会>

司会】 文理学部教授 高橋 利明

【演題】

 Mouse Tales: How Stewart Little and Whitefoot Reflect Changes in Animal Narratives

カンザス大学名誉教授 エリザベス ・ シュルツ
 

【研究発表】 

<梗概>

 1. A Masque presented at Ludlow Castle, 1634 における “charity” “chastity” 再考

博士後期課程 2 年 桶田 由衣

 仮面劇 A Masque presented at Ludlow Castle, 1634 通称 Comus 以下 A Masque は、 Bridgewater John Egerton Wales 総督就任を祝うために、John Milton (1608-74) Henry Lawes からの執筆依頼を受けて、創作されたものである。 A Masque は、1634年の Michaelmas (929) Shropshire Ludlow 城において上演された。
 主人公
the Lady は、肉欲に耽る魔神
Comus の住む森の中で弟達と逸れる。森で迷う the Lady Comus が甘言を用いて自分の魔殿へと誘い込む。一方、姉を探す弟達の元に、 the Attendant Spirit 羊飼い Thyrsis として登場し、the Lady の危機的状況を伝え、弟達は Comus の魔殿へと急ぐ。しかしながら、the Lady は、弟達による救済のみでは完全には救われず、the Attendant Spirit に呼び出された川のニンフ Sabrina によって、完全に Comus の魔法から解放される。
 本発表では、
the Lady を最終的に救済した Sabrina に着目し、Sabrina が象徴するものと、それが劇作品中でどのような効果をもたらすのかを考察する。先ず、 Sabrina が単なる川のニンフではなく、charity chastity を寓意的に融合した、極めてキリスト教的な要素を帯びたニンフであることを論証する。そして、 “charity” “chastity” を寓意的に融合した、キリスト教的要素を備わった Sabrina だからこそ、the Lady Comus の魔法の椅子から「立ち上がらせる」ことができた点について考察する。

 2. thinken vs. semen

文理学部講師 齊藤 雄介

  本発表では、中英語期に存在していた非人称動詞、thinken semen を扱う。非人称動詞というのは、その節の中に主格の主語を必要としない動詞のことで、現代英語の時点では衰退している。本発表で扱う thinken semen は、現代英語においては、 thinken thinksemen seem にそれぞれ相当する。しかしながら、中英語期の thinken には seem の意味もあり、 semen と同じ意味を持っていたといえる。まずは、現代英語における両者を見てみよう。

(1)* This diamond thinks real.
(2)  This diamond seems real.

 上記の 2 つの文は現代英語の文であるが、当然 (1) の文は非文となる。現代英語の時点で、think seem の意味を喪失しているからである。では、次に中英語期における両者の例を見てみよう。

(3) and  elles  me        þink   þat   he  schuld  alweis  erre.
    and  also  for me  seems  that  he  should  always  err
    ‘and also it seems for me that he should always err’       (CMCLOUD,81.401)

(4) Right so the synful man that loveth his synne, hym       semeth  that it is to him
   Truly so the sinful man that loves    his sin       for him     seems  that it is to him
   moost sweete  of  any thyng;
   most    sweet     of   anything
   ‘Truly the sinful man that loves his sin, the sin seems sweetest for him'                                                         (CMCTPARS,289.C2.59)

 上記の (3) (4) の文は、(3)thinken(4)semen の例であり、いずれも後期中英語までは使用されていた、非人称用法である。これらの文を見れば、中英語期においては、 thinken にも seem の意味があったということがわかる。しかしながら、双方が同じ意味を持っていたからといって、それらの用法に差異がないとは考えにくい。
 そこで、本発表では、
Penn-Helsinki Parsed Corpus of Middle English Second edition および、
Middle English Dictionary を資料とし、両者の用法を観察、比較することで、その差異を考察する。

 

4月例会(2013年4月20日)

【司会】 保坂 道雄(文理学部教授)

【研究発表】

1.  Jane Austen, Emma における Miss Bates の存在

宇野 邦子

2. On the Linking Problem with the Dative Alternation: A View from Fine-gained Syntax

田中 竹史(文理学部講師)

【梗概】

1. Jane Austen, Emma における Miss Bates の存在

                                             宇野 邦子

 Emma は、Jane Austen (1775 ~1817) 39才頃の作品である。20代前半の前期作品に比べて、30代後半の後期作品には、作者Austenのいっそうの成熟が見られるが、Emmaはその代表作となっている。美人で頭がよい21才のヒロインEmmaは、少し自信過剰であり、人の恋の世話ばかりしている。そしていつも失敗や誤解をして反省するのだが、それを繰り返すうちに精神的成長をしていくのである。 
 すべてに恵まれている
Emmaと、対照的に描かれているのがMiss Batesである。Miss Batesは、Austen作品中唯一の結婚歴のないシニア女性である。若くも美しくもないし、才気もなく金持でもない。裕福なEmmaと違い、乏しい収入を切り詰めながら、老母の世話に明け暮れている。そういう最悪の境遇にありながらも、びっくりするほど人気があり、周りの人々はみな彼女に対して好意を持っている。それはなぜだろうか。また、彼女は大変なお喋りで、本当につまらないことをいつも延々と話しまくり、ヒロインばかりでなく読者も、時にはうんざりさせる。 その内容のない長いせりふは何頁も続くのであるが、作者Austenは、Miss Batesになぜそんなに喋らせるのだろうか。ストーリーに直接関わりがないように見えるシニア独身女性のMiss Batesが、この作品に登場する意味を考察してみたい。
 


2. On the Linking Problem with the Dative Alternation: A View from Fine-gained Synta

文理学部講師  田中 竹史

 構文交替は動詞の項がどのような形式で現れるのかという項具現 (argument realization)・項の連結 (argument linking) にとってその扱いが問題となるが、一般的にはPesetsky (1995) Arad (1996) などで議論されているように、精密統語論 (fine-grained syntax)、精密意味論 (fine-grained semantics)、多重語彙記載 (multiple lexical entries) という三つの解決法による可能性が追求されている。
 本発表では、与格交替に焦点を当て、この構文交替においては下記に示すような精密統語論に基づく分析が最も有効である事を確認する。

 (1)       a.      John sentv Maryj a booki [VP tj tv ti].
             b.      John sentv a booki [VP to Mary tv ti].

ここでの主張は、「与格交替に関わる二つの構文は、項の表面的な配列は異なるものの、基底では着点項>主題項という項の配列を共有しており、実際に現れる語順の相違は統語派生の相違である」、というものである。
 この分析は、意味と形式の間の強い結び付きを維持しつつ、広い言語事実に対応可能であるという点で最も妥当である事を示したい。

 







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