日本大学英文学会  

月例会報告

 *2008年度

★ 1月例会(2009年1月10日) 

  [司会] 福島 昇 (生産工学部教授)

  [発表者]

    1. 上滝 圭介 (博士後期課程2年)
       『ヘンリー4世:第1部』終幕の劇的アイロニーについて

     2. 秋葉 倫史 (博士後期課程2年)
       The Anglo-Saxon ChronicleにおけるHAVE構文と完了形の発達

                          

[梗概]

 1.『ヘンリー4世:第1部』終幕の劇的アイロニーについて

   上滝 圭介 (博士後期課程2年)

 『ヘンリー4世:第1部』(1597-8)は2部構成の作品の前半にあたり、百年戦争下の英国で内乱を企てたパーシー家一党を鎮圧するハル王子を主人公に設定した史劇作品です。放蕩三昧のハル王子が反乱鎮圧に出向き、パーシー家の若武者ホットスパーを討ちとるのが本筋で、ここにハル王子の盟友として名脇役フォルスタッフが絶妙に絡んできます。終幕部分では、勇猛果敢に決闘に臨むハル王子とホットスパーに対し、フォルスタッフは死んだふりをして命拾いをした後、ホットスパーの亡骸を前に煩悶しながらも、ハル王子とともに自陣に引き揚げていきます。この終幕部が提示する劇的アイロニーについて、フォルスタッフの台詞を手掛りに分析します。

 

. 2.The Anglo-Saxon ChronicleにおけるHAVE構文と完了形の発達

  秋葉 倫史 (博士後期課程2年)

 一般に(1a)のPEで用いられている完了形「have+過去分詞+目的語」は(1b)のOEの形「have+目的語+過去分詞」から発達したと考えられている。

(1)   a. I have / had bound him
   b. Ic hæbbe / hæfde hine gebundenne                                                                                               (中尾・児馬 1990: 110)

 OEではhaveは本動詞であり過去分詞は目的語を修飾する形容詞で格変化し、その性、数、格は目的語と一致した。したがって(1b)は「私は彼をしばった状態で所有している」という意味になる。本研究ではこの「have+目的語+過去分詞」をHAVE構文として扱う。
 このHAVE構文をThe Anglo-Saxon Chronicleから抜き出し検討する。The Anglo-Saxon Chronicleにはいくつか写本が存在するが、本研究ではA写本とE写本の二つを用いる。HAVE構文からPEの完了形への発達に関してこれまで多くの議論がなされてきた。本研究では、特に完了形が成立した時期とその発達段階をThe Anglo-Saxon Chronicleにおける実際の例から示すことを目的とする。

 

 

★ 11月例会(2008年11月22日)

  [司会] 寺崎 隆行(通信制大学院教授・経済学部教授)

  [発表者]

    1. 角田 裕子 (博士後期課程2年)
         『骨董屋』におけるネルの役割

     2. 松山 献 (博士後期課程3年)
        E. M. フォースターの小説における「見えないもの」について

 

  [梗概]

 1.『骨董屋』におけるネルの役割

   角田 裕子 (博士後期課程2年)

 チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens, 1812-70)の数ある作品の中で『骨董屋』(The Old Curiosity Shop, 1840-41)ほど好評と不評の両極端な評価をされた作品はない。それは専ら主人公ネルに関するものである。連載中、読者はネルの行動に一喜一憂し、もはや彼女の死が避けられないと察するや、ディケンズにネルの「助命嘆願書」を送る読者まで現れたほどだった。しかしその熱狂的賞賛への反動からか、19世紀末にはネルに魅力を感じるどころか逆に、非難と嘲笑を浴びせるようになる。多くの批評家が指摘するように、ディケンズの『骨董屋』執筆姿勢にはあまりにも感情的になっているきらいがある。国家現象とも言えるネルへの賞賛ぶりは、ディケンズが故意に扇動した結果だと感じざるを得ないほどである。しかし読み進めていくと、感情的という一言では片付けられない当時のイギリスが直面する複雑な現実に気付かずにはいられない。本発表では『骨董屋』を評価するにあたり、常に矢面に立たされてきたネルの描写を中心に考察し、彼女の存在が作品にどのような影響をもたらしているのかを明らかにしたい 。

 

2.E. M. フォースターの小説における「見えないもの」について

 松山  献(大学院総合社会情報研究科3年)

E.M.フォースター(Edward Morgan Forster,1879-1970)は棄教したヒューマニストでありながら、「見えないもの」(the unseen)すなわち霊的なものに執着し続けた特異な作家である。本発表では、彼の小説において中心的な主題である「見えないもの」について考察する。まず、フォースターが影響を受けたと考えられる作家や思想家などによる「見えないもの」についての言説をいくつか検討し、英国の文化や社会における不可視的あるいは神秘的なものへの関心がフォースターの姿勢の素地となった事実を示す。次に、フォースター自身がこの概念について説明している直接的言及をいくつか検討し、現実を超えるものの中にこそ真実が存在するというフォースターの一貫した姿勢を示す。さらに「見えないもの」の具体的事例として、「土地の霊」(spirits of place)、「象徴的瞬間」(symbolic moment)、「個人的人間関係」(personal relationships)、「必然性」(inevitability)、「連続性」(continuity)の五点を取り上げて、その内容と特質について略述する。以上の考察により、フォースターの描写する「見えないもの」が、いずれもきわめて重要な宗教的価値をもつ概念であることを明らかにしていきたい。

 

 

 

★10月英語教育シンポジウム(平成20年10月18日)


    [司会] 渋木 義夫 (日本大学習志野高等学校教諭)

    [テーマ] 日本大学付属高校での英語教育について

    [発題者] 

  1. 付属高校での英語教育の現状

                          日本大学櫻丘高等学校教諭  中原 友香子

   2. 英文法指導の過去、現在、未来

                                       日本大学第二中学・高等学校教諭  黒澤 隆司

   3. SELHi-セルハイでの実践報告

長崎日本大学中学・高等学校教諭  室屋 精一郎

 

     [コメンテーター]                  日本大学名誉教授・客員教授     川島  彪秀

 

  [梗概]

 このシンポジウムでは日本大学付属中学・高等学校の英語教員が発題者となり、付属高校での英語教育の現状と実践を話題の中心に据え、身近な事象から日本の英語教育全般に通じる話題の提供ができないものかと考えています。
 日本大学では毎年4月に全付属高校生を対象に標準学力テストを実施していますが、その過去6年間のデータに基づき現状の分析を試みました。
 「OC」が導入されて以来、「聴き・話す」能力の向上に力が注がれるようになった分、「文法」教育に注ぐ時間が減少している印象は否めません。しかし、大学や企業が求めているのは、正しく「読み・書く」力の方であると考えられます。本来であればもっと重視されていいはずの「文法」指導にいま一度光を当てることが、国際社会に通用する英語力向上に繋がるのではないでしょうか。
 長崎日大高校は文部科学省から「スーパー英語教育推進校」(セルハイ)に指定されました。そこで実施された事例を付属高校での実践の一例として提示します。

 

 

★9月イギリス文学シンポジウム(平成20年9月27日)
  
    [司会] 野呂 有子 (文理学部教授)

    [テーマ] ゴドウィンとウルストンクラフト ―その代表作をめぐって―

    [発題者] 

    1. 原 公章  (文理学部教授)
      William Godwin, Political Justiceをめぐって

    2. 佐藤 明子 (法学部准教授)

                 Mary Wollstonecraft, The Vindication of the Rights of Womanをめぐって

    

    3. 都留 信夫 (明治学院大学名誉教授)
      William Godwin, Caleb Williamsをめぐって

 

  [梗概]

 ゴドウィンは、シェリーを始めとする19世紀初期のロマン派詩人などに、大きな影響を与えた作家です。しかしながらその代表作『政治的主義』(1793)は、現在、あまり読まれていないようです。またその妻、メアリ・ウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』(1792)はイギリス最初のフェミニズムの宣言書として、高い評価を得ており、その後の多くの作家に影響を及ぼしましたが、これもその原文はあまり読まれていないのではと思います。ゴドウィンにはまた、『ケイレブ・ウィリアムズ』(1794)という小説があり、これは上記二作で述べられた思想の具体化だと考えられていますが、ゴシック小説のマイナーな作品という評価しか与えられていないようです。そこで、今回のシンポジウムでは、これらの著作に目を通し、その内容を確認すると同時に、ロマン主義、無政府主義の源流、現代の女性運動の源流としての、二人の価値を再確認したいと思います。なお、司会担当の野呂先生は、メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』などにも言及される予定です。

 

★ 特別講演会・6月例会(平成20年6月21日)
  

・特別講演会

    [司会] 深沢 俊雄 (聖徳大学人文学部教授)

    [講演者] 杉山 隆彦 (成城大学名誉教授・日本英語表現学会副会長)

    [演題] 「あいまいな表現」のもつ想像力喚起のおもしろさ
             -言葉の多義性について-

 

・6月例会 研究発表

  [司会] 飯田 啓治朗 (文理学部専任講師)
  
  [発表者]

   1.  野村 宗央 (博士後期課程1年)
             Areopagitica
, “the Tree of Knowledge of Good and Evil”& Paradise Lost

    2.  藤木 智子 (博士後期課程3年)
      『リア王』における月

 

  [梗概]

1.Areopagitica, “the Tree of Knowledge of Good and Evil”& Paradise Lost

野村 宗央 (博士後期課程1年) 

 本発表では、17世紀英国の詩人John Miltonの政治論文Areopagiticaを基に、叙事詩Paradise Lostにおける “the Tree of Knowledge of Good and Evil”(以下「善悪を知る木」)の解釈と、Adam、EveそしてSatanの特性について論じる。

 Areopagiticaは、長老派主導議会による言論統制の動きに対し、言論・出版の自由を訴えることを目的として上梓された。本論文において、Miltonは悪書と善書について見解を述べている。また、それら書物を「善悪を知る木」の果実に譬え、次のように述べている。

 

It was from out the rind of one apple tasted, that the knowledge of good and evil, as two twins cleaving together, leaped forth into the world. And perhaps this is that doom which Adam fell into of knowing good and evil; that is to say, of knowing good by evil. As therefore the state of man now is; what wisdom can there be to choose, what continence to forbear, without the knowledge of evil?

 

一方、Paradise Lostにおいて、SatanはEveを誘惑する際に次のように述べる。 “knowledge of good and evil; / Of good, how just? Of evil, if what is evil / Be real, why not known, since easier shunned?” (Book IX, 697-9) これら二つの引用には、「悪を通して善を知る」という共通性が見られるため、Miltonの主張をSatanが代弁しているかのような印象を受けるが、両作品それぞれのコンテクストを考慮すれば、その違いは明白になる。

以上の様に、コンテクストの違いに目を向け、両作品を比較考察することによって、「善悪を知る木」を巡るAdam、EveそしてSatanの特性を整理し、Miltonの思想をより鮮明にしたいと考えている。

 

2.『リア王』における月                                           

   藤木 智子 (博士後期課程3年)

本発表はシェイクスピア作『リア王』の2つのテクストの比較し、相違点及び共通点を考察する。そのテクストとは1608年出版の第一四つ折り本と、1623年出版の第一二つ折本である。この二つのテクストの相違点を確認し、検閲官が削除・改訂の命令を行った点について検証を行う。次に共通点を確認する。両テクストに共通する台詞とは、厳密な検閲を受けながらも削除を免れたことになる。当局は、安全な台詞である判断し、削除するに値しないと判断した結果である。作家は厳密な検閲の抑圧に対して、従順に従っていたか、また言論の自由を保持する為に、どのような創作術を用いていたのか、という点について、本作品の「月」に焦点をあてて論じる予定である。

 

 

★ 5月例会 研究発表(平成20年5月17日)
  
  [司会] 塚本 聡 (文理学部准教授)
  
  [発表者]

    1. 高橋 睦子 (博士後期課程1年)
        内なる暗闇:『嵐ヶ丘』における孤独と自己意識 
         ―媒介的象徴としてのヒースクリフの役割―

     2. 田中 竹史 (博士後期課程3年)
        On Dative Alternation:in Defense of a Derivational Approach

 

  [梗概]

1.内なる暗闇:『嵐ヶ丘』における孤独と自己意識 
   ―媒介的象徴としてのヒースクリフの役割―

高橋 睦子 (博士後期課程1年)

Heathcliff は、Wuthering Heights において最も謎めいた人物である。本発表の目的は、Emily Brontё をHeathcliff の創作に駆り立てた理由とは一体何なのか、Heathcliff を通して著者は何を追求し、何を訴えようとしたのかを明らかにすることである。
 この研究において、主に精神分析的なアプローチを試みたが、まずその領域内における可能な論点として社会・経済問題が取り上げられなくてはならない。Emilyが我々に知らせている社会・経済・文化的な現実は、個人の苦労を超える。だが一方で、個人がこれらの社会・経済・文化的特殊を背景に性格形成をする上で、この物語における精神的な面は物語の非常に重要な部分である。この分析は、家父長主義的な社会の標準に反して、行われるEmily の登場人物の闘いを、アイデンティティをつくるその時間に生きている人間の努力の集約として見るものである。

 

2. On Dative Alternation: in Defense of a Derivational Approach

 田中 竹史 (博士後期課程3年)

二重目的語構文(1a)と与格構文(1b)の間には一定の関係があるという事は良く知られており、それ故、これら両構文の関係(与格交替)をどの様に扱うかという事はこれまで議論の的となって来た。

 

(1)   a.     John gave Mary a book.       (DOC)

       b.     John gave a book to Mary.    (DC)

 

 近年の極小主義の下では、両構文を統語的操作によって派生的に関連付ける派生的立場、所謂変形仮説(Aoun & Li 1989, Baker 1997, Emonds 1976, Larson 1988, Takano 1998)ではなく、両構文間に統語的操作の介在を認めず、それぞれの構文は別個の基底構造を持つと主張する非派生的立場、所謂語彙仮説(Beck & Johnson 2004, 藤田・松本2005, Harley 2002, Jackendoff 1990, Miyagawa & Tsujioka 2004, Richards 2001)が支配的である。

 与格動詞を含む成句の非対称的分布(2)は語彙仮説を主張する有力な統語的証拠とされるが、本発表は、Levin & Rappaport Hovav (2005)Rappaport Hovav & Levin (2006)等の議論を基にこの証拠に対して再検討を行い、実際の分布はむしろ両構文が共に基底においてV-THEMEという構成素を成す事を示唆すると指摘する。

 

(2)   a.     Lasorda sent his starting pitcher to the showers.

       b.   *Lasorda sent the showers his starting pitcher.

       c.     Susan gave Bill a piece of her mind.

       d. ??Susan gave a piece of her mind to Bill.                                             (Harley 2002: 36-42)

 

 更に逆行束縛や数量詞の作用域に関する現象も(3)に示す様に、両構文が共にVP内においてGOAL>THEMEという基底の項配列を持つとの仮定により自然な説明を与える事が可能となり、従って、両構文間の共通性を強く認める派生的立場、つまり変形仮説による説明がより望ましいと主張する。

 

(3)   a.     DOC       …[VP [DP1 GOAL] [V’ V [DP2 THEME]]]

       b.     DC         …[VP [PP GOAL] [V’ V [DP THEME]]]

 

 二次述語、動詞由来複合語、名詞化等の言語現象も派生的立場への更なる経験的証拠となるであろう事にも触れる。

ヴィクトリア朝文学において、女性はほとんどの場合、家庭の装飾、天使としての義務を課せられ、多くの批評家がこの点からGeorge Eliot作品のヒロインを論じてきた。しかし、産業革命により社会の流動期にあった当時のイギリスでは、もはや家庭を一つの大きな空間として理解することは出来ない。家庭の中にはparlour(居間)を中心として, その他kitchen, dining roomprivate room、など複数の部屋が存在し、それぞれが異なる社会的役割を持っていた。そして、女性はそれぞれの部屋において必ずしも中心にいるというわけではなく、特にparlourのような社会的空間では男性を含めた様々な人間模様が描き出される。本発表ではGeorge Eliot初期作品The Mill on the Flossを中心として、Adam Bede, Silas Marnerを加えた三作品における家庭の表象を考察したい。特にThe Mill on the FlossGeorge Eliotの自伝的要素が色濃く出た作品であり、その中に家庭が中心に描かれた章が多く見られることは興味深い。主人公Maggie Tulliverは家庭という空間の中でヴィクトリア朝社会特有の様々な社会的事象を経験する。特にparlour, attic, そしてsickroomMaggieの苦悩、葛藤、和解という経験において欠かすことの出来ないものとなっており、George Eliotの家庭に込められた意図を探る上でも重要な手掛かりとなるであろう。

 

★ 4月例会 研究発表(平成20年4月19日)
  
  [司会] 原 公章 (文理学部教授)
  
  [発表者]

    1. 堀 紳介 (博士後期課程2年)                                                             George Eliot's Portraiture of Domestic Space                                           初期作品The Mill on the Floss を中心として

    2. S. J. Harding (文理学部准教授)
        Family Resemblance Categories

 

  [梗概]

1.George Eliot’s Portraiture of Domestic Space
     初期作品The Mill on the Flossを中心として

堀 紳介(博士後期課程2年)
 

ヴィクトリア朝文学において、女性はほとんどの場合、家庭の装飾、天使としての義務を課せられ、多くの批評家がこの点からGeorge Eliot作品のヒロインを論じてきた。しかし、産業革命により社会の流動期にあった当時のイギリスでは、もはや家庭を一つの大きな空間として理解することは出来ない。家庭の中にはparlour(居間)を中心として, その他kitchen, dining roomprivate room、など複数の部屋が存在し、それぞれが異なる社会的役割を持っていた。そして、女性はそれぞれの部屋において必ずしも中心にいるというわけではなく、特にparlourのような社会的空間では男性を含めた様々な人間模様が描き出される。本発表ではGeorge Eliot初期作品The Mill on the Flossを中心として、Adam Bede, Silas Marnerを加えた三作品における家庭の表象を考察したい。特にThe Mill on the FlossGeorge Eliotの自伝的要素が色濃く出た作品であり、その中に家庭が中心に描かれた章が多く見られることは興味深い。主人公Maggie Tulliverは家庭という空間の中でヴィクトリア朝社会特有の様々な社会的事象を経験する。特にparlour, attic, そしてsickroomMaggieの苦悩、葛藤、和解という経験において欠かすことの出来ないものとなっており、George Eliotの家庭に込められた意図を探る上でも重要な手掛かりとなるであろう。

 

2.Family Resemblance Categories

Stephen Harding(文理学部准教授)

                                                                                                                       In this presentation I will be considering the celebrated passage in Wittgenstein’s Philosophical Investigations where he analyses the concept “game” and reaches the conclusion that is not amenable to rigid definition since it lacks any core invariant feature. Despite the fact that “game” has been taken widely as the primary exemplar of family resemblance categories, I will argue that it is not in fact a family resemblance concept at all. To make this argument I will look briefly at game and play metaphors in philosophy and semiotics and then turn to “language games” and family resemblance in the Investigations. The next step will be to examine definitions of “game” that have been offered by the French Sociologist Roger Caillois (1958) and the Polish linguist Anna Wierzbicka (1996). The perhaps startling conclusion to this analysis will be that a great deal of post-Witgensteinian theorizing has been based on an absurd misunderstanding.

Time permitting, I will end my presentation with an attempt to specify what really counts as a family resemblance category, what does not (meaning cases where a rigid definition can be given), and what cases fall somewhere in between. A Wittgensteinian methodology can, I believe, be developed for semantics. But partly due to the confusions outlined in this presentation a systematic schema of categorizations has never been properly worked out.

 

 







〒156-8550 東京都世田谷区桜上水3-25-40
TEL  03-5317-9709  FAX 03-5317-9336 
inf-engl@chs.nihon-u.ac.jp