科学と私(ブログ)

<科学との出会い ‐幼児編‐>
・4、5歳のころ、コップに水を入れて凍らせたものや、アイスクリーム
が溶けていく様子をずっと眺めるのが好きでした。溶けかけのカップアイスに水を加え、溶け方が変わるかどうか見ていたら、母に「食べ物を粗末にしてはいけない!」と叱られました。

・親戚の家に行ったとき、従姉妹が購読していた「○年の科学」を読み、算数の練習問題を片っ端から解くのが好きでした。同じころ、日本で初めてノーベル賞を受賞された湯川秀樹先生が亡くなられました。私の両親の世代(戦後すぐの生まれ)にとって、湯川先生の受賞はかなりセンセーショナルだったようで、湯川先生には特別な尊敬心があるようです。母がそんな私を見ながら、「湯川先生みたいになりなー」とたびたび言っていたのを覚えています。

<科学との出会い ‐小学生編‐>
・小学校のころ、夏休みに理科の自由研究の課題に取り組むことが何度かありました(たいていこういうものは、親主導ですが・・・)。小2のとき、「水のすいこみ方」という研究で市のコンクールで賞を取ったことがあります。

・5、6年の担任の先生が理科の先生でした。授業で実験をすることがたびたびありましたが、どちらかというとホウ酸を水に溶かしたり、二酸化炭素を発生させたりといった、化学的な実験が印象に残っています。

<科学との出会い ‐小学生編‐>
・中学校のとき、当時東北大学で学長をされていた、西澤潤一先生の「私のロマンと科学」という講演を聴きました。そのときに「科学者」という職業に憧れ始めました。

・理科の授業で、電気の授業が好きでした。将来は物理学者になりたいと思うようになりました。

<高校時代>
・日本でノーベル物理学賞受賞者を何人も輩出している京都大学理学部にあこがれ、勉強していました。もちろん理数科目は好きでしたが、ずば抜けてできたわけではありませんでした。しかし、中学のときに抱いた夢を実現することを心の支えに勉学に励んでいました。NHKスペシャル「アインシュタインロマン」を見て、子供ながらに興奮していました。このころ流行だった、高温超伝導の研究にあこがれていました。また、素粒子の世界にも興味をもっていました。

・課外活動としては、吹奏楽部、放送委員会、および物理部で活動していました。吹奏楽部ではトロンボーンを吹いていました。未経験者だったので、多くの苦労がありました。放送委員会では委員長を務めました。この間、放送コンクールのラジオドラマ部門で全国大会に3度参加することができました(うち一度は佳作入賞)。また、物理部の友人とともに日テレの「高校生クイズ」にも出場し、全国3位の栄誉を勝ち取ることができました。「自治」という高校の校風にも支えられ、自由にいろいろなことに取り組んだ3年間でした。

・自分を励ましたり、勇気を与えたりしてくれる言葉を捜すのが好きで、いろんな本や歌の歌詞を引用してきて、日記に書きとめたりするのが好きでした。

・大学受験のときは、前期は京大理を受けましたが、おちてしまいました。後期の京大は倍率が高いので、京大には縁がなかったとあきらめ、阪大理を選びました。はじめてきた阪大は、自分の雰囲気に合っている気がしました。昨今、「後期入学者の学力が相対的に低いため」後期試験がなくなっていく傾向にありますが、後期合格の私としてはさびしい限りです。このとき、第一志望で物理学科を、第二希望で化学科を志望したところ、化学科に合格してしまいました。ここで一度物理学をあきらめる決心をしました。


<学部時代>
・物理学は一度あきらめたのですが、化学科でも物理っぽいことができることがだんだんわかってきました。このころから、物理、化学という枠組みでなく、固体物性の道に進みたいと考えるようになりました。ちょうど機能性人工格子の研究をしている研究室があったので、そこに入りたくて一年生のときからその研究室に遊びに行ったりしていました。また、空いた時間に物理学科の授業をよく受講していました。大学2年生のとき、博士時代に共同研究をさせていただいていた、故池谷元伺先生の「結晶物理学」という授業がありました。そのときに授業の中で池谷先生がこのようにおっしゃったことを今でも記憶しています。「あなたが今経験している苦しみや悩みは、いまだかつて、人類がただ一度として経験したことのないものではない」この言葉が、のちに苦しいときにも私を支えてくれる言葉のひとつになっていきました。また同じころ、違う分野で博士を取得されていたある方から「研究者になるためには強い精神が必要だよ」と言われたことがありました。研究生活が長くなるに連れ、その言葉を思い出し、しみじみと実感する機会が多くなっています。

・大学3年になり、学生実験が本格的に始まりましたが、実験が苦手だった私は失敗ばかりでした。一度、オイルバスを過加熱してしまい、中の水銀温度計が割れ、2mほどの油柱を立たせてしまったこともあります。幸い、席から離れていたので、けがはありませんでした。そんな感じだったので、担当の先生から「君は実験向けじゃないね」と言われたりもしました。夢と自分のギャップに落ち込む日々でしたが、このころ、ある作家の言葉で「決心は実を結ぶ」というフレーズを目にし、以後この言葉が座右の銘になりました。

・3年生の末に研究室を決めるときがありました。第一希望の研究室は希望者多数につき、抽選となりました。方法は「あみだくじ」。予備抽選で一番くじを引いた私が引き当てたのは…構造物理化学研究室だったのです。どうも私には「第二希望」が似合っているようです。


<構造物理化学研究室時代 -修士課程->
・「物理学に関わるような研究をしたい」と言っていた私に与えられたテーマは、有機高分子磁性体の研究でした。まず、高分子を合成するために、四年生のときは高分子学科の研究室で有機合成を学びばせていただきました。しかしこの合成がなかなかうまくいかず、目的の物質を作るためにまるまる3年かかってしまいました。「科学者になりたい」という夢を抱いていた私でしたが、大きな挫折感を味わいました。

<構造物理化学研究室時代 -博士課程前半->
・修士で大きくつまずいた私は、新しいテーマを求めてさまよいました。まったく畑違いの光化学をに挑戦したり、自分が興味ある単語の載っている論文を片っ端から読み漁ったりしていました。しかしなかなか光は見えてきませんでした。結局、修士のときに取り組んだ有機磁性体の磁性発現のメカニズムを分子軌道計算を用いて解明しようとしましたが、なかなか研究は軌道にのりませんでした。この時期、教授が退官し、指導教官不在という危機にも陥りました。研究室の人々と会うことすら苦しく、研究をやめることを考えたこともありました。しかし、ある先生に「一人で研究する必要はない。君は学生だから、今は周りの人からたくさん学びながら、聞きながらやっていけばいいんだ」と言われ研究テーマを変える決断をしました。D3も半ばの時期でした。

・この時期、ティーチングアシスタントの仕事をしており、物理化学だけでなく、放射科学、無機化学、分析化学など、幅広い分野の研究に触れることができました。また、「知性への誘い」という、各研究科の学科長たちが交代で自分たちの研究分野を一年生にわかりやすく紹介する、という授業のTAを務めました。この授業を通し、異分野の先生方とたくさん知り合うことができました。研究的には伸び悩んだ時期でしたが、多くの方々と触れ合い、それぞれの方の研究分野や研究哲学を学び、自分の幅を広げることができた期間でもありました。


<資料先端研究室 −博士課程後半−>
・教授の退官に伴い、研究室名も「資料先端研究室」となり、阪大博物館にも属する異色の研究室へと模様替えしました。ここで新たに提示されたテーマは、TPPという有機細孔物質の細孔の構造や性質を高圧129Xe NMRを用いて調べる、という今までとはまったく異なる研究内容でした。ここでもいったん「有機磁性体の研究はあきらめよう」と決心し、無心に新テーマに挑戦していました。ところが、新テーマにしてから1ヶ月もたたぬうちに、ひとつの論文に出会ったのです。それはTPPの細孔内にヨウ素を包接させ、一次元電気伝導をもたせた、という研究内容でした。この論文が私の研究の流れを大きく変えていきました。「このTPPに有機ラジカルを包接させれば、一次元磁性体になるのではないか?」そのような発想から、博士論文のテーマが形作られていきました。一度捨てた有機磁性体の流れに再び戻るようになったのです。このテーマにめぐり合ってから、はじめて研究の楽しさを知ることができました。また、はじめて雑誌に論文が掲載されました。初掲載が決まったときの喜びは一生忘れることができないでしょう。

・前述の池谷先生の下でESRを使わせていただくことになりました。学部時代からの奇しき縁が生かされることとなりました。

※池谷先生は2006年3月に急逝されました。ご冥福をお祈りいたします。

・その後、さまざまな困難もありましたが、テーマを変えてから2年半という短い期間で学位を取得することができました。この期間、応援してくださった先生方、両親友人たちには今でも感謝の念が絶えません。この場を借りて感謝の意を表したいと思います。またこの時期、以前から私が尊敬し、お世話になっていた作家の方が、7年間かけて執筆されていた本が完成しました。その方がもがいていらっしゃたのと同じ時期に、博士論文を書くことを通して自分も同じもがきを味わえたことは本当に意味深いことでした。その方にも感謝を捧げたいと思います。


<阪大博物館 −ポスドク時代 その1−>
・学位取得半年前に、長年在籍した阪大大学院理学研究科を単位取得退学し、博物館のポスドクとして、研究を職業とする道を歩き出すことになりました。学生として行う研究と、職業として取り組む研究の違いを感じたのがこの期間でした。社会人になると、勤務時間中の集中度が学生の時とは変わります。そのため、学生時代よりももっと「時は金なり」を意識するようになりました。また、博物館は本来文系に属する機関であるため、形式的に文転したことになり、また新たな道を歩むこととなりました。この期間にはNMRやESRを用いて、遺跡で用いられている岩の産地同定や年代測定を調べる研究を行いました。その関係で、地学や考古学、文化人類学といった分野にも関わることができました。天然の岩石というのはひとつひとつ形状が異なるため、統一的に何かを論じるのはなかなか難しい点があります。それでも、新しい角度からの磁気共鳴の研究ということで、楽しく取り組むことができました。

・この時期、博物館主催で、阪大の研究を地域の方々に紹介する、という「企画展」という催しが何回かありました。自分たちの研究内容を一般の方に説明するのはたいへんです。そんな力が磨かれた期間でもありました。また、小学生の大学体験授業、というものにも携わり、久しぶりに子供たちとのふれあいも経験できた期間でした。


<基礎工へ −ポスドク時代 その2−>
・阪大博物館で1年半働いた後、同じ阪大の基礎工学研究科のNMR量子コンピューティングを専門とする研究室に移籍し、ポスドクとして研究をすることになりました。ここでは、新規材料開発に際してNMRから得た情報を有効に活用するため、より高感度なNMRの装置を開発するという研究に携わりました。私は長年、固体物性およびナノサイエンスに携わっていたため、物質側の視点から、物事を見る習慣が身についています。しかし、この研究では、装置やエレクトロニクスといった、今まで直接携わらなかった観点や技術が必要とされるようになりました。これは私にとって、磁気共鳴という分野をまったく違う角度から見ることになり、大変大きな影響を受けました。また、この研究室ではNMRおよびESRを用いた量子コンピューティングの研究を行っており、そういった面でも新たな角度から磁気共鳴に触れる機会となりました。

・具体的な内容としては、Ptナノ粒子のNMRの装置開発およびそれを用いたナノ粒子の測定を行うことになりました。装置開発というのは非常に時間がかかるものであり、それが完成しないとなかなか研究が進みません。また忍耐の日々が始まりました。特にエレクトロニクスは未経験だったので、初めは手出しすらできませんでした。しかし、時間とともに人は成長していくものです。さまざまな経験や耳学問をもとに、少しずつそういう世界にも慣れていくようになりました。

・基礎工は理学部とは違った雰囲気をもっています。理学部は学問の府なのに対して、やはり基礎工はエンジニアを志す人が多い印象を受けました。


<京大へ −ポスドク時代 その3−>

・基礎工に約一年半在籍した後、上司の異動に伴い、京大大学院理学研究科に移籍することになりました。大学受験で夢破れて以来、約14年の月日が経ちましたが、かつて憧れた京大理学部の地に赴任が決まったのです。これも何かの縁でしょうか。

・京大は自分から伸びて行こうとするときに輝きを放てる世界だと感じます。これまで培ってきたものに自信をもち、悪い方向に伸びないよう自分を律し、よい方向に進みつつ、自分オリジナルの研究の世界を構築して行きたいと思います。

<最後に>
右の絵は、絵の得意な友人が書いたレンコンの絵です。この絵は、私の博士論文に大きく影響を与えたTPPの結晶構造に似ている、ということで、好意により、HPの挿絵として使わせていただけるようになりました。この場を借りて、感謝の意を表したいと思います。TPPは特殊な物質で、細孔内に吸着させるゲストにより、物性が変化します。レンコンの縦に通った穴にチーズを入れればチーズ巻きレンコンに、肉を詰めたら肉詰めレンコンになり、それぞれ味が変わりますよね?それと同じことです。私自身もこのTPPのように頑丈で、しかし状況によって自分自身を絶えず変化させつつ、新しい刺激によって新しい研究を作り出すことができる科学者であり続けたいと思っています。

Illustrated by S. M.

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